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忍者。伊賀者と甲賀者の給料の差。

読売新聞の、 磯田道史氏の「古今をちこち」というコラムに忍者について書かれていました。 それによると伊賀者の給料は甲賀者に比べると随分と少ないのですが、なぜでしょうか。 よろしくお願いします。 下記はその記事の一部です。 これほど働いても伊賀者の給料は雀の涙。 ふつう忍者の給与相場は高40石から70石。 幕府の甲賀者や他の大名家の忍者はそれぐらい。 しかし、伊賀者は一人あたり高10石ほど。 今なら年俸100万円前後 これが土地で与えられた。 食えない忍者は領地を自分で耕した。 その土地こそが今の原宿・表参道。

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  • jkpawapuro
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回答No.3

伊賀者というといかにも服部半蔵が有名ですが、彼はいわゆる忍者というより伊賀を離れて武将として家康に仕えた存在です。そして元忍者の武将として徳川側の人間として忍者衆(同心)を指揮しました。 そして彼の元で、甲賀同心・伊賀同心が働いたわけですが、すでに出ているように甲賀のほうがずっと早くから家康に仕えて功を上げていたわけです。 有名な伊賀越えも、元から家康の側にいて警護をしていたのは甲賀州で、さらに伊賀で半蔵が伊賀衆を加えただけで、主役は甲賀衆です。 半蔵が伊賀出身であるためいかにも伊賀衆が家康に永く仕えたように思われがちで、この辺が伊賀甲賀の立場に誤解を与えがちです。

goo-par1732
質問者

お礼

解りやすいご説明をありがとうございます。 すっきりしました。

その他の回答 (5)

  • shin1417
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回答No.6

No5.です。 まず、お詫びと訂正を。 よくよく調べたら、甲賀も徳川家康と関係が有り、甲賀は江戸幕府の「臨時社員」などではなく、れっきとした「正社員」でした。 トンでもないデタラメを回答してしまいました、申し訳ありません。 さて、改めて回答させていただきます。 結局のところ、両者の差は「出自の差」のようです。 甲賀はルーツを遡ると、平家の落ち武者に行き着くようです。 そして、地元の小豪族となり、六角氏と主従関係を結ぶようになり、六角氏亡き後は織田信長、豊臣秀吉と仕えてきた「侍」の一門です。 それに対して伊賀の方はというと、決まった主を持たず、その時その時の金銭契約であっちに付いたりこっちに付いたりしていました。 これは「足軽」のする事なんです。 つまり、同じ忍者でも、甲賀は「侍」、伊賀は「足軽」なのです。 この違いが、江戸幕府に召抱えられる時の待遇の差になったようです。

goo-par1732
質問者

お礼

shin1417様 わざわざ調べて下さってありがとうございます。 「出自の差」ということですね。 納得しました。

  • shin1417
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回答No.5

一言で言えば、 伊賀は徳川家康に仕え、甲賀は豊臣秀吉に仕えたからです。 伊賀の服部半蔵は徳川家康が一大名の頃から協力していたのです。 ですから、徳川家康が江戸幕府を開いた時、伊賀者は幕府の「正社員」として採用されましたが、 甲賀者は「臨時社員扱い」にされました。

goo-par1732
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 伊賀者の方が甲賀者より給与の面で良い待遇を家康から受けているのですが、 「正社員」の方が、給与が低い理由が今ひとつ理解できません。

回答No.4

 諜報の要諦は敵味方の両面を持つことと、さまざまな姿とつながりを持つ多面性ですね。  伊賀と甲賀は互いにせめぎ合う別集団のようで、実は頭は同一であったという伝説を聞いたことがあります。多分相当に交流と強力は歴史的にあったのではないでしょうか。

goo-par1732
質問者

お礼

そうですね。 二つの集団は互いに切磋琢磨したのでしょう。 ご回答ありがとうございました。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>それによると伊賀者の給料は甲賀者に比べると随分と少ないのですが 伊賀も甲賀も地理的には同じ鈴鹿山系に発展をし、忍術そのものにはさほど違いはない。 甲賀は早くから徳川家康に接近し、「天正伊賀の乱」では家康の斡旋により戦禍をまぬがれている。 以後、もっぱら家康に尽くし、関ケ原の戦いでは伏見城に参加して、百人もの戦死者を出している。 その功績により、家康は戦死者の子弟百人を召抱え、千代田城本丸と大手三門の番士とした。 これを「甲賀百人組」といい、「伊賀同心」より一階級上の「与力」に任じた。 「与力」は通常200石で「同心」は30俵2人扶持である。 1石=10斗 10斗×200石=2000斗 1俵=4斗 2000斗÷4斗=500俵 従って、甲賀与力は一年に500俵もらっている計算です。 一方、伊賀同心は30俵2人扶持。 扶持米は、 男で一日5合。 女で一日3合。 特にことわりがなければ5合で計算されます。 5合×360日×2人=3600合 1斗=10升=100合 3600合=36斗÷4斗=9俵 30俵+9俵=39俵 従って、伊賀同心は一年間に39俵という薄給だったのです。 原宿や表参道などは、当時はまだ田園地帯でしたので、伊賀同心は将軍の許可を受けて農耕作業にいそしんだのです。

goo-par1732
質問者

お礼

いつも丁寧に教えてくださってありがとうございます。 伏見篭城戦では、甲賀衆が城に火を放ち、西軍を引き入れたから落城したのだ、と思っていましたから、家康がこの戦で甲賀衆を評価したとは意外でした。 しかし、再度調べてみますと、一部の甲賀衆が背いてはいますが、全体で見た場合、甲賀衆の功績が絶大だったということですね。 納得しました。

  • maman129
  • ベストアンサー率8% (3/37)
回答No.1

何が聞きたいの? 1石がどういう基準で決められたか知ってる? 1石というのは人間が1年間に必要なお米の量なんだよ だから10石もあれば家族4人が十分にくらしていけるよね? では、お大事に★

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