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桶狭間の戦いについて
織田信長は降伏または和議を今川義元と結び、これを一方的に破棄し奇襲した、という妄想はありえませんか? どなたか教えて下さい。
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No6です。 私は、桶狭間の合戦については、 「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」新書y 藤本正行/著 洋泉社 http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32172847 の分析がもっとも的確であると考えております。 1) 桶狭間の合戦についての根本史料が、太田牛一の「信長公記」のみといえる状況であり、かつ「信長公記」の記載は様々な理由から事実または事実の一部を記載していると認められる。 例:信長は、今川軍大部隊が尾張に侵入し、今川方の大高城に対して織田家が設置した付け城の丸根砦、鷲津砦が、桶狭間の合戦当日の夜明けから今川軍の攻撃を受けていると聞いてから清州城を出陣している。 信長が、自軍が維持している中嶋砦に到達した時には、丸根砦、鷲津砦は既に陥落していた。両砦を攻撃した今川軍部隊は砦に入り、今川軍の他の部隊が中嶋砦に相対していた。 信長は「今、目の前にいる今川軍は、丸根砦、鷲津砦を早朝から攻撃した部隊であり疲労している。恐れるに足りない」と麾下の部隊 (2千に足りないと信長公記に記載) に言って志気を鼓舞したと信長公記に書いてある。 これは、後知恵で見れば「信長の誤解」であるのだが、この時点で信長は「目の前にいるのが、丸根砦、鷲津砦を攻撃したのとは違う新手の今川軍部隊である」ことを知る由もない。上記の信長の「志気鼓舞の演説」は事実そのままと考えられ、信長公記の記述の確かさを裏づける。 2) 信長公記以外の、例えば今川方の生き残りが敗北の過程を記した手紙が発見されるなどの「新史料の発見」がない限り、藤本氏の分析を覆すのは難しいと思われる。 詳しくは、上記の本をお読み下さい。 今川軍の出兵意図ですが 「尾張に食い込んだ今川家の拠点である鳴海城・大高城に対して織田家が築いた付城を攻略し、両城の守備を確実とし、付近の織田方の城をいくつか攻略することで尾張の今川領を確固たるものにする」 「鳴海城や大高城の西側にある知多半島の緒川城、三河西端の刈谷城を領する水野信元は織田側についていた。鳴海城・大高城の守備体勢が整い、この地域が確固たる今川領になれば、清州方面の織田家と切り離されてしまう。水野信元を今川家に寝返らせれば、尾張における今川家の勢力は大きく伸張し、同時に織田家にとっては大きなダメージとなる」 といったことが想定されます。清州城を攻略して織田家を滅ぼす所までは考えていなかったと思われます。 これに対して、信長は、「ヒットエンドラン方式で、今川家の各部隊を個別に攻撃して鋭鋒を鈍らせよう」と考えて清州城を出撃したと思われます。俗書に書いてある「梁田政綱の諜報活動」は史実とは認められません。「早朝から砦を攻撃して疲れた今川軍」を攻撃したはずが、その部隊があっけなく崩れ、その向こうにいた今川家の本陣 (まさか信長軍がここで攻撃してくるとは予想していない) を攻撃する結果になり、結果として義元の首を取ったわけですが、信長は「まさかこんなことになるとは」とさぞ驚いたことでしょう。 明らかに優勢であった今川義元が、思いもかけない経過で織田信長に討たれる結果となった桶狭間の合戦は、大東亜戦争におけるミッドウェー海戦と類似点が多いと考えます。 1) 日本海軍も今川軍も、敵の主力(米海軍機動部隊、織田軍主力)が出て来ることをあまり考えていなかった。 2) 日本海軍も今川軍も、敵より大きな兵力を持ちながら、その兵力を分散していた。 3) 勝敗は、桶狭間の合戦では「今川軍の本陣が破られ、総大将の義元が討ち取られた」、ミッドウェー海戦では「機動部隊の四隻の空母が米軍の急降下爆撃機の攻撃で炎上し、次々に沈んだ」ことでついてしまい、戦闘開始前は圧倒的に優勢だった今川軍、日本海軍は撤退を余儀なくされた。 桶狭間とミッドウェーでは、時代も戦いの規模も戦い方も全く違うのですが、「戦理」というのは時代を超えて変わらないものなのだなあと感じます。
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- aburakuni
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加藤廣さんの小説も全くその通りの線で書かれていますね。 そもそも当時の移動に関しては、占領を意図した軍全体では難しくても、小単位での移動は比較的可能であったと思われます。 義輝将軍時代には、信長に限らず上杉謙信なども上京した史実がありますし、上級家臣・貴族レベルでの移動は数限りなく、今川義元の周辺にはその参謀を含め沢山の京育ちが存在しました。 戦国後期になって新しい遣り方が台頭してくる中、過去の常識に囚われていた人も多かったので、信長が通過を黙認する事で合意が行なわれ、合意に反して義元を殺した後で復讐のため出城が落とされた、と言う話でも公記が作られたものであれば、ありえない話ではありません。 そう思っている訳ではありませんが、記述された事が真実とは限らないとすれば、途中経過については何でも在りえると言う事です。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >そもそも当時の移動に関しては、占領 そうなんですか!なるほど~。 桶狭間の戦いというのは、人を引き付ける魅力があるんですね。皆さんのご回答を拝見しまして、たいへん勉強になりました。 ありがとうございました!!!
NO,4 藤本氏の( 信長の戦争 )という著書のなかに ありませんでしたか 勘違いなら お詫びします 一度お読みになってください 桶狭間戦は 特に研究家が多く読み物や小説多くあります ミッドウエーと類似するといわれる方もけっこうおられますね 全然似ていなとおもうんですけどね(笑い) それから質問者さんへ 水野氏史研究会というサイトを訪ねてみてください 水野家を専門に研究されておられる方々です 非常におもしろいですよ 西三河に限らず 土地の所有はいまとよく似ている点があります 金で売買される加地子といわれるものですが この権利関係が複雑に入り組んでおりまして この面で見ると国境なんて線さえ引けない そんな裏面とか 水運の世界の今川派と信長派 つまり大雑把に統制経済か自由経済か 東三河の田原の水運業者は家康が竹千代のころ 今川に人質として送られるときに ぶんどりって織田方に売り飛ばしています 金ほしさではなくてね 今川の勢力範囲の中でですよ 当然 このあたりの頭目 地侍はあとで やられちゃいましたがね でも支配下の水運勢力の突き上げで断れなかったような事情もあったようです ここで今川に敵するのはどうみてもヤバイはずなんですけどね 渥美半島の田原 知多半島の水野 熱田 伊勢 水運は水運としてのつながりのなかでそれぞれの桶狭間があったことを思えば 興味がつきませんね 勝った 負けた 武勇 だけじゃない スカタン アホウ もたくさん埋もれています あなたのいう妄想は歴史に最適でしょう だれも何もはっきりとしたことはしりえないのですから(大笑い)
- buchi-dog
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「藤本正行氏によりますと、桶狭間合戦とミッドウェー海戦には驚くべき類似性があると主張されていますね」 藤本正行氏の著書には「ミッドウェー海戦」のミの字も出てきません。 信長公記の記載による桶狭間の戦いの様子と、史実のミッドウェー海戦の様子に類似点を見出したのは藤本氏ではなく私 buchi-dog ですので誤解されないよう願います。 藤本正行氏の著書は簡単に手に入りますので、ちゃんと読んでから批評してください。 また、今川義元が実際問題として何を目的に尾張に出兵したのかは、彼が尾張出兵の最中に討死してしまい、今川軍関係者の証言などが何も残っていない以上は推定するしかありません。 「今川義元が「相対的に価値は低いが明確な第一目標」として、付け城の排除を目的としてもっていたということ」 実際に、尾張出兵の最初の段階で大高城に対する付け城の鷲津砦、丸根砦を排除しています。この史実から「第一目標は付け城排除」であったと導けるでしょう。史実に立脚すれば、当然に行き着く帰結です。 「今川義元が「価値こそ高いが不明確な第二目標」として、信長主力の補足撃破を目的にしていたという史実があること」 残念ながら、今川義元の霊を呼んで語って貰わないと「証明」できませんね。それとも、義元が尾張出兵の意図を記した新史料でもお持ちですか?(笑)
NO,4再度です NO,6の方のミッドウェー論ですが 藤本正行氏の二重目標説ですね その説が成り立つには以下のことを証明しなければなりません 今川義元が「価値こそ高いが不明確な第二目標」として、信長主力の補足撃破を目的にしていたという史実があること。 今川義元が「相対的に価値は低いが明確な第一目標」として、付け城の排除を目的としてもっていたということ。 ミッドウエー海戦時の日本海軍当事者が矛盾する目標をもっていたということ。 そもそも「相対的に価値は低いが明確な第一目標と価値こそ高いが不明確な第二目標」を持っていると失敗を招くのは、どういう場合か。つまり、そんなに悪いことなのか、ということ。 藤本正行氏によりますと、桶狭間合戦とミッドウェー海戦には驚くべき類似性があると主張されていますね そして、それが信長が桶狭間で勝利し義元が首を失った主たる理由であるといっています ここが藤本氏のまちがいだとおもいますね 基本戦略はミッドウェー島を攻撃することを餌にして、アメリカ機動部隊を待ち伏せるのが本来の作戦だったはず 『信長公記』を読むと、今川方は信長の後詰を封じているのです。完璧に第一優先順位としての手順を踏んでいます。決して、付城攻囲を餌にして信長主力を釣上げようとしているのではない それも御丁寧に信長の後詰方向を中島砦方面からの一ヶ所にしかならないようにしておいて、義元自らは田んぼの中の一本道を後詰に来る信長に対して、漆山に本陣を置いてこれを妨げようとしていたのです。ですから藤本氏のいう2砦排除が相対的に価値が低い目標だなどと言えますかね 義元はきちんと手順を尽しています。信長の補足撃滅が第一の目的ならば、信長を後詰に誘致することに知恵を絞るはずではないのでしょうか。そして、鷲津砦などは絶好の囮にできたはずです。それなのに、それを攻め落としてしまっているのです。駿河勢は信長主力の後詰を受けないように、満潮時を狙って攻撃を計画しているのです。大軍であるはずの今川勢がです、鷲津・丸根を囮にして後詰に出てくるだろう信長を撃てばよかったのですが、それをするどころか、信長が後詰できないように伊勢湾の満潮時を狙って攻撃をしているのです。義元は信長勢の出現を恐れているとしかおもえません。わざわざ満潮時に攻撃を企画して、信長主力との決戦を回避していたとしかおもえませんよ。義元は信長が確実に後詰するだろうことを「明確に予想」していたはずです。ですから、アメリカ航空艦隊が現れるか否か判らなかったミッドウェーの南雲艦隊の場合とは違います。ただ、どういうわけか、その 信長は遅れて現れた。信長の主力が目的ならば、付け城を餌にして誘い出して決戦することは、十分に実現可能な作戦だったのです。そして、それを織田方も承知していたのですから、これをもって、信長を米軍航空艦隊と同じとすることはできません。なにしろ、通説では義元には自らが率いる本隊が予備兵力として沓掛城にあるわけですから。つまり、義元にとって、信長主力は価値の高い第一目標でも、不明確な第一目標でもなかったということでしょう それから陸戦と海戦の違いですが、近代海戦では大海原で敵艦隊に遭遇するのは至難の業でしょう。しかし、陸戦では違います。日本の場合は行軍できる道自体が少ないのです。それに大軍を展開して戦場にできる場所も限られているのです。とにかく日本の国土は利用可能な地域は限られているのです。それに戦国時代には国土のいたるところに城砦が乱立していたのです。もしかすると村落ごとに砦があったかもしれません。しかし、大軍を集結させられる場所は限られています。戦略要地にしろ戦術要地にしろ、敵も味方も考えることは同じなのです。敵に見落してもらうことは、そうそう期待できるものではありません。ですから、信長の居所がわからなかったということなどは論外だと思うのです。 ついつれづれに書いてしまいまして 質問者さんの和議の件ですが 大軍を展開できる場所でもなく さりとて一気に清洲を攻めるわけでもなく 沓掛に予備兵を置いて 領土確保拡張といった 決戦なんてめっそうもないことであるがごとく (戦国時代は決戦なんてしません 決戦をさけて領土確保の方法を考えるのが第一番 数で脅かす それを確実に物語っている戦いは川中島でしょう 何度も対峙しながら回避しているでしょ)和議をむすんで油断させ奇襲するは 歴史読み物として書いてください
お礼
ご回答ありがとうございました!!!!!! >ついつれづれに書 やはり無理があるんですね。 tenkadego さんと buchi-dog さんのご意見を拝見しまして、感嘆というか感動しました。いや~、すごいですね!
- buchi-dog
- ベストアンサー率42% (757/1772)
「織田信長は降伏または和議を今川義元と結び、これを一方的に破棄し奇襲した、という妄想はありえませんか?」 妄想でよいのなら、証拠は要りませんからいくらでもストーリーを作れますね。 例えば 1. 今川義元が軍勢を率いて尾張に出陣し、今川軍の大高城に兵糧を入れ、丸根砦・鷲津砦を攻略して大高城周辺の織田の兵力を駆逐した。義元は旗本に守られて今川方の沓掛城を出、大高城に向かっていた。 (史実の桶狭間の合戦の直前の状況です) 2. 織田信長は、今川に偽って降伏を申し出た。即ち、嫡子の信忠 (と称する幼児)を今川方と面識のある有力家臣に伴わせて今川家の本陣に派遣し、 「嫡子の信忠 (この時3歳) を人質に差し出して義元公の麾下に入ります」という口上を述べさせた。 《何の証拠もない妄想です》 3. 義元は、織田が軍門に下ったことに安心し、とりあえず『桶狭間』(具体的にどこかは今でも良く分からない)に陣を敷いて休憩して、『信忠』を引見した。 (「桶狭間に陣を敷いた」以外は、何の証拠もない妄想です) 4. この隙を狙い、信長は直属の精鋭部隊(約三千人とされます)を率いて今川の本陣を襲い、義元を討ち取った。 (概ね史実です) 5. 信長は、(3)のような「偽りの降伏申し入れ」で義元を(4)のように油断させてその隙に奇襲をかけたことは恥であるので、(3)で「信忠」を今川家の陣に連れて行った家臣には固く口止めをした。よって、この事実はその後の歴史には残っていない。 信長に関する最も信頼すべき史料と言える「信長公記」を書いた太田牛一も、この織田家の最高機密は知らなかったので、信長公記には何も書いていない。 (3の妄想を合理化するための屋上屋の妄想です) こんな感じでいかがですか?「信長の偽りの投降」と「その事実は固く伏せられた」という二つの妄想を作るだけで、桶狭間の合戦の「奇跡の勝利」が説明できてしまいました。 なお、この時点での今川家の勢力ですが、近年は 「義元が駿河・遠江・三河の太守といっても、石高にしたら大したことはない。尾張を概ね統一した信長が地元で迎撃する場合、『圧倒的な兵力差』ではなかっただろう」 という意見もありますが、賛同しかねます。 1. 尾張は木曽川他の大河川の氾濫原が多い。こうした地域は、戦国時代から江戸時代にかけて大規模な治水工事が行われてはじめて安定した耕地になったものである。即ち、桶狭間の合戦の頃の尾張の生産力は割り引いて考えねばならない。 2. 駿河・遠江・三河の今川領国については、「大河川の氾濫原」と言える地域は少なく、その生産力は戦国時代も江戸時代もさほど変わらなかったと思われる。 3. 今川家は、相模の北条氏、甲斐の武田氏と三国同盟を結んでいた。これは、三大名が「戦うより和睦して背後を固めた方が良い」と考えたことによるもので、三大名の勢力は概ね均衡していたと思われる。 ざっと考えて、各大名は100万石前後の勢力を持っていたと考えられる。(桶狭間の合戦の段階では、武田家が一番少なかったと思われます) 4. 桶狭間の合戦の時点で、今川家の領地は、駿河・遠江・三河 (三河の西半分は今川傘下の松平家の領地)に加えて尾張の4分の1程度であった。石高に換算して100万石を超えていたと考えられる。 http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html の数字から、戦国時代のこれらの国の石高を推定して下さい。 5. 桶狭間の合戦の時点で信長の確実な領地は30万石程度ではないか? 6. 今川家は、本国に氏真を守備に置いており、武田家・北条家との三国同盟が機能していることもあり、本国にはさほどの兵力を残さずに尾張に遠征できたはず。 7. 桶狭間周辺に両家が動員できた兵力は、今までの通説どおり、今川と織田が3対1から4対1程度だったと推定できる。 野戦でまともにぶつかれば、織田家に全く勝算がない程度の兵力差となる。
お礼
ご回答ありがとうございました。専門家の知識というのはすごいですね!!! 兵力差(石高)に関しては結構ばらつきがありますよね。 buchi-dog さんにお時間があればでいいのですが、buchi-dog さんのシナリオがご回答の中では書かれていないので、是非是非お聞かせ下さい。やはり一般的な説が有力なのでしょうか?
- tra55
- ベストアンサー率10% (5/48)
現在、愛知県の西半分と静岡県、どちらが 人口が多いでしょうか?たぶん今も昔も そんなに両地域の差は変わらない、あの当時 でも尾張は人口が多いところで 尾張が全部、結集したら駿河遠江の軍勢でも 対抗できる勢いであり、今川は尾張が 統一していない情勢をみて侵攻したのです。 つまり今川方の有利な展開は織田信長が 領有した南部尾張と敵対する同族織田の 北部尾張も今川の侵攻と同時に南下攻撃したら たぶん織田信長は討たれていたでしょうが そうはならず、たぶん北部尾張も南部尾張が 滅んだら次は自分らが今川の餌食になるため 静観の構えをしたため信長は背後を気にせず 今川の迎撃に集中できたのでしょう
お礼
ご回答ありがとうございます。なるほど~、北部尾張ですか。 織田方の諜報活動によって、今川方は見誤ったのでしょうか。 近視眼的発想ではだめですね。ありがとうございました!
残念ですが ありえません まず最初に奇襲ではない ということは近年の研究でわかっています 和議ですか ではどんな条件なら今川は飲んだでしょうか 信長が西三河からはすべて引き上げ差し上げますということですかね 天白川を越しますと(鎌倉街道上の道) 清洲まで(20Kmもない)山もなく地理的にも何の障害もありませんので一気にかこまれてしまいますので 終わりですですから西三河で踏ん張るわけです 敵を自国に入れない (油断させるためにだとしても現実的じゃない) この戦は桶狭間戦ではなく西三河の国境紛争戦なんですよ どうみても この時点まで 信長の鳴海 大高城への締め付けがきつくて 大高城の守将 今川方の鵜殿は本国に頻繁に兵糧の催促を送っています (つまり泣きを入れている) 兵糧の確保もままならなかったという事情を物語っています 今川家文書に残っています つまり信長の優勢ということになります この状況を変えることが 今川方の第一の目的だったのですよ 鷲津 丸根の砦をつぶして 大高に兵糧と新しい守兵(家康が交代要員)をたっぷり入れる あわよくば 中島 善照寺 丹下 もつぶしたいが ムリはしない が出陣まえの今川の基本戦略です 間違っても 上洛なんてことは 考慮外です 尾張を攻めつぶし 隣の美濃に何年かかるか そして近江 やっと京ですから とても現実的な話ではありませんね それと知多半島の水野家の動向に対しても 恫喝する意味もありましたね 水野も一族としては織田方でしたが この紛争時は 積極的に動いていません この勢力がもしはっきりと織田方に付くとなれば 今川の戦略はまったく違ったものになっていたでしょうし 義元も死ぬこともなかったのかもしれませんね 水野も自家保存もありますから一族の中 で今川と二股をかけたり 通じたり 信用させた面もあったのでしょう 水野は刈屋の城を差し出しています 一応義元は油断せずの方針で 西三河に出張してきたというわけです 出張です そんな感じ まさか 義元が こんな紛争に直接現場に出てくるとは信長も考えなかったのではと 岡崎か沓掛で指揮をとるのが 普通 一度 信長公記と三河物語をお進めします 読んでください どちらがより信憑性があるかは 議論がいりますけど それは義元が襲われる前 東を向いていたか西だったかということです 信長公記はいまいちはっきりしませんが 巷では 大高へ進軍(西へ)中に乱戦になり・・・・ 三河物語は 初期の目的(大高兵糧搬入守兵交代、丸根鷲津のつぶし)を達して本隊は沓掛城へ撤退中と読みとれるのですよ(先鋒朝比奈はその時もう岡崎城まで戻っています、義元死亡は岡崎で聞いています) 最後に 桶狭間一帯は大軍が展開しにくい地形ですよね となりで何があってもわからない分散形布陣(連絡連携不十分)だったようですし 信長は一度も奇襲なるものをしたことはないようです 国内統一戦は勝ったり負けたりしながら学習したみたいですね 下手な戦もあったみたいですね これは譜代の家来衆(職業、戦争のプロ)や一門衆を使いにくかった面があって(ほんとうはいろいろトップダウン型の信長にはめんどう) ほとんどは小姓馬廻り衆の直属800人ぐらいで 戦っています 相手に 団結さえさせなければ 結構この人数で勝っちゃうんですね もちろん数の優位のため 一応 出陣の触れは出しますが 来るこないは それほど気にしなかったんじなかったかと おもいます 戦闘においてはですよ 正攻法一本
お礼
ご回答ありがとうございます。確かに、上洛が目的であるという説は、 tenkadego さんのご意見からすると、ちょっと非現実的ですね。なるほど。そうですね。 >まさか 義元が こんな紛争に直接現場に出てくるとは信長も考えなかったのではと 岡崎か沓掛で指揮をとるのが 普通 軍師がいれば変わっていましたかね。確か5年前に亡くなったんですよね。
桶狭間で今川勢を休ませるために、諜報活動で織田方に降伏、和議の動きがでているとの情報を流した可能性はあります。しかし、信長にとって今川はいつか倒さなければならない相手であり、今川にとっても京都への道に居座る邪魔者でしたから、たとえ和議を結ぼうとしてもまったくの偽りにしかみえませんので、無駄なことはしなくても倒せると考えているからこそ、京へ進発したのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。可能性はあるんですね?なるほど~。 ただし、効果はないということですね? ありがとうございました!
- oyazi01
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2万から4万の兵力を持っている今川軍に対し5千ほどの兵力しか持ってない織田軍。このような兵力の違う両勢の中で和議を結ぶと言うことは絶対に行われない。今川から見た織田は飛んでくる蚊みたいなもんだから踏み潰せば良い。逆に相手を”蚊”に見立てた今川は桶狭間で負けてしまった!と思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7#.E9.95.B7.E7.AF.A0.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84.E3.81.8B.E3.82.89.E8.B6.8A.E5.89.8D.E4.BE.B5.E6.94.BB ここのサイトを見てください。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >逆に相手を”蚊”に見立てた今川は そこまで油断していたのですか。負けるのもうなずけますね。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
空白の桶狭間 (単行本) 加藤 廣 (著) これか?
お礼
ご回答ありがとうございました。 空白の桶狭間 (単行本) 加藤 廣 (著) 絶対読みます! ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました!!!! やはり、上洛が目的というのは現実的ではないのでしょうね。 >大東亜戦争におけるミッドウェー海戦と類似点が 興味深く読ませていただきました。 >信長は「まさかこんなことになるとは」とさぞ驚 米海軍機動部隊は、どうだったんでしょうか?計算どうりだったんでしょうか。