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無神論者で死が怖くない人は、何故怖くないの?
私は、神様とか天国とか良く分からないので、死ぬのが酷く怖いです。 宗教家の人が少し羨ましかったりします 自分は生物で、種も残さなきゃいけない上に、信仰が無いので、死が怖いのは当然なのですが… 多分、世の中には無神論者でも死が怖くない人もいると思うんです。 そういう人がいたら、是非、何故死が怖くないのか聞きたいです。 自分は、そうだ!とか そういう人を知っている!とか 有名人でこういう人がいた!とか 何か知ってらっしゃる方がいましたら、是非教えて欲しいです。
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- hanniyagi
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恋愛相談なんでしょうかね。嬉しげに?困ってます、と言われてもね。 死が酷く怖いというのは、あなたが、love、love、さん、だからじゃないんですか。 死ぬ準備を考えている爺としては、うらやましいことです。 ニーチェが 「女性の一切は嘘であり、真実は一つしかない、それは妊娠である」(女は子宮で考える、の語源?)と言っていましたが。 自分は生物で(と理由をくっつけて)種も残さなければいけない。は、 やっぱり若い女性なんでしょうね、(だから回答者が多い?)。 歳を重ね、若い頃を振り返り 「恋愛は実に時を要し禍が甚だしい」との仏教の言葉や、それを受けてかの? 「愛とはその手段において闘いであり、本質において男女両性の不倶戴天の憎悪である」 などとの言葉にうなずき、性欲に振り回されていた若いころを恥じるようになってからが、 思惑愛好家に対しての哲学者(もの)ではないでしょうかね。 死生観については。竹林の7堅?だったか 賢者が集まったおり 一人が「生を頭、死を尻、と捉えている者がいたら、友となれるのだが」。と言うと 皆、無言でうなづき。生涯の友となった。 「莫逆の友」の語源だったと思います。 二ーチェのツアラトウすとらに、老婆が教えた、懐にしまい込んで、出してはいけない、出すとギャーギャーと騒ぎだす、小さな真理、というのがありました。 そなた、女性たちの所へ行くのか00を忘れるな。 質問覧ではなありませんでした、00,は、「むち」、です。 やっぱり、「ごめんなさい」ですかね。
私は50歳プラスのキリスト教徒です、でも25歳ぐらいまではバリバリの仏教徒で、毎日仏壇に向かって法華経をあげていました。(大声で朗読です。) 自分が生まれてきたことが原因で、たくさんの人を不幸にしてしまったように感じていたからですねぇ。万が一、明日交通事故で亡くなったりしたら、絶対に地獄行きだと、痛切に感じていました。キリスト教徒になった今でも、後ろめたいことが多いですね。 死ぬことが怖くないという方は、多分、 1)振り返っても、後悔をすることの少ない人生を送ってきた。 2)人を傷つけてしまった、あるいは取り返しのないことをしてしまった、という自覚があまりない。 3)次から次へと湧いてくる想像力がない。 それはそれで幸せなことだと思います。 質問者さんがうまく自分の中の矛盾や恐れと折り合いをつけられますように。
私も信仰を持ちませんが死について言えばさほど怖いとは思わないものです。 死を怖がるのには大きく分けて3つのタイプがあります。 1.死そのものが怖い。 死ぬという現象は見た目悲惨である。当人は非常に苦しむし、周囲も嫌な目をする。自分はそんな目をしたくないし、周囲にも迷惑を掛けたくない。 2.死によって自分がこの世からいなくなることが辛い。 自分はまだまだやりたいことをやり残しているし、自分を頼っている家族やら関係者にも迷惑をかけるだろう。そんなことを思えば死んでも死に足りない。 3.死後の世界が怖い。 死んだあと、自分はどうなるのだろうか。天国へいければ良いが、たまさか地獄へ落されて非常な苦しみを味わわねばならないとしたらどうしよう。また生まれ変わって犬にでもなったらどうしよう。それこそ悲惨な目にあうことになるだろうし。 このなかで信仰が直接作用するのは3でしょうが、必ずしも全員が救われるわけではないことに注目したいと思います。浄土真宗などの少数派を除いて、善行をしていなければやはり辛い目に遭いそうです。 私が現在余り死を怖がらない理由は、2、と3が除外できるからです。私には心残りにする財産も頼りにする家人眷属も限りなく少ないし、いまのところ遺伝的にもかなり短期間で苦しみを最小限にして死ぬだろうという見極めが付いているからです。3、についてはまったく信じては居ません。 個人的な感想ですが、ご参考になれば。
- kigurumi
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確か無神論者ってのは、 信仰が無い人のことではなくて、 この世を創造してこの世のありとあらゆることができる絶対的な支配者という神など存在してはいない という人のことだったと思う。 万物の法則とかの存在は信じているが、なにかが意思をもってそれを動かしている んなわけないだろって って思っている人のこと。 形あるものは必ず壊れる、生まれたものには必ず死の宿命が付加される、そのようなことを知っている人というか、避けたいが避けることはできないと知っている人のこと。 仏教の考えもちょっちそっちよりかな? 死ってのは、生まれる前の状態と同じになるってことですよね。 誰か生まれる前 苦痛だったり不幸だったりした人います? 困っていたって人います? ひどい目にあっていたって人います? はかないから美しいわけです。
- michael-m
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死が怖くないなんていうのは実に簡単なことです。でも死の恐怖はその瞬間にならなきゃ判りません。 「死なんて怖くない」という人が本当にその瞬間が近づいたときに同じセリフが吐けるかなんて判りません。 よく、何人も殺した死刑囚がその瞬間わめき散らしたり気絶するって話を聞くでしょ。 昔戦争体験者が言っていました。「生涯に三度死に直面しなきゃ、死ぬことなんか語れないよ」と。 私は心筋梗塞で、担当医が気を失っていたらダメだったと言いました。でも私は気を失いませんでした。 もはや痛みを感じなくなり、体中が重く朦朧とした中で考えていた事は、モニターの自分の心臓が止まる瞬間を観たいという興味だけでした。 そこに恐怖も何もありません。自分の血管の中をステントが進んでいくのをみて、あァこれがあの光景かという感動だけです。 そして、動きが鈍くなっていく心臓を見ながら、その止まる瞬間を見たいという好奇心だけでいっぱいでした。 そして執刀医の「終わりましたよ」の一言でも、何も感じませんでした。「あぁ、この次は是非見たいな」だけです。 私は霊魂を信じています。でも、だから天国に入るなどとは考えていません。映画じゃないけれど、一度自ら死を選択した身では天国の門など開かれるはずありませんから。行き先は地獄でしょう。 そんな私でも、夢の中で中央分離帯にぶつかる瞬間は、飛び上がって騒ぎました。 居眠り運転寸前でパーキングエリアに着き、駐車エリアに止まるなり寝てしまったのも気がつかずに見た夢でした。 驚いて目を醒ますと実際にフェンスが目に入り、パニックに陥ってしまったのです。 つまり、人の反応など経験もしていないときに判るはずなど無いのです。 「俺は死なんか怖くない」なんていってる奴を、私は全く信用などしません。 でも最近の人の死に恐怖を感じないのは、これらとは違います。いわゆる無関心なのです。死が余りにも遠く実感を得られないのです。 実際、登山家の野口さんがおっしゃっていたのは「カヌーが転覆しても起こそうともしないで、ジットしている」子供の姿です。「苦しくなかったか」と聞くと「苦しかった」と答えるものの、「なぜ起き様ともがかなかったのか」と聞くと、質問の意味が理解できないかのようにポカンとしているのだそうです。 これが近年の子供達の死を知らない感覚なのだと思います。つまり怖くないのではなく、知らないのです。
- ukiyotonbo
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あなたにとって、あなたが、死ぬなんてことは、ありません。 あなたが死を経験することはないのですよ。 必要以上に怖がる必要なんて全くないと思いますよ。 つまり、あなたが今まさに怖がっている死という観念こそが死なのですよ。 自分の死というのは、生きているときに観念として存在するのです。あなたが今体験しているようにね。 しかし、死を恐れるというのはある程度健全なことではないでしょうか。 白線の外側にいて電車が来れば誰もが恐怖しますよ。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
死の恐怖にとりつかれた場合は、怯えながら生きて行くことです。 この本質的な恐怖から解放されるなどいう口車に乗ってはイケません。 この投資信託に投資したか必ず儲かる、、、、なんてのと同じで、大抵は貴方から何かを奪おうとしてアプローチをしてきます。 わたくしの場合も小学校低学年のときに、死の恐怖というヤツに取りつかれ、毎日その恐怖と戦うのに忙しくて勉学に励む余裕はありませんでした。つまり毎日ボーっとしておったわけです。 わが親愛なる親も、私がボーっとしている現象面だけ知っており、どれほどの恐怖と闘っていたかはわかっていない様子でした。 そんな恐怖と闘う日々に精根尽き果てた有る日、死の恐怖と闘うのも休み休みしてみてどうか、と思いつきました。 精根込めて闘いつづけてもどうも勝利の光明は見えてこないし、この調子では相当な長期戦・持久戦を覚悟せねばなるまいと子供ながらに考えておった頃です。 「死に怯えるのも休み休み、、、」という思いつきは、少年のころの私の生活に劇的変化をもたらしました。 学校でも先生の喋っていることが耳に入るようになり、同年輩の少年たちの他愛無い遊びにも興味を覚えたりしました。 死の恐怖と向き合う時間の合間をみて、その合間に少年としてやるべき勉強や、遊びをすることができるようになったのです。 つまり、死の恐怖と向き合うのを休み休みしたおかげで、読み書きそろばんを習得し、缶けりゲームなども楽しむことができた。 中学生のときには周囲の期待を裏切って(?)、運動会のリレー選手の第四走者として、チームの勝利に貢献しましたし、下馬評を裏切って名門高校にに進学したりすることもできました。 この「休み休み怯える、、、」という処世術は大変に有効で、休みの間に恋愛をしたり、結婚をしたり、社会で仕事をしたりすることができました。 とはいえ、死の恐怖との決着はついておりませんので、時々は死の恐怖と対峙しなければなりません。 不思議なもので、勝てない闘いと分かっているので、目標を引き分けと定め、できるだけ短時間で引き分けというか水入りに持ち込む術を身に付けました。段々と精々二日か三日ぐらいの闘いで一段落をつけることができるようになり、今では就寝前の一時間ぐらい闘ってその後にぐっすりと熟睡するぐらいまで闘いに習熟してきました。 今後の展開を予想すると、老化に伴い益々体力や集中力が衰えて行くので、今後の闘いでは持続時間が短くなってゆくでしょう。後何回かは壮絶な闘いが訪れることも覚悟しておりますが、そうこうしているうちにお迎えがくるでしょう。 質問者さんはお若いかたのように思いますが、一旦死の恐怖と会偶したのですから、このご縁を大切にし、闘い方を工夫しながらも、死の恐怖とともに生きて行かれると事をお勧めします。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 私は、神様とか天国とか良く分からないので、死ぬのが酷く怖いです。 / 宗教家の人が少し羨ましかったりします。 ☆ 死ぬのは誰でもこわいはずです。《酷く》かどうかは 人によるのでしょう。 ただし《宗教家》かどうかは まるで関係ありません。人の手前で語ることや文章で書くものにまどわされることはありません。誰もがひとり残らず ★ 神様とか天国とか良く分からない ☆ のです。分かったという人は カッコウをつけているだけです。人間には分からないから 神と言うのですから。(《わたし》という主観の内面において分かったとひらめくときはあると言われれば それを否むことはできません)。 あるいは空元気だけでも こわくないように見えることはあります。 あるいは銭儲けのためには 口が裂けても 死ぬのがこわいとは言いません。 それだけのことです。 ★ 自分は生物で、種も残さなきゃいけない上に、信仰が無いので、死が怖いのは当然なのですが… ☆ 生物であるゆえにこわい――本能としてのごとく死を避ける知覚をとおしてのはたらき・動き――ということでしょう。ただし《信仰が無いので》という理由については 違った見方ができるはずです。《種も残さなきゃいけない》というのは そうでない場合もどちらも自由です。決まっていません。 信仰が無いというのは 《神が人に分かるものである》と思っている(思いこんでいる)ところから出てくる見方なのでしょう。もし《分かるものではない》あるいは《分かるか分からないかが分からない》と知れば 信仰は有ると言っても無いと言っても どちらもまったく同等に自由に同じことなのです。 ★ 多分、世の中には無神論者でも死が怖くない人もいると思うんです。 ☆ 《死が怖くない》という人がいれば そう言わせておきましょう。《無神論》は 神の信仰が無い つまり 無い神を信仰している ということでしょう。〔神が分かって信じている(有神論)のでもなければ 神が無いと分かって信じていない(無神論)のでもないという意味です〕。 ですから無神論は 有神論とその信仰のあり方としてはまったく同じ類型です。ですから 有神論者だからこわいとか怖くないとか 無神論者ゆえにこわくないとか怖いとかというかたちで見るのは あまり意味がないはずです。というより 誰もがその生から死へ移って行ってしまうという想いにはこわさを感じるはずです。おそらく馴れっこになることもないというのが ほんとうではないでしょうか。 では どう捉えるのか? 細かいことは省きます。ふたつ申し上げます。 ひとつは 人それぞれに死ぬときがあるというのが どうも当てはまるのではないかという見方です。いわゆる人それぞれに寿命があるという捉え方です。人は病気で死ぬのではない。自殺によって死ぬのではない。事故に遭って死ぬのではない。寿命で死ぬのだという見方です。 もうひとつは おのれのつとめを果たすということ。死んではいられないということ。果たせばそろそろ死のうかとなるということ。 端折りましたが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.12: 生まれてきたから死んでいくのですね。 ところでrimbaudlovelovさんは生まれてくる前やどうして生まれてきたのかをご存じですか?いえそれは問題にならないのですね? そして生まれてきたのは何が生まれてきたのでしょうか、死んでいくのは何がしんでいくのでしょうか?そういうことは問題にならないのですね。 私はむしろそういうことも、いえそういうことから問題にしていくほうがいいかも知れないと存じます。 そんな事は問題にもならないし、問題にもしたくないですか? 無論、科学や思弁的・演繹的論理ではたどり着けないし手も付けられない問題でしょうね。 そしたら、ご質問のそういう問題ですよね。科学や論理の哲学の問題ではないですね。 違いますか?つまり私はrimbaudlovelovさんの質問の目的と動機が不明確だといいたいだけです。 ご機嫌を損じるかも知れない投稿をどうかお許しください。ごめんなさいと謝っておきます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
私の感想ですが、日本人の場合、あまり死を日常的には恐怖にもしていないし、深刻に考えてないような気がします。 でも欧米の宗教書などを読むと、死を一生懸命問題にしていますね。 私の気のせいでしょうか。 そりゃぁ日本人でも、一定の心理的な病いの原因や結果になって、死っていうことに対面している人もいるんでしょうが。 特別の論理や知識、ないしは民族の死生論や哲学論などでもありうる問題ですね。 宗教家っていうほどのことではありませんが、ヒンドゥの哲理を40年ほど勉強し精進しております。 その前、死について何かを考えていたわけでもありませんし、今も何も考えていません。 その哲理は無論、死についても説明はしております。でも死をwakeful意識では考えていないし、わかってもいません。 怖いとも怖くないとも思いません。判ってもいないし判らないでもありません。wakeful意識では、意識しておりません。 経験しようとも、判ろうとも思っていません。 生まれてきていること、そして死んでいくことについては、私たちの教えの基本の重要問題であることはそうなんですが、だからってそんなことで勉強しているわけでもないし、精進しているわけでもありません。 自殺ではなく死に方と、その後始末のことなどは考えています。 遺骸を火葬に付するのも、鳥葬も好ましくないですね。 戒名はお坊さんの読経も好みませんね。 殊更に死を問題にするのは、私にはとても作為的になります。 死ななければならなければ、死ぬだけだし。死ななければ判りようがないことですからね。 だからどうでもいいというわけではありません。ちゃんと死んでいかれるように生きていくだけです。 そして死ということについて関心を持っていますし、勉強だけはしていきます。 生きていることを終わるのは、何かいやな気持ちもするが、肉体から出てしまえば楽かも知れませんね。でも意識はどうなるのでしょうね。 チンギスハンとかいう英雄は、ひたすら毎日死ぬことを恐怖していたそうですね。 そして始皇帝の場合は恐怖していて、仙薬を求めたのかどうかあまり判りませんね。 徐福を派遣したのは、殖民ではないですか?それに本当に日本にきているのかどうかもそれほど明確ではありませんね。 私はきていると存じますが。これは殖民ですね。領土の拡大でしょう。 多くの宗教者はやはり死を問題にしてきているでしょう。恐怖してはいなくても。 釈尊が、童子の時代に、空腹の虎に自分を差し出したのは恐怖ではないですよね。 イエスは聖書やキリスト教では、避けられる死を自らの任務の仕上げとして受け入れたということですね。 ソクラテスも敢えて毒盃をあおりましたね。 西郷南州も何かと自らの命を差し出していますね。 阿南さんや乃木さんは軍人としてどうだったでしょうか、やはり恐怖とか死をしっているからとかでなく、死を選びましたね。 明日は雪の吉良邸への討ち入りですね。内蔵助以下、切腹を名誉としました。時代の思潮ですね。 今は欧米的に死を認識したいとか理解したいとか、恐怖だろうかということが問題なんでしょうかね。 私はそれは無用だと思います。