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なぜ《絶対》が腑に落ちないのか
- 絶対とは、経験的なものではなく非経験的なものを指す。
- 永遠的なものと時間的なものの違いは、永遠的なものが手に入った後も愛される点にある。
- 絶対を表現することは困難であり、日本人は「かみ」という言葉でそれを表わしてきた。
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《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。 経験の二重構造であり、潜在的な形式の〈非在〉にあるにせよ、非経験ではないでしょう。 時間的な経験において、脱時間的に、流れるに対してむしろ開く運動があり、 それは、経験の時間的な運動である側面と切り離して考えられません。 このことは、エゾテリックな文脈では観るという経験に属し、 wisdom の本質がvideo, virtual にあるというインド・ヨーロッパ語族の文化背景を持っています。 運動の経験にゆだねられた肉体である人が、その経験的にしかない知覚をとおして、 叡智に触れる仕組みを考えることになります。 以上、ご質問の半分についてでしたが、残り半分の日本の八百万の神については、 事情は違うのではないかと思います。 日本の神は民俗神話で、創造神にはじまる伝承形式の語りですが、 農耕民族らしく、太陽、清水をよく反映しています。 これは瞑想的であるよりは、じつによく目に映っているという様態です。 それが政治に役立つと判断されたところもあるでしょう。 叡智の光輝というのは、大陸の風土から生まれたものだと思います。 これが、日本に入ってくるのは、インドから中国をとおして、仏教においてです。 ソフィですね。 の世界、のほうは読書したことがないのでわたしは沈黙していますが、 自我のありかたが、インド・ヨーロッパやセム・ハムとはずいぶん違って、 ソフィの世界の乖離的対峙が要らなかった日本人であろうと思います。 ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。 ブラジュロンヌさんがアースというはたらきをなさるときに、 なびきなびき傾き傾きしてあげくに文句を垂れる....のを目にいたしますが、 これも、wisdom の備えうる先見、慧眼、透視をコロンブスのごとき叡智で働かせて 時間をかけず〈垂直に〉立てる、ということをなさらないのは、日本人的かもしれません。 仏教やとりわけ禅から取り入れるもののひとつは、この垂直思考の東洋的方法だと思います。 経験をとおして経験的知に触れることは、たくさんの知覚と認知と概念を織りあげることですが、 経験をとおして叡智の光輝に触れることは、二重構造の垂直的経験であると思います。 たぶん或る程度は同じ内容を指して、非経験と呼んでおられるかと思います。
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- sheep67
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こんばんは、 気を取り直して議論に戻りまして・・ かなり意見が違うみたいなので、あまり乖離が甚だしい場合は埋めるのが難しいかも知れませんが。 >《真理》が 《絶対》のことです どちらも看板だし、レッテルなので、嘘言ってるわけでもないけど、それそのものを表す言葉ではないので・・ >超えているという場合を想定したそれを 《絶対》 これは、無意識のうちに相対を基礎にして基盤にして組み上げる絶対の概念です。人によってはその基礎と応用の順番もひっくり返りますし。 >《実無限》は 《可能無限》によって説明し得るものと思っていました。(定義では 別々であるようですが)。というのは どちらも 経験世界に属すからです これは・・bragelonneさんが、あまりに意識優先で把握優先タイプの人だからだ、と思います。もし感性優先タイプの人なら、そうはいきません。詩人であれば、それは経験世界の外です。 すべてをこの世のすべてを意識の管理下に置こう、という風にも見えるんですが、違うでしょうか? それはそういうスタンスです。そして、いわれるとおりそのスタンスでは、全部経験世界の内にあります。 でも一方感性を優先すれば、それは経験世界の外になります。 同じものが経験世界の外であり、同時に内である、これは同一化の現象のひとつだと想像します。 全く別の2つが同時に並び立つ、と言うのは人の理解の範疇を超えるからです。 無限が開拓されるには、把握や認識だけでなく、無限の想像力や空想、荒唐無稽など論理思考とは全く異質のものが、その成立に必要不可欠です。無視はできないんじゃないでしょうか? その意味で、レッテルを貼ったことをもって表象した、というのは不正確じゃないでしょうか? 可能無限および実無限に関しては、表象可能であると同時に不可能だと思うんですが。 真無限の定義は、認識をすら越える真の無限、と言う意味でしたか・・それが分からなかったので。 でもその真無限の不可能性は、可能無限や実無限において、すでに一部表象可能が破綻し始めていることで、真無限の表象不可能性がその延長として推測されるのではないでしょうか? 「完全」に、可能無限や実無限が表象可能であるなら、真無限が不可能だとは思えないと想像します。 可能無限や実無限が、「有限と同じく」表象可能なら、無限について言うことなど無いはずです。 それは、心と感性を無視したスタンスじゃないでしょうか? > ありますよね。つまり +1が出来るのではないでしょうか? 此は上の話と同じなんですが、感性と認識を取り違えておられます、というか説明不良だったかしら? できる、と思うのは、意識が優先になるからですし、客観性があるからです。 その意識と客観性を排除してみてください。そうしたらできないことはわかってもらえると思います。 そしてそういうスタンスは、無限の論理の発展に不可欠だと思います。仕組みを知る上で。 分析と論理だけじゃなく、一度それを放棄して心と感性に立ち戻ってもらえたら(無茶なこと言ってますが)わかってもらえると思うんですが。 そこには、意識と認識世界とは全く異質の世界が広がっていると思うので。 >われわれ相対的で経験的な世界 これは、bragelonneさんのスタンスです。これが唯一ではないし、それを無条件に絶対視すると話が膨らまなくなります。その無条件の取り決めを検証してもらえたらうれしんだけど。 無意識の約束事、と言う物です。 一番に言いたいのはそこですし、そこがスルーなら、僕はこのお題については言うことはなくなりますー。 言換えると、bragelonneさんの論理的展開に(そのスタンスと世界内において)、特に大きな不備は見いだせずおかしな所はないように思う、と言うことですが。 でも正しい正しいじゃおもしろくなかったので、膨らましたかったので、こういう書き方になってしまいました。 なのでほとんど質問文については同意しております。そのはなしの範囲内で、と言う意味ですが。 その流れでいうなら、お返事の「絶対が相対的なこの世界に降りてきて、それは神の霊が皆に宿ることになる」と言われることも理解できます。 この結論結構好きです。優しいなーと思います。 それに比べて、僕の書いた文の内容は、真理の表現において、例えば仏教の無などが典型ですが、その表現方法の問題、言葉の定義に執着してつっこんだつもりだったので、食い違ってたのかも知れませんねー。 以上、丸投げの文でした。
お礼
ひつじさん ご回答をありがとうございます。 ★ レッテルを貼ったことをもって表象した、というのは不正確じゃないでしょうか? ☆ この《不正確さ》において 非経験の領域を《絶対》と想定するという定義です。《絶対=永遠=無限=無根拠》とも言っています。 想定し定義したとしても 表象しえないままです。《神》なら神という仮りの代理の表現で表わすことになるとき そのように神という言葉が介在してくることになりますから その言葉を用いる限りで言葉の帯びる概念をとおして ひとは〔仮りにですが〕表象を得たりすることになります。 このときには ★ すべてをこの世のすべてを意識の管理下に置こう、という風にも見えるんですが、違うでしょうか? ☆ という場合の《意識の管理下に置く》ことは 一方で《代理表現としてのことばとしては その神なら神という言葉を 意識の管理下に置く》のですが 他方で《仮りではない本体のほうの〈絶対〉は むろん意識の管理下に置くことは出来ません》。表象し得ないものを意識の管理下に置くことは出来ません。 なお 経験世界にあるものごとであれば 理性なり感性なりをとおして意識化したものは その限りで管理下に置かれますよ。 ★ 可能無限および実無限に関しては、表象可能であると同時に不可能だと思うんですが。 ☆ その数を特定できないとしてもその数が存在するという限りで その存在を表象し得ます。表象しうる限りで 経験世界のものごとであると規定できます。 ですから これら可能無限などは ★ 真無限の表象不可能性がその延長として推測される ☆ かたちのものだとは成らないわけです。経験世界とそれを超える領域とのふたつにきっちりと区別されます。〔そのあと 真無限は 経験世界にあたかも降りて来るという事件が 《わたし》の主観内において起こるという側面もあります〕。 ★ 「完全」に、可能無限や実無限が表象可能であるなら、真無限が不可能だとは思えないと想像します。 ☆ もし不可能ではない・つまり表象可能となるなら その《真無限だと思っていた無限》は 経験世界に属する可能無限などだったということに――定義の問題として――なります。 ★ 可能無限や実無限が、「有限と同じく」表象可能なら、無限について言うことなど無いはずです。 ☆ その数の特定としての表象ではなく その存在が表象され得るというものですから その意味で表象という限界の範囲内にある。つまり《有限と同じく》であるとなります。つまりそれゆえにむしろ――数の特定という理性の論理よりも 存在を認識するということについての――《心と感性》を重んじています。 ☆☆ > ありますよね。つまり +1が出来るのではないでしょうか? ☆ これは これも 数の特定においてではなく 数の存在においてそこに +1することは出来るのではないかという意味です。加算というのは経験行為だから その数の存在は経験世界に属するということを言おうとしています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ >われわれ相対的で経験的な世界 これは、bragelonneさんのスタンスです。これが唯一ではないし、それを無条件に絶対視すると話が膨らまなくなります。その無条件の取り決めを検証してもらえたらうれしんだけど。 無意識の約束事、と言う物です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《無意識の約束事》が 捉えきれませんでしたが 次のご指摘につながるのでしょうか。 ここまで読んだところについてそのつどお応えして来ましたので 次のご発言をあとで知ることになりました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ お返事の「絶対が相対的なこの世界に降りてきて、それは神の霊が皆に宿ることになる」と言われることも理解できます。 この結論結構好きです。優しいなーと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうなんですか。つまり ★ なのでほとんど質問文については同意しております。そのはなしの範囲内で、と言う意味ですが。 ☆ と言っていただきました。たぶん 数論と言いますか 《無限》論についてもっとくわしい説明を添えて議論せよというところでしょうか。残念ながら カントールがどうのこうのという話を小耳にはさんだだけのところですので 致し方ないとなりましょうか。 みなさんでこれを展開させていただければわたしはさいわいに思うのですが この質問の範囲を超えるでしょうか。それとも 出来るでしょうか。 さらに何か整理できましたら 寄せてくださるようお願いしておきます。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.9 です >>> No.9 お礼欄 ☆ この命題については 簡単に批判できます。 ○ 《「全体」》とは何を言うか? ☆ こう問い返せば その答えにしたがって自明の結論が得られるでしょう。 ○ 経験世界とそれを超える非経験の領域 この区別に沿って 《全体》を定義してください。 ☆ という意味です。言いかえると ○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。 ☆ これで はっきりするはずです。 そのあと 《わたし》が この《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》と或る日 対面します。そのとき主観のうちにあって 神体験が起こります。それだけのことです。(無神体験と言っても同じです)。 <<< 同じことですが、(視線が異なっている以上)何度でもくり返さざるを得ないです。 >>> 《わたし》が この《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》と或る日 対面します。 <<< 対面可能だということであれば、すなわち、《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》ですら「全体の部分」になるということです。「対面」という「面」が「境界」として定義されているということです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 対面可能だということであれば ☆ 《可能》の意味を把握しておられない。 ☆☆ (No.9お礼欄)~~~~~~~~~~~~ ★ ・・・(アウグスティヌスの言葉について)・・・ここでは「永遠的なもの」は「獲得可能」となっています。 ☆ これがあくまで《主観にうちにあって》というもんだいです。良心・信教の自由および表現の自由という公理において 自由でありゆるされています。この《わたし・その主観における神体験》については 直前のあまがっぱさんへのお応えを参照していただきたいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ (No.8お礼欄) あくまで・どこまでも 《わたし〔の主観〕のうちに起きること》と限定して定義すること ☆ の実質的な内容として 次のようにまとめています。それはあまがっぱさんの問題意識とその概念の用法に沿ってのことであるという条件づけ(つまり じねんさんにとっては 制約となるもの)がありますが おおむね通じる話だと考えます。 ☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ 1. ひとは永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。 3. ですから ひとつに《ことばそして概念》としては ★ 《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由でありゆるされています。信教・良心の自由ないし表現の自由という公理であるようです。 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の領域であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は ★ 経験の二重構造 ☆ として――あくまでそういう仮りのすがたとしてでしょうが―― 現われている。こうなります。 すなわち 《無根拠で非在なる非経験》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》との《二重構造》を呈しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 最後の(6)を じねんさんの概念の用法に沿って言い直しましょう。 ☆☆ 《わたし》が この《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》と或る日 対面します。 ☆ この《対面》は 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》との《二重構造》を呈したかたちで成り立ちます。 《定義としてのまぼろし》は 《全体=経験世界》を超えたところという定義をむろん保ちつづけます。 《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》は この非経験なる《絶対》との・経験世界における《わたし》の経験的な意志行為として成るものです。 《表象しえない絶対》を 表象してではなくまた思考してではなく そうではなく 仮りに《かみ》なら神という言葉をその《絶対》の代理として〔この場合は〕表象して受け容れるという意志行為です。 ★ すなわち、《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》ですら「全体の部分」になるということです。 ☆ は 《仮りに姿かたちを表わした現実において》ということです。 言いかえると もし《二重構造》を言わないとしても たしかにその《経験世界という全体のなかにいる〈わたし〉に起こる対面》なのですからその限りで《神=絶対》はその《〈全体の部分〉になる》のですが そうなのですが これがあくまで《仮りの姿かたちにおいて》だということです。 つまり《神=絶対》は そのときにもつねに《〈経験世界という全体〉を超えたところ》に想定されたそのままでいます。 ★ 「対面」という「面」が「境界」として定義されているということです。 ☆ 《わたしの主観》にとって なんらかの境域があろうがなかろうが この場合には 関係ありません。その内と外という区別は 対面にとって問題ではありません。 問題になるのは むしろ主観の内面にあっては 良心・信教の自由が保障されるという意味においてです。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
すいません追加です。 最後の絶対は、アンタッチャブルの絶対ということで。 最後で素晴らしいだの絶対だの書いてる僕は、やっぱりはたから真実を見てるだけの人です。orz
お礼
つづいてです。 ★ 最後の絶対は、アンタッチャブルの絶対ということで。 ☆ じつは そのように《表象し得ず それとのあいだにそれこそ絶対的なへだたりがある》という意味だと思うのですが そのときには しかも その《絶対》が こんどは われわれ相対的で経験的な世界に降りて来るといった主観内の〔第二次の〕想定が生まれます。と捉えます。 すなわち 神の霊が われわれ一人ひとりに――その主観のうちにあって――やどるという派生的な想定のことです。どうでしょう。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
こんにちは~。 うまくまとめることができないので思いつきのまま関連在りそうなことを書くと言うことで。 分からないことも多いので、割り引いてください。 1.有限と無限に関して、 有限も無限から見れば無限です。形のないものが形あるものに定まるのは、無限のステップが要ります。 0は無限小とほぼ同じですが、ひとつの数字ですが、無限小でもありますし。 有限無限と呼ばれるものは、お互いがお互いから見て、無限でもあるし、有限でもありますから。 別世界ということで、言葉で断定できないように見えます 2.相対と絶対。 例えばはっきりした自我を持つ人がいるとすると、その人は生まれつき絶対で、そういう人によっては、むしろ相対の概念の方が受入れがたい絶対の概念になります。 僕は関係性を生まれつき大事に感じるので、絶対という概念がそれこそ絶対ですが。 3.可能無限の話をしてたはずなのに、∞+1というのは変じゃないでしょうか? いきなり真無限あるいは実無限の視点に切り替わってます。 僕は真無限という言葉は知らないので、実無限で代用していいでしょうか? 可能無限は主観的主体的で、実無限は客観的意識的把握的、と思います。それがごちゃになった説明のように思うんですが・・ もし主観的に、自分が0の原点にいて、そこから遠ざかっていく1.2.3・・・無限大を見る時に、どう考えてもその無限大に1を足すことなんて想像できないんですが。 実無限の視点に切替えればもちろん可能ですが。 4.1.2とも関係ありますが、表象しえないのなら、絶対も厳密には間違いだと思います。上の2にもありますが、相対もある意味(その相対を語るときの環境と土台によっては)表象し得ません。 なので、表象しえない絶対をあえて言葉で書くと、&#??;$※♂(右)? とでも成ります。 冗談などではなく、意味がある意味が通るということは把握されてるものであって、また別物なので、 無意味を言葉で表現すると、こんなネットかまんがで使われるような表現が、一番事実に近いと思います。 絶対と書いた途端おかしいのは、わかっておられるとはもちろん思うのですが・・ 頭でわからない、論理も通らない、因果も成立しない、把握できない、感じられない、と言う物を言葉で書くなんて、無理があります。 それを絶対と書いたらおかしいとは思わないですが、より主観的に可能無限的に書くなら、 &#??;$※♂(右)? だったり、 あるいは、 意味不明、矛盾、自我さえ成り立たない、無限と有限は無関係、赤の他人、別世界、無縁、知らない、知ったこっちゃない という風な言葉の方がいいと思うんですが・・あまり自信はないですが・・というか自信持てる人がいるのだろうか・・ 2つをつなごうという発想が、両方を理解しようという発想が、そのためにその境界線である極限を、絶対、あるいは相対と表現することは、数学ならともかく、実生活においては、間違いの種に成りやすいような・・・気もします。 あーでもそれが絶対だ、無限だ、と言って間違いなのでなく、それ一個に固執することが多分間違いです。相対も有限も、語りえないものを指し示します、状況次第では。 それら極限の言葉は、つまり表現しえないものの方向を示す矢印ですし、今現在自分がどのポイントにいるかによってゴールを示す矢印のベクトルが違うように、言葉も変わりますし。 まとめると、表現を積み重ねるときに、自分が拠り所にしてるものをはっきりさせないと混乱する、と言うことでしょうか、2つはセットだし・・んなえらそうなこというと自爆しそうだけど・・ 真理は表現できないから素晴らしいですねー。どんな人間の思惑も絶対介入できない、そういうすがすがしさを感じます。
お礼
ひつじさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 真理は表現できないから素晴らしいですねー。どんな人間の思惑も絶対介入できない、そういうすがすがしさを感じます。 ☆ どんな感じを受けるかは たぶん人によって違うのかなとは思いますが この《真理》が 《絶対》のことです。と捉えています。どうでしょう? ★ 2.相対と絶対。 ☆ 《相対》は ふたつのものを長さや重さなどの空間あるいはその時間〔的推移〕といった何らかの基準(物差し)によって比べることができる場合だと考えます。これを超えているという場合を想定したそれを 《絶対》と言うのだと。 ★ 1.有限と無限に関して ☆ 《実無限》は 《可能無限》によって説明し得るものと思っていました。(定義では 別々であるようですが)。というのは どちらも 経験世界に属すからです。 可能無限は表象し得ないぢゃないかと言う場合にも その表象し得ないということが経験世界の中におさまります。言いかえると特定できないと言う意味で表象し得ないとしても 経験世界の中におさまるという意味では 表象し得ます。そこに可能無限があるというかたちで――その中身を特定できなくても その全体としての存在を――表象し得ます。 真無限つまり無限は 表象し得ません。中身を特定することが出来るか出来ないかを表象し得ず 知り得ません。経験世界を超えているからです。そもそも 有るか無いかも判断つきかねる領域です。 ★ 無限大 ☆ 限りなくつづくという意味での無限大は それより大きい数はもうないのでしょうか? ありますよね。つまり +1が出来るのではないでしょうか? たとえば出来ないとしても その無限大は あくまで数えるというかたちの表象が出来ます。経験世界におさまります。 こういうかたちでお応えしましたが 果たしてうまく言えているかどうかですが・・・。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
先日は、お該博深遠なご造詣からのご投稿に感謝します。 このテーマでまさか、bragelonneさんもご自分の問題のご回答を得られるとはおおもいではないのでしょうね? そういう意味では#1の投稿は示唆的で本物かもしれませんね。 私も欧米の信仰の書を勉強していてInfiniteとかEternalとか、そして絶対とかのことばが頻繁に出てきてとても難渋はしております。 だからbragelonneさんのこのご質問で何か助かるものはないかと期待してはおりますが、回答としてはここまでかもしれませんね。 むしろどう対するか、というご回答でもこれからあるといいのですが。つまり本当にお困りならご質問の形式をお変えになってはいかがでしょうか?
お礼
ご丁寧にご投稿を寄せてくださっておそれいります。 そうですね。 ★ むしろどう対するか、というご回答でもこれからあるといいのですが。つまり本当にお困りならご質問の形式をお変えになってはいかがでしょうか? ☆ そのおもむきも質問の趣旨にはふくまれます。すなわち いちばんのねらいは ☆☆ (趣旨説明) この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? ☆ ですが ☆☆ (趣旨説明) いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。 ☆ には 大きな視点からの解決法などを問い求めています。 以前にも問うたことのある質問であり そのときには 次のような司馬遼太郎の文章を参考にしたことがありました。反響はあったのですが 解決には到りませんでした。あたらしい人たちに参照してもらえればと思って かかげておくこととします。 ▲ (司馬遼太郎) ~~~~~~~~~~~~~~ http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。 日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。 山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての目本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。 いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはわたしは 無神論という立ち場からの《絶対》観だと捉えます。言いかえるとそれは 有神論という立ち場からの《絶対》観と けっきょくひとしいという見方をわたしはしています。 なぜなら 《非経験の領域》にあっては 経験世界における《有る》と《無い》を超えているからです。《表象しえないもの》については《有る》と言っても《無い》と言っても どちらも同じことだからです。 言いかえると 有神論か無神論かどちらか好きなほうをえらべばよいわけです。有るか無いかを仮りに《わたし》はその主観において決めるというかたちです。 すべては仮りの表現形態なのですから よいわけです。つまりやほよろづの神々にしても そういうかたちの仮りの表現形態だと捉えられます。有神論の《神》をその分身のすがたで表わしている。こういう捉え方です。
- cyototu
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よっ、脱帽のブラブラべクトル、久しぶりやな。アンタ相変わらず論理の基本がでけてないんやな。んだから吉本興業みたいに、アンタのナンセンスを聞いて暇つぶしをしとるアンタのファンが、ワシ含めて多いんやろな。 アンタ、言語学に興味があるらしいな。だったら、言語を仰山大事にしなあかんと阿呆に見えるで。ま、漫才のボケ役をやろうっちゅうつもりだと考えて許してあげる。 ボケのアンタに言っても始まらんだろうが、言葉とは文章の中の文脈の中で意味が決まって来るもんや。その言葉を一言だけ文章から切り離しても始まらんのや。 アウグスティヌス神の宣わられておられていることは、英語ではtemporary以外にないことをこの文章を読んで判らん奴は、言語学をやる資格がないっちゅうことはボケのアンタでも判りそうなもんだが、まっ、アンタじゃしゃあないか。temporaryだけを取り出すと、「時間的」ちゅう訳もないことはないが、この文脈で読めば、それは「永遠的」に対する「一時的」だっちゅうことが判んないのは、やはりアンタ本物のボケやな。日本語じゃ「時間的」と「一時的」は意味が全然違うんや。だから、アンタのように読んだんじゃこの文章の意味が全然判ってないっちゅうことを皆に曝け出しているや。漫才でも演技のボケに比べて、本物のボケは迫力があるで。だから、おもしろうて何時もファンがなくならないもんや。アンタのボケも迫力があるなあ。 アンタ流に勝手に言葉を切り出して論じ始めると、幾らでも明後日の方向に行けるんや。例えば絶対は表象でけんなどと頓珍漢なこと言いよるが、数学には絶対値という曖昧さのない、だから表象でける定義があるんや。そんな言葉、アンタみたいな本物のボケには理解しろったって無理やろうな。 どうだ、ワシだって言葉を勝手に切り離せば、アンタみたいに大分明後日の方に行けたやろ。また頓珍漢な返答して、本物のボケ見せてくれたら、またまた脱帽して上げるで。
お礼
緒と津くん 来よったか。回答をありがとうよ。 ★ 数学には絶対値という曖昧さのない、だから表象でける定義があるんや。 ☆ これは 《絶対=永遠=無限》とは違うだろうよ。と言っても 数論を始めるつもりはないし 能力をまだ開発していない。保留かな。あるいは 批判をひととおりきちんと展開してくれたまえ。 さて 趣旨説明の中のアウグスティヌスの文章について ★ (要約) 《時間的》ではなく《一時的》と訳すべきではないか。 ☆ そういう見方をしたことはなかったのだけれど まづは次のような前文を読んでみてくれたまえ。 ▲ (クリスチアニズムのおしえ vol.1 § 38) ~~~~ しかしやがてわれわれが見るであろう〔* 真理=神についての〕眺めは信仰の後に来る。 われわれがやがて辿りつく幸福そのものは希望の後に来る。 しかし信仰と希望が減少すると愛はむしろ増大する。 じっさいまだ見ていないものを信ずることによって愛しているのだとしたら それを見始めるときどんなに愛してやまないことであろう。 もし望むことによってまだ辿り着いていないものを愛するなら 到達したときの愛はいかばかりであろう。 〔* このあと 《たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは・・・》とつづく〕。 (加藤武訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《信仰は 表象し得ぬものを受け容れているということだから 表象し得たときには もう要らなくなる》 この当たり前のことを述べているとともに そのときにも――いまも信じることにおいて愛しているというその――《愛》は 残る。と言っているはずです。 ということは 《 temporary 》についてそれは 《一時的》と解するとしても そのように《移ろいやすい短時間の現象》を言うだけではなく 《いわば人間の生涯をまとめて一定の線分(ないし時空間)》のことをも《一時的》と言っているとも取れるのではないか。つまり《時間的》という訳語も 不都合ではないと。 この《第一巻第三十八章》あたりは 《聖書解釈の規則》を項目ごとに明らかにしているところで 直前の§37には 次のようなパウロの言葉が引用されています。 ◆ (パウロ:コリント後書 5:7) ~~~~~~~ たしかに われわれは信仰によって歩いているのであって 見るところによって歩いているのではないのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だとすればこの文脈においてなら 《一時的》が この地上の生の全体を言っているとも取れるのではないか。《刹那的》という意味に限定する必要もないように思われる。 まぁ こんなところかな。 煮て食おうと焼いて食おうとどうなりとしてちょう。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
>>> ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか? <<< 質問者様が(本来的には表象し得ないにもかかわらず)《非経験》と表象され続けておられる事柄について、どのように考えるか(捉えるか)は、質問者様の視線(たとえば「絶対」という概念や、「無限」という概念、ないし「永遠」という概念)を越えることができないにもかかわらず、魅了し続けているということが本質なのではないでしょうか? そういった視線(一定の方向性)からすれば、 >>> やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがた <<< となるでしょうし、 別の視線からすれば >--- その絶対なる《かみ》は、やほよろづの神々の一つにしかすぎない ---< といったことになるでしょう。 また、別の視線(私の視線)からすれば、 >=== 「全体」の中にて、境界が生まれるとき、すなわち「わたし」といった概念が形成されるとき、その概念形成と同時に、境界内部と境界と境界外部とが形成される。「神」概念を、自身の境界内部を中心に外方へ延長して考えるか、境界外部を中心にして内方へ延長して考えるか、「わたし」概念が形成されたと同じ状況から類推して、他に複数の境界内部を想定し、その中心から外方へ延長して考えるか、「わたし」概念形成前(すなわち境界概念形成前)の「全体」と同一視して考えるか、あるいは、「全体」の外に(ないし、否定神学的に)考えようとするかにて、けっして重なり合わない「方向性」(視線)として捉えられ続けられる ===< となります。 一点気になったところは、 >>> ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。 <<< といった文を引用しておられることです。 ここでは「永遠的なもの」は「獲得可能」となっています。 すなわちこれは、質問者様が「永遠=非経験」と位置づけながらも、「経験可能」だと密かに思い続けておられるからではないのでしょうか?
お礼
じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ずばり批判します ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 別の視線からすれば >--- その絶対なる《かみ》は、やほよろづの神々の一つにしかすぎない ---< といったことになるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 八百万の神々は あくまで経験世界に属する現象であり事象(人物さえ含む)です。よってこの命題は 成り立ち得ません。定義のいろはですから ようく噛みしめて欲しいと考えます。 ★ ・・・(アウグスティヌスの言葉について)・・・ここでは「永遠的なもの」は「獲得可能」となっています。 ☆ これがあくまで《主観にうちにあって》というもんだいです。良心・信教の自由および表現の自由という公理において 自由でありゆるされています。この《わたし・その主観における神体験》については 直前のあまがっぱさんへのお応えを参照していただきたいと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~ また、別の視線(私の視線)からすれば、 >=== 「全体」の中にて、境界が生まれるとき、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この命題については 簡単に批判できます。 ○ 《「全体」》とは何を言うか? ☆ こう問い返せば その答えにしたがって自明の結論が得られるでしょう。 ○ 経験世界とそれを超える非経験の領域 この区別に沿って 《全体》を定義してください。 ☆ という意味です。言いかえると ○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。 ☆ これで はっきりするはずです。 そのあと 《わたし》が この《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》と或る日 対面します。そのとき主観のうちにあって 神体験が起こります。それだけのことです。(無神体験と言っても同じです)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 質問者様が(本来的には表象し得ないにもかかわらず)《非経験》と表象され続けておられる事柄について、どのように考えるか(捉えるか)は、質問者様の視線(たとえば「絶対」という概念や、「無限」という概念、ないし「永遠」という概念)を越えることができないにもかかわらず、魅了し続けているということが本質なのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも――特に論点を為すほどでもないようですが―― 微妙に違います。 《無限大を一定の数で割っても その商は 無限大である》は それほど《魅了する》ものですか? それならそれでいいぢゃないかと むしろ 成りませんか? ○ たぶん経験世界を超えた非経験の領域というのは わたしを魅了しない。魅了しないほどに その――絶対=永遠=無限といった言葉が用いられ続けているといったように――想定を避けて通れない。このしつこさが気になる。ならば きちんと定義しておけばそれでよいはずだ。 ☆ こういったところでしょう。 その《しつこさ》が きちんとした定義のもとに受け容れられれば その《永遠的なるもの》は たしかにその整然としたさまとして わがたましいを満足させてくれます。つまり《ことば=概念=あるいは観念ないしイデアによって 魅了され続けている》から その神を問い求めようとするのではないのです。 主観において神を知ったというそのあとにおいても それは当たり前のことだったと知ることですから 特に魅了される・されないとは微妙にことの実情が違っています。 じねんさんは――と言っても 多くの人が同じようだと思われるのですが――どういうわけか 総じてこの経験世界におさまろうとしておられる。そういう傾向が見られるのではないでしょうか? 居心地がいいからでしょうか? ひとこと 無神論に立つというかたちを採れば――それは 定義にきっちりともとづくことですから―― あとの問題はないのです。ただし ことば(用語)の使い方が成っていないと言うのであれば まだ問題が残りますが。
- sheep67
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こんばんは。 腑に落ちないのは、書かれてるとおり表象しえないからじゃないでしょうか? 言葉で表されてるのは、正確には表象されないものそのものでなく、それにぎりぎりまで近づく極限の概念だと思います。だから仮、なんじゃないかと。 絶対という概念は、・・普通に日常でそういう言葉は使うし・・極限を表現する言葉としてですが。 あらためて例えがいるのかしら? あるいは、表象しえない絶対を日常で使いたいということでしたら、もちろん無理ですし。 無限も絶対も限定、境界線がない=概念が成り立たない、と言うことなので。 そのあたりなんか質問の意味が見えないですが・・。 知り得ない無限を日常で知るには? という質問でしょうか? あるいは僕の国語力の無さか・・
お礼
ひつじ67さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 腑に落ちないのは、書かれてるとおり表象しえないからじゃないでしょうか? ☆ は ☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~ ★ 自分ではこの世は「無限」ではなく「有限」と / 捕らえているからです。 ☆ 《目に見える・見えない》の区別がまづは 大きく影響していましょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とは微妙に違うのですね? というのは 《無限》について 必ずしも真無限ではなく 経験世界における可能無限のことを捉えて言っておられるように思えるからです。 ★ 言葉で表されてるのは、正確には表象されないものそのものでなく、それにぎりぎりまで近づく極限の概念だと思います。だから仮、なんじゃないかと。 ☆ すなわち ○ 可能無限: 1,2,3,・・・∞ ☆ というふうに限りなく続くという意味のことであるようだからです。けれどもこれは ○ 可能無限: 1,2,3,・・・∞,∞+1、・・・ ☆ というふうにどこまで行っても 《 +1 》をつけ加えることができます。つまり 数字として表象し得ますし 経験事象として特定し得ます。つまり 経験世界に属する出来ごとです。 《絶対》は これを超えますね。 ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~ あるいはまた数論として――直前の回答へのやり取りで―― ○ ∞ ÷ 2 = ∞ ( ∞ ÷ n = ∞ ) ☆ を提出しました。この《無限大》ないし《無限》は 二つに割ってもさらに割っても つねに無限です。《絶対》ですね。そう想定されています。 たしかに《世の中にはない》ものですが そういう取り決めをして使いこなしています。 どうでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まとめますと ○ どこまでも限りなく《絶対=真無限》に近づくというかたちの可能無限は 表象し得るゆえに 非経験の領域としての《絶対=真無限》ではない。 ☆ と考えるのですが どうでしょう?
- ausfeper
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そういう話ですか。 じゃあ簡単です。 >どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか 最初から「腑に落ちない」と決めてから話してるからです。 単なる意地悪です。
お礼
いえいえ。《意地悪》とは言いませんが 事情は逆です。 ――アウスフェーパーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。―― ☆☆ (No.5お礼欄) つまりこの想定を互いに前提としていなければ 話が成り立たないという場面に出会います。そのためにこの質問は 欠かすことが出来ません。 ☆ と書きましたように こちらはあくまで受け身です。 相手の受け答えを捉えて どうも ○ どうしても《絶対》ということが 腑に落ちない ☆ ようなのかなぁと思ってのことです。 ★ 最初から「腑に落ちない」と決めてから話してるからです。 ☆ はありません。《腑に落ちている》つまり《絶対》についての共通の理解があると見止められたなら こんな質問はしません。そうですよね。 なのですが?
- ausfeper
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世の中に絶対はない。絶対に!
お礼
アウスフェーパーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 世の中に ☆ ということが この経験世界という意味だとすれば――《絶対》は その経験世界を超えた非経験の領域なわけですから―― そこに《絶対》はありません。どこを探しても見つかりません。《絶対に!》です。 では ○ なぜこの《絶対》ということばがあるのですか? ○ どういう意味で《絶対》を使っているのですか? ☆ そうです。われわれ人間は この経験世界を超えたところにもその思惟なり感性なりをあたかも及ぼして その領域を想定しているのです。 だから 経験思考を超えたところのものごとを――たとえばこの《絶対》やら《無限》やら或いは端的に《神》やらといった言葉で 代理して(あくまでも代理させて)―― さらに広い世界を想い定めるかたちを取っています。これは 一般に――《考える》ではなくそれを超えた《非思考の場》ですから―― 《信じる》ということばで表わしています。 あるいはまた数論として――直前の回答へのやり取りで―― ○ ∞ ÷ 2 = ∞ ( ∞ ÷ n = ∞ ) ☆ を提出しました。この《無限大》ないし《無限》は 二つに割ってもさらに割っても つねに無限です。《絶対》ですね。そう想定されています。 たしかに《世の中にはない》ものですが そういう取り決めをして使いこなしています。 どうでしょう? つまりこの想定を互いに前提としていなければ 話が成り立たないという場面に出会います。そのためにこの質問は 欠かすことが出来ません。
お礼
あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。 経験の二重構造であり、潜在的な形式の〈非在〉にあるにせよ、非経験ではないでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃるとおりであると言いたいところですが ここは げんみつに定義します。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. ひとは永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。 3. ですから ひとつに《ことばそして概念》としては ★ 《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由でありゆるされています。信教・良心の自由ないし表現の自由という公理であるようです。 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の領域であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は ★ 経験の二重構造 ☆ として――あくまでそういう仮りのすがたとしてでしょうが―― 現われている。こうなります。すなわち 《無根拠で非在なる非経験》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》との《二重構造》を呈しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このあとにでしたら いわゆる《神秘思想》のこともじゅうぶん飲み込めます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 時間的な経験において、脱時間的に、流れるに対してむしろ開く運動があり、 それは、経験の時間的な運動である側面と切り離して考えられません。 このことは、エゾテリックな文脈では観るという経験に属し、 wisdom の本質がvideo, virtual にあるというインド・ヨーロッパ語族の文化背景を持っています。 運動の経験にゆだねられた肉体である人が、その経験的にしかない知覚をとおして、 叡智に触れる仕組みを考えることになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 言いかえると ふつうの生活日常におけるいわゆる《神体験》もあり得ると考えます。あるいは日本人の《ひらめき》でもよいかと考えます。いえ 要するに誰れにでも あくまで《主観にあっては》 それこそ非経験体験(?)は 自由であり すべては良心と確信のもとにゆるされています。 ということの意味は じつは ★ 経験をとおして叡智の光輝に触れることは、二重構造の垂直的経験であると思います。 ☆ なる事件を あくまで・どこまでも 《わたし〔の主観〕のうちに起きること》と限定して定義することだと考えます。 さらにさらに もしこの《主観の内における非存在の現在(遍在)》なる垂直的二重構造が――想定として――ともに受け容れられる現実であるとすれば いわゆるシントウも じつは同じ世界を共有していると帰結されるはずなのです。 ○ ムスヒの神:生(む)す・蒸す‐ひ(霊) ☆ という例で説明できると思います。《生す》は 経験事象ですが それは《目に見えないヒ(霊)》の仮りの現われだと見ていないでしょうか? ただしもっとも この《ヒ(霊)》――あるいは《ミ(霊)・チ(霊)》もあるようですが――も すでに経験現象の次元に降りて来ていると捉えられてしまう実際もあったようですが。 ひとことですが わたしが《切れる》のは――言い訳ですが――相手がすでに切れたのを見て 鏡面理論を実行しています。つまり《文句を言い返したりののしりの言葉を言い放ったりする》のは これもあれも《アース役の延長》にあります。つまり そういうかたちで 対話が切れていないのです。 そうでなく道徳規範そのままに実行しているならば 相手は そこでほんとうにわたしが《切れた》もしくはわたしにでも《見放された》と思うことでしょう。つまり そういう事態になるとき相手は もう対抗できないということをうすうす気づいているのだと考えます。それでも《名誉・体面》が捨てられないでいます。 ソフィーの世界はわたしも読んでいません。 やや断定調になってしまったようです。
補足
次の箇所をめぐって 覚え書きです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ソフィですね。 の世界、のほうは読書したことがないのでわたしは沈黙していますが、 自我のありかたが、インド・ヨーロッパやセム・ハムとはずいぶん違って、 ソフィの世界の乖離的対峙が要らなかった日本人であろうと思います。 ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いま 13日午後4時ごろです。この時点で――《沈黙している》をわたしはつづけるのですが―― 《それ》を読んだ感想としては いっちゃっていると思いました。ただし けっきょく口先だけのことなのかも知れません。そうとも思われます。 これだけです。 最後の一文 ★ ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。 ☆ がよく飲み込めていなかったという思いもあります。《食べ物や空き時間の違い》というのが いまひとつピンと来ていない次第です。 不一にて。