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六波羅探題
鎌倉幕府は京都守護を六波羅探題としましたが、探題には北方と南方と2つあったようです。 それぞれは別の場所に役所を構えていたのでしょうか。 また、それぞれは、別々の仕事をしていたのでしょうか? 現在、京都のどこにその遺跡などはあるのでしょう。
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当時「(両)六波羅殿」と呼称され、一方のみを区別して指称する場合には、 …地理的に北方が六波羅領域内の北側に、南方が南側に置かれていたことから… 「北方(殿)」・「南方(殿)」と呼ばれたようで、 北方が五条末(現在の松原通)から六条坊門末(現在の五条通)、 南方が六条坊門末から六条末(現在の正面通)にわたり、 いずれも東大路以西と大和大路以東の間に位置していたようです。 『六波羅探題の研究/森幸夫著/続群書類従完成会(2005)』によれば、 六波羅探題の主たる任務は、(1)朝廷の監視及びそれとの交渉、 (2)洛中警固、(3)西国成敗(訴訟)で、その主班者である探題には、 北条一族中より通常2名を以って選任、 北方には南方よりも家格の高い北条一門が就任したとされ、 また、建治3(1277)年以前は南方の欠員期間が長期に及ぶこともあったようです。 北方探題と南方探題との権限等をめぐる政治的関係について いままで見解を示されているのは、上横手雅敬氏のみであるとして、 「両者相互に地位・部門・地理的管轄・月番等、職掌上の相違は全く見られない。と、 <1>南北両探題の職掌上の差違を否定されている。 次いで、南方には往々欠員があり、空任期間二十二年に及んだ例さえある。 -此等の事実は、純粋に機能について言えば 探題は北方のみで十分であるという結論をひき出せる様である。(中略) 六波羅南・北の関係は、(中略)南方の附随的地位は否定できないであろう。と述べられ、 南北両探題の関係について、「南方の附随的地位」を結論とされている。 このことは逆に言えば、氏が <2>北方の南方に対する優越的地位を認められたと解してよかろう。」 と上横手氏の見解を解釈した上で、森幸夫氏は 「南北両六波羅探題の関係は、 (1)南北両探題のうち一方が執権(執権探題)なる地位にあったこと。 (2)執権探題は公武交渉や六波羅の職務における主導者で、 文書発給権という固有の権限を持っており、 執権探題と一方探題との間には職掌上の差異が存在していた。 (3)執権探題には六波羅探題設置以来、北方探題のみが任じられていたが、 永仁五(1297)年の大仏宗宣に至り、南方も任命されるようになった。 南方が執権となっていた時期、六波羅探題の任務には重大な課題が存していた。」と、 「執権探題」の存在を示した上で、自らの見解を述べられています。 ◇詳細はGoogleBooksの『六波羅探題の研究/森幸夫著/続群書類従完成会(2005.4)』 を紐解かれるのも宜しいかと思います。 http://books.google.co.jp/books?id=2zW9qJR-X90C&printsec=frontcover&dq=%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8E%A2%E9%A1%8C&hl=ja&ei=m8xtTaSAIZT0cbGy8LoF&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCoQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false 遺跡等では、交通事故による2本の亀裂が痛々しい六波羅探題跡碑(洛東中学内)以外に、 「東福寺の六波羅門」は北条時宗の兄・時輔のいた「六波羅探題南方の門」を移築したものだとか… ◇まるごと京都ポータルサイトe-KYOTO>北条時宗「京紀行」 http://www.e-kyoto.net/rekisi/123 ◇同前>北条時宗「京紀行」>「源氏物語の地 拡大地図」 http://www.e-kyoto.net/upload/upload_20100628140845.gif 以上少しでもヒントになれば幸いです^^
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- BOMBARDMENT
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六波羅探題の起源は、承久の変時、北条時房(北)、泰時(南)が、京都守護に代わる形で京に派遣されたことによります。 後鳥羽上皇が隠岐に配流された後も、京の治安、朝廷・公家の監視役、さらには三河以東を幕府に代わって治める役割を果たし、建前としては、鎌倉が執権と連署のツートップ体制をとっていたのに倣い、両探題の連署による指令系統をとっておりました。ですから、北と南は同じ仕事をしておりました。ちなみに、北方が格上です。 その後、朝廷が比較的大人しくなり、南方は暫く空席になっておりましたが、執権北条政村のとき、連署北条時宗による親王将軍宗尊親王の更迭・京帰還に伴う朝廷対策や、時宗の庶兄時輔を鎌倉から遠ざけて得宗家の内訌を予防する目的で、南方が復活することになりました。 名越時章らの叛乱(二月騒動)に時輔が荷担していたとする嫌疑で、執権となった時宗の命で北方の義宗が時輔を討ち、再び南方は空席になりますが、4年後北条時国が南方に任ぜられ、その後若干の空席期間をはさんで、建武の中興に至ります。
- Pinhole-09
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こちらのURLによると 五条通りを挟んで、北方と南方にあったようです。
- aozorarara
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