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合目的性って?

自然の合目的性は反省的判断力の独自の概念で、主観的なものである。 っていうのは合ってますよね? すると、 反省的判断のうち、自然の客観的合目的性に関する判断は目的論的判断とよばれる。 というのはどういうことなんでしょう。 合目的性は主観的なものじゃないの? 客観的って?? という感じで行き詰まってしまいました。 分かりやすい説明、お願いします。

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  • netcatme
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回答No.2

「主観的な判断の中で、広く普遍的と思われる合目的性のある判断は、目的論的判断と呼ばれる」という解釈でよいのではないでしょうか?

noname#6163
noname#6163
回答No.1

>自然の合目的性は反省的判断力の独自の概念で、主観的なものである。 っていうのは合ってますよね?   どうでしょう。自然の合目的性は、自然それ自体が個的であるわけではないので、仮に話を一個の生命体について語るにしても、そこ(一個の生命体)には、常にある方向性が備わっていることが、認められるのではないでしょうか。 ようは、生きているということの事態です。ですから、反省的に判断することでそこに合目的性を見るのは、実のところ、その生命体自体に備わっている生という方向性に従っているだけに過ぎず、またその生という方向性が、合目的的であるかどうかというのを考えるには、別な見方が必要だと思います。 そして、その一個生命体は、外にも内にも自然を内包、そして自然に内包されているのであり、一個生命体にある未知性が、そこに不可欠な自然性からきているとは言い切れない部分もあるが、自然がもっている精緻で密なシステムをみても、その確かさから比べれば、如何に百数十億年かかったとはいえ、その間を反省的に判断するなどというのはほぼ不可能であり、さらに、自然には、一個生命体に見られたような、「生きている事態」というのが確認しにくい。その事態は生死を孕んだものであり、なんらかの流れが常に認められるというわけでもないように思います。 ですから、 >自然の合目的性は反省的判断力の独自の概念で、主観的なものである。っていうのは合ってますよね?   主観といえども、その判断は主観の限りで行われているのではないと思います。 その主観と呼んでいるものは、観察対象(自然)の様態を、自分の生を通して見ているから合目的的に見えるのであり、つまり、反省的であろうがなかろうが、その合目的性は、自分(主観すること)に由来する。つまり、その生の方向、生きている事態というものが、主観によって観察されうる限界でもありえ、方向に距離を与えたのが経過時間の認識であろうとも、主観それ自体が、自ら観察する対象によってその地位を得ているのです。   自然に見出した合目的性は、主観によって導かれたのではあるが、それ(合目的性)を自らにおいて内部告発的に導いた主観自体は、自ら持つ生の方向性の起源が反省的判断によって存在するものであるとはいえないことから、反省的に得られたものではない。 主観には違いないが、自然に見る、自己鏡像的な合目的性の根拠は、反省的判断、つまり時間経過の認識にあるわけではない。それは、自然を見ているようで、自己に即してそれを見ているといえるからである。    >反省的判断のうち、自然の客観的合目的性に関する判断は目的論的判断とよばれる。 というのはどういうことなんでしょう。   自然の客観的合目的性判断を、目的論的判断とよぶなら、それはおそらく、目的論(目的の存在を前提として、組み立てる論理、その目的を客観視の手段とするような方法)を使用することで、仮にも、主観以外に認められる目的を設定しているために、客観的な合目的性判断を自然に対して下せるという意味ではないでしょうか?   ランナーが、ゴールを目指して走る。それは主観的です。 これに、目的、「より速く走る」を付け加えると、ランナーがゴールを目指して走っていることの意味は、「より速く走るため」となり、客観的な合目的性判断を下したことになります。 目的論を使用することで、他人には認識しようのない主観的な判断を、比較検討のできるプレーンにもってきているのではないでしょうか。 そのプレーンは、この場合、速度、そして、より速いかどうか、であると思います。 おそらく。