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不可知とは?
- 不可知とは、知り得ないことを指します。
- 経験世界を超える領域が不可知であり、可知か不可知か分からないとされます。
- 不可知とは、可知の領域の限界を知った状態を指し、未知だけではないとされます。
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続きからでございます。 > ☆ その出来ないという点を取り立てて《不可知》という規定をしてもよいと思いますが 《知り得ないかたちで 解はあるということを人間は知っている。言わば永遠の未知である》と規定してもよいように思われます。 未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。 > ☆ 解を知ることじたいは永遠に不可知であったとしても その不可知の解があることを知っていれば じゅうぶんだ》という余地はもうありませんか? 風邪の原因は分からないのでしょ? 不可知とは言いませんよね? おそらく、その問題に取り組んでいる一部の物理(数学 or 化学)者以外は、「解(対象)があるというだけで、じゅうぶん」と思われます。少なくとも“安心感”はえられると思われます。 なお、とても細かいことではございますが、“風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%82%AA からでございます) > 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか? 以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96 からでございます) ご参考になれば、幸いでございます。
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こんばんは、ご返答いただき、またその上、新たな知見・見解をご教示いただき、厚くお礼申します。Hidocchiでございます。 > ▲ "unconditioned" (Hamilton) and the "unknowable" (Herbert Spencer). あるいはほかに《語り得ぬ》だとか 《表象しえぬ》という表現例もありうるかと思います。 いま問題は 《表象しえず 語りえない》ものは だったら《知り得ぬ》のか? ここにあると思います。で わたしとしましては そうではなく《知り得るか知り得ないか それが 知り得ない》と言って来ているわけですが ハミルトンの規定する表現が さらによく言い表わしているように思うのですが どうでしょう? 仰られますように、《条件づけられていない》は、いい表現かと思われます。ですが、「知り得るか知り得ないのか?」という問いにも、“知りえない(分からない)”と解しますと、"unknowable"でも構わないと思われますが、いかがでしょうか? > げんみつに言えば 《無条件・無根拠》が 非思考の領域であり これを受け容れる行為は 人間のおこなう思考でありその判断としては 判断としても 経験的な意志行為です。 仰いますように、(経験的な)意志行為になろうかと存じます。 > この無条件かつ無根拠なるナゾを目の前にして これと向き合いそうして――理屈のある無しにかかわらず――受け容れようとするとき その意志とその動きが 《非思考としての 信じる》というおこないだと思います。その無条件なるもの〔を真理や愛と見立ててのごとく その無根拠なるもの〕に身をゆだねた そのようにして受け容れた この意味での心の明けまたは心の伸び これだと思います。 「その無条件なるもの〔を真理や愛と見立ててのごとく その無根拠なるもの〕に身をゆだねた そのようにして受け容れた この意味での心の明けまたは心の伸び」 は、至言かと存じます。 > ハックスリが 自分についてひとりの《 free thinker 》であると言ったとき ほかの規定をすべてうたがわしいとして捨てました。《an atheist, a theist, or a pantheist; a materialist or an idealist; Christian 》では ないのだと。それは いわゆる固定観念となりうるそれぞれの世界観における理論や信条のこと すなわちその意味での《 gnosis 》を自分は持っていないし 持たないのだと宣言するものだったと捉えられます。 “atheist”との関連は、以下のサイトの記載内容と合致するかと考えられます。つまり、“atheist”と“agnostic”との関連付けは、その後の人たちによるものかと推察されます。 「One of the earliest definitions of agnostic atheism is that of Robert Flint, in his Croall Lecture of 1887?1888 (published in 1903 under the title Agnosticism).」 (http://en.wikipedia.org/wiki/Agnostic_atheism History からでございます。) > そのあとで 《不可解》( the problem was insoluble )という言葉も使っていますが これは 解を得た!とのひらめきを持ったときにも だからと言ってその内容を 一定の《 gnosis 》とはしないということだと採っておきます。 意見を等しく致します。the problem:「知り得るか知り得ないのか?」と致しますと、この問い(問題)は、“insoluble”:「解不能」とは、考えられないでしょうか? くどくなってしまい、申し訳ございません。 > 教会が《知的 gnostic 》でありうると説く(また 固定観念のごとく断定するところの)その《知》に対して 自分は《無知 ignorant 》である。無知であることを知っていると。(あるいは 《非知 ignorant 》であり そうであってよいのだと 腑に落ちた)。 ソクラテスの“無知の知”を想起いたしますが、幾分異なるのは、ソクラテスが「真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まる。」としたのに対しまして、「“非知”であり また、それであってよいのだ」という一種の達観のようなものが見えてきます。確かに、“それであって、じゅうぶん” かと思っております。 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 かなり主観の共同化が図れてうれしく思いました。 ソクラテスの《無知の知》との対比をしていただき なるほどと 言った本人が 了解しました。 その ★ 「“非知”であり また、それであってよいのだ」という一種の達観のようなものが見えてきます。確かに、“それであって、じゅうぶん” かと思っております。 ☆ にかかわって いくぶん 疑問を提出しておられます。 ★ the problem:「知り得るか知り得ないのか?」と致しますと、この問い(問題)は、“insoluble”:「解不能」とは、考えられないでしょうか? ★ ですが、「知り得るか知り得ないのか?」という問いにも、“知りえない(分からない)”と解しますと、"unknowable"でも構わないと思われますが、いかがでしょうか? ☆ なるほど。つまり わたしは その点に注意をそれほどしていなかったと分かったのですが もしその《不注意》ないし《非注意》を逆手に取って 自己弁護するとしますと 次のような事情を思っていたのかなとも考えます。あとづけですが こうです。 すなわち 人間の自然本性としての(生まれつきの)能力にはない。つまり おっしゃるように《 insoluble (解不能) あるいは unknowable (知り得ない)》と規定されうる。しかも――しかも です しかも―― 生身で生きているあいだに 予感として何らかの知覚が得られるかも知れない。(これは 与えられるかも知れないという意味です。能力は はじめに ないのですから)。 ううーん。後づけですし 言っていることは 非科学的ですので わたしの主観の勝手な言い分ということになります。窓を開いた状態にしておきたい。こういうのぞみでしょうか? これも 非科学的ですね。 でも いちおう こういうかたちと致します。ですから これを否定する主観も 互いに自由で 互いにとうとび合うことを大前提とするものとします。どうなんでしょう? 次の資料の中の記事で 分からないところがありました。 ▲ (Wikip: Agnostic atheism ) ~~~~~~~~ http://en.wikipedia.org/wiki/Agnostic_atheism § Examples Prominent atheist Richard Dawkins makes a similar point: I am an agnostic only to the extent that I am agnostic about fairies at the bottom of the garden. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《庭の奥の妖精》というところですが これは 経験世界におけるものごとを例に出して来ているのですよね? つまり 人間の想像の産物の問題だと思うのですが だから 《非知》をめぐる例としてふさわしくないように思うのですが・・・? (そうだとしたら あまり大した疑問でもなかったようです)。 ありがとうございました。
こんばんは、厄介なことに巻き込んでしまいまして、深くお詫び申し上げます。Hidocchiでございます。 > ☆ 併用というところが ミソなのですね。モノクローナルというのは いわば一対一の対応をするような抗体ということでしょうか? 効果が大きいのですね。 はい、その通りでございます。併用することにより、相乗的に(相加的に)癌細胞のアポトーシス(細胞死)を誘発し、殺傷するというものでございます。 “モノクローナル”につきましても、仰られますように、“一対一”に対応するものでございます。以下では、“モノクローナル”と対になる言葉“ポリクローナル”との比較でご説明させていただきます。 “ポリクローナル”抗体は、例えば、今回の“CD40”抗原タンパクの場合ですと、いろんな種類の抗体の混合物となります。つまり、“agonistic”に働くものもあれば、逆に“antagonistic”に作用するものもございます。ですが、“モノクローナル”抗体では、抗体自身が単一(アミノ酸配列も全て同じものです)のものとなります。従いまして、抗体として、単に結合するだけでなく、その抗原に対する結合部位も同じとなります(下記参考をご参照くださいませ)。従いまして、今回のような実験ですと、“agonistic”なもののみを選ぶ必要性があったため、“モノクローナル”抗体を用いたと考えられます。 参考:http://www.simulect.jp/faq/QA057.html 以下には、ご参考までに、抗体を用いた“インフルエンザの診断キット”の例を載せております(約10分で、感染していない or 感染していた場合A型等 の情報がわかります。標的の抗原はインフルエンザウィルスです)。 その他、“妊娠検査キット”にも、同様に抗体が用いられております(標的の抗原は、“hCG”だそうす)。 https://www.fuji-keizai.co.jp/market/06001.html また何かございましたら、ご遠慮なく、ご返信くださいませ。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
こんばんは ひどっちさん。いろいろおしえていただきありがとうございます。 ◆ モノクローナル抗体とポリクローナル抗体の違いは? ☆ の図解もわかりやすかったです。メモしておきます。 ◆ 抗原決定基(エピトープ;抗体によって抗原と認識される部分) ★ 抗体を用いた“インフルエンザの診断キット”の例を載せております(約10分で、感染していない or 感染していた場合A型等 の情報がわかります。標的の抗原はインフルエンザウィルスです)。 ☆ その速さにおどろきました。つぎも メモしておきます。 ▲ イムノクロマト法(Immunochromato graphy):抗原と抗体が結合した抗原抗体複合体が試験紙上を移動する途上に、あらかじめ抗原と結びつく抗体を線状に塗布させた部分を用意し、抗体に補足させることで現れる色付きのラインの有無によって検出する方法。 反応がにぶいかと思いますが とりあえずこんなところです。
こんばんは、Hidocchiでござます。 以下に、ご参考となる論文のabstractからの抜粋を列挙させていただいております。 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12395796 「Huxley and scientific agnosticism: the strange history of a failed rhetorical strategy.」 Portrayed as an effective weapon in Huxley's public debates with defenders of the Anglican establishment, the creation of scientific agnosticism has been interpreted as a turning point in the relationship between science and religion. 英国国教会(?)設立の擁護者との公開討論において、効果的な武器として描かれているが、科学上の“agnosticism”を作り出したことは、科学と宗教との関係の転機と解釈されている。 Huxley was reluctant to identify himself unambiguously as an agnostic in public until 1883 and his restricted use of agnostic concepts during the 1870s and 1880s was compromised when other unbelievers, with different agendas, sought to capitalize on the polemical advantages of referring to themselves as agnostics. Huxleyは、1983年までは、公に自らをan agnostic(不可知論者)とみなすには、消極的であった。そして、1870から1880年代の間に、” agnostic”の概念を制限して使用することに、障害が起こった。つまり、異なった議題に関して、他の無神論者が、自らagnostic(不可知論者)と名乗って、論争での利点に乗じようと考えた際に問題が生じたのであった。 he was not always associated with agnosticism in the public mind and his original conception of it was modified by others to the point where he felt compelled to intervene in 1889 to set the record straight. But Huxley could not control the public meaning of 'agnosticism' and its value to him as a rhetorical strategy was severely limited. 彼は、必ずしも当時の社会では、agnosticism(不可知論者)と関連付けられていた訳ではなかった。また、他の者達により、彼のオリジナルの概念は自身が1889年に、誤解を解くべく、干渉を余儀なくされるところまで、修正が加えられた。しかし、Huxleyは、“agnosticism”の一般的な意味を制御することが出来なかった。そして、レトリックの戦略として、その価値は大幅に限られたものとなった。 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/11640239 「Thomas Henry Huxley and neuroscience」 he seems to have recognized that his position was not entirely satisfactory and ultimately famously confessing himself 'agnostic' turned from metaphysics to devote himself to more practical issues. Huxleyが悟ったように推察される。つまり、自分の見解が全く満足のいかないものであること、そして最終的には、有名な“agnostic”との告白をし、形而上学からより実際的な問題へと取り組むこととなった。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。現代においても ハックスリの命題をめぐってそれを明確にしておこうとする研究が続けられていることに 敬意を持ちます。ぎゃくに言えば かれのこの命名については 誤解や拡大解釈が多かったわけのようですから ここでわたしは あらためて Wikip の記事について取り組みました。 ▲ Wikip: agnosticism : § History §§ Thomas Henry Huxley http://en.wikipedia.org/wiki/Agnosticism ☆ のくだりです。 まづ ほかの人が 次のように この《 agnosticism 》のかかわる領域のことを 規定している例に注目しました。 ▲ "unconditioned" (Hamilton) and the "unknowable" (Herbert Spencer). ☆ あるいはほかに《語り得ぬ》だとか 《表象しえぬ》という表現例もありうるかと思います。 いま問題は 《表象しえず 語りえない》ものは だったら《知り得ぬ》のか? ここにあると思います。で わたしとしましては そうではなく《知り得るか知り得ないか それが 知り得ない》と言って来ているわけですが ハミルトンの規定する表現が さらによく言い表わしているように思うのですが どうでしょう? 《条件づけられていない》つまりぎゃくに言えば《ひとり満ち足りている》 です。 そしてこれは 経験世界にはないものである。――こう帰結されるのではないかと考えます。 〔その意味では 六次方程式の解が知り得ないことや 不確定性原理において確率でしか知り得ないことなどは 《この経験世界にあるモノ・コトが互いに条件づけられている》という事実のもとにあると考えられます〕。 さてハックスリは 三つある引用の最後のところで 自分を《 a freethinker 》だと規定すると言っています。これは いま上で見た《無条件〔という条件づけ〕》と呼応していると考えます。あるいは 《ひとり満ち足りているもの》は 《無根拠》です。これを人間が心に受け容れるときには 《無根拠という根拠》となって 非思考――ゆえに 自由――の領域が成立します。無条件に自由 という概念です。 げんみつに言えば 《無条件・無根拠》が 非思考の領域であり これを受け容れる行為は 人間のおこなう思考でありその判断としては 判断としても 経験的な意志行為です。 その経験思考および判断にあっては 《無条件》が《無条件という条件》に成り この条件づけ〔のもとにある人間存在とその行動〕には 全体観への不行き届きのような手あかがついてくるもののようです。 この無条件かつ無根拠なるナゾを目の前にして これと向き合いそうして――理屈のある無しにかかわらず――受け容れようとするとき その意志とその動きが 《非思考としての 信じる》というおこないだと思います。その無条件なるもの〔を真理や愛と見立ててのごとく その無根拠なるもの〕に身をゆだねた そのようにして受け容れた この意味での心の明けまたは心の伸び これだと思います。 ハックスリが 自分についてひとりの《 free thinker 》であると言ったとき ほかの規定をすべてうたがわしいとして捨てました。《an atheist, a theist, or a pantheist; a materialist or an idealist; Christian 》では ないのだと。それは いわゆる固定観念となりうるそれぞれの世界観における理論や信条のこと すなわちその意味での《 gnosis 》を自分は持っていないし 持たないのだと宣言するものだったと捉えられます。 そのあとで――細かいことを取り上げるなら―― 《不可解》( the problem was insoluble )という言葉も使っていますが これは 解を得た!とのひらめきを持ったときにも だからと言ってその内容を 一定の《 gnosis 》とはしないということだと採っておきます。《表象し切り得ず 語り切り得ない》と言っているものだと。固定観念になりうるような定見を持ち得ないのだと。 教会が《知的 gnostic 》でありうると説く(また 固定観念のごとく断定するところの)その《知》に対して 自分は《無知 ignorant 》である。無知であることを知っていると。(あるいは 《非知 ignorant 》であり そうであってよいのだと 腑に落ちた)。 こんなところとなりました。ボールをお返しできたかと思っているのですが どうでしょうか
こんばんは、ご返答いただきまして、またOKWave担当者へのご連絡までいただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 以下、当論文の“愚訳”ならびに科学用語の説明をさせてもらっております。 当論文は、下記サイトにて、“agnostic”で検索してみた結果でございます。 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/sites/pubmed また、なぜこの論文を選ばしていただいたかと申しますと、2010年と最新のものであること、さらに愚生の以前の研究内容に近かったためでございます(実際、”CD40” and “愚生の姓”で検索しますと、当サイトで愚生の拙い論文がヒット致します)。 ですが、紛らわしい論文を選んでしまい、深くお詫び申し上げます。 [愚訳] CD40、つまり腫瘍壊死因子受容体スーパーファミリーの一種は、さまざまな細胞に広く発現が見られる。またCD40の発現と幾種類かの癌との関連性(その機能・役割はほとんど知られていない)を示す報告も存在する。 当研究では、数種の癌におけるCD40の発現を調べ、さらに腫瘍株(SiHa)におけるagnosticな抗-CD40抗体の影響を調べた。 数種の癌サンプルにおけるCD40の発現を免疫組織化学により調べた。 その結果、ヒトの子宮頸癌では共通に発現が見られ、また、正常の頸部、子宮前癌組織、さらには慢性子宮頸管炎細胞上での発現よりも多く認められた。 アゴニストとして作用する抗-CD40モノクローナル抗体、もしくはGemcitabine単独での処理では、SiHaの増殖を抑えることが出来なかった。しかし、SiHaのCD40を(anti-CD40 mAbを用いて)活性化することにより、Gemcitabineに対する反応性を高めることが可能であった。さらに、CD40の活性化により、SiHaを(細胞周期の)S期段階で阻止し、またアポトーシス(細胞死)促進型のBaxを促し、さらには、細胞内のアポトーシス(細胞死)抑制型のBcl-XLのmRNA合成を阻害した。 SiHaでのアポトーシスと、mRNA合成段階における、BaxのBcl-KLに対する比率増加との相関性が見られた。結論として、抗-CD40 mAb (5C11)と抗癌剤(gemcitabine等)との併用療法は、大きな治療効果を秘めている。 [科学用語の説明] BaX: アポトーシス(細胞死)促進性のタンパク質 Bcl-XL: アポトーシス(細胞死)抑制性のタンパク質 Gemcitabine: シチジンと同じ様にDNA鎖に取り込まれ、別のヌクレオシドが1つ付くことにより、DNA鎖を伸長停止させる。このことにより、アポトーシスが誘導される。 また何かございましたら、ご返信下さいませ。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
ひどっちさん ご回答をありがとうございます。 感想にてお応えするのみとなります。 ★ 結論として、抗-CD40 mAb (5C11)と抗癌剤(gemcitabine等)との併用療法は、大きな治療効果を秘めている。 ☆ この併用療法が 効果を表わすようになれば いいのでしょうねと 感想を持つのみです。 併用というところが ミソなのですね。 モノクローナルというのは いわば一対一の対応をするような抗体ということでしょうか? 効果が大きいのですね。 ご論文は 特定できましたが まだです。お応えは無理かも知れませんが ありがとうございます。
- littlekiss
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おはようございます、bragelonneさん。 …はやぶさ帰還。 小惑星探査「はやぶさ」(MUSES-C) http://www.jaxa.jp/projects/sat/muses_c/index_j.html 微粒子…何が出るかな?何が出るかな?…気になるぅ。。。 agnoticism-ag/no/tic/ism←tic(炭化物) 不可知の話とはやぶさの帰還と何の関係が、、、? チタンとくりゃ、火星と月…USO!? 手を合わせて見つめるだけで (^人^) ●何かが不可知だと分かったとしたとき それは どういう事態なのか? 可知の領域に限界があると知られたことですか? 「今日もどこかでデビルマン」 誰も知らない知られちゃいけない デビルマンが誰なのか 何も言えない 話しちゃいけない デビルマンが誰なのか 人の世に愛がある 人の世に夢がある この美しいものを 守りたいだけ 今日もどこかでデビルマン 今日もどこかでデビルマン 誰も知らない知られちゃいけない GPのための金属アレルギー臨床 http://www.ctb.ne.jp/~kazuno/kinzoku.htm
お礼
なんだかなぁ。ご回答をありがとうございます。 こっちかよ。 ★ 微粒子…何が出るかな?何が出るかな?…気になるぅ。。。 ☆ 気になるぅけれど まだまだ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ チタンとくりゃ、火星と月…USO!? 手を合わせて見つめるだけで (^人^) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ UFO のまちがい? なんだかなぁ。 ★ 「今日もどこかでデビルマン」~~~ ・・・ 人の世に愛がある 人の世に夢がある この美しいものを 守りたいだけ ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええっ? 悪魔男が守るの? なんだかなあ。 ★ GPのための金属アレルギー臨床 ☆ なるほど。歯の治療に使う金属でも アレルギーやら 溶けて溜まるやら。電磁波が起きているやら。 でも なんだかなぁ。 ★ はやぶさ帰還・・・。
申し訳ございません。Hidocchiでございます。 以下は、tarako様への質問要求でございます。原則、このOKWaveでは、回答者どうしのやりとりは禁止されております。ですが、ここまで申されますと...... tarako様、よろしくお願い申し上げます。
お礼
OKWaveサポートさま。 質問者のわたしからも よろしくお願い申し上げます。 こじれることなく 哲学として 合意に達することができると思います。また そう祈ります。
こんばんは、Hidocchiでございます。 当論文を挙げたのは、愚生でしたので、この件につきまして、ご返答させていただきます。 > 論文中の用例は、中英辞典の誤用を連想させます。 当ペーパーは、Humana Press Inc.というアメリカの出版社からのものでございます。もちろん、レフリーによりacceptanceされているため、かようにpublishされている訳でございます。論文主義という最近の傾向からも、自社の論文の評価を高めるべく、どの出版社も神経を使っております。つまり、英文自体につきましては、レフリー(専門家;原則、native)が必要と判断したならば、間違いなく レフリー が修正・加筆要求を著者に求めます。もしこれに応じなければ、論文は原則rejectされます。つまり、世に出る(publishされる)ことはございません。 ”身の毛もよだつ”ということですが、いったいどの表現がおかしいということなのでしょうか? ご返答いただければ、幸いです。
お礼
ブラジュロンヌです。 レフリー制度について触れて説明を受けていましたのに その点の注意を怠り 中国人の書く英文という一般的な主題として広げて見てしまったことを おわび申し上げます。すみませんでした。
補足要求 人間は、誰でも間違いを犯す、とか人間は、嘘をつくものとか、とおっしゃっていますよね。しかし、間違ってはいけないところで間違いを犯すというのは、社会の中では、具体的に「それなりの結果」を引き起こすことです。同じように、みんな嘘をつくものだということは、ひとつの主張ですが、「自分はうそをついてもよい」と言うわけではないはずです。 教えてほしいというのはうそですかと問いかけました。あなた自身がこの質疑応答のケースで、実際に嘘をついているのか、そうではないかというのが、伺いたいことなのです。質問者様である貴方が、人間一般とどのような結びつきをもっているのかを哲学的に考えるべきです。 犯罪者と社会の関係と同じような関係に立って説明しますと、犯罪者も、人間です。けど、やってはならない間違いを、社会というコンテクストの中で犯してしまった。そういう人は、普通の人ではなく、刑務所に入らなければならないのです。そういう結果は、常識的に理解できると思います。どうも質問者様は普通の人間ではないようです。質問者様と普通の人間の共通項はどんな部分ですか?最後にまとめますと、犯罪者と普通の人間の共通項は、うそつくという行為そして社会の中で意図的に間違いを犯す人という2点です。
お礼
ううーむ。何かわたしの知らぬところで 《事件》は起こっているのでしょうか? まづは 補足要求をありがとうございます。 そうですね。今回は そちらからの問いに直接には答えません。直接には答えないで まづは情況を把握してもらいたい。そうして わたしの心づもりをさらに明らかにしてまいります。 たとえば《嘘をつかない人がいますか?》という問いかけは 《みんな嘘をつくものだから 多少は自分もうそをついてもよい》という意味ではまったくありません。 《おまえの目の前には蝿が二匹に蚊が三匹飛び交っているではないか》というふうに相手を責めるのは なぜか? 自分の目の前にはくぢらが一頭泳いでいるではないか?――こういう意味です。 嘘をつく度合いは 同じ程度であるかも知れません。あるいは あなたは品行方正でしょうから きわめて少ないのかも知れません。ですが それなら ひと(他人)の欠点をあげつらうことは あなたのほうに特権があるのか? となります。 しかも いま議論になっているのは 世の中における具体的な人定法に違反するようなウソではなくて みづからの人格や存在じたいをゆるがすようなウソのことです。そのようなウソについては ここまでは赦されここからは赦されないといった線引きがあるわけではないのです。一瞬の気の迷いで そのウソは 生涯を棒に振るあやまちになります。 さらにしかもこれとても もう覚えていないよと誰かが言ってくれているわけです。裁いてなどいません。かの存在が裁いていないものを なぜ あなたが裁こうとするのですか? おが屑がちょっと眉毛についていただけで 自分の目の上の梁は見過ごすのですか? 梁とおが屑とは そこまで言うのなら ぎゃくであるかも知れません。けれども そのようにあたかも神に代わって――ローマ法王はそうだと言われています――人間が人間を そなたは救われないと言って裁こうというのなら 梁とおが屑が 事実とは別に互いに逆転するのです。 ただし こういうあやまちというのは 刑務所入りするかどうかの問題ではありません。 あなたが あなた自身である道を切り拓いて行ってください。
独善的な質問者様へ補足要求 おしえてほしいというのはうそなんでしょうか?民主主義・平等の立場が、たった二人の間の応答であるというのも理解できません。カトリックはレベルの問題を意識して触れました。私がカトリックの味方というのも推論ですよね。カトリックに勝るとも劣らず、「オピニオンロンダリング」をしているのが、質問者様のように思えてなりません。自分の立場というのをもう一度考えてみるといいですよ。アウグスティヌス・パウロなどカトリックの聖典について議論しようとしているのは、質問者様です。私ではありません。自分の立場以外の立場を受け入れないというのはやめたほうがいいですよ。特に公共の場では、いやがられます。
お礼
たらこさん ご回答をありがとうございます。 ボタンの掛け違いがあったかも知れません。わたしのほうから あなたのいささか挑戦的な補足要求に似た投稿を毛嫌いしてしまったかも分かりません。たぶんそういう気配が出てしまったのでしょう。 これを省み あやまるべきところは ごめんなさいとお詫びします。 なので あらためて気を持ち直して しかるべき批判を与えてくださるようお願いしたいと思います。いかがでしょうか? ★ 身の毛もよだつ中国人の英語 ☆ これは 取り上げなければそのまま知らずに進んでしまうかも分かりませんが いまわたしからは触れません。つまり よく知らないからです。触れてもらってもよいですし あるいはわたしなりあなたなりが 別に質問を立ててもよいのではないでしょうか? どうでしょう? ★ ていねいに説明くださらなくてもagnosticの意味・分類ぐらいは把握しております。 / でも質問は、不可知についてですよね。 ☆ これは前回のわたしの応答で 事情は呑み込んでもらえたかと思うのですが? ★ 英語の学力は問題外として、agnoticismという場合、救われない人・信仰心のない人を大きく二つに分けて、無神論者と不可知論者といっています。どちらも神を信じる心を奪われた神のない人であるということが、本意です。 ☆ どうも たらこさんは クリスチアニズムについてそこに栄光を見ておられるのかも知れません。たしかにこの質問ではわたしは その点についてあたかも通りすがりにしか触れようとしていません。それなので この主題が いちばんの物言いがあるというところでしょうか? これも 別様に設問してもよいでしょうし あるいはここで簡単にふれるとしますと こうです。 すなわち あなたのおっしゃるように 従来より《不可知的》という用語は 《救いようのない無神論者であることにかわりありません》ということでしたら それとして持たれ続けるかとも思いますが 一方この質問では 《不可知ないし知り得ない》というその言い表わし方を問題にしています。そこに焦点を当てていますし 特化しています。 つまりは 《人間の能力によって分かるとも分からないとも分からない》もしくは《神がいるともいないとも人間の能力においてはどちらとも決めつけて言うことは出来ない》――この問題をもっぱら扱っています。そして 一応そのように結論づけました。《非思考》という場のことです。 変な発言に聞こえるかも分かりませんが いまは・ここでは 《不可知論者が救われるかどうか》は どうでもよいのです。そういう主題は これまでにも嫌というほどして来ています。これからも 知りたいと思ったときには して行きます。 どうですか? こういった事情であり わたしの心づもりなのですが? ひとこと わたしも物言いを表わしてみましょうか。 ★ 不可知論者といわれる人たちは、「自分は神を信じている」と主張し、無神論を唱えるという点が、素朴な無神論者との定義的違いです。救いようのない無神論者であることにかわりありません。屁理屈を唱えながら、嘘をついて他人を惑わし神を信じることも出来ず救われない人が、不可知論者です。 ☆ (1) どうして《ひとが救われる》かどうかがそんな簡単に分かるのですか? (2) 救われないというその裁きは 果たしていったい誰がするのですか? (3) 人間が裁くのですか? (4) 屁理屈を言わない人はいますか? 嘘をつかない人が この世にいますか? 意図してでなくても 他人を惑わす結果になってしまったということを体験しなかった人が いますか? (5) みな同じ人間ですよ。 ★ wikiとinternetにたよるのもいいですけど、哲学ではありません。ほどほどに。 / カトリックの方に鼻で笑われますよ。 ☆ これは 理由説明を要求しましょう。中身によるのでは? 一概に決められないでしょう? 《オピニオン・ロンダリング》(?)をして来た結果 《たった二人の間の応答》になってしまった!?!?――うそ うそ。うそですよ。 ★ おしえてほしいというのはうそなんでしょうか? ☆ なるほどと思ったことをそのままそうだと言い表わさなかったことが わたしに ありましたか?
身の毛もよだつ中国人の英語を聞いたこともないという 経験不足の方々なようで、もう少し状況を考えるべきでしょう。 論文中の用例は、中英辞典の誤用を連想させます。 明らかにunknownのつもりで使用しているだけです。 変な中国人と知識のない若干2名の意見を根拠にして、一般的な言葉の意味を捻じ曲げることには少し無理があるようです。 ていねいに説明くださらなくてもagnosticの意味・分類ぐらいは把握しております。 でも質問は、不可知についてですよね。 英語の学力は問題外として、agnoticismという場合、救われない人・信仰心のない人を大きく二つに分けて、無神論者と不可知論者といっています。どちらも神を信じる心を奪われた神のない人であるということが、本意です。 不可知論者といわれる人たちは、「自分は神を信じている」と主張し、無神論を唱えるという点が、素朴な無心論者との定義的違いです。救いようのない無神論者であることにかわりありません。屁理屈を唱えながら、嘘をついて他人を惑わし神を信じることも出来ず救われない人が、不可知論者です。 wikiとinternetにたよるのもいいですけど、哲学ではありません。ほどほどに カトリックの方に鼻で笑われますよ。
お礼
たらこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 中国人の科学論文およびカトリックの信仰類型論 これらに見られる《 agnostic 》という用語の意味 この主題については もう終わっていると思ったのですが あらためて見てまいりましょう。 ★ 明らかに unknown のつもりで使用しているだけです。 ☆ あぁ それは あり得るでしょう。ただしわたしは 悲しいかな 論文の内容が理解できないので なお保留になりますが その点はあしからずお受け取りください。 ただ ひどっちさんも 初めから 中国人の書いた英文ということに対しては じゅうぶん警戒をして取り上げておられます。わたし自身は ★ 身の毛もよだつ中国人の英語 ☆ という体験にとぼしいと(つまり 一般的に接すること自体がありません) これまた言い訳に終始しなければなりません。 ★ 論文中の用例は、中英辞典の誤用を連想させます。 ☆ という推論を出してもらうと 信ぴょう性があるように思います。ただし ★ 変な中国人と知識のない若干2名の意見を根拠にして、一般的な言葉の意味を捻じ曲げることには少し無理があるようです。 ☆ と言われても 前半は 独り言として受け取ります。後半は 事実誤認でしょう。知識のないわたしは 解釈の可能性をあれこれ考えただけです。腫瘍に関することだとか合成化学の専門家( Ph.D )のひどっちさんは たぶん世界の中で人びとの最後に《言葉の意味を捻じ曲げること》をするお人だと思いますよ。 あんまし 推量でしかもそれで得た結論とやらを 自分の中で決め切って ひとに対しても断定し切るように自己表現をすることは いただけたものぢゃありませんよ。 ★ カトリックの方に鼻で笑われますよ。 ☆ カトリックの側が味方だということなのかも知れませんが 宗教に固執するなどということは 資金と権力を享受するという役得があるようですが それをも含めて じんるいの恥ぢです。 ローマ教会に対する批判は これまでにもおこなって来ていますので いまは詳しくは触れません。他人の信仰の度合いを人間が 組織上の権威や権限によって決めるという行為を必然的に伴なうようになる宗教とは 個人の信仰の自殺行為であるという基本の批判と あるいはたとえば マフィアの資金を法王庁の銀行がマネーロンダリングしているといったほぼ事実としての犯罪をおこなっているという批判をあげておきます。 ★ ていねいに説明くださらなくても agnostic の意味・分類ぐらいは把握しております。 / でも質問は、不可知についてですよね。 ☆ ですから はじめの姿勢はそうでしたが 途中で考えをあらためたのです。それは 《不可知》の原語というべき《 agnostic 》の意味を吟味したところで 出て来たのです。 むろん 考えを改める必要はない・変えてはいけないという議論もあり得ます。 ただし 今回のその方面の投稿としましては あまりにも独善的です。 ★ agnoticism という場合、救われない人・信仰心のない人を大きく二つに分けて、無神論者と不可知論者といっています。どちらも神を信じる心を奪われた神のない人であるということが、本意です。 ☆ むろんこの信念を持つことじたいは ご自由ですが 相手との対話には これでは 成っていません。なぜなら 《信教・良心の自由》という原点(公理)に立たなければ 民主的な話し合いにはなりません。 パウロも この民主的な対話において 《宣教という愚かな手段》を用いてたとえばギリシャ人たちに説明をしています。 ▲ (使徒言行録 17:22-32) ~~~~~~~~~~~ パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。 ――アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方である ことを、わたしは認めます。 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知 られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あな たがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主 ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えても らう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与 えてくださるのは、この神だからです。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あるいはエレミヤ書31:31からの新しい契約のくだりを知るべきでしょう。(あぁニ千字)。
お礼
ううーん。何だか ひどっちさんにとっては 初めから分かっていることであるようにも映り どうしてよいのか弱ってしまいますが――ご回答をまことにありがとうございます―― わたしとしては一つひとつ確実に知るようにしてまいります。 ★ “風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。 ☆ 病因となるヰルスにしても 型がいくつもあり複雑になっていて 処方するすべがむつかしいのだとか。そういうことでしたか。すみません。でもそれを 不可知とは言わないのですよね? 二重のあやまちを侵すかも知れないのですが どこかよく似た事態であるようにも思ったりします。 特定のかたちでなくても解があることは分かっている。けれどもこれを知ることは いまはお手上げである。 ただし ★ 未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。 ☆ と表現する事態は あまり意味がなかったようですね。いま証明によって不可知だと分かれば そのことが一応 知性を支配する。 ★ ・・・つまり、“電子雲”とは電子がそれぞれの位置に存在する確率の高い領域を示したものとのことだそうです(イメージがつかみにくいのですが)。 ☆ という“ペンタセン(ベンゼン環=亀の甲が5個つらなったものです)”の顕微鏡像の撮影に成功した事例というのは 不可知の壁に迫るものと見てよいでしょうか? ★ その後、高等数学を用いた手法(“代数的”手法以外の方法)ではございますが、シャルル・エルミートにより、五次方程式が解かれるようになりました(“六次”以上は未だのようでございます)。つまり、別経路の道筋であれば可能であったということでございます。 ☆ という事例もあるのですね。 そして ★ 原則、解は存在すると考えられます。ただ、量子論の場合、一般常識からは逸脱したものになろうかとは考えております。 ☆ ということなんですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか? 以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ▲ (ヰキぺ:不可知論) 宗教的には純粋に「神はいるともいないとも言えないのだ」とする公平な中立的不可知論 ☆ の箇所ですね。そうして この記事をわたしも読みまして 回答No.9へのお礼欄で次のようにわたしは反応しました。 ○ どうも《不可知》という訳語がよくないのではないか? それは《非知》――つまりは わたしの用語で《非思考》のことですが――とすると分かりやすいのではないか? ☆ すなわち こうです。 1. 《絶対》の想定。 2. これを擬人化して 《絶対者》と表わす。さらには 《神》を当てる。 3. 《絶対》の想定は そのまま経験世界を超えた場としてであるので そのまま初めから 《非思考》つまり《思考としての有る無いは超えている》。 4. つまりこのことを 《神はいるともいないとも言えないのだ》と表わしている。 5. すなわち 《 agnosticism 》は 《不可知論》と訳すのではなく むしろ《非知の場 もしくは 非思考の理論》と表わしたほうがよいのではないだろうか? ☆ となります。わたしとしましては これですっきりしたのですけれど ひどっちさんやみなさんは どうでしょう?