- ベストアンサー
桶狭間の戦いにおける今川と織田軍の兵力差について
一般に今川勢2万5千対する織田勢は3千だったといいますが 後の石高では今川は駿遠三で約75万石、織田は尾張約56万石と 聞きましたがこれだと今川は全軍でも1万8千マイナス領地守備隊、 織田は1万超ぐらいは動員できたと思われるのですが実際の所どう なんでしょうか?これぐらいなら地の利のある織田勢が少しがんばって 勝利した、後に信長の天才ぶりをアピールする為に誇張した… という事なんでしょうか??
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
慶長の太閤検地の数字は政治的配慮もあったと思われ、あまり正確ではありません。 信頼できる最初のものは、吉宗がおこなった享保6年のものです。(1721)それでは駿遠三あわせて94.8万石、人口100.5万人、尾張は57.2万石、人口55.5万人、160年後のものですが、仮にそのまま使うと、今川2.4万人、信長は半国として、7千人になります。 40石で一人の計算ですが、慶長、文禄の役では秀吉は25石で一人の軍役(含人夫)を命じているので変動はあります。 さらに信長は交易港を握っていたので、財力はかなり大きかった筈です。軍勢の多くが専従兵士とおもわれます。他方今川軍の多くは急徴集の農民兵といわれており、私は俗にいわれている程戦力は開いていなかったと考えています。 また勝者は少数で大軍を破ったと誇張するのは、木曾義仲の横田川原の合戦、毛利元就の厳島の合戦でもあきらかです。桶狭間の義元本隊と信長の合戦では兵力の差は小さく、精兵の多かった信長が当然の勝利をおさめたとゆう事ではないですか。
その他の回答 (1)
- take-plus
- ベストアンサー率42% (553/1302)
参考URLは信長公記についての考察のページです。 なるほどと思うことが多々あります。 ただ、今回は歴史を否定せずに史実どおりの場合の理由を回答してみます。 参考までに1560年当時の信長は尾張(半国)17~25万石所有とされています。昔のことなので正確な石数は分かりませんが20万石とすると精々6000人ぐらいの兵数になります。その6000人の兵士ですが、前線の砦に500人ずつ配置して-1000人で5000人。 弟信行シンパや統一してない尾張の勢力にも軍を配置しておかなければいけないので3000~4000人ぐらいが妥当な線では無いですかね? 今回は信長が1560年には尾張を統一してないということを前提に説明してみました。 参考URLはまた違った解釈をしてるみたいです。
お礼
なるほど、URLの考え方は面白いですね。参考になりました。 ありがとうございます。
お礼
後世に伝わってる程の戦力差はなかったということですね。 ありがとうございます。