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アメリカにある黒人の教会って・・・・人種差別では?
以前からすごく気になっていたことなんですけど、キリスト教では、「汝の隣人を愛せよ」とか博愛主義みたいな教えがたくさん説かれていると思うのですが、それならどうして、アメリカでは、黒人は黒人の教会があったりとするんでしょうか?これって、クリスチャン同士で公然と差別を認知していることですよね? 神のもとでは誰もが平等を唱えるクリスチャンにとって、差別は罪ではないのですか? それとも、誰を迫害しようと、誰を傷つけようと、誰を不幸に追いやろうと、神も教えを延々と唱え、敬虔な信者であろとうしさえすれば、それでいいというわけなのでしょうか? 最後の方が、少々、乱暴な物言いになって申し訳ありません。ですが、私には、人を傷つけ、侮蔑するような「差別」は、例え、崇高な神の言葉を借りてどれだけ飾りたてようと、それは、何の正当性も待たない詭弁のようにしか受け取れません。 こんなことを敬虔なクリスチャンの方に興味本位でお尋ねするのは誠に不躾とも思いますが、それでも、意見を返してくださる方が居られましたら、是非、意見をお伺いしく思います。
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長文の回答になりそうですが、ご容赦ください。 >それならどうして、アメリカでは、黒人は黒人の教会があったりとするんでしょうか?これって、クリスチャン同士で公然と差別を認知していることですよね?> 端的に、“クリスチャン”とは、イエスを神がこの世にお遣わしになった救世主(キリスト)であると信じている人々、つまり「キリスト教徒」の総称です。そして、人間は罪深いが、それはイエス(の生贄)によって、(神から)すべての罪を許されている、と信じて疑わない人々です。 分り易く言えば、仏教徒が「差別」をしようがしまいが、それは彼ら個々人の自由であるのと同様、キリスト教徒にとってもそれは彼らの自由です。キリスト教徒だから差別を容認するのはケシカランという主張はどう見てもアンフェアで、残念ながら説得力には欠けてしまいます。 > 神のもとでは誰もが平等を唱えるクリスチャンにとって、差別は罪ではないのですか?> たとえば民主主義国家に居住する国民であれば、個々人の宗教観とは関わりなく、何を唱えようと自由ですし、一方で、唱えたことを実行しなければならない義務はありません。 クリスチャンだろうが仏教徒だろうが創価学会員だろうが、「差別」を罪と感じるか否かは、個々人の価値観あるいは見識に委ねるしかありません。 仏教・創価学会は知りませんが、仮にクリスチャンにとって「差別」が罪であったとしても、もともとその罪は許されているのですから、論理的には、個々のクリスチャンが良心の呵責を感じたり思い悩んだりする筈はありません。しかし現実世界は違います。 逆説的になりますが、クリスチャンにとって、「差別」を罪と感じつつその罪の意識に多少なりとも心を痛めている自分を発見することは、彼らの信仰が100%ではないということを自ら認めることと同義なのです。 もっとも、宗教の如何を問わず、100%の信仰を持ち得る人間などこの世に存在しませんから、悩み多きクリスチャンであるほど人間味豊かな魅力溢れる人物に違いないと考えることもできます。
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- hakuro
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在米中、心理学を学びました。 そこでは、「差別心」というのは子供のころに出来るらしいです。 「え?子供?」って思われるかもしれませんが、親などの周りの影響を受けるらしいです。 宗教の話は出口がないと思います。 宗教が違うもの同士が「それは違うだろ、おかしいだろ」と話し合ったとしても、お互い信じるものが違う分「だよね、そうだよね」ってなることはあまりないと思います。 出会った人が、jehova's wittnessの男性でした。 私の親がこころよく思っていなかったので、幼いころからいい印象はありませんでした。 出会ったころ、彼に宗教を私に押し付けないかなど聞いたところ「それはない」と言ったのでお付き合いを始めましたが、だんだん宗教を押し付ける形になっていきましたが、いろいろ聞いても全く理解できないんです。 なぜ誕生日を祝わないのか、クリスマスを祝わないのかなど、その宗教以外の人には不可解なんです。 ケビンコスナー主演の「パーフェクトワールド」でケビンコスナーが連れ出した男の子の家がその宗教だったらしいです。 ハロウィーンで楽しんでいる人たちをうらやましそうに見つめる子供が印象的だったのと、最後の方でケビンが撃たれて血をながしながら警察に「子供に誕生日を祝うように」など訴えてたシーンもありました。 宗教を知らないものだったら、子供ってかわいそう・・・・って犯人のケビンに共感するでしょうが、宗教で見ると「だってそういう教えなんだもん。 宗教的に出来ない」ってなりますよね。 アメリカにいたときはユタ州にいました。 私はモルモン教ではありませんでしたが、周りのほとんどはそうでした。 人によっては、自分がモルモン教だったがためにアメリカに来るまでに迫害を受けていたという人もいました。 ユタに来るのは、ずっと私の夢でしたって人もいました。 世界各国に布教活動をし、皆を愛し、隣人を愛し・・・などと教えてきたのでしょう・・・・ソルトレイクのテンプルスクエアーでは、世界からいろんな人種の人たちが観光に来ていました。 でも、現実は違うんです。 同じ宗教同士の人種差別などがありました。 私はその宗教ではないぶん、その部分がよく見えて痛々しい部分もありました。 彼らはこの土地に来るのを夢見て、迫害されても、つらい思いをしても、がんばってお金をためてきた人もいらっしゃるでしょう、なのにあの扱いはなんだ?って思いました。 アメリカ人の友達で厳格な信者の友達もいました。 信者のチリ人で、チリにいたときは馬鹿にされたといっていて、ユタに来たのがとてもうれしそうな友達もいました。 でも、現実を見てきて2人とも辞めちゃいましたね。 私は宗教って何なんだろうって思っちゃいました。 移民時代?にアメリカに来ますよね。 右も左もわからない土地でまず行くのは、知り合いのところ、同じ国の人の住んでいる場所です。 それを繰り返していって、出来た町がリトルイタリーだったり、チャイナタウンだったり。 同じ国の人がだんだん集まってきて、教会ができて・・・・って感じなので、リトルイタリーにはイタリア系、チャイナタウンにはチャイナ系の宗教の教会などができていったのだと思います。 ほかの方が言ってらっしゃるみたいに、リトルイタリーにはイタリア系の住民がほとんどなので、教会などにはイタリア系の人がほとんど集まる。 みたいに、黒人が住んでいる地域には黒人が集まる教会など(宗教によって教会はと呼ばないので「など」といわせていただきます) ユダヤ系住民が多く住んでいる地域には、ユダヤ系の宗教の建物がたくさん建っているという形だと思います。
- Nicka
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mzuka0914さん こんにちわ。 私は物心ついた時にはカトリック信者でした。 今もカトリック信者です。でもプロテスタントの教会にも出入りして 黒人霊歌(ゴスペル)を歌ったりすることもあります。 差別をするのは人であって、宗教ではない。 と思います。 キリスト教に限らず、どの宗教も根本では 争いや差別を推奨したりはしていないのではないでしょうか。 人はなかなか聖人にはなれず、 宗教を持っていても、いろいろな欲望や差別などに ひっぱられてしまうことがあり、 それを正当化させるために、中には聖書などの 教えを歪曲して利用する人がいる。 と私は考えています。
- mmky
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参考程度に 自由と平等の問題でしょうかね。 自由であれば差別が生じますね。アメリカという国は自由を追求しているところですから宗教という枠の中でも差別が生まれてもおかしくはないですね。 不思議に平等を追求した共産国では宗教は拒絶されましたね。宗教には自由性があるからではないでしょうかね。という観点では、どのような組み合わせがあってもいいのではないでしょうか。それがむしろ自然なのではないかと思われますね。
- Nanaokun
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人間の本質として、これまで人間観察をされてきたらお分かりかと思いますが、違う者に対して人間は排他します。区別します。差別します。 でも、自分が差別されるのは嫌ですよね、だから、差別のない理想であるキリスト教などの宗教が心の拠り所になるわけですよね。 ちなみに聖職者を目指したアメリカ人の友人がおりました。彼はとても真面目でしたが、転職しました。腐敗などで聖職者もボロボロだそうです。 でも、それも人間だから仕方ないのだと私は思っています。 人間だから、差別する。でも、それを差別しないように頑張る。人間だから組織が腐敗する。それを避ける人も居れば、そこにとどまり、改善しようとする者も居る。 これも回答になっているのかなあ・・・?よくわかりませんけど、これが私の感想です。
- songbook
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なるほどキリスト教では、差別を良しとはしていないでしょう。ただし、信じる者と信じない者とでは、きっぱりと差別を許しているようですけどね。 信じる人だけ救っておりますから。 と、皮肉はこれぐらいにして。差別をよいとは言っておりませんが、差別については、「どうしてもやめなければいけない」「人間として最も愚かしいことである」「差別する人間こそ地獄に値するものである」レベルの、強烈なメッセージは発せられておりません。 私の思うに、キリスト教での「神のもとに平等」の教えは、その言葉から、少しも発展させるつもりはないのではないかととらえます。 「神のもとに、平等なのですよ。」「そうだよね、ぼくたち人間は、みんな兄弟だよね。」 そこで思考はストップです。美しい言葉の、飾り物のままです。 だから、現実に抱えている問題に立ち向かってみようとか、人の見方はこうでなければならないとかいった議論まで、聖書では言及していないのではないかと思われます。 もし言及されていたとしても、目の前の醜い自分に立ち向かうのは、誰だってつらいので、よほどのことがない限り、口に出したがらないのではないでしょうか。 敬虔なキリスト教の皆様、誤解を招くようなオーバーな表現をお許しください。別に私はキリスト教を非難しているわけではありません。 私たちにとって、差別をなくそうとすることは、非常に困難なことであり、ちょっとやそっと宗教に感化されたぐらいで、取り除けるほどの生易しいレベルではないということです。不可能と言ってもよいかもしれません。 教会については、今までの皆さんの回答どおりだと思いますので、省略します。変な話ですが、黒人教会でみんながくつろいでいるところに、白人の方が入っていったら、きっと、お互い気まずくなって、居心地のよい空間ではなくなるのではないかと想像されます。
- bisromani
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アメリカは他民族国家です。黒人教会があるだけでなく、各民族別にさまざまな教会があります。 ローマンカトリックの教会も、イタリア系、プエルトリコ系、フランス系……と細かく 分かれています。 ユダヤ教のシナゴーグも、ポーランド系、ドイツ系などと分かれているんだそうですよ。 教会は信仰のためだけにあるのではなく、それ以上に、サブ社会としてのコミュニティーとして 重要な意味を持っているからです。 よそ者同士が集まった巨大な国で、同郷の仲間、先祖を同じくする仲間が集まるという点に、 心のよりどころとしての意味があるんだと思いますよ。 冠婚葬祭のための組織でもあるわけですから、風俗習慣が違う人たちとは一緒に なりたくないというのも理解できます。 黒人教会の賛美歌と、白人の例えば英国国教会の賛美歌は全然違いますからね。 確かに純粋な信仰という点から見ると矛盾ですが、日本人だって、お寺に信仰だけを 求めているとは言えませんし・・・
- otsuge
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少し不足があるので追加します。 キングを例に引きましたが、アメリカの黒人教会が公民権運動に熱心だったのは、日本で思われているような人種融和を目指したのではなく、人種分離のままで黒人側の取り分を増やせという要求だったと判断せざるを得ません。 いまある人種別教会を見る限り、むしろ黒人教会の方が排斥的だからです。
- otsuge
- ベストアンサー率15% (43/278)
あなたの思っていることは、それほど外れてはいないと思います。 キリスト教はその根本である伝道にあたって、まずその土地の民族の習俗に相乗りします。その土地の民族が隣の民族と仲が悪ければ、別々の伝道師が行きますが、隣同士仲良くしなさいというのは本来のキリスト教の布教の目的ではありません。 アメリカ社会に限って話をすれば、教会はごく例外的なケースを除いて、人種分離の解消には消極的でした。理由はわかりません。別々の教会の方が、全体的に聖職者の職場が増えるからかもしれませんよ。 キングは牧師でしたが、彼の運動がキリスト教の宗教観とそれほど強く関係していたとは思えませんし。 私にはそのように見えたということでご容赦ください。
- Nanaokun
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在米経験からいうと黒人区域に黒人教会があっても普通だと思いました。 さらに、米国の教会は仲良しクラブ的な親睦会のような運営もされています。同じ悩みを持っている者同士が、バーベキューをしたり、お祈りした後でゲームしたり会食しながら、色々な話をしたりします。 その時、米国で黒人であること、黒人特有の問題を話し合うのは黒人同士ではとても楽ですよ。そういうわけで、韓国人のみが運営している教会もあります。日本人のみ、または日本人の家族が居る家庭だけの教会も場所によっては存在しますね・・・ そういう所に合わない人は、誰でもオーケーで自分の居心地が良い教会に変えたりしておられます。米国事情はそんな感じでしたが、回答になっていますでしょうか?
補足
ご回答ありがとうございました。なるほど、黒人の区域には黒人の教会があって然るべきですよね。なにしろ、ほとんどの住民は黒人なんだから・・。 それじゃ、教会は抜きして、どうして、黒人を差別する差別が、公然と、信仰の厚い方々(クリスチャン)の間で行われているのか・・・。信仰を持つことと、差別をすることは又別、のようですが、それがどう違うのか、私の本来の質問の趣旨はそこにあったわけなのですが・・。