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ソフィーの世界。
ソフィーの世界。 質問1 ソフィーは何者なのか A ソフィーは隠されたヒルデ(筆者)の自由への欲望が形になったもの。 B ソフィーは哲学の塊。 C 哲学者の影響を受けたことで、生き方を変えた人のこと。例えばニーチェみたいな人。 D その他 ソフィーとはニーチェみたいな人って考えがあるんですが、、、その概念を伴ったまま次の質問。 質問2 ソフィーの生き方をどう思うか A バカだと思う B 誰に強制されたわけでもな、自分で選んだのだから、本人にとって幸福なはず。 C あこがれるが、自分はしたくない。 D その他 質問3 ヒルデをどう思うか A 別の世界も知りながら、現実のしがらみの世界にとどまる賢明な人 B 自由と不自由をうまく受容している賢い人。 C その他 質問4 ヒルデ(あなた)はソフィーに影響を受け変わると思うか? A 変わると思う B 知識で哲学(ソフィー)を知ったが、本質は変わらず生き方は変わらないと思う。 C 口だけで、身が伴うことは無いと思う。 D その他 質問5 仮にソフィーを世捨て人に例えたとして、あなたは現在ソフィーのような生き方をしていますか? A 現在している B あくまで理想像なので、教養に留めているのみ。 C 一時期影響を受けて別な生き方も試みたが、今は本質に沿った生き方に戻り安堵している。 D その他 それぞれの答えの理由もお願いします。 ソフィーって智って意味で、哲学ってことですよね。 哲学の存在価値を問う質問を哲学カテでするという大胆なことしてますが、よろしくです!
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- 来生 自然(@k_jinen)
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No.16 です >>> No.16 お礼欄 >(すなわち墜ちずに「墜ちる」ことを想像して、自他を救おうとする)のが、本来のような気がしています。 予期不安で生活が営めなくなる人っているじゃないですか。 だから悪くイメージすると、何もできなくなるばかりか、いっそ死んだ方がいいとなってしまう。 その人達が社会復帰するためには、何も想像したことは起こらなかった と体験させること。 認知療法です。 <<< いえいえ、「予期不安で生活が営めなくなる人(こころ)」を対象とした視点ではありません。まさに「全てを知り尽くしている」かのごとく冷酷に振る舞える人・外部を切り離してしまえる人(こころ)を対象とした視点です。 ある意味、全て(特に「こころ」)を統一的・画一的に扱うことは不可能だということになりますでしょうね。 相矛盾する「こころ」は、「知」の立場からすれば、論理的ではなく「扱い得ない」と感じるものです。最も簡単な対処方法は、一つの「知」にとって「相矛盾するもの」を切り離すことです。 でも、それは何の問題解決にもなっていない。キリスト教(ないし宗教)の説く「博愛」(ないし類似概念)がどうして広まり得るのか? それは、「切り離す」のではなく、「全てを受け入れる」という方向性の違いだからでしょう。そうしてそういった「全て・全体への方向性」という概念が成立し得るのは、静的な「知」ではなく、もっと動的な「こころの動き・働き」(意志・意図・思い)があるからでしょう。 ソフィーが「知」であるなら、「誰であるのか知る」のではなく、「どうしてソフィーが必要だと思ったのか・どうして求めたいのか」とかいった方向性の生じるところを見つめるところから出発すべきなのかもしれません。
- ausfeper
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>その場合は不可能だから「できない」じゃなくて、可能であったとしても「好まないからしない」じゃないかと。 「あんたよくやるよね~、私にはできないなぁ」の「できない」って不可能って意味じゃないですよ。
お礼
>「あんたよくやるよね~、私にはできないなぁ」の「できない」って不可能って意味じゃないですよ。 ああ、呆れたときも遠まわしに批判するために、そういう表現をしますよね。 『よく(そんな真似)できるよね。私は(恥ずかしくて)できないなぁ』とか。 『すごいね。だけど私は(あなたほど出来た人間でも勇気がある人間でも無い。自分さえよければ他人のことなどどうでもいいと思っている自己中なので)できない』とか。 2番目はカッコ内が省略されていると、謙虚な人の発言だと錯覚しますよね。 「そうでしょ? みんな自分さえよければいいと本音は思っているでしょ? 誰が他人のために損をするか、損をするやつは大バカ者だ、賢い人は強者にこびへつらって、悪徳により財産を増やすものだ。人間の本質は悪だ、善であるわけが無い」 ってことを本音は思っているわけで、こっちの方が手ごわいです。 そして人間の本質は悪である という思想。 私の思想は、人間は悪いこともするが、善いことを心の底では願っているはずだ、追い求めているはずだ なんです。 恐怖政治下だと、良い心を希求することは許されない。 上がやるように下も悪をやるようになる。 そういった社会は哲学は存在しえない。 ギリシャ神話で、神は地上に自分の子どもを降ろしたら、人間が神とてもはや自分の息子と見分けがつかないまでに、神の息子をズダボロにしたと描かれている。 私はそれを読んで「あんたがしっかり善を行わないから、下も悪徳の世界になったんだよ」と思いました。
補足
ふと気づいた、というか思ったのですが >あんたよくやるよね~、私にはできないなぁ」 ってのは<空気さなぎ>が違うから そう思うんじゃないかと。 ソフィーってのは <リトルピープル>なんじゃないかと。 ソフィーの世界は <空気さなぎ> どういうことかというと、リトルピープルという言語化できないものが太古から存在しており、その一つが生命という空気さなぎを作った。 さらに リトルピープルの干渉で、空気さなぎは人間も作った。 そしてある日、ある男が自分の中のリトルピープルの存在を感じ取った。 それをなんとか言語化しようとしたのが<ソフィーの世界>という本。 ソフィーの世界の内容を読んだ私が、自分の中のリトルピープルが共鳴しているために 何か存在すると思った。 「あなた だれ? あなた だれ?」と思い、今回質問を立ち上げることになった。 しかしリトルピープルは言語化できないので、誰も言語では答えられない。 リトルピープルが元で空気さなぎが形成され、その中で育ったある人達は、ファシズムの思想を真理だとして飼いならされている。 一見 循環していて、矛盾が無いこの世の楽園のように思う。 それは そのコミュニティーで育ったから。 私が育った空気さなぎは、それとは違う。 元のリトルピープルは一緒だけど、リトルピープルが作り出した繭が違う。 人によって養分を吸いながら<守れれてた状態(さなぎ)>が違い、孵化したとき、もはやファシズムの繭で育った人とは、心で通信できない、、えっと、なんだろう <状態><成体> んーーーーー ま とにかく 存在 になってしまったのではないか と。 そうなると、私が言っていることは、「あんたよくやるよ 私にはできないな」となる。 そう できない。 幼少のさなぎの時点で、育った眉が違ったから。 繭によって与えられる栄養が違い、それで心の形が違ってくるから。 時には硬い繭に守られ育った人もいる。 いわゆる北朝鮮みたいな繭で育った人と、日本というやわらかい繭で育った人は、お互い言っていることは それぞれ美しいのだが、どっちが真理かは決定できない。 それぞれにとってのみ、正しいものだから。 その繭の養分で育ち、規定する正しさに適合したので、繭の中で流産せず 孵化して成体になったのだから。 そして硬い繭が新たな子供を育ている。 それに接している成体となった私がいて、硬い繭で育った硬い身体の成体と接触する。 当然 相手に対して「ゴツゴツしていて冷たい」と違和感を持つ。 寒い 寒い なんでみんなこの寒さに平気でいられるのだろう と思い あっと気づくわけです。 <生まれた繭が違うからなんだ 同じ人種だと思っていたけど、兄弟じゃないんだ。母体が違うんだ> 迷子・・・ どうして私 迷子になったんだろう? いつ 離れたのだろう? いやまてよ、 今まで兄弟と一緒にいたのだろうか? 生まれたばかりなので、まだ合流していないのか 本能で海はどっちわかるはずだから 砂を蹴って兄弟が向かっている海に向かわなければならないのだろうか。 とか思うようになりました。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.13です 蛇足になるかも知れませんが、少し・・・ kigurumi様の視点には、重々感じ入るところがあるのですけれど、別の視点、たとえば 坂口安吾の「堕落論」の視点もまた、ひとつの視点として、定位し続けることでしょう。 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html kigurumi様の様な周囲からの視点も大切でしょうけれど、当の本人の視点にて >>>「堕落論」 人間は堕落する。(中略)それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。 (中略) 堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。 <<< が事前に機能する(すなわち墜ちずに「墜ちる」ことを想像して、自他を救おうとする)のが、本来のような気がしています。 >>>「堕落論」 堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。 <<< の前半は、比較的自然に生じうるでしょうが、後半は「意志・思いの強さ」が必要とされるでしょう。 後半を為さないということを「(永遠に選択し続けることが不可能なのにもかかわらず)選択しつづけようとする人々が多すぎる」のかもしれません。 。。。亡くなられた幼子達の事を思うと、我が子達を重ね合わせるが故、胸が張り裂けそうになります。 しかしながら、そういったことを平気で行う親の元で成長していったとき、その子らが死ぬよりも悲惨な境遇で生き続ける事に成りはしないかといった危惧も生まれてしまいます。最善の策は親元から子供達を早急に引き離すことだったでしょうが、悲惨な死を防ぎ得なかったということは、悲惨な人生を防ぎ得ないかも知れないという危惧をゼロにはできないことを意味しています。 このことは、まさに「堕落論」の >>> まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希(ねが)うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕(お)ちて暗黒の曠野(こうや)をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。 <<< に通じるところがあるのかもしれません。。。
お礼
>堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。 連続殺人鬼の理論と同じですね。 連続殺人鬼を捕まえると、とても敬虔なキリスト教徒ってことはよくある。 どうして敬虔なキリスト教徒なのに、殺人をし続けたのかというと、堕落しきったらそれ以降はもう堕落することが無いので、あとは上昇するだけ。 その上昇を救いとする という理論だったような。 中世の頃、キリスト教のある聖職者は全人類を殺すしか救いは無いと主張していた。 それは堕落した人達はもう救いようが無いから殺すという意味ではなく、自分が救われるために皆殺しにすればいい となったんだったような。 実行をしようとしたかどうかまではわかりませんが、この宗教の場合 救いと破滅は対なんですね。 >(すなわち墜ちずに「墜ちる」ことを想像して、自他を救おうとする)のが、本来のような気がしています。 予期不安で生活が営めなくなる人っているじゃないですか。 だから悪くイメージすると、何もできなくなるばかりか、いっそ死んだ方がいいとなってしまう。 その人達が社会復帰するためには、何も想像したことは起こらなかった と体験させること。 認知療法です。 >堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。 バタイユもそんな考えだったようですね。 ネットで思想を読んだが、スプラッター的な内容なので、どうしても読み続けることができなかった。 死と救済がペアになっているという考えだったような。 醜悪であるものこそ救いの力が大きく働く というキリスト教的考えが根底にあるように思う。 美には救いは必要ないので救済は来ない。 隣の人より堕落すれば、自分の方に救済が来るはずだって理論ですね。 敬虔なキリスト教徒だった連続殺人鬼も同じ思想から、人を誘拐して拷問してヤツ裂きにしていたわけです。 ここまですれば絶対に自分に救いが来るはずだって理論。 その理論は理解できますが、その方向は誤りであることは明白。 何故なら殺人は真理とは真逆だから。 堕落は真理が最も嫌悪するものだから。 真理の世界には堕落の入る予知は全く無い。 入れない。 救済なくして堕落した自分は全くの善の世界に入れないと思い、キリスト教徒は悪をやるようですが、手法間違えています。 >後半を為さないということを「(永遠に選択し続けることが不可能なのにもかかわらず)選択しつづけようとする人々が多すぎる」のかもしれません。 魂が心地よさに魅かれているのであって、選択しているからじゃないと思う。 >まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希(ねが)うことは小さな人情で、 >私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕(お)ちて暗黒の曠野(こうや) >をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。 小説を読んでいないので、詳しく述べられないのですが、、、 その姪が人の命を奪って財産を奪い、のうのうと生きているのなら、邪悪な存在です。 しかし一定の人を恋人に固定せず自由愛で生きているのであれば、私からすると堕落でもなんでもないです。 瀬戸内晴美さんは、自由恋愛者じゃなくて、どうしても妻子ある人しか愛せなかったそうです。 独身男には興味が無く、家庭を持っている人に色仕掛けをして落とし、家庭を崩壊させることをずっとやって、崩壊したらそれでもうその男には興味が無くなり、また別の妻子ある男をターゲットにし捕食するということを繰り返し行ってきたそうです。 それでも彼女の中にわずかに理性というものが残っており、夫を奪われた女、父親を奪われた子供、家庭を邪悪な女によって破壊された人達のことを不憫に思う心があったようで、俗世を捨てれば、他人を破壊しなくてすむと出家したのだそうです。 性欲を断ち切るために頭をまるめ、女であることを捨てたつもりだったそうですが、なんらかわることはなく、出家先の世界でも男に狂った生活を続け、それで悟ったそうです。 「自分の本質は淫乱なんだ」と。 それを否定していたので、苦だったのであって、自分は真性の淫乱だ 物があれば壊す破壊者だ ということを受け入れたことで、ほっとしたのだそうです。 その小説の人も、心の中に姪に対するあこがれがあったのではないかと。 それを認めることがうまくできないので、妬みとなって小説に現れたのではないかと。 私の場合、それとは違い、真理に魂が魅かれているから「それは不正だ。人としてやっちゃいけない」と言っているように思うんですね。
補足
で、思ったんです。 この力は何?って。 ソフィー? ソフィーの世界のソフィーみたいなもの? でもソフィーの世界のソフィーってなに? 「あなただれ あなただれ あなただれ。私にしつこくまとわりつくあなたは誰?」と問い続けたようなんです、あたしって。 それで、自分でもわからないので、他の人に知恵を貸してもらおうかなぁ って珍しく質問を立てたようなんです。どうやら。 で、ふとある言葉を思い出した。 グノーシスの教師モノイモスの言葉。 『神とか、創造とか、それに類似したことを捜し求めるのはやめなさい。 あなたがた自身を出発点として、彼(究極的存在)を求めなさい。 あなたがたの中にあって、全てのことを思い通りになし、「わが神よ、わが心よ、わが思いよ、わが魂よ、わが身体よ」と言うものは、誰であるかを知りなさい。 悲しみ、喜び、愛、憎しみの原因を探りなさい。・・・あなたがたがこのようなことを注意深く吟味するなら、<あなたがた自身>の中に、彼を見出すだろう。』 ・・・誰であるのか知りなさい。 ソフィー・・・。
- ausfeper
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1.B A:ヒルデは望んでない C:ソフィーは人ではない 2.B、D あんまりしたいと思わないし、できない 3.C 分かってる普通の人 4.A 納得すれば変える 5.D そんないいものとは思えないので...
お礼
>1.B > A:ヒルデは望んでない 返信 ありがとうございます。 > C:ソフィーは人ではない 私もソフィーは人では無いと思います。 しかしハリーポッターのような物語に登場する架空の人物とも違う。 私を突き動かしている何かパワー。 見えないが存在すると感じるのは、錯覚なのか。 >2.B、D > あんまりしたいと思わないし、できない 「したいと思わない」 つまり好まないわけですよね。 その場合は不可能だから「できない」じゃなくて、可能であったとしても「好まないからしない」じゃないかと。 >4.A > 納得すれば変える ただし、当座のここちよさを選びますよね。 >5.D > そんないいものとは思えないので... アリストテレスだったと思うのですが、徳とは何かという問題で、「おいしい」とか「楽だ」と感じることを徳とするのではなく、万人にとって魂が心地よく感じるのを徳としていたようなんですね。 具体的に上げるのは難しかったようですが、少なくとも殺人は誰もが嫌悪することなので、得とは真逆にあること。 それで私は嘔吐しそうになったんだと嘔気の理由が今わかりました。 気づかせてくれてありがとー。
- miko-desi
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宗教家の生活能力、自律能力の問題もありそう。 信者も多分に品が悪いことでしょうね。 欲深者に餌を送ることを懺悔といってるのかも。 外部からではなく 寄進している信者が聖職者の地位を下げ贅沢をやめさせればいいのに。 個人的教義ですが 「地位や名声を獲得した人は尊敬に値しない」←頑張った普通の人 「そういったものとは無関係に信念を貫こうとする人は尊敬に値する」←普通の人の理解を超えるから!? というのがあって、実在でいう無名の辛苦です。 偉い人は前提として損な人であるという仮定です。 人間社会を平等にしてしまうと危惧される理由に 「堕落する」がありますが 不思議なことに盲目的に優しいゆえに落ちこぼれたり 実直勤勉な人ほど有限な土地や資産を失って 破綻した人生を送ってしまうという(どこかで証明されてます)。 何事も追求しだすと汚く見えてしまうものだから 冷淡に映らない程度に「いい加減」にしてしまうのがいいかも。 私は信仰や支持政党などはありませんよ。 逆説ばかりになってしまったけれど 何か果もあればと。では又。
お礼
>冷淡に映らない程度に「いい加減」にしてしまうのがいいかも。 私、アリストテレスの中庸を知って「なーるほど」と思ったんですね。 ソクラテスのイデアのイデアは英語ではアイデアってなったんだと思う。 ソクラテスは真理をイデアとしていたように思う。 この意味を言葉で表すのは難しい。 プラトンはそれを徳だとして、アリストテレスはその徳がどういうものか具体的に考えた人だと思う。 アリストテレスは中庸を解いた。 テキトーって意味じゃないんです。 例えば、、、 『恐怖政治の下、人々は非をみても黙っていれば暮らしは安泰だからと、「おかしいじゃないか」と非行に対して抗議したため連行されて行く人を見ても見て見ぬふりをする人。』 どうして不正だと判断できるのに、不正を指摘した人が連行されるのを見て見ぬふりをしていられるのかというと徳が無いから。 このケースの場合の徳とは勇気のこと。 勇気が欠如しているために、不正を見て見ぬふりをし、他人に害を与え続ける社会を平気で受け入れている。 恐怖政治によって奪われている被害者がいるのを知って「不正だ、あってはならない」と言わないのは、他人ごとだから。 奪われて不幸になっている人と違い、自分は安泰だから、「くわばら くわわばら」と安全な場所にいる自分は幸福だと勘違いしている。 あるいは不正者と同類、仲間だから。 仲間とつるんで利得を得ているわけだから、不正を摘発した人は自分の敵になってしまう。 どこが幸福だと言えるのでしょうか。 いつだって逆の立場になりうるのに。 そういう社会なら、自分がなったとき、今度は誰からもかばわれっこない。 そういう社会を許してきたのだから。 自分が作った あるいは 協力して創った社会によって、自分が害を受けてしまう。 不正によって得たものは他の不正者によって奪われる。 それが許される社会を自分がつくってきたのだから不幸。 じゃあ、巨大な勢力に対して「不正だ」とつっこんでしまったら、これは勇気がすごくある徳のある人かというと、「勇気が過剰すぎた無謀な人」 大風の時 氾濫する川に近づいて「お前らはいくじなしだ、俺は勇気があるぞ」って言う人ってバカですよね? こんなんで勇気があることを証明できると思うおばかさん。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.5 & 8です >>> No.8 補足欄 そして、悟りというものは、見聞きしても平常心でいられる、つまり他者に関心を持たないことである とその人は思った。 <<< そのように捉える見方も「あり」でしょうね・・・ でも、せっかく 正岡子規の新派俳壇結成史(九十六)(九十七)、中川みえ http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/3428/ … から引用しているので、リンク先を良く読んでみてください。子規の最後までの様子が詳しく記述されています。 あれほどの苦しみを味わいながら一足飛びの死へと向かわずに生を選択し続け、そうして「(死ぬほどの苦痛を凌駕し)平気で生きている」ことを悟りだと自身に言い聞かせつづけようとする「思い・意志」の強さ・・・それは「自身や他者に関心を持ち続けること」への「強烈な思い」を意味しているのではないでしょうか? 無論、「そうは思わない」という選択肢も「あり」です。 そのあたりは、梨木香歩:「西の魔女が死んだ」を読んでみると分かるかも知れません。 あとは、質問者様が「どうするか」にかかっています。
お礼
このサイトでも見かけます。 「いっそ 一思いに殺してくれ、何故ここまで苦しんでいるのに生きていかなければならないのか」と。 生きる目的を見失った人。 3日後に死ぬとわかっていたら、そんなことは言わない。 正岡子規のを読みました。 私現代文じゃないのは苦手なんですが、がんばって読みました! 彼の場合は、死を意識したことで逆に生を意識する結果になったんじゃないかと。 生きているということを意識するためには、死を感じればいいわけです。 死を意識するほどに生きているという意識が活発化する。 で、そういうのじゃなくて、他人の命が危険にさらされており、それがわかっていながら私以外は問題視しないという状態に、唖然としているんです。 例えばですよ。 赤ん坊を放棄して餓死させた母親がいますよね。 大変不幸なことです。 そういう母親の元に生まれたこの子は悲劇ですが、さらに悲劇的なことに周りは気づいていたが誰1人何もしなかったということです。 責任の分散で、「自分がしなくても他の誰かが」となった。 知っていながら通報しなかった場合は罪に問われます。 バツを与えるのが目的の法律じゃなくて、気づいたら通報するように仕向けるための方策。 誰も助けないのなら、行政が通報を受けて動くから、何もしたくなくてもせめて通報して ってことです。 人でなしの愚鈍な市民たちよにどうモラルを解いても無駄なら、通報しなければバツを与えるぞって脅して通報させるしかない。 ここまで人々は落ちたわけです。 落ちたきったモラルを復元させるかどうかは人の手にかかっている。 モラルとは人で創られ、人で殺されるのだから。 で、改革を起こした人は処刑されるというお約束がある。 その何十年後かに、処刑された人の考えが常識になる。 「これぞ新しい といったところで、既にあったことで これからも起こること」ってコヘレトに書いてあった・・・ 遠い目。 結局「自分の労苦に満足すること」しかないな。 西の魔女は、動画がどっかにあったんで探してみてみますね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#11さんに関連して: せいしょには、“太初にことばありき。・・・・”の他に、“神は人にことばを与え、そのことばが人を個別化、そしてばらばらにした”というフレーズがなかったでしょうかね。 それを知りかったのですけど。
お礼
これこれ・・・ 返信率100%をキープしているんですから。笑 「始めにロゴスがあった。ロゴスが神とともにあり、ロゴスは神であった」ですね。 ソクラテス以前から真理を求める人々がいた。 真理を求める人々は神とともあり、真理を求める人々の心は神であった みたいなことじゃないかと。
補足
>そしてばらばらにした バベルですね。 ただ、表現は違っても 同じことを言っている場合もある。 言葉が違うと概念も違ってくるものには普遍性が無い。 言葉や表現が違おうと、同じものを表していれば、普遍性があり真理である。 じゃないか と。
- miko-desi
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直接的な回答ではないけれど 直感ではなく物色中、整理中なままちょっとだけ。 「人類は進化していない」理由に 分業を始めてしまったことを私は上げてしまいます。 分業が起こったことで生活基盤の選択肢が増すと 価値観の多様化が始まり、 尤も分業自体が価値観の違いで(協力しあっているのではない) 価値観が多様化したことにより 「邪魔者以外の何でもない」という発想に至れる。 ここからして、価値観の相違が 互いを警戒、啓発、洗脳することが可能になり 原初的な本能に基づき 小競り合いすることも可能となります。
お礼
返信ありがとうございます。 分業しても、理念という柱があれば、上と下が一致するはずですよね。 企業にしても組織にしてもピラミッド構造となっているじゃないですか。 ローマカトリックは神父さんによって、あるいは信者によって言う内容が違うってことは無いそうです。 教皇と末端信者の言うことは同じ。 これはシステム上 伝言ゲームで同じ内容を上から下に流していくから。 ローマ帝国はこのシステムを使って繁栄を極めたわけですね。 全員が同じ思想となるシステムだったので、統一力もものすごかった。 ローマ皇帝の指示は末端までいきわたり、伝達途中で歪む あるいは たち切れになる ということは無かった。 プロテスタントとなると、牧師によって あるいは 信者1人1人が言うことが違う。 カオスの世界なわけです。 どうしてこのようにバラバラになったかというと、個人の都合を取り入れてから。 理念を柱とせず、個人の都合を柱としたため、神をないがしろにして人間のことだけを思って、人を柱とし、しかもその人の柱を俗的な人を中心に据えたので、もはや元の柱からずいぶん違ったものになってしまった。 日本国憲法。 世界でも唯一と言っていいくらい変更されたことが無いほどのすぐれもの。 日本国憲法の下には法律とか行政とか いろいろ小さな法律や規律やらありますよね。 行政の法律が憲法に合致していない場合、「憲法違反」となり改正を求められます。 「いや うちの市町村ではこれが一番いいんです」と独自のことをしてもいいのですが、日本国憲法に合致していない場合は憲法違反となり、改正が求められる。 従って、分業をしたとしても、あくまで理念に沿ってやるように、常に求められているわけです。 柱に戻れと求めたのが私なんです。 がーー 理解されることは無くぅ・・・・ 「あたしって そんな難しいこと言った? 小学生でもわかること。人としてのモラルを問うているのよ あなたひと? けだもの? けだものなら檻に入れられるよ」って警告しているんですけど。。 ま このままなら責任者が禁固刑になるでしょうから、もう警告するだけはしたので、あとは自己責任で警告を無視し犯罪をやりつづけるのなら、もう通報しかないですね。 相打ちになるかもしれないけど、やるかぁ。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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朝二時起床して、戸外で体での意識と命の確認の行、そして3時間ほどの静止の行。など。 庭や室内の清掃のあと訪問したのだが、木胡桃さんに申し訳ないことでしたが、その折、早とちりをして投稿したかのように反省しています。 大雑把に言って木胡桃がほぼ私の、ことば表現での内容を酌みとってくれていたようです。 でも読んでいくと、木胡桃さん側も私側も自分で飲み込んだままで、出してない言葉があるのに少し気付きました。 自分で飲み込んで、書いていないことばとフレーズは、自分でない人の思考のなかに入れてもらえるためには結構重要なんだが、自分の頭のリズムで走っていくと置いていってしまうのですね。 口頭会話とかであれば、その沈黙の背景景色も見てもらえるのだが、文字だけだと落ちたままで補助物がないのですね。 それにしても、智や知の論理演繹って、インディヴィアル向かわせませんか? つまり分っているかのような信仰や精進を共通としているかのような東洋のものは、一応こインディヴィディユアル性を出ることを重要な要素にしていて、その側面でのやりとりが成立するんだと思います。 それにしたって、所詮はインディヴィデユアルでの普遍性という事なんですが。 白鳥入蘆花。 最も普通の蘆花に、また魂という普遍で普通ものが入っていく。 市井を騒がせず、それに馴染みながら市井の中に入っていく。生き活動するような心境とあり方。 っていうような意味なんでしょうね。 学んでいるインドの思考の一つには、光の中に身が隠れる、という言い方もあります。
お礼
>口頭会話とかであれば、その沈黙の背景景色も見てもらえるのだが、文字だけだと落ちたままで補助物がないのですね。 <思い>を言葉にする難しさってことでしょうか。 それが難しいとわかっているので、人は物語を書いたり映画を作ったりする。 そうやって人は思いを他人にわかるように表現する。 >それにしても、智や知の論理演繹って、インディヴィアル向かわせませんか? ソクラテスってイデアを普遍性のあるものってしたんですよね。 個人によって違うものではなく、万人が善だとするものをイデアとした。 周りの人達は、自分にとって都合の良いものを善としている。 それが人間全般人とっても良いことであれば、私は何もいいません。 その人が自分の欲望を満たすたびに、他の人に害を与えている。 その人にとってはハッピーなものであっても、その人がハッピーになればなるほど、周りの人が不幸になっていく。 その人が得をすると、他の人が害を与えられてしまう。 イデアとは対極をなすもの。 それのどこが悪いのか と聞かれると、それを目撃するたび、私は嘔吐しそうになるんです。 あまりにも醜悪だから。 人ではないというのを「人でなし」と言いますよね。 ここで「ひとでなし」と他人をののしるのは簡単です。 しかし、ゾンビ化していく人々を人に戻してあげたいと 何故か 思っちゃうんですよ。 「余計なお世話だ 鬼畜で本能のままに生きるのだ 所詮人間も動物にすぎない」と言い耳を貸さない人に対して、「人であれ 人でありつづけろ 負けるな」と叫びたいんですよ。 「自律して生きろ! それこそ人間として産まれた恵だ」 私の言っていること わかります? 「そんなの人によりけりだろう やれない人も沢山いるんだから 無理じゃない?」といわれても、私は訴え続けたい。 「自分意負けるな。克己して」って。 「自分を支配して」って。 「そうすれば生はあなたのものになる」って。 蜘蛛の糸・・・・ 別に私がお釈迦様だって言っているわけじゃないんです。 みんなで蜘蛛の糸を上ろうって言っているんです。 だって、人は1人じゃないでしょ? 周りの人がいるから生きていけるんでしょ? じゃあ 自分さえよければ 自分さえ目指せばいいって ならないでしょ? 自分さえソフィーを求めたところで、世界は到来しっこないでしょ? だって世界は私のみが存在しているんじゃないから。 世界は集合体なのだから。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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学園紛争なんてついこないだ。私どもは最後の学園紛争ではあったが学園紛争なんて、昨日のことで、昔なんかではありません。 “共通の広場がない”という表現での内容の一つの小枝を繁茂させていろいろに付加敷衍されていますが、“共通の広場がない”いうことは、“それぞれのindividual性の中からでようとしない、出られない、というのが論理と概念、そしてその演繹作業を歩く松葉杖としている、西洋的哲学手法だ”といっているのです。 木胡桃さんの手法がそういう手法になっているので、私の話していることも、木胡桃さん自身の内容を全く出てくれていない。 これはご専攻という事とともに、お人によるものでもありえましょう。 あまり人様の事を私も言えやしませんが。 私は回りくどいことも、ひねったことも言っていません。そのつもりでおります。 仰せの内容の事は一本の頭毛でも考えていませんでした。予想もしていませんでした。 それとは別に、何か取りすがるようにもう一度確認的に同じ事を繰り返してみます。 それほど閑でもないのだけど。木胡桃さんのせいかな? 智のソフィのことが主題ですが、私が見る他人との比較では、私自身は智を含めた、思想そして行動、存在仕方としてのソフィが生来のあり方になっていまして、どうかヒルディというみんなの側面も持ちたい、近づきたいという事です。 そして唯一の真実存在者は、私のようなソフィ存在よりも波ひとつ無い鏡面のようね大洋にこそある。 それは、普通の、最も普通のものとしてある。ということです。 それはたとえれば一般としてのヒルディの向こうにある。 だからヒルディ(市井)に育てられ、お返しをしていことが、唯一真実存在者との同調になる。 白鳥入蘆花という思いす。 木胡桃さんが、ヒルディからソフィ部分っていう方向なら、私はソフィとして一般ヒルディに入り、その向こうにいく。 という人生選択で、悲しくも64年を生きてきている。 尊敬する小学校(3年から6年)の恩師、5年生の時に、お前は奇行の奇人に過ぎない、変人は常識を知っていて、個性的なんだ。 お前のは個性でなく、奇癖だ、そんなのは通用しない。 孔子も釈迦も普通を知っていて個性的でありえた。それが変人だ、お前は単なる奇人だ。 といわれて、それから何とか普通を志向してきた、空しい年月を申し上げたのです。 普通でしかないのが人間ですね、私もソフィなどではない。でも何か言動したり、考えることがソフィとなってしまう。それでヒルディに向かってきた。 そうなんです、私は自分を地球外からの来訪者みたいに思えてくるんです。 或いはユダヤ教の選民ってぇのかな、実在存在者のきっと特別の何かがあるんだろうとか、自分を慰めたりして。 仙人がどうのって、仮定のお話をしてくれました。 でも仮定というのは、意味性は持たないと存じます。
お礼
自分はいつも長文を書くので、こりゃヤバイな と思い、文章作成の講義を取ったんですね。 認定試験で長文を読みそれを400字以内で論ぜよ というものが前半で出た。 時間配分を考えると、20分以内に読んで理解して400字で一発勝負で書かないと次の問題にかかれず、一問しかできなければ落第してしまう。 私の試験の結果はAだったんです。 試験では人の言葉を把握する読解力も、自分の言葉を他者に理解させるための表現力もオッケーという判定をもらったのに、現実では何故 と頭をひねってしまいます。笑 いや あなたの書いていることはわかっているつもりです。 理解していることと、納得していることが、違うので、あなたに苦労させてしまっているのかも。 差があることはちゃんと認識しています。 ただ、ここは説得の場じゃないので、私の意見にあなたが同調するように話すってことはしてないので、、、 私が人の話を聞いて、人の話を自分の考えにどう組み込むか なわけで。 >だからヒルディ(市井)に育てられ、お返しをしていことが、唯一真実存在者との同調になる。 白鳥入蘆花という思いす。 言っていることはことはわかっているつもりです。 市井に集まる人は、くみ上げる水が清いと<知っている>から井戸の周りに集まるのでないですか? 引き寄せているのはそこに集まる人ではなく、清い井戸の水。 井戸の周りに集まる人はオプションです。 そこで集まって会話をして楽しむというのは オプション。 私は今のところを<清い井戸>と思っていたんです。 理念を聞いても私の考えと同じだったから。 しかし、理念と実際やっていることが違う。 しかも、故意に理念とは違うことをしている。 理念の沿ってやる気が無い。 理念に沿おうと努力しようとすらしない。 井戸に残飯投げ込んでいる状態です。 「だめーーー 井戸に残飯入れちゃだめーー 他の人だけじゃなくて自分すら死ぬことになる それがどうしてわからないの 今は飲めてもいずれ飲めなくなる、大量の人が死んじゃう」 私の声は sounds of silence 「理論はそうでも 実際そうなるかどうかは やってみなければわからない。理論と現実は違うのだから」と言われても、、、、 「不正をしつづけると、やがて井戸は腐ってしまうんだよぉ 今がよければそれでいい と当座のことばかり考えていては駄目なんだよ 周りの人や将来の人のことも考えて行動しなきゃ駄目なんだよぉ」 って言っても その声はどうしても周りの人の周波数と違うらしく、スルーされた。 「私の言っていることがわかりますか? それとも 理解できないですか? 正直に答えてください」と言い、ずっと待って答えてもらい、それを聞いて「無理だ・・・」と思った。 ソフィーは風を起こしたが、ヒルデは「ん?」と思ったが、気のせいと思っていつも通りのことをした。 >尊敬する小学校(3年から6年)の恩師、5年生の時に、お前は奇行の奇人に過ぎない、変人は常識を知っていて、個性的なんだ。 >お前のは個性でなく、奇癖だ、そんなのは通用しない。 それで調教された人は凡人。 飛びぬけた人は、剪定されつくされない。 > でも仮定というのは、意味性は持たないと存じます。 いや、ロボットと人間の違い。人間には創造性がある。 例えば疫病が流行ったとする。 その疫病にかかった大勢の人ではなく、病気にかからなかった人に注目するんです。 何が他の人と違ったのかって。 それで違うものをピックアップして、「これだとかからない」というのを実験して見つけ出す。 まだ仮設の段階ですが、その理論をもってワクチンを作ってみる。 実施してみる。 病気が治れば、仮説は正しかった となる。 蔓延化したウイルスに汚染されゾンビになった物語。バイオハザードでしたっけ? あくまで映画の中のできごとじゃなくて、もしかして人間を破滅に至らしめるウイルスが、静かに人々に浸透していっているのかも。 ほら、恐怖政治を強いている国がありますが、そこで暮らす人々は恐怖のためにトップを賞賛する言葉を言っているのではなくて、教育されそのようにしか思えなくなっているわけですよね。 私たちは外から見て汚染されていると思うが、中で暮らす人々は、自分たちは恵まれていると思っている。
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おつきあい ありがとうございます。 >最も簡単な対処方法は、一つの「知」にとって「相矛盾するもの」を切り離すことです。 言葉で表現しがたかったのですが、これですね。 「切り離す」 私はもうここから脱出することを決意し、脱出後追っ手につかまりこの社会から抹殺されないように、うまく計画して脱出するつもりなんです。 他の気づいた人は、通報すると訴えたところ、逆に家族をたてに脅されたらしいです。 その後どう始末されたのかは誰も知らない。 怖すぎる・・・だから、無難にここを脱出しないとヤバイんです。 うまく脱出するつもりですが、残された人がしのびない。 どうなるかわかっているから。 そこだけが辛くて、辛くて。 「ごめんなさい 私の方がヤバイくなったから逃げさせて」って。 同時に「こんな集団がお天道様を拝めるなんてあってはならない」と憤りも感じたんですね。 不正者が他の不正者をかばい、その不正者を、もっと大きな権力者を持つ不正者がかばうという社会。 コヘレトの言葉に「不正が正義の場に鎮座していても驚くな」とあるが、「無理! おーどろいちゃいます。」です。 注目して目が離せなくなった。 この視線を断絶する。 切り離す。 それが唯一私が生き延びる手立てですね。 「外にうまく脱出した後、外から不正を暴いて不正を継続できないようにしてやる。私が残す人達は救えないかもしれないが、他のまだ救える人を救いにいこう」と今は思えるようになりました。 残してしまう人への思いを断絶しないと、明るい未来が来ないですね。 全員を救おうとしたら一人も救えなくなる。 うん わかった。 ありがとう。 >。キリスト教(ないし宗教)の説く「博愛」(ないし類似概念)がどうして広まり得るのか? >それは、「切り離す」のではなく、「全てを受け入れる」という方向性の違いだからでしょう。 >そうしてそういった「全て・全体への方向性」という概念が成立し得るのは、静的な「知」ではなく、 >もっと動的な「こころの動き・働き」(意志・意図・思い)があるからでしょう。 私はキリスト教ってのは強者にとってのみ都合が良いものだと思うんです。 この力は強者のみに働く。 それはローマ帝国が他の地域を支配し、侵略した地域の人を従順な子羊にし支配する目的で、キリスト教を国教としたことからもわかる。 日本はキリスト教信者は1%とほとんどいないですが、ヨーロッパやアメリカは多くの国民が信者です。 政治家は国民に同意をとりつけるために、キリスト教を利用しています。 つまり、キリスト教は政治家および政治家を支配する人達にとってのみ有利になる 道具 にすぎない。 と思っているんです。 これは歴史をみても明らか。 恵まれない人のために時々、チャリティーパーティーが行われます。 キリスト教精神にのとっ取ったノーブレスオブリゲーション慈善パーティー。 パーティー券1枚10万くらいです。 そのパーティーに出席するため、男は同伴する奥さんや恋人にドレスを新調させます。 値段 見ません。 50万だろうと100万だろうとはした金ですから、値段は聞きません。 恵まれない人のための募金パーティでは、各業界の有名人が集います。 そこでいかに恵まれない人々を救うかの話などしません。 そのパーティーのオークションで便器オブジェクトを1000万で落札した人などを褒め称えます。 便器オブジェアートに1000万を出す つまり1000万をゴミ箱に捨てられる財力を持っている人という評価になるわけです。 「あれは誰だ」という話になり、紹介してもらうわけです。 是非あなたの企業に投資させてください とか、うちの企業とコラボしてください とか。 つまりチャリティーパーティーは金儲けのための人脈開発の場なんです。 セレブたちは有志を募ってチャリティーパーティを開き1000万集めて恵まれない人々に寄付をした心温かい人という<評判>を得るし、新聞でも名士と書かれます。 一般人はこの偽善慈善パーティーに入れません。 20世紀の終わりに世界を震撼させたニュース。 ローマ・カトリックが、大量破壊兵器企業・ポルノ企業・麻薬事業に人達に融資をしていたというもの。 片方でその被害にあった人達に寄付をする募金を募っているが、実は被害者を増やそうとそれら企業に活発に活動できるための資金を提供をしていたってわけです。
補足
>ソフィーが「知」であるなら、「誰であるのか知る」のではなく、 >「どうしてソフィーが必要だと思ったのか・どうして求めたいのか」 >とかいった方向性の生じるところを見つめるところから出発すべきなのかもしれません。 例えば あなたに奥さんがいて、その人が見当たらないと不安になりませんか? それと同質な気がするんです。 確かが見当たらない それが人を不安にする。