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事実について、教えて下さい。
事実について貴方の考えを教えて下さい。 (1)事実とは何ですか? (2)貴方の事実とそうでないものの判定の基準を教えて下さい。 (3)事実と認識の関係、貴方にとって事実とは認識出来るものですか? 新聞・テレビの報道は事実? 見たら事実、聞いたら事実、納得したら事実なのでしょうか? ※前回質問しましたが、問い方がまずかったので問い直しです。 地球は丸い、地球は温暖化している、オゾン層破壊、卑弥呼と云う人物がいた、イラクに大量破壊兵器がある、小沢さんは無罪…? 表現が下手ですが、色々な文字言葉、情報につつまれて生活しています。 凡てを単純に事実と受け止めて混乱している人も多いのではないかと思っています。 情報にホンロウされない生き方を啓蒙する道を模索しています。 ご協力下さい。 関連→ http://okwave.jp/qa/q6495984.html
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ○ 《真理・事実・真実》 ~~~~~~~ 《わたし》( Z )の真実( Zi ): ←―[考える(思考)]―→ 事実( Y ) ←―[信じる(非思考)]―→ 真理( X ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《事実( Y )》は 肉眼によってや・あるいは心の目によって・または科学の目によって縦横のかたちもしくは時間過程にあるというかたちが確認される(または確認されたとみなされる)モノやコトを言います。 ただしその事実そのもの(また そのこと)は ほんとうには人間に分からないようです。その全体を隈なく分かるということではないかも知れません。 つまりは言いかえると 実際に人びとの間でやり取りされる事実は 事実認識( Y-Zi )のことです。 ほとんど主観ということと違わない内容ですが その内容について人びとの認識するところとして共通性があると見なされています。 《真理( X )》は いっさいの目によっても何によってもその存在が分からない(また 分かるか分からないかが 分からない)その領域を言います。《絶対・無限》などのことです。 ですから これも実際には 真理についての人びとの受け止め方(受け容れ方)=( X-Zi )を指して言っています。 人間の誰にも分からない領域ですから でも人はそれが存在するとかしないとかはっきりしたかたちで受け止めたいからでしょうか この真理については 片や《神( X )はある》というかたち(表現)で捉える場合と 片や《神はない。もしくは 無い神( nonX-Zi )がある》と表現して捉える場合とに分かれます。ここで 《 X = nonX 》です。どちらも大きく《真理( X )》という枠に入ると言えるはずです。 真理( X )というような雲をつかむようなモノ(?)・コト(?)を持ち出しているのですが どうも人間にとっては これも実際には 《現実》であるようです。含めないわけには行かないようです。 そこで 人間たる《わたし》にとっての《現実》とは こうなります。 ○ 現実をとらえる⇒ わたしの世界観:《 X-Y-Zi 》 これです。《わたし Zi 》によって 或る意味で千差万別でしょうし 或る意味では感覚が共通であり経験合理性も共通であるというところで 主観の共同性(コモンセンス)を持つことは出来ると考えられています。 お答えとして 事実( Y )そのものや真理そのもの( X )は 人間には分からないとなります。 前者には経験合理性にもとづく確認としての根拠があり 後者にはその人間の能力にかんする根拠はまったくありません。 この事実と真理とに向き合って・またはその中に入って 人は生きているとなります。 主観の共同化において多数決といった厄介な方策があったりしますが そのへんの具体的なお話は しゃべり残しました。どうでしょう。
- ihyou_P
- ベストアンサー率35% (50/141)
自分で見て確認した事象が事実です。 地球が丸い…自分の目で確認していないので「事実」ではありません。但し、複数のルートの複数の写真で見ているのでかなり信用度の高い「推定事実」と言えます。 地球温暖化…「温暖化」というと以前に比べて今がどうかという話であり、その「以前」をいつに設定するかで結果が変わってしまいます。それは人間が下す「評価」であって「事実」ではありません。 オゾン層破壊…オゾン層が減少しているのは測定数値から「推定事実」だと言えます。しかし「破壊」されているかどうかは「推論(理論上の話)」に過ぎないのでは? 卑弥呼…過去の文献上、「推定事実」と言えますが、その文献自体を自分の目で見たわけではなく、また記録自体も少ないいので、地球が丸いという事案よりも信用度は低いです。 人間は「事実」だけでは生きていけません。 しかし、自分の価値観がブレないように生きていくことは可能です(その価値観が正しいかどうか、また社会からどのように評価されるかは別として)。 生とは何か、死とは何か、好意や悪意とは何か、希望や欲望とは何か、ひとつずつ、自分の中で答えを出していってみてください。 そして同時に、自分の出した答えとは違う、多様な生き方と多様な考え方があるということにも目を向けてください。 「その考え方も理解できるが、自分はこう思う」と言え、また「そう判断するには、この情報が足りない」と言えるようになれば、その時点で「情報にホンロウされない生き方をしている」と言えるのではないかと思います。 長く苦しい道になるかもしれませんが、ご武運を祈ります。
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