• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:不可知とは どういうことですか?)

不可知とは?

このQ&Aのポイント
  • 不可知とは、知り得ないことを指します。
  • 経験世界を超える領域が不可知であり、可知か不可知か分からないとされます。
  • 不可知とは、可知の領域の限界を知った状態を指し、未知だけではないとされます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#135843
noname#135843
回答No.12

 続きからでございます。 > ☆ その出来ないという点を取り立てて《不可知》という規定をしてもよいと思いますが 《知り得ないかたちで 解はあるということを人間は知っている。言わば永遠の未知である》と規定してもよいように思われます。  未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。 > ☆ 解を知ることじたいは永遠に不可知であったとしても その不可知の解があることを知っていれば じゅうぶんだ》という余地はもうありませんか? 風邪の原因は分からないのでしょ? 不可知とは言いませんよね?  おそらく、その問題に取り組んでいる一部の物理(数学 or 化学)者以外は、「解(対象)があるというだけで、じゅうぶん」と思われます。少なくとも“安心感”はえられると思われます。 なお、とても細かいことではございますが、“風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%82%AA からでございます) > 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか?  以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96 からでございます)  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。何だか ひどっちさんにとっては 初めから分かっていることであるようにも映り どうしてよいのか弱ってしまいますが――ご回答をまことにありがとうございます―― わたしとしては一つひとつ確実に知るようにしてまいります。  ★ “風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。  ☆ 病因となるヰルスにしても 型がいくつもあり複雑になっていて 処方するすべがむつかしいのだとか。そういうことでしたか。すみません。でもそれを 不可知とは言わないのですよね? 二重のあやまちを侵すかも知れないのですが どこかよく似た事態であるようにも思ったりします。  特定のかたちでなくても解があることは分かっている。けれどもこれを知ることは いまはお手上げである。    ただし  ★ 未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。  ☆ と表現する事態は あまり意味がなかったようですね。いま証明によって不可知だと分かれば そのことが一応 知性を支配する。  ★ ・・・つまり、“電子雲”とは電子がそれぞれの位置に存在する確率の高い領域を示したものとのことだそうです(イメージがつかみにくいのですが)。  ☆ という“ペンタセン(ベンゼン環=亀の甲が5個つらなったものです)”の顕微鏡像の撮影に成功した事例というのは 不可知の壁に迫るものと見てよいでしょうか?  ★ その後、高等数学を用いた手法(“代数的”手法以外の方法)ではございますが、シャルル・エルミートにより、五次方程式が解かれるようになりました(“六次”以上は未だのようでございます)。つまり、別経路の道筋であれば可能であったということでございます。  ☆ という事例もあるのですね。  そして  ★ 原則、解は存在すると考えられます。ただ、量子論の場合、一般常識からは逸脱したものになろうかとは考えております。  ☆ ということなんですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか?  以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは   ▲ (ヰキぺ:不可知論) 宗教的には純粋に「神はいるともいないとも言えないのだ」とする公平な中立的不可知論  ☆ の箇所ですね。そうして この記事をわたしも読みまして 回答No.9へのお礼欄で次のようにわたしは反応しました。  ○ どうも《不可知》という訳語がよくないのではないか? それは《非知》――つまりは わたしの用語で《非思考》のことですが――とすると分かりやすいのではないか?  ☆ すなわち こうです。  1. 《絶対》の想定。  2. これを擬人化して 《絶対者》と表わす。さらには 《神》を当てる。  3. 《絶対》の想定は そのまま経験世界を超えた場としてであるので そのまま初めから 《非思考》つまり《思考としての有る無いは超えている》。  4. つまりこのことを 《神はいるともいないとも言えないのだ》と表わしている。  5. すなわち 《 agnosticism 》は 《不可知論》と訳すのではなく むしろ《非知の場 もしくは 非思考の理論》と表わしたほうがよいのではないだろうか?  ☆ となります。わたしとしましては これですっきりしたのですけれど ひどっちさんやみなさんは どうでしょう?

その他の回答 (47)

noname#135843
noname#135843
回答No.18

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。  ご紹介いただきましたサイトでも、同様に調べてみました。 http://www.etymonline.com/index.php?search=agnosticism&searchmode=none  ?  なお、前半は既にご承知のことかと存じますので、省略させていただいております。 Sometimes said to be a reference to Paul's mention of the altar to "the Unknown God," but according to Huxley it was coined with reference to the early Church movement known as Gnosticism  "the Unknown God,"は、使徒言行録17章23節からのものと推察されます。おそらく、 Huxleyは、積極的な信仰を持ち出したくはなかったものと思われます。次に、Gnosticismを参考にしているとの記述が見られます。“自己の本質と真の神についての認識に到達が(知によって)可能”とするグノーシス主義の対義語として("a-"を用いることにより)造語したように考えられます。 従いまして、少なくとも、Huxleyにおきましては、“decided to be unknowable”or“beyond?human?ability?to?discover”のように考えられます。 使徒言行録17章23節 『知られざる神に』実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 > ☆ ということは 《いまは知り得ないが 将来はどうなるか分からない(知り得るかも知れない)》でしょうか?  一方、当論文のfull textを入手しましたので、ざっくりと読んでみました。 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20467921 (Abstractが載せられております)  Agnosticは、“anti-CD40 mAb, 5C11”にかかる形容詞の役目を担っているものと考えられます。しかし、この5C11についての記述を見てみますと、以下のものがございました。つまり、既知の文献 [6, 7]で、既に知られているもののようなのです。 「The anti-CD40 mAb, 5C11, were produced at Biotechnology Research Institute of Soochow University (Suzhou, China) [6, 7].」  因みに、[6]は、以下のものでして、1999年に報告されたものでございます。 [6] Zhou ZH, et al. Vol. 18, p.471, (1999).  従いまして、既に存在は知られているにもかかわらず、agnosticという表現を用いています。おそらく、既に存在は知られているが、機能については“未知”というものかと考えられます。そして、結論としまして、下記文章が載せられております。 「It is concluded that use of the anti-CD40 mAb 5C11 in combination with chemotherapy may have significant therapeutic potential.」  つまり、「我々の研究により、(頸部癌に対して)、the anti-CD40 mAb 5C11と科学療法との併用により、有効な治療効果が見られる可能性がある。」  というものでございます。つまり、基準を甘くすれば、“可知”にろうかと考えられます。  なお、以下のgoo英和辞典では、以下の和訳がございました。科学(生物学)では、以下に示しておりますような、” 明確な見解のない”ぐらいが適当かと考えられます(作られてから200年以上経ちますので、意味合いも変化してきたものと推察しております)。 ━━[形]不可知論(者)の;失認症の;明確な見解のない. (http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/ej3/1519/m0u/agnostic/ からでございます)  申し訳ございませんが、次のご質問にお答えさせていただきたく、とりあえずは、当ご質問に、筆をおかせていただこうかと思っております。  お付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  科学論文のほうですが もし  ★ 従いまして、既に存在は知られているにもかかわらず、agnosticという表現を用いています。  ☆ ということでしたら ひょっとしたら 誤植の可能性は ないでしょうか? すなわち 次のように 《 anti-CD40 ・・・》を修飾する形容詞には 別のところで 《 agonistic 》というこんがらがりやすい語も出て来ているからです。  ▲ (Sensitization of SiHa cell to gemcitabine by CD40 activation and ・・・) ~~~~   http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20467921   (あ)・・・evaluated the effect of ≫ agnostic ≪ anti-CD40 mAb (5C11) on tumor cell line (SiHa).   (い) Treatment of the SiHa cell with the ≫ agonistic ≪ anti-CD40 monoclonal antibody or Gemcitabine alone  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むろん意味は分かりませんで しかも goo の辞書ではらちがあきません。次の辞書がみつかりました。  ◆ (ライフサイエンス辞書) ~~~~~~~~   http://ejje.weblio.jp/content/agonistic  ○ agonistic:アゴニストの, 刺激薬の, 作動薬の, 受容体刺激薬の, 作用薬の  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしには 具体的にどういう意味なのかまだ分かりませんが これでしたら たぶん合っているだろうと思いました。――でも agnostic と agonisitic との二つともが 正しい使い方になっているのかも分かりません。可能性としてでした。  ★ 使徒言行録17章23節:『知られざる神に』  ☆ 一応調べました。  ■ ’Aγνωστωι θεωι ( Agnoostooi theooi ) / IGNOTO DEO  ☆ 意味は 与格ですので 《 to Unknown God 》であるはずです。ギリシャ人たちは その神の名を知らずに・もしくは 仮りにどういう説明のもとに理解するのがよいのかを知らずに 神をあがめていた。その《知られざる神に》という言葉が ギリシャ人らの祭壇に刻まれていたというところのようですね。    あと  ★ 従いまして、少なくとも、Huxleyにおきましては、“decided to be unknowable”or“beyond?human?ability?to?discover”のように考えられます。  ☆ というように ハックスリにおいては 《知り得ない》という意味でも使っていたとおさえておく。こうですね。  ありがとうございました。あたらしい別の質疑応答においても もしこの主題について新知見などがありましたら そのつど伝え合って行けばよいと思います。  ほかの方がたのために もう少し開いていましょうか。

noname#131237
noname#131237
回答No.17

知らないなら答えなければよいのに 自分で稚拙と認める回答者もなんですけど、 「不可知の」は、カトリック用語で普通、「無神論者の」という形容詞の同義語です。 指摘してもまだwiki依存は、変わらないようですね。質問者様も回答者様ももう少し知識をつけるべきではないでしょうか。教えてという割には素朴に学ぶ心がないように感じられます。表現にはご注意ください。(知識のない回答者のほうが問題ですけど)

bragelonne
質問者

お礼

 たらこさん ご回答をありがとうございます。  ★ 「不可知の」は、カトリック用語で普通、「無神論者の」という形容詞の同義語です。  ☆ ですから 世界はカトリックだけから成るわけではないので ほかの見解も知ることが大事でしょう。  ヰキぺでは 《非思考の理論 agnosticism 》に立つ者も 具体的な信教ないし良心の立ち場としてはさまざまに分かれているということを明らかにしていますよ。  ▲ (Wikip: agnosticism ) ~~~~~~~~~~    http://en.wikipedia.org/wiki/Agnosticism  § Types of agnosticism   (1) Strong agnosticism    The view that the question of the existence or nonexistence of a deity or deities and the nature of ultimate reality is unknowable by reason of our natural inability to verify any experience with anything but another subjective experience. A strong agnostic would say, "I cannot know whether a deity exists or not, and neither can you."  (2) Weak agnosticism    The view that the existence or nonexistence of any deities is currently unknown but is not necessarily unknowable, therefore one will withhold judgment until/if any evidence is available. A weak agnostic would say, "I don't know whether any deities exist or not, but maybe one day when there is evidence we can find something out."  (3) Apathetic agnosticism    The view that there is no proof of either the existence or nonexistence of any deity, but since any deity that may exist appears unconcerned for the universe or the welfare of its inhabitants, the question is largely academic.  (4) Agnostic atheism    Agnostic atheists are atheistic because they do not have belief in the existence of any deity, and agnostic because they do not claim to know that a deity does not exist.  (5) Agnostic theism    The view of those who do not claim to know of the existence of any deity, but still believe in such an existence. Ignosticism  (6) Ignosticism    The view that a coherent definition of a deity must be put forward before the question of the existence of a deity can be meaningfully discussed.(以下省きます)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でしょ?   (4)と(5)のように ともに非思考の理論にもとづき 有神論と無神論とが出てくるということも分かります。  そして《不可知》という用語は この質疑応答を通じて 旧くなったようです。  あと 《あやまつなら われ有り》と言います。

bragelonne
質問者

補足

 たらこくん 自分で自分が恥づかしいだろ?  お礼欄の言葉では 愛が足りなかったかと反省したもんで。  こう言っときゃ つぎから顔を出しやすいだろう。

noname#135843
noname#135843
回答No.16

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。  また、稚拙な科学的説明に終始してしまい、深くお詫び申し上げます。 ・“Agnostic”は、1876年、形而上学学会のミーティングでのスピーチで、Huxleyにより用いられた造語である。 ・語源的には、ギリシャ語の a-: without + gnōsis: knowledgeに由来する。また、サンスクリットの“knowledge less”を意味する"agnanam"からの由来の可能性もある。 ・Huxleyが用いた理由は、心霊主義や神秘主義に関する全ての“knowledge”を排除するのが目的であった。 ・初期のキリスト教教会のリーダーは、ギリシャ語の”gnosis (=knowledge)”を、“心霊主義的知”を述べるにあたって用いていた。 ・Agnosticismと、古代のグノース主義信仰活動に対立する宗教的見解とは、混同されるべきではない。 ・Huxleyの用いたのは、より広く、抽象的な意味合いであった ・また彼は、この“agnosticism”を(宗教的)信条といったものではなく、懐疑的かつ、実証に基づく質疑の方法とみなした。 ・最近では、神経化学や心理学に関する科学論文にも、”not knowable”の意味としてこの言葉を用いている。 (http://en.wikipedia.org/wiki/Agnosticism の“Etymology”からでございます)  実際に、科学論文でも調べてみました。なお、著者は中国人ですが、出版社はHumana Press Inc.というアメリカの出版社でございます(論文がacceptanceされている以上は、ほぼ間違いなく、nativeの人の審査を経ていると思われます)。 Huang Q, et al. “Sensitization of SiHa cell to gemcitabine by CD40 activation and its overexpression in cervical carcinoma.” Med Oncol. 2010 May 14. [Epub ahead of print] のabstractからです。 「This study investigated the expression of CD40 on cervical carcinoma and evaluated the effect of agnostic anti-CD40 mAb (5C11) on tumor cell line (SiHa).」 [愚約]  当研究では、頸部癌におけるCD40の発現を調べ、そして腫瘍細胞群(SiHa)の表面上における” agnostic(=効果が理解できない?)”抗-CD40モノクローナル抗体(5C11)の効果を精査した。  この用法を見ましても、“将来的にも永遠に分からない”という意味ではないように察せられます。と申しますの、抗-CD40モノクローナル抗体(5C11)は既知のものですし、また、“絶対に分からないもの”を調べよう、もしくは、評価しようとは考えないと思うからでございます。つまり、愚生の今までの見解が間違っていたということでございます。 元来は、「神性の(実証主義的な)認識は不可能である。」といった意味であり、また、そもそも意味合いが、広く、抽象的なものであったと解せられます。  結論と致しましては、《思考としての有る無いは超えている》さらには、《神はいるともいないとも言えないのだ》とのご質問者様のご意見と、同義であると考えられます。 > すなわち 《 agnosticism 》は 《不可知論》と訳すのではなく むしろ《非知の場 もしくは 非思考の理論》と表わしたほうがよいのではないだろうか?  仰られますように、“不可知”としますと、何かと誤解を招きやすいかと思われます。そして既に学術論文では、元来の意味とは若干のズレも見受けられます。愚生の貧弱な表現力では何とも申し上げられないのですが、“非思考の理論”、“非認識の領域論”ぐらいが適切かと思われますが…….  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 いや いえ まだまだ分かりません。とまづは反応いたします。  ひどっちさん 英語版ヰキぺにも当たっていただき ご回答をありがとうございます。  というのも 何だか両方の意味あいがあるようにも思われて来ました。《知り得ない( つまり 知り得ないと分かっている decided to be unknowable)》と《非知(つまり 知り得るかどうか分からない unknowable to decide whether it be knowable or unknowable )》とです。  まづ 最新の科学論文でつかわれた《 agnostic 》の用法を紹介していただきました。  ★ この用法を見ましても、“将来的にも永遠に分からない”という意味ではないように察せられます。と申しますの、抗-CD40モノクローナル抗体(5C11)は既知のものですし、また、“絶対に分からないもの”を調べよう、もしくは、評価しようとは考えないと思うからでございます。  ☆ ということは 《いまは知り得ないが 将来はどうなるか分からない(知り得るかも知れない)》でしょうか? 《限定的な不可知であり 長い目で見て未知としてよいかも知れない》でしょうか? 長期の視点と大幅に甘い解釈を前提とすれば 《可知》の領域に入るということになるかも知れません。  英語版ヰキぺでは 無神論との対照などに細かく触れているようですが さすがのひどっちさんも これには うんざりされたのかも分かりません。とにかく 神の存在証明を理性によって試みている人たちですし 出来たと言っている場合さえあるようですから 取り敢えず今はわたしも触れません。  全体として思うところを書きます。  まづ  agnostic の 否定相を表わす接頭辞 a- は むろん a-theism (無神論)の 接頭辞と同じです。   a-nonymous や an-archy の a-, an- ですし あるいは   un-knowable の un- ですし また   i-gnoble ( = not known 。すなわち この gno- は a-gnostic の gno- ですし 何を隠そう know の kno- とも同じ語です。独語は kennen ですね)の i- も同じですし これは   in-direct の in- などとも同じで みな同じひとつの接頭辞のようです。(母音交替が起きています)。  cf. Online Etymology Dictionary: un- http://www.etymonline.com/index.php?term=un-  そこで atheism を無神論と訳すのなら agnostic をどう訳すかになるようです。そしてたしかに《知 gnosis が無い a- 》と言っているようです。たぶんこれは《知がはたらかないところ・知とは無縁な》と採ればよいのかも知れません。  そして 部分的に一時的にまた一定の条件のもとにおいては 《知り得ない・不可知》という意味で使う場合がありうると。  そしてもし 《 agnosticism 》を《非知の場 ないし 非思考の理論》と採ってよいとなれば このいわば中立の場から 具体的に 有神論( theism )と無神論( atheism )とが 人それぞれによって信教の自由のもとにえらばれるのだと考えられます。(我田引水ですが)。  科学の分野で《知り得ない》という問題が現われるのか どう現われるのか 今後にもその余地を残すとすれば その主題としての《可知・未知・不可知》の区分が議論されるかも知れませんね。  何だか途中で 字句のとおりに我が田に水を引いてしまったようで ばつのわるい質問になった感じがあります。  もともとは 神を《不可知》と言ってしまっては 不可知というカテゴリに神を押し籠めて平然としていると感じられたものですから 物言いに及んだのでした。  みなさんから まとめとしての感想やらをもう少し開いていて待つことにします。むろん さらに反論がありましたら それもお待ちします。  ひどっちさん たいへんありがとうございました。とひとまづ ごあいさつをいたします。

回答No.15

不可知という場合、限定された手段に由来して知ることができない(未知) のではなく、「どうやっても知り得ない」というニュアンスです。 たとえば、相対性理論において、相互作用の最高速度は光速であり、 光速以上で到達できる領域は「不可知」です。 一般的には、そうした超光速領域も時間の経過によって光速以下の作用の 領域に入ってくるので、人はそこも連続的だと考えますが、実は相対性理論 において、超光速ではエネルギーが虚数になるとされ、光速以下の実数世界 とオーバーラップし得、かつエネルギーは相互作用において自乗なので マイナス=時間軸逆行と等価になるのです。 その結果、過去(超光速)の「内=物体」は、未来(光速下)の「外=空間」と 連続する=過去と未来の“物体”の中と外が入れ替わるので、重ね合わせる と不確定性原理の確率波動に基づく存在は、その波動の山が重なって平ら になる=無限不確定性(=無)に還元されます(「過去(記憶=超光速)」と 「未来(予測=光速下)」は、感受表面での量子相互作用(光速=現在)に 還元される(「重ね合わせ」られる)。 つまり、「無いとは分からないことが有」であり、全知全能(=絶対化) なら無になります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  補足欄に書くべきことを書きます。どうせ答えは返って来ないでしょうから。  ★ 不可知という場合、限定された手段に由来して知ることができない(未知) / のではなく、「どうやっても知り得ない」というニュアンスです。  ☆ ここまでは分かります。  ★ たとえば、相対性理論において、相互作用の最高速度は光速であり、 / 光速以上で到達できる領域は「不可知」です。  ☆ たとえば  1. 《光速以上で到達できる領域》というのは 現実なのですか?  2. もしそれが《想定》だとすれば 《不可知》ではなく 《可知とも不可知とも まるで見当のつかない領域》であり そういう想定上のことがらとして 現実である。のではないですか?  3. そのあとの文章をも合わせての問いになりますが 過去とか未来とかは あくまで《光速以下の実数世界》つまりその意味での現実世界における時空間の経過を言うのではないですか?   4. つまり超高速の世界は そのときにも これら過去・現在・未来という時空間をも超えた想定上の領域ではないのですか?  5. ★ 実は相対性理論 / において、超光速ではエネルギーが虚数になるとされ  ☆ というところ ここらあたりが じつは分からないので 何とも困り果ててはいますが 上のように問い求めたいとは思いました。  6. ★ つまり、「無いとは分からないことが有」であり、全知全能(=絶対化) / なら無になります。  ☆ ここなどは ねじり鉢巻きをねじり返しても なかなかむつかしくて 弱っています。  たとえば 真空というのは 何も無いのではないでしょう? 何かは有るのでしょう?   もしそうだとしたら 絶対無というのは これも 想定上のことだと思うのですが どうなんでしょう?  そう考えつつ 理解しようとするのですが なかなかまとまりません。  気が向いたら 投稿してみてください。

noname#116216
noname#116216
回答No.14

不可知とか、可知とかの問題じゃないと言うのもあるし、体験してるけど知っては居ないってだけの場合も在りそうですよね。 喩えばある木の実を食べる鳥がですね、それが主食なんで、その食べ物が自分にとってどれほど適しているのか、他の食べ物と比べようとも思わず違いを理解できないみたいなもんでしょうか。 なんでこれ食べないの、わかんねぇなぁみたいなね。俺達の主食じゃん、みたいな。このときのわかんねぇなぁは、当たり前だろ、ってところですよね。食べない方がおかしい。っていうか、みんな既に食べてるのに、わからない。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ こんばんは。はるきさんでしたか。(お名前は 韻を踏んでいますね)。ご回答をありがとうございます。  ★ 喩えばある木の実を食べる鳥がですね、それが主食なんで、その食べ物が自分にとってどれほど適しているのか・・・食べない方がおかしい。っていうか、みんな既に食べてるのに、わからない。  ☆ これは どうも《非知 もしくは 非思考》の理論のことを言っておられますか? つまりそういう意味での不可知の領域のことを です。つまりもっと早く言えば 信仰という現実 でしょうか?  ゆえに すでに《食べている》のだから  ★ 不可知とか、可知とかの問題じゃないと言うのもあるし、〔* もっとあからさまに言うならば〕 体験してるけど知っては居ないってだけの場合も在りそうですよね。  ☆ というおかしな話が現実であるっていうところでしょうか?  すなわち いわゆる無神論の立ち場の人びとは よっぽどその立ち場について 胸に手を当ててゆっくりじっくりと説明することができるように 自己了解を果たすのが望まれます。と思います。どうでしょう? これでいいですか?

noname#131237
noname#131237
回答No.13

補足要求です。 WIKIが常に正しいというのは、なぜ? WIKIは哲学とは違うような気がします・・・ あと「WIKI」と「自分の意見の羅列」をリンク先にして知ったかぶりするのはなぜ? ただの意見というのも哲学ではないですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 たらこさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。たらこさんには おっしゃるように映ったということなのですね。  言い訳もしつつ どういう魂胆であるのかを明らかにしてまいります。  ★ WIKIが常に正しいというのは、なぜ?   ☆ ヰキぺは――わたしの方針としてですが―― あくまで参考資料です。一応 対立する見解のどちらをも紹介するというので たたき台にすることが わたしは 多いです。  《正しい》という言い方は ヰキぺの記事に限らず わたしはしていませんし 一般にもしていないと思っているのですが? つまり 妥当性のある内容を心がけている といったところでしょうか。その程度だとも言えるでしょうし その程度がそもそもむつかしいとも言えると思うのです。  ★ WIKIは哲学とは違うような気がします・・・  ☆ これは 一つひとつを吟味して 判断していけばよいのでは?  ★ あと「WIKI」と「自分の意見の羅列」をリンク先にして知ったかぶりするのはなぜ?  ☆ 上にも書きましたが わたしのこれまでの心づもりとしては 参考資料としてまたたたき台として利用している。これだけのことですが どこかおかしいところがありますか?  ヰキぺをリンク先にすることはありますが 《自分の意見の羅列》をそうするというのは よく分かりません。たとえばこういうことでしょうか? つまり わたしの掲げた質問での質疑応答や あるいはほかの人の質問にわたしの投稿した回答内容を 参照してくださいというかたちでリンクさせることをいうのでしょうか? 参照先という意味であり それだけのことですよ。  《知ったかぶりをする》というのは よく分かりません。回答を書く場合 あるいは 質問者として回答に応答する場合 わたしは 知っていることを 原則としてつねに説明つきで 述べ切るようにしています。その内容に勘違いがありはしないかという問題と 《知ったかぶりをする》こととは まったく違うと思っていますが?  ★ ただの意見というのも哲学ではないですよね。  ☆ これは意味が取れません。あしからず。  どうでしょう?

noname#135843
noname#135843
回答No.11

 こんばんは、こちらこそ、お世話になっております。Hidocchiでございます。  また、駄文にお付き合いいただきまして、厚くお礼申し上げます。 > ○ 代数的には解けない――不可知だと認められる――が 解はあるのだから 何らかの方法で可知だと言えるかもしくは言えるようになるかも知れない。  確かに、仰られますように、”解”はございます。厳密には、「“解(対象)”は存在しますが、そこに行き着ける“手法(道しるべ)”は存在しない”ということかと考えられます。 > ☆ つまり 《あがく必要があって頑張らねばならないのに あがこうが頑張ろうがどうすることも出来ない。そういう不可知の領域である》ということでしょうか?  証明されてしまった以上は、「“代数的”には、“解”にたどり着く“道しるべ”が存在せず、どうしようもない」 と考えられます(他の代数学以外の手法ならば可能かもしれません)。 ですが、その後、高等数学を用いた手法(“代数的”手法以外の方法)ではございますが、シャルル・エルミートにより、五次方程式が解かれるようになりました(“六次”以上は未だのようでございます)。つまり、別経路の道筋であれば可能であったということでございます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88 からでございます) > それが説く決定論的な解(つまり その点で 可知)などがなく 《もともと決まっていないのだ》としても けっきょくのところでは 解はあるのではないでしょうか? 測定出来ないことと解がないこととは別であるように 素人は思ってしまうのですが その点はどうでしょう?  原則、解は存在すると考えられます。ただ、量子論の場合、一般常識からは逸脱したものになろうかとは考えております。 例えば、“不確定性原理”では、常識的には、「粒子の位置を正確に測ろうとするほど対象の運動量が正確に測れなくなり、運動量を正確に測ろうとすれば逆に位置があいまいになってしまい、両者の値を同時に完全に正確に測る事は絶対に出来ない。」といった“お互いの干渉作用”により、正確な測定が不可能のように思われます。 ですが、有力説(ほぼ通説ですが)では、「電子の位置と運動量は、本来的に決まっているものではなく、さまざまな状態が“共存”して、どの状態を観測することになるのかは決定されない」となっております。従いまして、“解”とご質問されれば、曖昧性がどうしても残ってしまいますが、“(確率的なので厳密・明確性には欠けますが)解”になろうかと察せられます。  具体例を挙げさせていただきますと、以下のサイトに“ペンタセン(ベンゼン環=亀の甲が5個つらなったものです)”の顕微鏡像の撮影写真が載せられています(写真Cです) http://www.chem-station.com/blog/2009/08/post-109.html  この写真でもお分かりのように、“雲”のような輪郭が見られるかと存じます。これを“電子雲”と呼んでおります。  一般には、電子は分子(原子)の周囲を回っているものと思われそうですが、量子力学的解釈をとれば、不確定性原理により、粒子は観測されるまでは明確な位置に存在せず、それぞれの位置に対して確率的に存在するものとだと されています。つまり、“電子雲”とは電子がそれぞれの位置に存在する確率の高い領域を示したものとのことだそうです(イメージがつかみにくいのですが)。 > ☆ その出来ないという点を取り立てて《不可知》という規定をしてもよいと思いますが 《知り得ないかたちで 解はあるということを人間は知っている。言わば永遠の未知である》と規定してもよいように思われます。  未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。  申し訳ございません。続きを述べさせて頂きます。

  • pupurr
  • ベストアンサー率18% (129/704)
回答No.10

経験世界は すべてけっきょく可知なのではないですか  簡単に。  経験世界で言えば、「男は出産も、陣痛の痛みも経験できない」 経験世界でも経験不可能なこともあります。 また、「不可知」というのも単語として、国語の面からいえば、「ある状態」に名前をつけると、その呼び名を「不可知」とした程度の認識が必要ですね。  科学など、創造と現実が入る領域など、ある一定の意識レベルとしての言葉、認識の状態を表す意味も含めた言葉というものが存在してます。  「不可知」というのも、現実、不現実の境が入ってる言葉の類ですね。  不可知とは人知では知ることができないこととありますが、  身近な例は、男性の出産体験など。  不可知論というものがありますが、論と言葉とは区別して、今回は言語の意味としての質問で不可知論ではないと理解しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ぷぷるさん ご回答をありがとうございます。  ただしちょっと読み解きにくいようにも感じました。全体としてです。  ★ 経験世界は すべてけっきょく可知なのではないですか / 簡単に。  ☆ というように表わしても それほど間違いではないかにも映っています。すなわち 経験領域における《不可知》は それが証明されたとしても 条件が違えば そう(不可知)とは言えない場合も出てくるかに受け取られる事例があるようです。ただし その証明にかんするかぎりでは 不可知という見方が 知性を支配するのだとも受け取りました。  ただし 次の事例は どうなんでしょう? 微妙であるように思えます。  ★ 経験世界で言えば、「男は出産も、陣痛の痛みも経験できない」 / 経験世界でも経験不可能なこともあります。  ☆ つまりこの場合には 《不可知》というときの《知》の中身をどう捉えるかにかかっているのではないですか?  この場合には 知覚としての経験が不可能であって それでもそれとして認識しうるという《知》には含まれる。ということでしょうか。  そのあとの部分が読み取りにくかったのですが 上の事例にさらに いくつかの場合を考え添えてみておきます。  解があると分かっているが その解を 一定の条件のもとで求めることは出来ないし その出来ないということが証明されているという場合。その特定の主題について不可知であり その不可知の部分を包み込んで 全体として一応 可知に入るという場合。  そうして この経験世界を超えたところに《絶対》を想定するという場合には それは 《不可知》というよりは 《非知 もしくは 非思考》と言ったほうが分かりやすいと思われる場合。  このように この質問としては  ★ 不可知論というものがありますが、論と言葉とは区別して、今回は言語の意味としての質問で不可知論ではないと理解しました。  ☆ の《論としても言葉の意味としても》扱いたいと思っております。どうでしょう?

noname#114400
noname#114400
回答No.9

この「不可知」論にはさまざまな立場がございますよ。 >さらに問いかえるなら 可知の世界の限界が分かってその限界を超えたところが 不可知だとするというのですけれど なぜそれが不可知だと分かるのですか? なぜ未知であるだけではないと分かるのですが? これは懐疑論や実証主義のような不可知論ではなくて現象論についてのお尋ねですよね。 結論だけ言いますと、人間の経験的認識の可能性の条件を問題にしているからです。 だから未知ではなく不可知なんです。

bragelonne
質問者

お礼

 せんもんくさん ご回答をありがとうございます。  またまた 枝分かれもしくは別の根が現われたでしょうか?  今頃になってですが ヰキぺを参照しました。  ▲ (ヰキぺ:不可知論) ~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96   不可知論(英: agnosticism)は、形而上の存在、死後の世界、神の存在、神のお告げなど、神学に関する命題の真偽、また客観的本質的な実存は本質的に認識することが不可能である、とする宗教的、あるいは哲学的な立場をいう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも《無神論》との兼ね合いで言われているようですね。  このように説き始めて あとは 途中までの文章になっていると思います。短いものです。  ひどっちさんに指摘してもらったように 経験世界ないし経験科学においても それとしての《不可知》なことがらが見出されるということ この点についても ちらっと触れているようです。けれども 問題として取り上げるのは どうも《無神論》との兼ね合いで言われているようです。  ところで いまちょうど せんもんくさんのご質問にわたしも投稿していて 主題は重なっているようです。そこでのわたしの回答の一部を このわたしの質問の問い求めのためにも 引くことにしました。  ☆☆ (【Q:救済】回答No.10) ~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5989984.html  《人間の能力の限界のかなたにある(あるいはまた この経験世界を超えたところとしての)ユートピア》の場合は 人間にとって分かるか分からないかが分からない領域ですから 思考を超えているわけで ひとはただこれを想定しているだけのことです。  ただし 人間の存在にかんする条件として じつは否応なくそういう想定がすでに自然本性としてそなわっていると言えるのではないでしょうか? 《絶対》や《無限》のことです。  このようなユートピアというのは われわれの心に或る種の仕方で窓がそなわっているといった現実ではないかと考えます。その心の窓において ひとは心の明けを持ち 心の伸びを帯びる。これが 泉であると思います。  そのあと この泉を 神のしわざであると捉えるか(受け取るか) それとも 無神のしわざであると判断するか それは人の――良心・信教の――自由だとされています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わざわざこれを引用したのは ほかでもなく ヰキぺの記事などを読んで 次のように考えを新たにしたからです。  ○ どうも《不可知》という訳語がよくないのではないか? それは《非知》――つまりは わたしの用語で《非思考》のことですが――とすると分かりやすいのではないか?  ☆ (ちなみに 《非知》という語は 親鸞をあつかったところで 吉本隆明が用いています。違いとしては たぶん吉本は この非知を 信徒のやがて到り着くところの《彼岸》として掲げているのではないかと思われます。わたしが《非思考》という場合には まったく単純に《経験思考に非ず》と言っているのみです)。    ですから 非知ないし非思考の場〔を想定したあと その場〕に立つ・もしくはその場と向き合うならば ひとは この場を 有るか・もしくは無しかで 名づけるものと考えます。つまり 有神論か無神論かなのですが それは こうです。  その非知なる場は 経験的な有る無しで認識し考えるというような世界を超えているのですから――しかも手っ取り早く分かりやすく名づけるとすれば 有・無のどちらかに決めて呼びならわすほうが 生活日常にとっては使い勝手がよいわけですから―― 仮りに その場が有るか・それとも無いかのどちらかで 言語習慣の中に採り入れるものと思われるのです。  すなわち 非知ないし非思考なのですから その場つまり早く言って神は 有ると呼ぶか無いとしておくか どちらかになるはずです。しかもこれら無神論も有神論も いづれも 思考に非ずなのですから 互いに同等な《信仰》であると見なされることになります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  結論だけ言いますと、人間の経験的認識の可能性の条件を問題にしているからです。  だから未知ではなく不可知なんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とおしえていただいた内容は どうも上に述べたわたしの考えを超えるところがあるように受け取っていますが それでも あらためて たたき台をお示しすることができたのではないかと考えます。どうでしょう?

  • yosiochan
  • ベストアンサー率20% (27/135)
回答No.8

よしおです。往復書簡みたいになりましたね。 そもそも知る、わかる、認識、言葉とは何なのか考えると、答えは「この世はわかり得ない」(わかることが不可能)ということがわかると思います。 知るという行為は主体を必要とし、主体を通した以上物事の有り様をありのまま知ることは不可能。知ること自体、すでにありのままではないからです。 だから、ほんとの事がわかりたければ、わかっちゃダメなんです。 と、以上そうな風に思っています。すいません、わけわからない文で。 不可知とは いったいどこにあるのか・・・bragelonne さんの心に無ければ無いと思います。それで、いいと思います。 私ごとですが、私にとって、哲学や科学や学問は私の人生を豊かにするものじゃなきゃ、意味が無いんです。 不可知がどこにあっても、未知にすぎなくても、人は生きています。幸せになれます。 人がどうであれ、この質問の答えがbragelonne さんの幸せと関係があるなら、それは大切なことだと思います。 不確定なこの世界だから、「みんな違ってみんないい」わけだし、自分の世界を創り上げることができるわけだし、どう生きても、どう解釈してもいいわけだし。。。 多様性は生命の知恵だと思っています。 「不可知」は私にとって、美学の一面はあります。だって、わかっちゃたら、つまんないでしょ。わかって、正解があるって、固定的世界じゃないですかぁー、画一的で面白くないです。畏敬の念がなくなっちゃう。神様とか世界とかが、謎や神秘に包まれてたほうがいい、という私の美学かも。 同じ創るなら自分のお気に入りの世界を創りたいじゃないですか。 言いっぱなしで、ごめんなさい。書簡はこれで、終わりにします。

bragelonne
質問者

お礼

 往復書簡を締めくくっていただいて ありがとうございます。うまくまとまっているように感じました。  ひとつには 直前のご回答No.7で 数学や物理量の測定において 人間には知り得ない事柄があるとおそわりました。その特定の主題についての《不可知》が さらに全体の情況の中でどういう位置づけになるのか そういった問い求めをもわたしは 尋ね返すかたちでしていますが  けっきょくのところは――そのNo.7のお礼欄の最後に書いたのですが―― ひとは自分の物語をそれぞれえらんで持ち その物語(あるいは 歴史)という舞台に上がって 自己表現を重ねつつ生きる。その自己表現ないし物語においては あなたのおっしゃる《美学》が人それぞれに持たれるようである。  たぶん いやおそらく 同じ結論に よしおさんもたどり着いたのではないでしょうか この最後の書簡で。  引用しておきます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「不可知」は私にとって、美学の一面はあります。だって、わかっちゃたら、つまんないでしょ。わかって、正解があるって、固定的世界じゃないですかぁー、画一的で面白くないです。畏敬の念がなくなっちゃう。神様とか世界とかが、謎や神秘に包まれてたほうがいい、という私の美学かも。  同じ創るなら自分のお気に入りの世界を創りたいじゃないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そしてその理由としては たとえば  ★ 多様性は生命の知恵だと思っています。  ☆ また  ★ 私ごとですが、私にとって、哲学や科学や学問は私の人生を豊かにするものじゃなきゃ、意味が無いんです。  ☆ この《わたし》という視点あるいは主体が どうも大事ではないかとわたしも思いました。そういうことを考えさせられる主題であったと 不可知という主題についていまふり返っています。  もっとも 自然科学の《不可知》論を このあとひどっちさんから教授してもらうことが残っています。  こんなところでしょうか。おつきあいをありがとうございました。また気が向いたときには どうぞよろしく。

関連するQ&A