- 締切済み
人生って決まっているとおもいますか?
ニュージーランド大地震でたくさんの人が行方不明になっていますが、その中には日本人の留学生が多いと聞きます。 その留学生は、社会貢献のために語学を学んだり、医療を発展させにきたいる人もいると聞きます。 毎回思うんですが、なんで世のため人のためになろうとしている人が死ななければならないのでしょうか? 結局善人で生きようが悪人で生きようが、違いはないってことですかね?それか人生は決まっているのか・・みなさんどう思いますか?
- みんなの回答 (13)
- 専門家の回答
みんなの回答
>結局善人で生きようが悪人で生きようが、違いはない それは間違いありません。善人は必ず長生きするわけでも、悪人が短命であるわけでもありません。 たとえその答えに納得いかなくても、それは誰にも変えることのできない事実です そして、コレは考えても時間の無駄だということも間違いではありません。 死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる、ただそれだけのこと。たんなる偶然の結果です。
- pupurr
- ベストアンサー率18% (129/704)
仏教では、宿命転換の方法を教えてますから、転換は可能だと思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.9 無論、どの時点かではその結果は決まるのでしょう。あたりまえですが。 しかし時間が遡れば遡るほど、未知数と変化数は多いのでしょうね。 その未知数と変化数って、何か。ということは結果が現れてから、或る程度は推し量るする事はできるのでしょうね。 だから、一つずつ未知数や変化数が決まっていくに従って、結果は決まってくるのでしょう。 極く当たり前のことですが。 とんでもない過去において、全てが決まっているかのような思考は人間としては出すぎたことでしょう。 造物主なら、一切を眺めてもいるかも知れませんが。 造物主は、いろいろの事件を人間のことだけでは考えていないから、起ったことがひどいことだとか、悲惨だということを100%人間と同じには思わないでしょう。 善人とか悪人も造物主や創造界の中では地上でいきている人間が判断するのとは違う原理となると存じます。 しかも大きなスパーンで大きな原因・結果と効果という原理だと存じます。 しかし私たちとしては、今回の事件の被害者にそんなことをいうのはひどいので、ただ悲しくつらく思うことで仕方ないと存じます。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
>世のため人のためになろうとしている人が死ななければ : 『ならない』という認識自体が誤りだということです。 「ならない」というのは、あくまで感情論、そして結果論です。 >結局善人で生きようが悪人で生きようが、違いはないってことですかね? : はっきり言えばそういうことです。 「善人であるか悪人であるか」ということと 「死ぬか生きるか」ということに因果関係がある、という前提自体が間違っているわけです。 >それか人生は決まっているのか・・みなさんどう思いますか? : まあ、これは、考え方次第でしょう。 「決まっている」と言っても誰も否定は出来ませんが、いわゆる結果論ですからね。 「そういう運命だった」というのは小学生でも言えます。 サイコロを転がして1が出てから、このサイコロは 1 が出るように決まっていた、というのは誰にでも言える、ということです。 「(特定の)〇〇さんは△△という結果になる」と全人類に対して予め決まっている、という証明をすることは無理でしょう。 ご質問なさった意図に沿えるかどうかわかりませんが、 「生まれてきたものはいずれ死にゆく」というのが生命の摂理であることはご存知でしょう。 その摂理の中に、個人的な感覚(幸福であるとか不幸であるとか)は含まれていない、ということです。 人間は、たまたま宇宙摂理の中に組み込まれていますが、その摂理を構成する中に「人間がどのように感じるのか」という要素は絶対的条件として含まれていない、ということになると思います。 ですから、個人というものが、あるいは人間というものが幸福であるか不幸であるかに全く関係なく、宇宙は(とりあえず永遠に)回転し続ける、と考えるのが一番妥当なんじゃないでしょうか。 人間の幸不幸は、どのように納得できたか、というだけのことにかかってくるのでしょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
やはり未知数があまりに多すぎる方程式みたいですね。 決まっているというのは、事件に巻き込まれた方にも、ご家族にもあまりにお気の毒ですね。
- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
短命でも長寿でも、死後にもいい人生であるか本人はわかりません。 言えることは若くして人生の頂点である時期に死ねる(夭死ようし)は、 長生きして切磋琢磨し、どんな偉人と呼ばれても 夭死の魔力(惜しまれる)には叶わないでいること。
こんばんは。 可能性ある尊い生命が失われた事は、 実に痛ましく思います。 ただ…このフィールドでの自然淘汰と言ってしまえば、 その故人となってしまった方々の遺志も、 また、肉体を構成していた細胞、分子、原子…等も “還元”されることと思います。 >なんで世のため人のためになろうとしている人が >死ななければならないのでしょうか? 『生を受けたモノ 死が訪れるのは必至 原則 です。』 また、『人生道半ばであったであろう…』と言う思考、感情は、 “欲であり エゴでしかない”のです。 歴史上の、様々な学問、思想の功績者の方々も“逝って”しまったのです。 彼らの人生が“あと1日長ければ、あと1年長ければ…”そう考えると、 その1日、1年には、“また別の功績を残していたと言う 可能性が否定できない”のです。 >結局善人で生きようが悪人で生きようが、違いはないってことですかね? 質問者様は『善人ですか?それとも悪人ですか?』どちらでしょう? 仮に善人とすれば、『始終、善の中に心身を投じている筈』ですから、 『日常、始終をあえて善と呼ぶ必要は無く』単なる、単調な日常があるだけです。 また仮に悪人とすれば、『悪に心身染めているわけですから、 悪を感じることも無く、悪をまた悪と呼ぶ必要も無い』となりませんか? 結局、『悪を感じ、善を感じる』と言う事は、 自らの中に『善があり、悪がある』と言う事です。 ですから今回無くなった方々に存在したのは、『善人でも悪人でもない』、 “未だ個人として可能性が有ったであろう『人々』”だけなのです。 >それか人生は決まっているのか・・ 『決まっている』となると、『ソレを決めた存在がある』と言う事になります。 その存在を“被造物である私たち”は、なんと呼べばいいのでしょう? またどの様に『とらえる事が出来る』でしょう。 それを『なんと呼んでも構わない“自由意志”』、 それをどう解釈しても構わない“自由な思考”を、 ひと其々が持ち合わせているのではないでしょうか…? 単純に“善悪、自由を持ち合わせた存在”が『ひと』なのでしょう。 その善悪、自由は『個人個人の裁量、器量』で如何ともなるのでしょうね…。 そしてそれに必ず付いてくるのが、『自己責任』でしょうし、 自我=エゴという『勝手な自分本位の主観』のようです。 それでは。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
気持ちとしては納得し難いのですけど、 基本的には、自然災害は、われわれにとって「災害」と呼びたいだけのこと、いかに大地震といえども、自然界にとっては生理現象、新陳代謝みたいなもので、そこに「善悪」なるものはないでしょう。 ならば、善人悪人かという、人間視点の区別も無関係のはずですよね。 それだけに、地の表面を這いまわっている蟻のごとき自己存在の ちっぽけさを実感せずにいられない厳しさです。 形而上のことになると、なんとも断言できることはないですね。 オカルト宗教の信者でもないですし。 何かあるんじゃなかろうかと考えたくなるのも人間のサガではありますがね(笑)
- ponpon88899990
- ベストアンサー率12% (4/33)
個人で積んできた善行為を10とすれば、それを遥かに打ち消すような10000の別の因果の流れがあるということです。 別の表現をすればめぐり合わせです。 全知全能の神の存在を前提にすれば、人間側は「めぐり合わせも含めて善人を助けてやれよ」という気持ちになり、それに応えるものとして「神の計画」という考えに至るのでしょうが 仏教の場合は、宇宙スケールのたくさんの因果の流れを観ずに個人の因果だけ観てもわからないという考えだと思います。 そして、宇宙スケール・地球スケールの因果が自分たちにとって平穏かどうかなんて悟らない限り理解不能だから、天変地異に一喜一憂せずに少しでも善行為をしときなさい。 あと、天変地異と異なり死は必ず来るので、そのときに慌てないよう善行為をしときなさいということだと思います。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
論理学における不完全性定理、 物理学における不確定性原理において、 決定論的な客観的存在は否定された。 (完全な公理系は無矛盾ではあり得ない、 あるいは存在の有する相補的不確定性の 決定化は無=無限不確定に還元する) 原理的な確定=本質的な因果律が存在しない事は、 物理学的な状態Aが、Bに変化する確率は、そのAが Bになる複数のプロセスの全てを足したものとなる事から、 明らかである(=経路積分)。 それは、ミクロなレベルの話だけではなく、2本のスリットを 通してその向こうのスクリーンに電子を飛ばした場合、1個 単位で電子を飛ばしても、スクリーンに次第に描かれるのは、 2本の帯ではなく、干渉縞模様である事にも表れている。 即ち、スクリーンに1つずつ消えていく電子が、それ以前に 消えていった電子の場所を覚えていて、皆で協力しているか、 1個の電子が、2つのスリットをそれぞれ通った可能性同士が 干渉しているか、である。 「偶然か必然か」は、存在の原理的本質としての確率的実体 の集合において、そうした確率波動が相殺された上に成る= 階層現象の表面的定性化=いい加減な認識によって生じた 決定論的な幻想において生じる疑問なのだ。 (存在とは、無いとは分からない事=決まっているなら無) 「決定論の否定」は、必然の否定というだけでなく、 その対置概念たる偶然も否定する事である。 一般的に「存在」とは、確定的実体が基本で、認識体との 相対に於いて不確定性を“派生”させると思われており、 そこに偶然と必然の論議が成り立つのであって、逆に 不確定的実体の方が本質で、認識体のテキトーさによって 確定性が派生する時、その“確定性”の上に立つ議論に、 本質的意味はない。
- 1
- 2