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創価学会信者が神道まで否定するのはなぜでしょうか?
- 創価学会信者が神道まで否定する理由について、その背景や考え方についてまとめます。
- 日本の神道と創価学会の考え方の違いについて解説します。
- 創価学会の信者が神道を否定することが、日本の国や文化を否定しているのか、その点についても考察します。
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追伸まで 「創価学会信者が神道まで否定するのはなぜでしょうか? 」 の問に関して「悟り低き者が宗教など起こすものではない。」では回答としては十分ではありませんでしたね。 確かにご指摘のように他宗を批判したのは日蓮だけではありませんでしたね。天台宗と奈良仏教の徳一論争など仏教宗派の争いは過去もたくさんあったのですね。でもどの仏教宗派の教祖も時の幕府は別としても天皇への尊敬の思いと態度があったことは自明なことですね。天皇は神道の最高の神官の位置づけということは当時の叡山や高野山で学んだ学生の常識ですね。 したがって、日蓮や日蓮宗が神道まで誹謗中傷することはありえないことですね。もしそのようなことがあれば日本の歴史に日蓮宗など存在するわけがないですからね。 さて本題に戻って、「創価学会信者が神道まで否定するのはなぜでしょうか? 」ですが、これは創価学会2代目の戸田あたりからですね。詐欺罪で投獄された2代目と獄中でのやくざとの関係、その後あとを継いだ3代目が大阪を中心に広めたわけですが、そのとき韓国・朝鮮系のかたや中国系の方が多く参加していますね。ここに神道否定の教義が必要だったのでしょうね。つまり信者獲得と組織拡大には神道否定が条件としてあったということでしょうね。宗教というより利益団体ということですね。この考えは公明党に引き継がれていますね。学会も信者も多いですからいろんな人はいると思いますが、核の部分で神道を否定しないと韓国系や中国系の方々の共感は得られないということでしょう。 仏教は是是非で判断することが基本ですから、利益目的で判断することはありません。そういう意味で学会が法華経を奉じる仏教といえるとは思えませんが、日蓮を利用した利益団体ということはできるのでしょうね。ただ、いえることはあの日蓮にさえ後代のものが間違える欠点はあったということですね。欠点は利用されやすいものなので宗教家には欠点が許されないという厳しいものがあるということですね。 このことは日蓮もあの世で深く反省しているということですね。 あなたのようにしっかり学べば、是是非で判断できるのですが、学び浅き者が多くて困りますね。 参考程度に
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- donanyan
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学会の方は、いろいろなところに学会の建物があり、そこに参っているのだと思います。 私の話は噂で聞いた話なのですが、、、 学会の方たちは、みんな他の所で参ることはありませんし、足も踏み入れないそうです。 なぜなら、自分たちのお参りをするところがあるからだそうです。 学会だけを信じて、他のものを信じないからだと思います。 また、選挙の時になると公明党を応援します。 それがなぜだか知りたく、学会に入ってみた方もいます。 ですが、出るのが大変だったそうです。 学会については、【そういうところもあるんだな~。】程度に思っておくのがいいと思いますが……
お礼
ご回答ありがとうございます。 それではまるで一種の全体主義のようですね。 他をシャットアウトすることで存在するものほど危うく儚いものはありません。 人間はものを知り、自分の頭で考えてこそ深みを増すものだと思いますが、疑念を挟む余地を消し、考えるという行為をやめてしまったら、人間である意味がないような気がします。 熱心な宗教信者というのは、上から与えられた教えをコピーペーストのように振り撒くだけのマシーンのように見えたりすることが多いですよね。 私にはああいう姿を見ると、人間としての死を感じてしまいます。
- qualheart
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ANo.2です。 お礼ありがとうございました。 >サッカーファンが野球を否定しているようなものかな(笑) そのとおりです! あまりに上手な例えだったので思わず回答させていただきました(笑) わたし自身、創価学会も良く知りませんし神道も良く知りません。 はっきり言うと宗教というもの自体に歴史的な興味があっても精神的な共感はあまりありません。 そういう無宗教人間から見えると、神道は「明治政府の押し付けた虚像のようなものではなく、集落の民が、自分たちを育む郷土に対して愛着を抱き、自然のサイクルの中の一つとして存在していることを意識して、全体に感謝するところから始まっている」なんてことすら気にしたこともないです。 それは、神道を深く学び共感している人だからこそ知っている事柄であって、一般の無宗教な人がそこまで考えて神社に行くこともないように思います。創価学会に入っている人なら、尚更なんじゃないでしょうか? 確かにわたしは神社に初参りにも行きますしお葬式でお経も詠みます。ですが、はっきり言ってこれらはわたしにとって単なる「習慣」であり宗教じゃありません。宗教という意識がないから、複数の宗教的な習慣が共有できているだけのように思います。 例えば、神道に信者がお葬式でお経を詠むって言うのはあり得ないでしょう。 これはその人が神道を宗教として捉えているからです。創価学会であれなんであれ、ひとつの宗教をちゃんと宗教として信じる人が他の宗教の習慣を拒否するのはいたって自然な反応かなとわたしは思いますよ。 もっと言えば、仏教・キリスト教などの外来の宗教と日本の神道とではそもそもの担う役割が違いジャンルが違う、という考え方自体が「神道」の考え方なのかなって気がしますね。 例えば、わたしは正直ご質問者様の言っていることはあまり良く分かりません。そのような「教え」を知らない無宗教のわたしにとっては、宗教は宗教だからです。また、何かしらの宗教の信者である人々にとっても、やはりジャンルなんて関係なく宗教は宗教と思っていると思います。 そもそも、ジャンルが違う宗教は共存できる、という考え方そのものが「神道」の教えなんだろうなという感じがします。 つまり、ご質問者様は宗教的な考えに捕らわれずに考えていると思いながらも、すごく宗教的な考え方にとらわれ、それを他宗教の信者に押しつけてしまっているわけです。 「仏教と神道はジャンルが違うんだから、別に仏教徒でも神社を拒否することはないじゃないか」というのは、あくまで神道信者の言い分でしかないんです。 それは、結局神道の教えを強制してしまっているだけです。 心から宗教は自由と感じているのであれば、これは気にすべき問題じゃありません。 受け入れるかどうかはそれぞれの自由です。それを疑問に思ったり間違いだと思った時点で、神道を人に押して付けてしまっていることになってしまうと思います。 ご参考まで。
お礼
たびたびのご回答ありがとうございます。 私は毎年伊勢神宮に行き、靖国神社へも参拝し、また地元のお祭りにも参加します。 しかし私自身は、神道を何かの宗教として捉えたことはありません。 神道は、郷土愛の延長にある愛着や敬愛の念が元であり、仏教のように何か具体的な悩みの解決を教示してもらうわけではありません。 そのような悩みや救い、また生き方を手取り足取り教えてくれるのは『宗教』だと思っています。 私は哲学が好きなので、自身の悩みについては自分の頭で考えるので、考えずに教えを信じることで救われようとする宗教にはあまり価値を見出だせません。 では、神前で何を拝んでいるのかというと、それは『現実』そのものだと考えています。 今は自然界の連鎖だとか、そういうものが科学的に言われているので分かりやすいかも知れませんが、全体の中の自分を感じようとしているのです。 自然のサイクルの中に人間が存在している事実。 コミュニティの中に自分がおり、また自分がコミュニティを支えているという関係性の事実。 国家と市民としての関係性。 人との縁。 …etc そうしたものを『全体と自分』というテーマに置き換えて捉える一つの手掛かりとして、神というものがあるのだと思います。 お祈りすれば叶えてくれるような非科学的なスーパーマンが神ではありません。 今でこそ科学が発展し、自然界全体からみたサイクルも理解されてはいますが、昔はやはり山の神や海の神がいて、その恵みに感謝をし、人間より大きな絶対他者(神、自然)を肌で感じる形として神が必要だったのでしょう。 神=自然界 であるのです。 人間は苗を植える。 その苗が育つのは、人間の力ではなく、太陽や雨などの恵みである。 そして、育ったものを人間がいただき生き延びる。 よって、自然のお恵みに対しては感謝を忘れない。 そういう関係性を常に認識し、全体から自分を俯瞰して『現実』を捉えるような視点が神道の源なのだと思っています。 科学が発達した現在、神道は衰退しています。 しかし、全体の中の自分という視点を失っては、集団行動性のヒトという動物は危機に瀕します。 地図を持たず、俯瞰して自分の位置を確かめられなければ、方角も分からずにさ迷い、アイデンティティも見失うでしょう。 個人主義、核家族、プライバシー云々で人の連帯がズタズタになり始めている近年、伊勢神宮を始めとする寺社めぐりをする若い人が増えたりもしているそうです。 そのような傾向を見ると、やはり現実を捉える視点としての神様は、多少なりとも必要なんだろうなと、ちょっとは考えてしまいますね。
- ume-boshi
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こんにちは。 私も質問者さまと同様の考えです。私も親しい知人が学会人です。 創価学会と言うよりも、日蓮上人が排他的であったのが理由かなと思います。釈迦の教えである「法華経信仰」ですからね。日蓮は親鸞と仲が悪かったようで、現在も創価学会と浄土真宗はお互いを認めていませんね。親鸞もやや排他的です。親鸞の教えは「阿弥陀仏による浄土信仰」です。浄土真宗もまた、神社へのお参りは良しとしていません。結婚式も七五三も仏前式を勧めてきます。 ただ、やおろずの神を信仰する古来からの信仰と、現在の神道はすこーし違うのですよ。現在の神道の多くは明治時代からです。廃仏毀釈ですね。国が政策として神道を強要したわけです。靖国神社がその代表だと思います。 古い神社で山そのものがご神体というところもあれば、靖国のようなところもあるわけですね。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 そのとおりですね。 日本における神道というものは、山そのものを御神体とするような考えから生じてきたものだと思います。 私は靖国へも行きますし、天皇陛下の一般参賀にも行きますが、明治新政府が推し進めた神道は、やはり作りものでしかないような匂いがします。 それは、国民全体からするとごく一部でしかなかった武士階層の出身者主導で作り出した神だからであり、やはり庶民が自然界から感じ取っていた神とは温度差があったと思います。 現代に生きる私は、武士のような生き方をするわけでもなく、また当時の庶民ような村社会に生きているわけでもありません。 多くの情報を知り、歴史を知られる立場にいます。 これまでのいろいろな社会層の神を総合し、その中から共通する普遍的な感覚を抜き出して、神と感じるしかありませんね。 日本の八百万の神は、感謝する対象ではあるけれども、個人の悩みの解決はしないし何も救いません。 逆に外来の宗教は、悩みは解決するけれども、土地や民族は護りません。 畑が違う二者なのに、畦を越えて一方を良しとしないというのは、よく分かりませんね。
- qualheart
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詳しい彼らの考え方ははっきり言って良く分かりませんが、歴史的に見ると創価学会の前身である創価教育学会の創立者である牧口常三郎と戸田城聖は、第二次世界大戦下の当時の政府の国家神道を強く拒否し逮捕され、牧口にいたってはそのまま獄死しています。 創価学会信者が、神道を拒否するのはそのような歴史背景があるのではないでしょうか? まあ、私から見れば、神道もまた宗教のひとつでしかなく、神道を否定したからと言って「日本という国を否定している」とは思いません。 宗教は自由ですから、はっきり言って共存を肯定しようと否定しようとその人の自由だとわたしは思います。別にひとつの宗教のみを信じる人がいても良いと思いますし、複数の宗教を信じる人がいても良いと思います。共存共栄というのは、あくまで別に他の人が信じることまでは否定しないという意味であって、自分が信じるかどうかは自由であるべきでしょう。 創価学会を信じろと強要するのは余計なお世話だと思うように、神道を信じろというのも余計なお世話だと思います。 ご参考まで。
お礼
ご回答ありがとうございました。 もちろん信仰は自由ですし、内発的動機によらなければ意味がありません。 どちらも信じない人もいれば、その逆の人もいて当然だと思います。 しかし、創価学会の例を知り、同じジャンルではないのになぜ否定するのかが気になってしまいました。 仏教・キリスト教などの外来の宗教と日本の神道とでは、そもそもの担う役割が違います。 前者が母ならば、後者は父のようなもので、もし創価学会が神道を否定しているとしたら、それは子供に対して 『母を愛するならば、その証として父は敬うな』 と言っているようなもののように思えてしまいます。 サッカーファンが野球を否定しているようなものかな(笑) 尤も、明治新政府が国を強化する政策の一貫として神道を利用し、行きすぎて様々な悲劇が生まれたことも否定はしません。 その犠牲になったのが創価学会の祖であるとすれば、自分が痛い目に遭った神道を否定することも、人間の感情ですからあるでしょう。 ただ、そもそもの神道は、明治政府の押し付けた虚像のようなものではなく、集落の民が、自分たちを育む郷土に対して愛着を抱き、自然のサイクルの中の一つとして存在していることを意識して、全体に感謝するところから始まっています。 神道というと、近代の戦争が部分的に切り取られて曲解されることが多いので、いろいろと難しいのですけどね。
- sotom
- ベストアンサー率15% (698/4465)
基本的に、アクティブな宗教は他の宗派と相容れる事はないでしょう。 教義の面で共存共栄なんて有り得ないですね。それは創価学会だけとは限りません。 ただ、その場にいっても手を合わせない等、そのあたりの判断はさまざまですよ。 第一、創価学会員なんてたくさんいますが、皆が同じ行動ではないです。 少なくとも、俺の知人は手を合わせないだけで、そういった場所行っていますよ。 八百万の神と言われるほど、神の種類はたくさんあります。 「神道」の全てが靖国の英霊や天皇とは結びつかない。 第一、靖国は戦争を正当化するための詭弁でしかない。 その結果、惨敗し、自国の民衆を大量死させました。 質問者は、神道をもう一度学びなおした方がいいと思いますよ。 土着の神々と異なり、国家神道は明らかに政治が宗教を利用しただけです。 古代エジプトの太陽神の方が、よほど健全ですよ。
お礼
ありがとうございました
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お礼
再度のご回答、ありがとうございます。 詳しい内容でよく分かりました。 時代背景からも、中国や朝鮮の方々が多く来ましたので、そこに宗教が必要とされる側面があったのかも知れませんね。 そうなると神道と結び付いている部分は布教の邪魔にもなりますし、また明治政府が神仏を分けたことを理由に、これを攻撃することで、かえって信者獲得には都合が良かったことも確かだと思います。 神道をあっさりと捨てられたのは、ある意味で土着の宗教でない強みなのかも知れません。 在日中国・韓国人のための亜流の仏教だと考えれば、それはそれでありだと思います。 ただし日本人のアイデンティティを持つ者ならば、決して信じることはできない宗教になるというだけのことですね。 もし今後も、日本人に創価学会を広めて行くというのであれば、神道の否定は考え直さねばならなくなるでしょう。 戦後の日本では、経済成長を背景に物を容易に手に入れることができました。 神道とは、人間が生きていくために不可欠な自然環境への意識から生まれた信仰です。 経済至上主義を信じ、物が容易に手に入るようになれば、それだけ自然や神への意識も薄れてしまいます。 しかし、近年になってそうしたパラダイムは変わりつつあります。 技術革新によりエネルギー効率は30年前と比較して40%も改善し、エコロジーがスポットを浴び始めています。 また長く続く不況下で、節約型の生活が一般的となり、清貧思想までもが見直されつつあります。 資本主義も、唯物史観による共産主義も、結局は物や富をどう分けるかによって、幸せを追求しただけに過ぎませんでした。 しかし、エコなどを始めとする近年のパラダイムは、物に依存しないことで幸せを追求する、今までとは違う発想です。 そもそも70年前、3000万人しかいなかった人口が1億人も増加したのですから、経済成長による富に依存できなくなれば、自ずと節約せねば生き延びてはいけません。 そういった中で、自然と人間との関係が改めて見直されれば、自然信仰や神にも注目が集まるようになるでしょう。 そのように世の中が変化してきた時に、創価学会が旧態依然と神を否定し続けていれば、自分で自分の首を絞めることになってしまうのではないかと思います。 まがりなりにも多くの日本人を取り込み、政治にも少なからず影響を与えている創価学会ですから、個人的な好き嫌いはともかく、日本に対する責任はあるでしょう。 中途半端なことはするべきではありません。 今後、どのような答えを見つけるのか、注目したいですね。