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哲学本の中の一説
「まったくのところ、何も生じてはいないのである。 何事であれ何事かが生じていると思うのは、主観が客観ではないと思っているからだ。 しかし、主観が客観ではないなら、何事かが生じていると思うはずもないではないか。」 これを分かりやすく説明していただけないでしょうか? お願いします^^
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- noname002
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何の哲学本からの引用であるのか存じませんので分かったようなことを申し上げるわけにもいかないですが、とにかく、これだけでは、あまり良い文章ではないというか不親切な文章のように感じてしまいます。と言うより前後の文脈が不明なので記述している者の立場も不分明ですね。それによって真ん中部分の文章の解釈が変わってきそうです。この文章は矛盾しているのではないかとさえ感じます。「何事かが生じていると思うのは、主観が客観だと思っているからだ」というのなら意味が通るように思うのですが。。。 ただ冒頭の部分で「生じてはいないのである」と断定していることを最後の部分で疑問を呈する形になっていますので、最後の部分が記述者の本来の立場と受け取るのが妥当なようには思えます。 御質問で挙げられた文章を私が解釈や補強できるとしたら、まず冒頭 「まったくのところ、何も生じてはいないのである。」この部分は、そのまんま、実際、客観においては何事も生じてなどいない、という立場で述べられていると受け取るのか或いは「(それは確かに)まったくのところ、何も生じてはいないのである(という見かた言いかたもできるだろう)。」というふうに受け取るのか。どちらともとれそうです。そのために真ん中部分「何事であれ何事かが生じていると思うのは」の立場解釈が難しくなってくると思います。 冒頭の「まったくのところ、何も生じてはいないのである。」この理由を真ん中部分の「何事かが生じていると思うのは、主観が客観ではないと思っているからだ。」で説明していることになるとみえます。 「何事であれ何事かが生じていると思うのは、主観が客観(とイコール)ではないと思っているからだ。」思う、というコトバが鍵なのでしょうか。或いは「何事であれ何事かが生じていると思うのは、主観が(とらえているところの、その生じた何事かが)客観(において何も生じてはいない状態にあるということ)ではないと思っているからだ。」 ただ最終の部分は比較的理解し易いようには思います。 要するに主観と客観が乖離したものであるとするのならば主観において「何事かが生じている」と思わせるところのものは、どこからやって来ているというのか、といったような意味にとれます。 御質問のなかで示された文の前後の文脈に、この解釈で、うまく収まるでしょうか? 前後の文を補足することが可能でしたら、そうなさったほうがよいように思います。
- kanpyou
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「自我」と「超自我」の関係を、客観と主観を用いて論じているのではないではないでしょうか。 仮にそうだとしたら、自我/超自我どちらも『主観』だと思いますので、その記述は誤りのような気がします。
主観は主観自身の対象にならないという意味で客観ではない。これはデカルトのコギトエルゴスムの言っていることと同じではないかと思いました。ただし冒頭の何事も生じていないと言うのは分かりません。主観は主観が存在することだけは知っているからです。いわゆる観ている自分と観られている自分のこととも関係してくると思います。「汝自身を知れ」というご託宣も「自分探し」という現今流行の言い方も注意すべき言葉だと思います。自分は観ているほうのじぶん主観としての自分は認識の対象としての客観にならないと思います。
補足
ありがとうございます。私も「まったくのところ、何も生じてはいないのである」この意味が分かりません。これが分かると・・・理解出来そうな気がするのですが・・・^^;
お礼
考えてくださりありがとうございます。私も考えてみようと思います。また。お願いします^^