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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか)

なぜ《絶対》が腑に落ちないのか

このQ&Aのポイント
  • 絶対とは、経験的なものではなく非経験的なものを指す。
  • 永遠的なものと時間的なものの違いは、永遠的なものが手に入った後も愛される点にある。
  • 絶対を表現することは困難であり、日本人は「かみ」という言葉でそれを表わしてきた。

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  • amaguappa
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回答No.8

《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。 経験の二重構造であり、潜在的な形式の〈非在〉にあるにせよ、非経験ではないでしょう。 時間的な経験において、脱時間的に、流れるに対してむしろ開く運動があり、 それは、経験の時間的な運動である側面と切り離して考えられません。 このことは、エゾテリックな文脈では観るという経験に属し、 wisdom の本質がvideo, virtual にあるというインド・ヨーロッパ語族の文化背景を持っています。 運動の経験にゆだねられた肉体である人が、その経験的にしかない知覚をとおして、 叡智に触れる仕組みを考えることになります。 以上、ご質問の半分についてでしたが、残り半分の日本の八百万の神については、 事情は違うのではないかと思います。 日本の神は民俗神話で、創造神にはじまる伝承形式の語りですが、 農耕民族らしく、太陽、清水をよく反映しています。 これは瞑想的であるよりは、じつによく目に映っているという様態です。 それが政治に役立つと判断されたところもあるでしょう。 叡智の光輝というのは、大陸の風土から生まれたものだと思います。 これが、日本に入ってくるのは、インドから中国をとおして、仏教においてです。 ソフィですね。 の世界、のほうは読書したことがないのでわたしは沈黙していますが、 自我のありかたが、インド・ヨーロッパやセム・ハムとはずいぶん違って、 ソフィの世界の乖離的対峙が要らなかった日本人であろうと思います。 ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。 ブラジュロンヌさんがアースというはたらきをなさるときに、 なびきなびき傾き傾きしてあげくに文句を垂れる....のを目にいたしますが、 これも、wisdom の備えうる先見、慧眼、透視をコロンブスのごとき叡智で働かせて 時間をかけず〈垂直に〉立てる、ということをなさらないのは、日本人的かもしれません。 仏教やとりわけ禅から取り入れるもののひとつは、この垂直思考の東洋的方法だと思います。 経験をとおして経験的知に触れることは、たくさんの知覚と認知と概念を織りあげることですが、 経験をとおして叡智の光輝に触れることは、二重構造の垂直的経験であると思います。 たぶん或る程度は同じ内容を指して、非経験と呼んでおられるかと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。  経験の二重構造であり、潜在的な形式の〈非在〉にあるにせよ、非経験ではないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりであると言いたいところですが ここは げんみつに定義します。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   1. ひとは永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。   2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。   3. ですから ひとつに《ことばそして概念》としては     ★ 《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。   4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由でありゆるされています。信教・良心の自由ないし表現の自由という公理であるようです。   5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の領域であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。   6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は    ★ 経験の二重構造    ☆ として――あくまでそういう仮りのすがたとしてでしょうが―― 現われている。こうなります。すなわち 《無根拠で非在なる非経験》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》との《二重構造》を呈しています。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあとにでしたら いわゆる《神秘思想》のこともじゅうぶん飲み込めます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  時間的な経験において、脱時間的に、流れるに対してむしろ開く運動があり、  それは、経験の時間的な運動である側面と切り離して考えられません。  このことは、エゾテリックな文脈では観るという経験に属し、  wisdom の本質がvideo, virtual にあるというインド・ヨーロッパ語族の文化背景を持っています。  運動の経験にゆだねられた肉体である人が、その経験的にしかない知覚をとおして、  叡智に触れる仕組みを考えることになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言いかえると ふつうの生活日常におけるいわゆる《神体験》もあり得ると考えます。あるいは日本人の《ひらめき》でもよいかと考えます。いえ 要するに誰れにでも あくまで《主観にあっては》 それこそ非経験体験(?)は 自由であり すべては良心と確信のもとにゆるされています。  ということの意味は じつは  ★ 経験をとおして叡智の光輝に触れることは、二重構造の垂直的経験であると思います。  ☆ なる事件を あくまで・どこまでも 《わたし〔の主観〕のうちに起きること》と限定して定義することだと考えます。  さらにさらに もしこの《主観の内における非存在の現在(遍在)》なる垂直的二重構造が――想定として――ともに受け容れられる現実であるとすれば いわゆるシントウも じつは同じ世界を共有していると帰結されるはずなのです。  ○ ムスヒの神:生(む)す・蒸す‐ひ(霊)  ☆ という例で説明できると思います。《生す》は 経験事象ですが それは《目に見えないヒ(霊)》の仮りの現われだと見ていないでしょうか? ただしもっとも この《ヒ(霊)》――あるいは《ミ(霊)・チ(霊)》もあるようですが――も すでに経験現象の次元に降りて来ていると捉えられてしまう実際もあったようですが。  ひとことですが わたしが《切れる》のは――言い訳ですが――相手がすでに切れたのを見て 鏡面理論を実行しています。つまり《文句を言い返したりののしりの言葉を言い放ったりする》のは これもあれも《アース役の延長》にあります。つまり そういうかたちで 対話が切れていないのです。  そうでなく道徳規範そのままに実行しているならば 相手は そこでほんとうにわたしが《切れた》もしくはわたしにでも《見放された》と思うことでしょう。つまり そういう事態になるとき相手は もう対抗できないということをうすうす気づいているのだと考えます。それでも《名誉・体面》が捨てられないでいます。  ソフィーの世界はわたしも読んでいません。  やや断定調になってしまったようです。

bragelonne
質問者

補足

 次の箇所をめぐって 覚え書きです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ソフィですね。  の世界、のほうは読書したことがないのでわたしは沈黙していますが、  自我のありかたが、インド・ヨーロッパやセム・ハムとはずいぶん違って、  ソフィの世界の乖離的対峙が要らなかった日本人であろうと思います。  ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いま 13日午後4時ごろです。この時点で――《沈黙している》をわたしはつづけるのですが―― 《それ》を読んだ感想としては いっちゃっていると思いました。ただし けっきょく口先だけのことなのかも知れません。そうとも思われます。  これだけです。  最後の一文   ★ ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。  ☆ がよく飲み込めていなかったという思いもあります。《食べ物や空き時間の違い》というのが いまひとつピンと来ていない次第です。  不一にて。

その他の回答 (44)

回答No.4

絶対は、充分に周知されている。人によっては理解しえない。 何人にも侵されざる聖なる領域を表しており、どの比率かは人によって 意見が分かれるところだ。

bragelonne
質問者

お礼

 浮世とんぼさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。わたしの質問にご見識を示してくださってありがとうございます。  ★ 絶対は、充分に周知されている。人によっては理解しえない。  ☆ そう言えば 無限大の数式を思い出しました。   ○ ∞ ÷ 2 = ∞ ( ∞ ÷ n = ∞ )  ☆ 例の三位一体というのがありますね。そのように神の本質が 三分の一づつに分かれるのだという専門家による解説すら見かけたことがあります。三つの位格がそれぞれ全体つまり無限なのであるという理解が 得られるようで得られない傾向にあるように思います。  ★ 何人にも侵されざる聖なる領域を表しており、  ☆ これは 一面において無限なら無限が そのように数としても表象し得ないというかたちで人を寄せ付けないところを持ちますが もう一面においては それゆえにこそその無限は 有限なるわれわれ人間をも覆い包み含み得るというところがあると考えるのです。  煮詰めて言って お釈迦さんの掌ではないですが その聖なる領域は――寄せ付けない一面とともに しかも――人びとをそのふところにいだき寄せるという一面をも持つ。こう帰結させたいと思うのですが どうでしょう?

  • heyboy
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回答No.3

度々失礼します。 自分ではこの世は「無限」ではなく「有限」と 捕らえているからです。 ただまあ、見えない神が「無限」であってほしいと 願うばかりですし、他にも「無限」な物質が 存在するかもねーと思うからです。 >やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか? 面白い考え方です そう言えば以前「世界一受けたい授業」だったけな? 菩薩や~天とかの神様を 会社に例えると理解しやすいと言われてましたが 色々な役職の人が現在あるのですから 今現在が神の国と考えるのも、、、、。 とりあえず今はこんなものかな?

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてお考えを明らかにしてくださってありがとうございます。  そうですね。  ★ 自分ではこの世は「無限」ではなく「有限」と / 捕らえているからです。  ☆ 《目に見える・見えない》の区別がまづは 大きく影響していましょうか。    ★ 菩薩や~天とかの神様を / 会社に例えると理解しやすいと言われてましたが  ☆ ということは 仏性が皆にそれぞれあるように神の霊という言い方をするとすれば その霊が一人ひとりに宿るといった通念だと言ってよいでしょうか。  ★ 色々な役職の人が現在あるのですから / 今現在が神の国と考えるのも、、、、。  ☆ なるほど。一方で 《絶対や永遠》は 相対的で有限な存在であるわれわれ人間とはそれこそ絶対的にへだたっている。他方ではそれでも あたかもその絶対なる神の霊が分身としてのごとくおとづれて われわれ人間の一人ひとりにすでにはたらきをおこなっている。会社や社会の秩序やまとまりのことであると。  しちめんどうな神学よりは 現実的なように思います。どうでしょうか。

  • heyboy
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回答No.2

こんにちは、アホのヘボイです たぶん、混じりっけない100%の「絶対」は 人間の目では見えないからではないのでしょうか? だから非経験なのは普通なのではないのでしょうか? はっきりとは言えませんが アウグスティヌスの教えは 見えないものに対する確信が 永遠的なものと言いたいのでしょう。 ただ、まあ「永遠」は存在すると思いますし 「無限」も存在してほしいと願うばかりです。

bragelonne
質問者

お礼

 ヘイボーイさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  たぶんこのお話のような感覚が大事なのではないか。こう感じた次第です。  だって 理性で捉えただけならその知識は ただの着せ替え人形のようなものですから。  ただ  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、  (あ) まあ「永遠」は存在すると思いますし  (い)「無限」も存在してほしいと願うばかりです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この(い)が (あ)のようには表わされずに おぼろげなのは何故でしょう?  予感し得たなら それでよいのではないか。  《存在してほしい》またそう《願う》と言われると あぁ だめかぁ だめかもとこちらまで思ってしまいます。  ★ 人間の目では見えない  ☆ ところの無根拠のもののほうが いっそう確かなことであるかも知れないぢゃないですか。  だって 根拠のあるものだと その根拠が――科学の進歩によって――間違っていたと分かることもあります。ちょっと へりくつですかね。  ・ No.1で ちょいとしたいぢめに遭っちゃった。ハハ。

回答No.1

ソレ イジョウ ハ シツモン シテモ ダレモ コタエラレナイ デショウ アナタハ モウ ガクモン ノ ソツギョウシャ デス コレカレ ハ アナタ ジシンノ トビラ ヲ ジブンデ ヒラキ ジブン デ カイケツ スル チカラツケテ クダサイ アタラシイ ジンセイ ノ スタート デス イイ ジンセイ ヲ ジブンノ タメ ニ ヒト ノ タメ ニ ツクリダシテ クダサイ アナタ ハ オオクノ ヒトニ ミマモラレル コトニ ナルデショウ

bragelonne
質問者

お礼

 ドムドムさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  それにしても つっけんどんですね。或る意味 上から目線。  ★ 学問の卒業  ☆ まづわたしは学問のみとして問い求めてはいません。哲学は 生きること・生活することだと考えますから ひとり学問にかぎるものではありません。  しかもその学問においてすら 《卒業》などということはありません。あり得ません。それは 単なる知識の有無・つまり知ったか知っていないかで《学問》を取り扱うことです。  ね? あなたは思い上がっていましょう。    そのこころの高ぶりが 言わしめているのです。  ★ ダレモ コタエラレナイ デショウ  ☆ それにしても ここの参加者はなめられたものです。はづかしめを受けたことになります。  それともその侮辱は 妥当なものなのでしょうか?   ★ コレカラ ハ アナタ ジシンノ トビラ ヲ ジブンデ ヒラキ ジブン デ カイケツ スル チカラツケテ クダサイ  ☆ これこそは 独我論。《発信は開国 受信は鎖国》思想。社会は 人間と人間との交通から成っているのですよ。受信も開国してみましょう。  ★ アタラシイ ジンセイ ノ スタート デス  ☆ ヨ。