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ソフィーの世界。

ソフィーの世界。 質問1 ソフィーは何者なのか    A ソフィーは隠されたヒルデ(筆者)の自由への欲望が形になったもの。    B ソフィーは哲学の塊。    C 哲学者の影響を受けたことで、生き方を変えた人のこと。例えばニーチェみたいな人。    D その他 ソフィーとはニーチェみたいな人って考えがあるんですが、、、その概念を伴ったまま次の質問。 質問2 ソフィーの生き方をどう思うか    A バカだと思う    B 誰に強制されたわけでもな、自分で選んだのだから、本人にとって幸福なはず。    C あこがれるが、自分はしたくない。    D その他 質問3 ヒルデをどう思うか    A 別の世界も知りながら、現実のしがらみの世界にとどまる賢明な人    B 自由と不自由をうまく受容している賢い人。    C その他 質問4 ヒルデ(あなた)はソフィーに影響を受け変わると思うか?    A 変わると思う    B 知識で哲学(ソフィー)を知ったが、本質は変わらず生き方は変わらないと思う。    C 口だけで、身が伴うことは無いと思う。    D その他 質問5 仮にソフィーを世捨て人に例えたとして、あなたは現在ソフィーのような生き方をしていますか?    A 現在している    B あくまで理想像なので、教養に留めているのみ。    C 一時期影響を受けて別な生き方も試みたが、今は本質に沿った生き方に戻り安堵している。    D その他 それぞれの答えの理由もお願いします。   ソフィーって智って意味で、哲学ってことですよね。 哲学の存在価値を問う質問を哲学カテでするという大胆なことしてますが、よろしくです!

みんなの回答

回答No.8

No. 5です >>> No.5 お礼欄 その時、沈黙をしている相手の表情をじっと見つめると、相手は私を見れなくてうつむいている。 「あなたの代わりに鞭打たれています。それでいいですよね 真実を言わないほうがあなたにとって辛くは無いんですよね。」って。 その人が抱く罪悪感の痛さに比べたら、私の方がマシと思うから、黙っていられるわけです。 その時、私は何故か他人を救ってあげている という気分になるんです。 血縁関係にもない赤の他人を。 動物は血縁関係に無いものを助けるために自己犠牲を払わない。 ということは、あたしゃ エイリアンか とか思ったりする。 これは、ソフィーなんじゃないか と思う。 私の中の超越的な何が働き私はやっているのか、それとも自己満足なのか。 どうして こんなことを私がするのかは わからない。 破滅的な個性なのかもしれないですね。 <<< 。。。その場で言わずに、ここで吐露する。。。 その場、その場での自己満足ということになりますでしょうか。。。 >>> その人が抱く罪悪感の痛さに比べたら、私の方がマシと思うから、黙っていられるわけです。 <<< そうして、ここで「そのように」吐露すること自体の「罪悪感」、すなわち、その場で >>> 「あなたの代わりに鞭打たれています。それでいいですよね 真実を言わないほうがあなたにとって辛くは無いんですよね。」 <<< とすら「言わなかったことへの罪悪感の痛さというものが感じられない」とすれば、誰が、誰と比べてマシかとかすら、言えないのではないでしょうか? >>> 正岡子規の新派俳壇結成史(九十六)(九十七)、中川みえ  http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/3428/shiki2.htm ○病床六尺 これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅に一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして (「病床六尺」) (中略) 余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。 (六月二日) <<< >>> 梨木香歩:「西の魔女が死んだ」新潮文庫、,p.162から 「わたし、やっぱり弱かったと思う。一匹狼で突っ張る強さを養うか、群れで生きる楽さを選ぶか・・・」 「その時々で決めたらどうですか。自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、(中略)シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」 <<< フィロ・ソフィーの「フィロ」は、「ソフィー」を求めようとする「思い」ということを意味しているのでしょう。。。 その「思い」を「自己」を通して観ようとするならば「自己愛」に通じるものがあるのでしょう。。。 その「思い」を「病床の外」へと通じるように観ようとすることも出来るでしょう。。。 「一匹狼・群れ・その外」の何れかに通じるように観ようとすることも出来るでしょう。。。

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質問者

お礼

>その場、その場での自己満足ということになりますでしょうか。。。 いや もしかしたら、、、、 周りが批判するたび ゾクゾクってしたんですね。 人を試す といいましょうか、検証みたいなもんです。 人の本性を暴いたといいましょうか。 ここが私がサイコっちっくなところ。笑 試された側は たまったもんじゃないでしょうけど。 ちなみに試された側は、やった本人と勘違いして私を思いこみから批判していた人達。 ソクラテスは、知識人たちに質問をすると、即答されましたよね。 ソクラテスとは違う答えを知識人たちは答えた。 しかし、問答を通してソクラテスと同じ答えになっていった。 ソクラテスは知識人が深く物事を考えておらず、表面的なもので答えをしていると知ったが、深く考えさせすれば、自分と同じ答えに到達するので、真理は誰しも内に持っているものだが、深く考えず日常を送っていることを批判したかったわけです。 肥えた豚より痩せたソクラテスであれ って誰かが言ったような。 ソクラテスは馬を刺す一匹のあぶ と例えられている。眠りこけているアテナイの市民に刺激を与えたわけですから。 ソフィーの世界を書いた人は、ソクラテスを真似たんだと思う。 あ、、見えてきだした最初の質問の答えが。 もうちょっと会話すれば、答えが出そうなので、もうしばらくつきあってくださいね。 しかし、知恵絞ってちょっと疲れた。。。。 後半は後ほど。

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質問者

補足

後半です。 >悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。 その本は読んでいないのですが、まずその人は病床にありながら、外の世界を盛んに知ろうとして、新聞や雑誌などで知り、憤慨していたわけですよね。 病気じゃなければ自分が・・・・とか。 しかし、彼が病気であろうと無かろうと、やはり状況は変らず、外に関心があるため、新聞を読んでは憤慨をしたはず。 そして、悟りというものは、見聞きしても平常心でいられる、つまり他者に関心を持たないことである とその人は思った。 関心を持つから、気になり新聞を読む。 関心を持つから「なんてことだ」と他人の不幸に心を痛めてしまう。 他者に無関心こそ王道だ ってことですか? エジソンがそうですよね。 関心があることをやり続けた人。 学者とかもそうです。 ただし、つまり周りのも関心を持って調和をとって回りに迷惑をかけない程度にしないと、オウムのようになってしまいます。 西の魔女が死んだ 読んでいません。 記述してあるものを読むと、この世に自分がいられる場所なんてあるのだろうか と疑問を持ちました。 周りと調和をすることは必要でしょう。 見て見ぬふりも必用です。 ただし、例えば薬品が混入しているから生産をストップさせるべきと訴えても、今のところ実害の報告が無いから、ラインをストップして機械を修理する必要は無い という考えはいかがなものでしょう。 後々大きな問題に発展するのは目に見えている。 行政が立ち入り調査をして、業務停止処置をし、調査結果を聞いた遺族が「家族の死の原因はこれだったのだ」と知ることになる。 この場合は、ブラックから自分が抜け出れば自分は共犯者じゃなくなる ってもんじゃない。 モラルの問題です。 企業のモラルも人のモラルも一緒です。 モラルは集団の信用に直結します。 <集団の信頼>に対する最大の裏切りは告発ではなく<殺人>です。

回答No.7

 ANo.6の続き。  下村湖人の白鳥入蘆花(臨済では白馬だそうです。鳥は魂。馬は人生ですね)  上善如水  鼓腹撃壌などなど。  私にはとても及びもつかず、似ても似つかないことばです。  所詮は初心者(もの)のソフィのままで、さよならしていくことになるのかと思っています。  木胡桃さんは、それでもソフィを抱えていきますか。  私は実は中学から高校まで、一時ソフィを捨てたのです。  つまり、人並みに非行とやらに入りました。喧嘩も弱いくせに。  でもソフィとわかれることはできませんでした。  お互いに転校してきた、民衆の哲学者との邂逅のためにもう一度ソフィという自分本来を生きることにしました。  これはどうしても元に戻れない、一旦捨てたのですから、嘘ものが続くのです。偽ではなく、きちんと足元がならない。ということです。  思い出せないのです、自分が。  (教壇や研究室の、ペンの哲学が何になるか。肥やしはなんでもない市井にもらい、市井にこそ帰るべきであろう、というのが民衆の哲学者の方向でした。日光街道最初の宿場の中学高校から、同じ隅田川と荒川に挟まれている、お江戸の文人の向島の高校に移ったときに出会った奴でした。)  哲学は教壇で語るものですか? 教えるものですか?  個人的なものですよね、哲学って。

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質問者

お礼

>下村湖人の白鳥入蘆花 そんな言葉があるんですね。 私はまわりの人が動かないとき、人としての理念の沿った行動を私が黙ってしていけば、それを人たちも動き出すと思って、ひたすらやってきたんです。 私の過ち、それは私は性善説をとっていること。 私はキリスト教の骨格であるプラトンに対して批判的なんです。 要するにプラトンはこうですよね。 『人はもともと全くの善の世界にいたが(全くの善の世界は死という悪すら無い)、肉体という有限(肉体はやがて滅びる)に入ったため、善がわからなくなった。 人の中には稀に肉体に入りながらも、元いた世界から発せられる善を知覚できる人が稀にいる。 人々はそのような稀なる全くの善が知覚できる人に理解できなくても従えば、善がなんたるかわからない人も悪をしなくて済む。』 プラトンは善とは人間の外にあると言ってた理由はこんなところ。 私は「ごくごく一部の人以外、善は持っていない無い」とは<思わない>んです。 誰でも持っているって思うんです。 相対的なもので変る、条件で善になったり悪になったりする というしろものは<普遍性>が無いですよね。 全くの善 イデアは普遍性を持つ。 その時の状況によって、人の都合によって、変るものじゃない。 <そのイデアを私たちは内に持っている>と信じていたです。 大した検証もしていないくせに、そう信じていたんです。 心理学で、人は個人の時の集団でのときは、ふるまいが違うと学んだ。 私は今回起こった不正は、一つにはやはりその人達の本性は理性があるが、集団を構成する一員で、今の状態をがむしゃらに維持するために、他を犠牲にしてもいい となり、他の人もやっているから自分が不正をしても罪悪感をもちづらくなっているのではないかと。 一番の理由は地位の安泰。 そのために不正をみんなしても、おかしいとすら思わなくなっている。 『<貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。 なぜなら 身分の高い者が、身分の高い者をかばい、更に身分の高い者が両者をかばうのだから。>』 もう一度 コヘレトの言葉を読もうかな・・・。 > 私は実は中学から高校まで、一時ソフィを捨てたのです。 でもソフィーはしつこかったので、捨てた後もあなたがわかるまで何度も接触をしてきたんですよね。 心(真理を求める心)ってしつこいんじゃないかと。 >肥やしはなんでもない市井にもらい、市井にこそ帰るべきであろう、というのが民衆の哲学者の方向でした。 ある哲学者が教室で生徒たちが「あーでもない」「こーでもない」と議論しているのを見て「教室の外に出ろ、そうすれば答えはわかる」と言ったとか。 うん、もうわかった。 人は個人と集団とでは、ふるまいを変える、統一性が無い、分裂するものなのだ。 集団に飲み込まれ時は、個を失い集団の中の権力のある人の考を自分の考えとするものなのだ。 そう考えたとき、市井には 自分が存在しないですよね? 自分の考えだと思っていても、実はそれは井戸に集まっている集団という個の考えですよね。 ある人に相談したところ「集団に入った以上、それに従うべきだ」と言われた。 そうモラルの欠如した集団の考えを己の考えとしろと。 できない。 ものすごく個性が強すぎて、集団に同化できない。 集団の考えは、私にとって毒。 だからこれ以上浴びると 私の魂が衰弱しまくるので、出ることにはしたんですが、、、、 火事が起こったら、どこに行くか決めてなくても、とにかく飛び出すしかないですよね。 人を信じなければよかった。

回答No.6

 木胡桃さんの人生馬車が何かの轍に入っているようですので、床屋で待つ町のお節介爺さんが、“大丈夫?”とか顔を出してきました。  それにしても普遍の学たる哲学って、科学がそんなことを謳わないのに、きわめて個人的です。東洋の哲学同士、個人同士は共通の広場に出ることができますが、西洋の智の学と東洋の哲学は共通の広場が難しい。  更に、西洋の智の学同士も、その中の個人同士も相互に本当に理解しえるのか、コミュニケートができるのか、私は多大の疑問を持っています。  共通にいえることは、気持ちや状況、そして世界がそれぞれにどうなのかという事とともにタームや言語は非常に大切だと愚考しております。  それにしてもずいぶんご投稿が増えましたね。じじぃは日本語の知識がないのに、何かと固執して、今は大教授となっている20年も前の若い教員が、“を鑑みる”という文章をもってきたので、“に鑑みる”だよっていったら、ぐちゃぐちゃ言っていました。ご投稿にも“を敷衍”というのがあり、“に敷衍”かな?言及でもいいがやはり“に言及”かなとか思ったりしています。  ヒルディとソフィ。ヒルディとも他人とも断絶するソフィ。これは何かに取り付かれて常軌を逸した状態の、或る意味では初歩の初心の一生懸命の状態でも現象しますね。  市井の家庭人、そしてご近所さんとも長い付き合いのじぃさんはソフィの面で送っていますが(不器用で使い分けができないので)、家内やご近所とは一応なんとかしております。そして幼児からのヒルディとも意識継続はしております。  というよりこのじぃさんは幼児から自慢できない奇人変人でして(早産で未熟児だったことも原因かも知れないが)、実はソフィ面でしか生きることができてこなかった。 そういうじぃさんの願いはヒルディ面での思考性でした。 10も上の姉と兄、浅草の職人の家で徒弟たちに保護されてきたじぃさんのソフィ生き方はみんなに受け入れられて来たにしても。  ここ数十年の近年、福祉とかのことばが盛んですが、曽ってはそんな歯の浮く用語なんて憲法25条だけでした。社会事業って社会運動、革命や思想の活動、ソーシャルアクションって気持ちでした。 私の46年いた大学は、まぁ1950年代、反体制やいろんな思想や哲学で、そして経歴の教員と学生が集まっていました。  生徒では特攻の体当たりをその都度見届ける士官だった人、新宿で屋台を守ってやっている地回り(一本どっこのやくざですね)、盧溝橋のときの大尉(大佐で退役)などなど。 私はどの教職員よりも、学生の誰よりも若い。そんな中で私みたいな変物、奇人変人でさえも常識人でした(ほんとうかな?)。  みんな熱情的で、それはエキセントリックが当たり前。いうなれば社会的ソフィばかりでした。でもみんな人生の初心者ではなかった。 昔の日本の教育は素晴らしく、誰よりも若い私も職員さんという扱いでしっかり礼儀を逸脱しない方々でした。  ソフィしかない私の課題は、ヒルディである世間のあり方にそぐえること、そういう理解性を持つことでした。  小学校3年、恩師はいった。お前は奇人だ。奇人は世の常識界を理解できない。  “孔子も釈迦も常識界を知っていて個性をもって生きることができた。 そのことのできないお前は奇行の奇人でしかない。”  という忠告をしてくれた。いや言葉を投げつけられた。  それが幼稚園や保育園より小規模、小人数で個性のある皆さんの大学に就職した。  ここでは奇人変人が許されるのです。  でも一歩大学をでれば、それは許容されない。  ヒルディの世界を持とう。そういう努力を一時はしました。  大人の世界の付き合いになると、みなさんソフィでもさらりと受けてくれる。  そしてみなさんがヒルディである東洋の思想の会に入り、今のSelf-Realization Fellowshipの勉強になりました。  宇宙の創造界は見える。これは蛙が動くものしか見えない。人間もこの宇宙を見、経験することができる。  しかしそれ(経験界:これはaggressive)が出てきている存在界(unassuming)は人間には不可知、不現象である。  もっとも普通で基幹である。波を見ることができ、大洋自体を見ることができない。  そして主格である。だから意識本体であるこの存在界は意識主格だから意識できない。意識の内容や結果という経験界しか眼前に意識できない。  というような話もこの会ではありました。  そして今、私は私的なソフィとしてこのunassumingな存在界にattuneできることを目指しております。  これはヒルディという生活者の世界なのかもしれませんが、ソフィとしてヒルディの奥にいきたいと存じます。

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質問者

お礼

>その中の個人同士も相互に本当に理解しえるのか、コミュニケートができるのか、私は多大の疑問を持っています。 はい、私が説明していることをずっと黙って聞いている人達の表情を見て、もしかして。。。と思い、 「私が言っていることがわかりますか?」と失礼なことを承知で聞きました。 「要するに」という言葉が返ってこなくて、それらしい言葉が無かったことで、「理解していないのではないか」と疑惑を持ち、もう一度専門用語を極力使わず平易な言い方で説明をしたのですが、わかったかどうか疑問でした。 「要するに人の命が危険にさらされているってことです」と超簡略化すれば、危機感を抱いてくれるかと思ったのですが、、、、 私の感触ではどうやらコイツらは「人の命より 銭が大事なんだ」でした。      「生命よりお金の方が大事なんて信じられない」 直接「生命より儲けの大事だ」とはさすがに相手の方々は言いませんでしたけどね。 だけど 「要するにそういうことか  だから 動かないのか もみ消したいのか」とわかった。 「人じゃない、ロボットだ こいつら。無理だ。心が無い物体に心に訴えようとするなんて意味が無い」とわかって、もうそれ以上は沈黙をするしかなかった。 さて、ここでこのアンドロイドの人達に人の命が握られているわけです。 このアンドロイドたちが人間をどう処理するか 私にはわかっているわけです。 わかっていながら 何もできない。無力感に包まれているわけです。 知恵よ出ろ 出ろ 出ろ~ と思っても出ない。 非を見てせざるは勇なきなり。 非を見て変えるべきだと思ったけど、知恵が無いから山が動かせない。 この山を動かす知恵が出ない。 モラルの問題だけど、アンドロイドにはモラルが無いので、モラルを持って解決できない。 それ以外の道具といえば、行政処分。通報しかないのかなぁ・・・・。 こういう機械的なことはしたくない。 ということは、私はやつらをまだ自分と同じ人間に違いないと思っているからじゃないか と。 >というよりこのじぃさんは幼児から自慢できない奇人変人でして(早産で未熟児だったことも原因かも知れないが)、実はソフィ面でしか生きることができてこなかった。 ええ、私もそうです。違う自分でふるまえないです。 他者と同じように人の命を粗末にできない。 これが私。 >みんな熱情的で、それはエキセントリックが当たり前。いうなれば社会的ソフィばかりでした。 昔学園紛争が盛んだった頃があったようですが、情熱的で真剣に自分に実直な生き方が当たり前だったのかも。 >それが幼稚園や保育園より小規模、小人数で個性のある皆さんの大学に就職した。 >ここでは奇人変人が許されるのです。 >でも一歩大学をでれば、それは許容されない。 あるネット関連で急成長をした大企業。 世界の最先端の技術を生み出しているその企業のブレインたちは、その企業に見出されなかったら、社会不適合者になってたと思う。 その中にはリンゴと家の値段は1ドルだと返事する人もいると思う。 世俗では暮らせないが、その企業が保護し自由にしていい環境を提供したので、特化した能力を使い開発をしていってるわけです。 彼らのチームに新参者が加わるとき、テストは既にいる奇人たち?とウマが合うかどうか。 新参者のせいで、特化した能力を発揮できなくなると、企業は大損害になりますから、採用には慎重になるわけです。 >大人の世界の付き合いになると、みなさんソフィでもさらりと受けてくれる。 ええ、前述のその企業に採用された人は「ここでなら生きていける」と思ったでしょうね。 >そしてみなさんがヒルディである東洋の思想の会に入り、今のSelf-Realization Fellowshipの勉強になりました それヒルデじゃなくてソフィーの世界なんじゃないか・・・と。 だからなじめたんじゃないかと。 私が好きな学者にオリバー・サックスって人がいるんですね。 脳神経学者。 彼は臨床でいろんな変った人達に出会うわけです。それを本に学者として紹介している。 火星の人類学者って本の中に出てくる人は、動物学者。 そっち方面ではすごい権威がある人だけど、とっても変っているのは誰がみてもあきらか。 自閉症という特徴があるから。 彼女いわく 自分は火星人で、自分以外の人は地球人。 だから地球人のやることなすことが奇妙で全く理解できない。 地球人を研究して知ろうとする火星人の学者が自分 って表現していた。

回答No.5

一点だけ・・・ ソフィーは「智」なので、哲学「智を愛する」(フィロ・ソフィー)ではなく、その部分(言語化可能な対象)でしかない。 読者が自身にとってのソフィーを求めようとする(フィロ)なら、そこで始めて哲学が始まる。 作者はそのようなヒントを残しているのかも知れません。 (回答は、すべて「その他」ということで・・・)

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質問者

お礼

返信ありがとうございます。 >ソフィーは「智」なので、哲学「智を愛する」(フィロ・ソフィー)ではなく、 >その部分(言語化可能な対象)でしかない。 という意味がわかりません。 >読者が自身にとってのソフィーを求めようとする(フィロ)なら、そこで始めて哲学が始まる。 フィロって愛だったと思いますので、自己愛から始まるってことでしょうか。 だとしたら、確かに他者のために自己を犠牲にするのは、血縁関係にあるものに対してだけですよね。 ただ、私の場合、他人がやったことで何かが起こり、私が悪いってなったとき、実は、、、ということを言わないんです。 どうしてかというと、真実を言ってしまうと、私に罪を着せた人が責任を問われて不幸になってしまうから。 だから、「真実を知りたい」と言われない限り、黙っているんです。 当然、真実を知らない人は、私が悪いと思い批判するわけです。 私が批判されている間、本当にやった人は黙りこくっている。 その人が私が批判されている間、「実は」と言わないってことは、黙っていて欲しい 耐えて欲しい 変りに叩かれてくれ と希望しているわけだから、私はその期待?というのでしょうか そのような気を感じ取って黙っているわけです。 その時、沈黙をしている相手の表情をじっと見つめると、相手は私を見れなくてうつむいている。 「あなたの代わりに鞭打たれています。それでいいですよね 真実を言わないほうがあなたにとって辛くは無いんですよね。」って。 その人が抱く罪悪感の痛さに比べたら、私の方がマシと思うから、黙っていられるわけです。 その時、私は何故か他人を救ってあげている という気分になるんです。 血縁関係にもない赤の他人を。 動物は血縁関係に無いものを助けるために自己犠牲を払わない。 ということは、あたしゃ エイリアンか とか思ったりする。 これは、ソフィーなんじゃないか と思う。 私の中の超越的な何が働き私はやっているのか、それとも自己満足なのか。 どうして こんなことを私がするのかは わからない。 破滅的な個性なのかもしれないですね。

回答No.4

先日、間違えて「菊名」駅に降りてしまいました。 「ああ、そうだな」と思った。 この哲学カテはなくなったほうが良い。人間も居なくなったほうが良いケースもあると思うのだが、そうならないのも神の恩寵だろうか。それとも、やはりそれが人間自身の意思だろうか。 個としての人間は、おそらく死んだほうが良い。それを敷衍して、人間全部を一つの生命体としてみても、絶滅したほうが良い。 個としての人間はどのように優美に終わりを全うすることが出来るかどうかが重要でしょう。 地球や、国家や人間の存在そのものも同じことではないだろうか。結果の問題ではなく、普段の心意気として。 >ソフィーは何者なのか ソフィーという人はいません。 フィクションを題材にして考えるところがkigurumiたるユエンだろうか。

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質問者

お礼

返信 ありがとうごいます。 >「菊名」駅に降りてしまいました。「ああ、そうだな」と思った 「菊名」と「聞くな」をひっかけたんですか? >この哲学カテはなくなったほうが良い。 >個としての人間は、おそらく死んだほうが良い。 と考えた人は人里離れた山奥で暮らすでしょうね。 誰からも影響を受けない、自らの感覚のみを頼りに自然を手本として生きる という。 ただ、私のように蛇口をひねればいつでもお湯が出る、わからないことがあるとネットの先にいる多数の人々の意見を聞く というのが<普通>になっていると、その環境ではないと苦しいものがあると思う。 何度かパソコンが壊れたことがあり、ものすごく辛い生活になった。 地震などが起こり、「水は給水車から」「わからないときは近くの人に聞く」というのが普通になった場合は別でしょうけど。 無いってわかっているので、<求める>こともしないわけで。 >人間全部を一つの生命体としてみても、絶滅したほうが良い。 キリスト教は地球全員を統一した思想にしようとしたんですよね。 他と価値に差が無い世界にすれば、他が無いので価値観の違いなどにより争いを起こすこともないと。 しかし、それでもキリスト教同士で流血事件を起こしたので「もう 人類は絶滅するしか救いの道は無い」と考え出したらしいです。中世の頃。 ソフィーの世界の中で悪魔だったか忘れましたが「努力をしてもその先にあるのは死だ。すべては無にひっさらわれてしまう」と言って、「労苦すること、生きること自体 価値が無い」という話が出てきたと記憶します。 ソフィーの世界は哲学の歴史の解説でもあるのですが、不足していると言われている。 それがハイデッガーの思想。 結果の死は重要ではなく、そこに至るまでの過程が最も重要である みたいな説だったと思います。 そういった意味では、まさに私は労苦しまくって、地面をころがっているわけで、「でも私にはまだ大地がある」と、、、誰でしたっけ? 風とともに去りぬの、、、スカーレットのごとく立ち上がるべきなんでしょうけど、、、 大地が見えない。 つかめない。 エヴァゲリのユイ:「生きていこうと思えば、どこだって天国になるわよ。だって生きているんですもの。幸せになるチャンスはいくらでもあるわ」 今はその声よりyoutubeの<Komm, susser Tod 甘き死よ来たれ (英語/日本語詞つき) >の歌の方が大きく聞こえる。 >>ソフィーは何者なのか >ソフィーという人はいません。 ソフィーはハリーポッターのような物語上の架空の人物という認識なんですね。 ソクラテスのデルポイの女神による神託は、彼は統合失調症を煩っており、幻聴だったと。 ソクラテスはイデアを明らかにしまかったが、プラトンになるとそれを徳としたような・・・ そしてアリストテレスはその徳とは何かと考えたんだったような。

回答No.3

   【ヒルディでありながら、ソフィーを持とうとすることは至難のことですね。そしてしかもソフィーを持ちながらヒルディであることができる人は優秀である恵まれている。断絶を持たない。私は霞の向こうに過去のヒルディは無論、過去のソフィーも雲散霧消させながら歩まざるを得ない個人史でした。しかも過去のそのヒルディやソフィーが完全に消えきることもしていない。】  【“名前をつける=概念名称を付与する=自己内にとりこんだという錯覚をする”ですよね“ 昔、女性の名前は出さなかった。 そして名前を明かさない神。】  > 質問5   ここは(A+B)÷2として投票します。  > 中途中止もありうるし、背水には此岸に戻る途は無論、続いています。  在家は転がる、転進する可能性が身近にあるということでして、プロの方といえども還俗ということはありますからね。  でも、何か背後にいつでも今の精進をやめてしまう余地があるから、継続しているのかもしれません。  ソクラテスは「人間の中にある」とし、アリストテレスは「人間の外にある」とした。このことの言葉的違いはあまり問題になりませんようね。  人間とか、心理とかの質と次元の問題ですが。私達にはこれはどっちでもいいことです。  >Droste効果の世界を出なければなりませんよね。   足を地面につけて歩くような理論演繹をDroste効果世界といえば、それはどこまでいっても同じとりとめのない理屈のせかいであるとということでして。   抱える問題の本質に迫ろうとする私達としては、この地面にしっかりつけている足を無責任に浮かして、   或いは自分で歩き渡ろうとしないで、泳ぐか舟に乗って彼岸にいこうとする手法を表現したつもりです。 質問2、3については、後ほどご教授ください。 質問2 ソフィーの生き方をどう思うか ヒルディという自分を維持しながらソフィーという側面世界をもてる恵まれた、そして頭のいい人の趣味の側面でしょう。 質問3 ヒルデをどう思うか    A 別の世界も知りながら、現実のしがらみの世界にとどまる賢明な人だと存じます。  ヒルディ:この哲学の方の為され方と哲学というのは、切実性とは関係を断絶している西洋の知的頭の世界のことであると存じました。  私としては観念の作業、高等な遊びの域を出ない、教養の世界ではなかろうかという感想です。  申し訳ありません。

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質問者

お礼

返信ありがとうございます。 >ヒルディでありながら、ソフィーを持とうとすることは至難のことですね そうです。 「人はパンのみにあらず と言うが、 そういうことが言えるのは食えるパンがあるから」 パンが無くて餓死したら、元もこもないです。 ゆえに パンがあってこそ そういうことが始めて言えるわけで、、、とツラツラ思うわけです。 片意地張って 仙人みたいな暮らしをしながら「十分満足」とは言えない私がいるわけです。 おいしーものは食べたいし、ガンガンクーラーの効いた部屋で安堵していたい。 住むところが無くなると、哲学なんてしておられない。 かといって、住むところが無くなりどうしようもなくなったとき、誰も救ってくれなくても、哲学があることで、絶望を味わないかも とも思うわけです。 映画の話を持ってくるのもなんなんですが、ショーシャンクの空 って映画があります。 実話を元にした とか言われた映画。 刑務所で散々な目に合い一生出られないという境遇にありながら、「人は誰にも踏み込めない領域があるんだ」と主人公が言っていた気がします。 彼が苦境の中で気づいたこと。 それは希望的観測じゃなくて、確信だったんじゃないか と。 だから自殺しなかったんじゃないかと。 >でも、何か背後にいつでも今の精進をやめてしまう余地があるから、継続しているのかもしれません。 ああ、なるほど。 滑り止めがあるとわかっているから、余裕があるってことですね。 だから本気出せないという半面もありますが。 >>ソクラテスは「人間の中にある」とし、アリストテレスは「人間の外にある」とした。 >このことの言葉的違いはあまり問題になりませんようね。 >人間とか、心理とかの質と次元の問題ですが。私達にはこれはどっちでもいいことです。 キリスト教の考えは真理は人間の外にあり、外からの救済なくしては自力では救済できっこないって考えなんです。 仏教もそうですよね。他力ですよね。 アリストテレスの場合は、神に頼らずとも人間の中に既にあるが、それに気づかないことで不幸になっているという考えだったと思います。 従って自力。 >足を地面につけて歩くような理論演繹をDroste効果世界といえば、それはどこまでいっても同じとりとめのない理屈のせかいであるとということでして。 例えば誰でしたっけ? ソクラテスでしたっけ? 光源から光が放たれていて、我々はその影を見ている みたいなことを言った人。 droste効果と聞いた時、まっさきにその影絵の概念を思い出しました。 >抱える問題の本質に迫ろうとする私達としては、この地面にしっかりつけている足を無責任に浮かして、 >或いは自分で歩き渡ろうとしないで、泳ぐか舟に乗って彼岸にいこうとする手法を表現したつもりです 今私が直面している問題は、誰も動こうとしないので、これ以上はヤバイと思い、私がついに動き、石があると思ってその石を踏んだら、実はそれは幻の石で、実際には無くて、ステンって激しく転んじゃったんです。笑 例えで言いますとそんな感じ。 で、私は現実不可能な理想を言ったわけじゃなくて、十分実現でき起こる可能性が高い問題を挙げて、危険回避するためには、動かなければならないって力説したんです。 みんな同意したから動くと思っていたら、誰も動いておらず、私1人じゃ持ちこたえられない このままだと死ぬよ 殺すことになるよ って力説したのに、もみ消された。 助けられるのに助けないでいる状態なわけで、このままだと死ぬよ 死んじゃうよ この人 いいの? そんなの過失致死だよ 殺人だよ! って力説したのに、もみ消された。 誰も信じられない、耐えられない こんな環境 って思って、心があっちの世界に旅立ち始めた感じ。 何もしない これが一番安泰なのかな でも、私はシルクハットの中にずっといられる人間じゃない。 じゃあ どの方向に行けばいいのか わからない。 片方は自分が望まぬ地獄、もう片方も苦しいもの。 どっちにも動けない。 >そして頭のいい人の趣味の側面でしょう。 それは要するに過失致死を起こしても証拠が無いから罪に問われっこない 告発しそうなヤツはぶっつぶす という<賢い>あの人たちと同じな気が。。。。 ああ ヒルデ 嫌いになりそう・・・苦笑。 結局、賢い ってのにズル賢いってのも含まれる気がしてならない。 そして私は生き方が下手なバカ。。。。。 Orz

回答No.2

 木胡桃さん、いつも該博なご造詣からのお教えに感謝します。  この本の刊行の折、私はすごくザッハリッヒな専攻の単科大学の現役職員でした。  ちょうど35年勤続、あと11年で退職でしたが。  このような幻想的な世界とは多少距離のある日常でした。  そして今、書評などを読み、切実になりながら所感から回答投稿します。  質問1 ソフィーは何者なのか   ここではAに投票します。  (但し、自由への欲望の存在現象化というフレーズはにわかに同調はできません。それと自由への志向を欲望という語で表現することには違和感があります)   人存在の根底にも、そしていろんな神格にも二重性、両面性があることはよく出会うことです。そういうようなもう一面のヒルデであり、その他面のソフィだと思うのが状況的にも、“あなたは誰?”という主題にも符合する筋だと存じます。 それは同時にヒルデの哲学の魂(塊)がソフィーであるともいえると存じます。  質問2 ソフィーの生き方をどう思うか   ここはDに投票します。  (つまり今は回答不能なのです。もう少し読んでから、回答します。)  質問3 ヒルデをどう思うか   ここもDに投票します。  (つまり今は回答不能なのです。もう少し読んでから、回答します。)  質問4 ヒルデ(あなた)はソフィーに影響を受け変わると思うか?   ここはAに投票します。  (もともとの傾向ですが、その内在的傾向が更に強まると思います。)  質問5 仮にソフィーを世捨て人に例えたとして、あなたは現在ソフィーのような生き方をしていますか?   ここは(A+B)÷2として投票します。  (ソフィーのような西洋の哲学を実は出て、東洋に入っていまして言葉がそのことばですが、在家であり、まだアマといういいわけをして、中途中止もありうるし、背水には此岸に戻る途は無論、続いています。)  ソフィーという智での西洋的哲学の存在価値は私はnegativeな思いにいます。  “誰?”、そして“宇宙は?”というのは、西洋の哲学の範囲をでているのではないかと存じます。  これらは今、西洋的理論・科学では、むしろ科学の扱うものに押されているのではないかと存じます。  かといって科学や理論・物証はその範囲の境域内から出ることを、自己に禁止していると存じます。  しかし、“誰?”そして“宇宙は?”という問いは理論・物証の境域を出ることを求めていることも否めないと思います。  そういうことから、古代からの東洋の手法は有効なのではないでしょうか?  そこの手法と内容はどうしても宗教性と表裏一体なのですが。  でも木胡桃さんは、理論などの根拠性を大切にされます。  理論ないしは理論と物証がどの程度、“誰?”そして“宇宙は?”という問いに肉薄できるか、の問題があると存じます。  此岸から彼岸のことにならざるを得ない。  とすれば、間には区切りの河がある。  ここは理論や物証でなく、身を舟に託すか、敢えて水に入り足を地面から離さなければならない。  Droste効果の世界を出なければなりませんよね。  そういう意味では西洋の哲学は終わったといえないでしょうか?

kigurumi
質問者

お礼

返信ありがとうございます。 >人存在の根底にも、そしていろんな神格にも二重性、両面性があることはよく出会うことです。 >そういうようなもう一面のヒルデであり、その他面のソフィだと思うのが状況的にも、 >“あなたは誰?”という主題にも符合する筋だと存じます。 例えは悪いかもしれませんが、、、 ある人が大学時代、順風満帆に思えても何かしら不足感を感じていたところに、オウムを知った。 不足感を補うものはまさにこれに違いないと思い、のめりこんでいった結果、こちらの世界とは会話が成立しなくなってしまった  みたいな。 私はオウムの教義自体は知りませんが、専門家に言わせれば世界一の教義らしい。 オウムの世界がソフィーで、不足感を感じながらも俗的な世界にとどまり父親が敷いた成功する人生というレールを歩み続けるのがヒルデ。  敷かれたレールの上を歩み続けたヒルデは父親の計画通りに後に不足感が消滅する。 みたいな。 父親がヒルデに本を与えたのも操作。(親が子供に選んだ知識を与えることは愛情からくるもの) 自分は成功者であり、娘にもそうなって欲しいから。 ヒルデが結婚をし子供を産んだら、自分がされたことと同じ<幸福>を子供に与える。 みたいな。 ヒルデ あなたは誰?  父親と同じステージに上ったときは、「父親によって作られた私」と気づくことは無い。 父親の考えに同化したから。 ニーチェもそういうとこがあったように思えます。 ただし ニーチェの場合はソフィーの側。 ってツラツラ思いました。 あ、すいません 何言っているのかわからないですよね。 トホ。 私は最近ソフィー的になってきていると自覚しているから。 あっちの世界に片足突っ込んでいるという自覚があるから、今回質問したんです。 迷いがあり「これでいいんだ」という何かが欲しくて質問したんです。 >それは同時にヒルデの哲学の魂(塊)がソフィーであるともいえると存じます。 ええ、ソフィーは過去の哲学をどんどん知っていき吸収していき塊になっていきましたよね。哲学という魂を持った存在になっていった。 そうなったソフィーとヒルデは会話が成立しない。 晩年ニーチェは狂ったと一般的になっているが、私はニーチェが言ってたことが理解できるので狂ってなどいなかったとわかる。 ニーチェはソフィーみたいになってしまったから、彼の言うことを回りは全く理解できず、狂ったと片付けられてしまったんじゃないかと思っているんです。 ニーチェは彼岸に到達した人。 世間でよく言われるじゃないですか、高次元のステージとか。 そこからの波動は波長が違うので、低次元の人は受信できない(理解できない)みたいな。 私が高次元に至ったって意味じゃなく、今の次元とは違う世界に逝ちゃってるって意味。 逝くって表現しましたが、他の人からすれば、私は逝ちゃっている人にしか思えない思う。 質問2、3については、後ほどご教授ください。 >>質問4 ヒルデ(あなた)はソフィーに影響を受け変わると思うか? > ここはAに投票します。 >(もともとの傾向ですが、その内在的傾向が更に強まると思います。) 私は哲学の単位を取るため、初期のソクラテス、プラトン、アリストテレスを勉強したんですが、彼らの思想の違いを知っているので、「自分はアリストテレス的思想だ」と思えた。 今は「実はソクラテスにかなり近いんだ」と思える。 知ったことで自分は何寄りか分類できるわけですが、彼らの思想を知らなくても、内在していたと思うんです。 後に知ったことで、名前が無かった内在するものに名前がつけられ、より自分がそれらを把握しやすくなった みたいな。 そういった意味で、哲学を知ることは、<内在していたんだ>と自覚する傾向が高まるってことでしょうか? > 質問5   ここは(A+B)÷2として投票します。 > 中途中止もありうるし、背水には此岸に戻る途は無論、続いています。 両方からの引力が今同等ってことでしょうか。 風が吹いたとき、どっちかに一気に傾くか。ソフィーの起こした風程度となるか。 (筆者は人にとっての哲学をそんな風に表現していますね。哲学を生徒に教える教師だからかな)

kigurumi
質問者

補足

すいません お礼の続きです。 >私はソフィーという智での西洋的哲学の存在価値は私はnegativeな思いにいます。 >“誰?”、そして“宇宙は?”というのは、西洋の哲学の範囲をでているのではないかと存じます。 >これらは今、西洋的理論・科学では、むしろ科学の扱うものに押されているのではないかと存じます。 >かといって科学や理論・物証はその範囲の境域内から出ることを、自己に禁止していると存じます。 >しかし、“誰?”そして“宇宙は?”という問いは理論・物証の境域を出ることを求めていることも否めないと思います。 ソクラテスは古代からある思想を哲学として体系づけた人ですよね。 彼の思想は、「人間はもともと真理の世界の住民だった」ってことで、「肉体という有限の中に入ったので真理が何なのかわからなくなってしまった」とした。 このように既に<あっちの世界がある>という想定の元で哲学は始まっていますね。 哲学は現実不可能なことを持ってきてはいけないのですが、ソクラテスは「あるんじゃないか」と疑惑を持ち、実際あるのかどうか確かめるため、対話をし、検証した結果「ある」に至りましたよね。 ただし、人間の外にあると考え、アリストテレスは人間の中にあるとした。 >此岸から彼岸のことにならざるを得ない。 >とすれば、間には区切りの河がある。 >ここは理論や物証でなく、身を舟に託すか、敢えて水に入り足を地面から離さなければならない。 >Droste効果の世界を出なければなりませんよね。 宗教でいけば「天がなるように地もなる」ってことですね。 もっといえば、天がそうであれば、地もそのようにしかなりえない」。 これはわかります。 絶対君主が統治する世界では、絶対統治者の正義が民衆の正義となる。 民衆は自分たちの正義が間違えているなど、かけらも疑わない。 ニーチェは「神は死んだ 殺したのは我々だ」と言いましたよね。 「この世から真理は消えた、消したのは我々だ」でもいいですが。 そんなことを言ったニーチェは、その言葉の意味を理解されることはなく、アンチキリストだといわれた。 ああ、、、、 彼こそ真理を映す鏡だったかもしれないのに。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.1

時間がとれないのに、書きたくなり取り急ぎの回答だけします。 質問1 ソフィーは何者なのか        B ソフィーは哲学の塊。     質問2 ソフィーの生き方をどう思うか    B 誰に強制されたわけでもな、自分で選んだのだから、本人にとって幸福なはず。    C あこがれるが、自分はしたくない。     質問3 ヒルデをどう思うか    B 自由と不自由をうまく受容している賢い人。     質問4 ヒルデ(あなた)はソフィーに影響を受け変わると思うか?        D その他 質問5 仮にソフィーを世捨て人に例えたとして、あなたは現在ソフィーのような生き方をしていますか?        D その他 理由など説明が言葉足らずになることはまず間違いないですが(汗) 気長に待てるならいつか追記していきます。 私の特権として頭が悪いことで、 はじめからまともな常識を得て成長していなかったことがあります。 好奇心や探究心が哲学の肝なのであるけれども、 哲学を知るうちにさらに自分さえ疑えるようになります。 執着心は目的ではなく有効な手段であったこと。 いつ出発しても止めてもいいものが自由ですもの。

kigurumi
質問者

お礼

返信 ありがとうございます。 >哲学を知るうちにさらに自分さえ疑えるようになります。 ソフィーの神は大佐で、大佐の神は作者で、作者の神は・・・・と恐ろしさを感じますね。 >執着心は目的ではなく有効な手段であったこと。 執着心すら実は誰かの目的に沿った筋書き通りだったとしたら、「わたしは誰?」=「誰でも無い 操り人形」になっちゃいますね。 「はやく締めろ 早く閉めろ」と管理側からメールきても「まーだだよぉ」って閉めませんから、気が向いたら残りお願いします。