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有名人の作品にも文法の誤り?
1.「荒海や佐渡に横たふ天の川」 松尾芭蕉 2.「白きたおやかな峰」 北杜夫 の小説の題名 3.「はなさかじいさん」 昔話、童謡の題名 これを文法間違いと言う人がいます。 たしかに変と言えばそんな気がしないでもないですが。 識者様の御見解をお聞かせください。
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『負け犬』といったことを撤回したくなりました。 正体が徐々にわかってくるに従って、『犬』の方にすまなくなってきたのです。 第一に犬はこれほど馬鹿ではないからね♪
- kine-ore
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1. 大方の辞書には「横たふ」のハ行他動詞下二段と共に、ハ行自動詞四段で活用例が終止形と連体形の記述がされています。 1)「これは、他動詞「横たふ」(下二段)が漢文訓読など特殊な条件のもとに派生した用法に基づく特殊な用法と解しうる」(小学館「古語大辞典」) 2)「「荒海や」の句の「横たふ」は「横タワル」という口語から作られた自動詞であると考えると、解釈もすべてうまくいく」(小学館「古語例解辞典」) これには「多くの動詞における二段活用と四段活用の対立が自動詞と他動詞の対立に結びつくという事情も関係するかも知れない」(前出「古語大辞典」) この「奥の細道」の本文中に「世に伝ふ事も侍りしに」(「室の屋島」)の「伝ふ」の自動詞用法、「昼の眺め改む」(「松島」)の「改む」も口語「改マル」から作られた自動詞であると、往時の日常使われている語と文語体との混交や融和が背景にあったとも考えられます。 2. 歴史的仮名遣いオンリーの「白きたをやかなる峰」ではいかにもとっつきにくく、そのいかめしさや気取りは、あの前半のユーモラスな情景とは相容れません。また「白いたおやかな峰」では、後半での切々と迫る荒涼の風景下での命の絆模様─そのしたたかな信頼故のたおやかな魂のありようを伝えるには軟弱に思えます。 とりわけ後半に差し掛かってのキャンプでの寂寂たり皓皓たる夜の情景描写に差し掛かるとまさに題名通りのイメージが読み手の眼前に拓かれてくるのです。この場面は、類似する三島「金閣寺」の、実は絢爛煌々の内なるただただ凄惨隠滅に対比して、内なる坦坦切切の甦りには清浄な救いを覚えます。ここに至って初めて読み手はそうか「白きたおやかな峰」なのだと気付かされます。 3. はなさかじじい【花咲爺】(「はなさかせじじい」「はなさきじじい」から変化というが、「はなさか」の「さか」は「さかす(栄)」「さかえる(栄)」「さかる(盛)」などの語幹と同じとも)小学館「国語大辞典」 花を咲かせるに至った事情で「市が栄えた(めでたしとなった)」お爺さんの話。
- sosdada
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まだ閉じていないことを今日見つけたので、補足します。 荒海や佐渡(の夜空)に横たふ天の川 で、( )内が抜けています。これは「抜け」という俳句の技法です。「俳句 抜け」で検索なさってください。いろいろな例があるでしょう。 「野の冬」のような倒置の例では、「の」つながりであはりませんが 髭風ヲ吹て暮―秋歎ズルハ誰ガ子ゾ(ひげかぜをふいてくれ あきたんずるはたがこぞ)・芭蕉 「風髭を吹いて」を「髭風を吹いて」にしたのは、元々芭蕉ではなく杜甫です。 「冬の東京」とせずに「東京の冬」とする例などは、いくらでもあります。どう違うのか、それは文脈によります。 三島由紀夫に怒られたのも、一つの自慢ですね、今となっては。
- sosdada
- ベストアンサー率33% (265/792)
1.「荒海や佐渡に横たふ天の川」 松尾芭蕉 俳句などの詩の場合、必ずしも文法に沿う必要はありません。「冬の野」なのに「野の冬」とする例もあり、これはこれで一つの技法として認知されています。村上鬼城などがよく使いました。 この句の場合、何度も手直ししたあとが現存します 2.「白きたおやかな峰」 北杜夫 の小説の題名 これは、三島由紀夫に電話で怒られたらしいです。「白いたおやかな峰」か「白きたおやかなる峰」か、どちらかでなければいけない。文語と口語が混ざっている」それに対して北杜夫は「あの時、ちょっと躁でして」(北杜夫はそううつ病で有名)と言ったところ「文学に躁も鬱もない!」と。 3.「はなさかじいさん」 昔話、童謡の題名 使役や受身の助動詞を省略するのは日本語の特徴です。 「現場に見に行って確かめさせた」(見に行かせて) 「本に書いてあることを読め」(書かれてあること) など。 また、それとは別に被修飾語の省略もあります。「鬼のような顔で怒った」正確には「鬼の顔のような顔」ですね
- cyototu
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まあ、詩人と文法学者が議論しても仕様がないと言うことですね。それは、あたかも物理学者と数学者が議論しているようなもんで、必ず喧嘩別れになります。 文法かどうかは解りませんが、『シクラメンのかほり』では、作詞家の本当に伝えたかった意味が通じないと言うことには全面的に賛成です。シクラメンの和名は「ブタマンジュウ」です。本当ですので、ご自分でも調べて納得して下さい。だから、この歌は「ブタマンジュウのかほり」と言わなくては本当の意味が通じないのです。だから、貴方も仰っているように、これは間違いです。以下に、正しく表現された歌詞を乗せて置きますので、今後はこの歌を聴いたときにはこの歌詞を思い出して下さい。 真綿色したブタマンジュウほど清しいものはない 出逢いの時の君のようです ためらいがちにかけた言葉に 驚いたようにふりむく君に 季節が頬をそめて過ぎてゆきました うす紅色のブタマンジュウほどまぶしいものはない 恋する時の君のようです 木もれ陽あびた君を抱けば 淋しささえもおきざりにして 愛がいつのまにか歩き始めました 、、、 うす紫のブタマンジュウほど淋しいものはない 後ろ姿の君のようです 暮れ惑う街の別れ道には ブタマンジュウのかほりむなしくゆれて 季節が知らん顔して過ぎてゆきました 、、、
お礼
わはは。 お多福顔の小父さまから、「ブタマンジュウ」という言葉が飛び出しましたので、ほんとかいなと思って調べたら「豚の饅頭(ブタノマンジュウ)」でした。 「の」のあるなしで言葉は全然違ったものになります。 まあしかし、面白いです。 しかし、「かをり」を「かほり」と誤記した奴が日本国中を席巻しています。 下手バカ作詞者が「におい(にほひ)」のスペルと混同して間違えた可能性があります。 こんどこの歌をカラオケで歌うとき「豚のまんじゅう」「KAHORI」で歌います。
- Pinhole-09
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言語は意志の疎通を図る為のものです。 それには認識の共有が必要です。 文法はそれを助ける手段の一つにしか過ぎません。 文法は金科玉条ではありません。 認識が共有出来れば、正しい言語といえます。 「はなさかじいさん」は文法的には?ですが正しい 言語です。 携帯メール語は親しいグループの間では共有認識 ですが、一般には通じないので、そのうち淘汰され 残ったものだけが一般化されるでしょう。 いろいろ言われる省略語はそのうち、自然淘汰され 正しい言語と認められたものだけが、残るでしょう。
お礼
ご回答うありがとうございます。 >文法は金科玉条ではありません。 その通りと思います。 質問の3つを、もし普通の人が作って先生に見せたら、直されるんじゃないでしょうか。
- codex_regius
- ベストアンサー率52% (55/104)
日本語は意味が通れば省略してもいいという不文律があります。 例えば、店で注文する時に「私はカレーで」と言いますよね。文法的にみれば間違いでしょうが、意味は通じます。 聞き手が経験的に理解可能な領域については省略可能とされているわけですね。 だから、現代でも過剰な短縮化が行われます。 ケータイは携帯電話ですが、もっとも本質的な電話の部分が欠落しても問題なく使われます。 プリクラはもはや単語として認識しえる単語すら消滅する形で省略が起きています。 あけおめ、メリクリなども同様ですね。 微妙な言葉の違いや、流通するための言いやすさなども考慮され、言葉としての使いやすさが優先される時、文法は無視される傾向があるといえます。 そうした流れの中にこうした作品もあると考えるといいんじゃないでしょうか。 文法的間違いはその意味が通じる限り、間違いと認識されず、文法無視は許容されると思います。 なので、文法間違いか否かを論じることに意味はないでしょう。おそらく間違ったのではなく、あえてそうしているのでしょうし、その意図を考えさせるメッセージと考えた方がいいだろうと思います。
お礼
あけおめと同列視したら可哀想に思います。 省略ばっかりではないでしょう。 ご回答ご苦労様でした。
- Willyt
- ベストアンサー率25% (2858/11131)
すべて誤りです。芭蕉は意識的にやったとする説もありますが、間違いは間違いです。北杜夫も意識して文語と口語をまぜたのかも知れませんが、だから間違いではないとにはなりません。小椋桂の『シクラメンのかほり』も変ですね。正しくはかをりです。ただ、文法どおりではないから芸術的価値がないかというと、それはまた話が違いますね。
お礼
間違いですか。 ありがとうございます。 >小椋桂の『シクラメンのかほり これは本当に間違えてると思っています。 そのまま行っちゃった。 ありがとうございました。
- bakansky
- ベストアンサー率48% (3502/7245)
いずれも散文の1節ではないという点に着目すべきかもしれません。わざとそういう例を持ってくるというところに、意図的なものが感じられます。 2. は 「白き(かな)、たおやかな峰」 という文をタイトルとして使うために短くしたもの、とも思えます。 3. は、「はなさか(せ)(の)爺さん」 の 「せ」 が脱落したもの、のように見えます (もっと細かくみれば、「はなさか」 の部分も 「花を咲かせる」 を縮めたものとも取れる)。 そういう、省略された部分があると感じさせるところにも、面白さがあり、奥行きもあるのではないでしょうか。
お礼
「白き(かな)、たおやかな峰」 誠に斬新なご解釈驚きました。 ありがとうございます。
- chie65536(@chie65535)
- ベストアンサー率44% (8741/19839)
名詞、俳句、題名は文法に従う必要はありません。 題名であれば「私はどこ?ここは誰?」もオッケーです。 名詞の「黒板消し」で表される道具も黒板は消しません。消すのは黒板にチョークで書かれた文字です。 名詞の「黒板」も黒い板じゃありません。あれは緑色です。 名詞や俳句や題名は、文法の制限を受けません。
お礼
どうも。
お礼
ご回答ありがとうございます。 1.「冬の野」なのに「野の冬」とする例もあり・・・この実例を教えてください。 2.北の言いわけが面白いですね。三島をおちょくっています。 3.はなさか爺さんと、挙げられた他の例との関係がピタッときません。 また、教えてください。