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刑法で、新客観的違法性論によれば、たとえ責任能力かけていても人間ならば違法行為の主体になれるとのことです。
刑法で、新客観的違法性論によれば、たとえ責任能力かけていても人間ならば違法行為の主体になれるとのことです。 しかし動物はさすがに違法行為はできないと。 ノーマル・・○ アブノーマル・・○ アニマル・・× 一方、主観的違法性論は正常人のみがなしうるとのこと。 ノーマル・・○ アブノーマル・・× アニマル・・× このとき、新客観違法性論はアブノーマルでも違法行為をなしうるという理屈を どのように説明しているのでしょうか? 違法の「客観性」とは判断対象の「客観性」ではなく基準の「客観性」を意味すると前提づけると、なぜ違法行為の主体にアブノーマルが加わるのかが不明です。
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- kanpyou
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新客観違法性論を論じている本(教授)は多くありますが、そのすべてが同一のことを言っているわけではないようです。 私の感覚としては裁判において弁護的技巧を取り込もうという考えのように思います。いうなれば、裁判官の判断を重視した「判例法」的な考え方のような気がします。 刑事手続きは罪刑法定主義が重要視されていますが、構成要件を曖昧なものへとしてしまいそうな懸念が残ります。
- kanpyou
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違法性総論 http://www.geocities.jp/passshihuoshiken/kokeso6.doc 上掲URLをクリックすると、ワードが開きます。閲覧にはWordが必要です。 11~12ページに新客観違法性論の解説と表があるのですが、一般人(一般国民)というのは、客観違法性論でいう評価規範でありますので、それと同様に、決定(命令)規範についても該当するものと『推定』されるはずです。 一般人というのは誰というわけではない架空の存在(ヴァーチャルな仮想対象)ですので、どのような人が違法であるかを示し、責任も推定され、構成要件に該当する行為は違法となります(オレンジの部分)。 そして最終的に、実際の人物について、責任論において評価されるのです(水色の部分)。 客観違法性論では「抽象的な社会規範(←法条文ではない)の存在」が対象であり、新客観違法性論では一般人は「違法の基準」であると考えます(一般人を基準に当てはめるのではなく、違法な人/そうでない人を想定し基準とするのです)。 どちらにしても、構成要件に該当すれば違法性が推定され、最終的に、責任論により、その行為が犯罪であるかそうでないかを判断します。 刑事手続きを考えればわかるように、最初から責任論で捜査を判断する人はいません。被害者に対して『違法な行為』かどうかです。 きっと合格してやるっ!!司法試験 レジュメなど 司法試験合格者が無償で提供する司法試験情報 http://www.geocities.jp/passshihuoshiken/kotop.htm
- kanpyou
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本人がその行為について違法であると認識していたかどうか(違法性の認識)については、認識が無くとも成立するというのが判例通説です。また、法律を知っている知っていないについても問題になりません。 問題になるのは、その善悪が判別できないことであり、違法性ではなく、その責任能力が無いために罪とならないのです。 構成要件に該当し、違法性阻却事由にも該当しないので違法行為の主体となりえますが、責任をとえないのです。そのほか、責任を問えないのは刑事未成年で、判断能力が未熟だからです。刑事未成年であっても触法少年として児童福祉法や少年法により保護されたり、刑事処分に付されます。構成要件に該当する行為は違法性阻却されないかぎり、『違法』だと思います。
- kanpyou
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主観的違法性論では、法条文自身が主体となって、命令していると考えるので、意味を理解できる者がその対象となります。←誤りの論理 一方、客観的違法性論では、ある行為を外部から見て違法であると判断できること。モノを対象とするのではなく、社会規範というフィルターを通した、客観的な『結果』が違法であると判断するのです。つまり、法でもなく、あなた自身でもなく、判断(実際的、社会的な合意基準点)が外部にあるということです。 「人を殺す」という行為は構成要件に該当します。これは人に限らず動物にも当てはまります。次に、これらの行為が違法かどうかという判断の場合、その結果から観たものを結果無価値論と呼び、結果だけではなく、その行為や方法なども考慮しなければならないとしたものを行為無価値論といいます。行為無価値論のことを「新客観的違法性論」とも呼び、判例として構成要件に該当する訴因や罪となるべき事実部分を考慮した結果を導きます。これは、「人の死」という結果を「謀殺」「故殺」「過失致死」のように意識し、論点は「違法性」なので、それは犯行形態の分類(構成要件)という意味ではなく、その軽重をも意識します。 客観的違法性論(結果無価値論)では動物も違法行為の主体になりえますが、新客観的違法性論(行為無価値論)においては、法規範は人に対してのみ、その効力を発揮しますので、動物は含まれません。 簡単にまとめると… ・主観的違法性論→法による命令 ・客観的違法性論→社会規範による違法性の判断(違法としての加重はすべて同じ;違法かそうでないかの判断) ・新客観的違法性論→様態を考慮した違法性の判断(異なる加重) ちなみに、質問者様のおっしゃる「あぶのーまる」については、責任論において主に判断されますので、違法行為の主体になりえます。 (主体になりえなければ、彼に対して正当防衛を行使できませんから...)
補足
回答有難うございました。 質問がございます。 新客観違法性論が、違法性の判断対象を「評価規範命令規範の2つ」 と見るのはわかりました。そして一般人基準でもってそれら2つとも違法とされてはじめて違法行為と認定される、というのもわかりました。 しかしです。 そもそも命令は精神障害者は認識できないはずです。 そういう事実は一般人の目から見ても明白です。 つまり違法性の一般人基準にてらしあわせても違法行為とは言えないはずなのです。論理的には。 にもかかわらず、実際のところ精神障害者は違法行為をないするとされています。 これはどういうことでしょうか? 回答の中に 「法規範は人に対してのみ、その効力を発揮しますので、動物は含まれません。 」 とありました。 それをもって「人であればとにかく違法行為をなしうるんだ」 というような論をご回答されるのでありましょうか。 とすれば、なぜ新客観違法性論は「人であれば何でも違法行為の主体になりうる」と展開するのでありましょうか? そうした法理の流れも教えていただければうれしいです。 「評価規範違反と命令規範違反共に犯したかを観る」「その際は一般人を基準にする」というのが肝であるならば なおのこと精神障害者は違法行為の主体にはなりえませんゆえ、 とても不思議に思いました。