- ベストアンサー
不可知とは?
- 不可知とは、知り得ないことを指します。
- 経験世界を超える領域が不可知であり、可知か不可知か分からないとされます。
- 不可知とは、可知の領域の限界を知った状態を指し、未知だけではないとされます。
- みんなの回答 (48)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
続きからでございます。 > ☆ その出来ないという点を取り立てて《不可知》という規定をしてもよいと思いますが 《知り得ないかたちで 解はあるということを人間は知っている。言わば永遠の未知である》と規定してもよいように思われます。 未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。 > ☆ 解を知ることじたいは永遠に不可知であったとしても その不可知の解があることを知っていれば じゅうぶんだ》という余地はもうありませんか? 風邪の原因は分からないのでしょ? 不可知とは言いませんよね? おそらく、その問題に取り組んでいる一部の物理(数学 or 化学)者以外は、「解(対象)があるというだけで、じゅうぶん」と思われます。少なくとも“安心感”はえられると思われます。 なお、とても細かいことではございますが、“風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%82%AA からでございます) > 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか? 以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96 からでございます) ご参考になれば、幸いでございます。
その他の回答 (47)
>あまりにも幼稚 「このゆびとまれ」は あなたのことばですがwww 自分の言葉を再認識するように。 反論できないから「幼稚だ」と悪態をつくのがあなたの哲学です。よくかんがえてみなさい。
お礼
そういう言葉を使うと《幼稚》だと見なされるのですか? あほらしい。
貴方のいう哲学とは、 このゆびとまれの「哲学ごっこ」に参加するということのようです。 文脈と関係のない英語を引っ張り出してきたのを間違いと規定しています。 変な間違いを変な間違いだといっているだけです。もし「変な」の定義的基礎付けが、 中国に起因しないと仮定すると、「変な」の起源は、引用者の凝り固まった使用上の意図です。 「辞書に載ってない言葉を作ったにょ おいらは、エライにょ¥」 といっても誰も認めませんよ。でくの坊のままではダメです。きをつけなさい。 可知の反対語は、不可知です。ほかの回答は、0点です。 回答が気に入らないという理由から、国語の先生を気取っていも、いざ国語が問題になると いつも英語とフランス語が、忠信で物言いを企てる。 恐ろしいことにその仏語・英語が「だめだめ」であるため、論理が破綻してしまうが、 自分の間違いは正しいといいつづける ぼけた頭脳の持ち主は、自分の非を認めるべきです。 >《公共》ということの意味が分かってない。 あなたの「利用していることが、感謝しているということの証である」というような暴論は、年金泥棒の掲げる公共理論です。「もちつもたれつ」と主張し、実のところは、「もたれてばっかり」の貴方に「感謝の心がない」ということが証明されるだけです。もう少し自分の行動に自覚を持ちなさい。 英語が話せないのは「練習を怠ったからである」という言い訳を 「はなせない老人の負け惜しみ」と言い換えることが出来ます。反省しなさい。 (練習してももう意味がないというのは内緒にしておきます。) >nonameは私です。www じゃなぜ訂正したのwww 間違いは間違いであると自分でもわかっていて、それでいて どうしても素直に成れない。じじ臭さを振り払うべきです。すこしは、成長しなさい。
お礼
★ 文脈と関係のない英語を引っ張り出してきたのを間違いと規定しています。 / 変な間違いを変な間違いだといっているだけです。 ☆ ぢゃあ 《身の毛もよだつ中国人の英語》 これはうそか? 《文脈と関係のない英語を引っ張り出してきた》とき ご自分の専門の方面なのでということわりが述べてあります。《 agnostic 》の入った文例を示すためにです。そういう広い文脈の中でのことです。 あとは あまりにも幼稚である。
変な中国人の間違った英語を、 コレこそありがたい英語であると 威張りくさって引用しています。 間違いは間違い。 屁理屈をこねていないで、引用した自分の間違いを認めなさい。 反省のはの字もない変わった人たち。WIKIはあなた方の所有物ではありません。 公共の情報を利用するばかりで、恥ずかしいという感情もないのですね。 いい年をして感謝ぐらいしなさい。 物量作戦で自分の間違いごまかす魂胆 (オピニオンロンダリング)でしょうが、見え透いていますよ。 恥ずかしくないのですか。 英語が話せないということを大目に見るにしても、少しは自分を省みなさい。 あとブログのユーザ名について綴り間違いを直すこと。 気をつけなさい。
お礼
ちょっと遅かった感じがしないでもないけれど ご投稿をありがとうございます。 さて なんですって。一つひとつ行きましょうか。 ★ 変な中国人の間違った英語 ☆ これについては――じっさいにはひとまづ引き出しの中にしまってしまいましたが―― 基本的には おそらくひどちさんも そしてわたしも 検討中でもあり見守ってもいるという姿勢ですよ。 だから あなたも ここがこう そこがどうと具体的にその間違いを指摘することが 哲学の徒のふつうの行き方です。 なお 何の理由も示さずに人に対して《変な》という呼び方をするのは 哲学の人ではありません。 ★ WIKIはあなた方の所有物ではありません。 ☆ 《公共》ということの意味が分かってないなぁ。引用をされればされるほど そのこと自体が利用者からの感謝の気持ちを表わしているのですから ヰキぺならその著者にとっても うれしいということになります。持ちつ持たれつです。 ★ 物量作戦で自分の間違いごまかす魂胆(オピニオンロンダリング) ☆ どの箇所を指して言っているのか分からないが もし全部そうだとすれば 推論に必要なことを記しているだけですと答えておきましょう。 ★ 英語が話せないということを大目に見るにしても ☆ 話せますよ。ただ 話していたのは もう四十年も前。そのあいだに 数えるほどしか話していない。それに 英語能力として 英語を母語としてあやつる内の優秀な人びとに近づくという志は 捨ててはいないけれど その訓練をしてきていない。こういう事情。 ★ あとブログのユーザ名について綴り間違いを直すこと。 ☆ 言葉というものは 変わった生き物でね。間違いがそのまま通用していくようにもなるのです。かえって昔からの《ただしい》用い方のほうが もう間違いだと見なされることが 多くあります。 そのあたりのことを――これ自体は 言語の変遷に限ってですが――考えながら すすんでまいりましょう。
こんにちは、ご返答遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。 > ○ 《 agnostic 》とは 論理的に言って 《知り得ない》という或る種の核を共通に持ちつつ 一人ひとりの意志もしくは心の自由を束縛しないという意味で 《知るという問題にあらず(非知)》と言うかたちを排除しない。 おそらく、《知るという問題にあらず(非知)》も、Huxley自信も、個人の自由意志を否定はしませんでした。従いまして、”非知”の概念は排除されない”ものと察せられます。 ?> ☆ 主観にとっては 共通の論理的な核にあくまで重心をおく場合と とは言うものの 大きく全体として《非知》という言い方を重んじる場合とがある。となりましょうか? 前者は、概して自然科学の領域に、後者は一般には”哲学”さらには”神学”とさらには大きいいものまで含まれる(”経済学”等も含まれるかも知れません)か と思われます。 つきまして、上記ご見解には、意見を等しくさせていただきます。 以下の愚生の駄文は適当に読み飛ばしていただければ、幸いでございます。 ok9608様の”公理系内での自己の無矛盾性は、証明つくせない(おそらく、ゲーデルの定理につながるものと察せられます)には、言及致しませんでした。と申しますのも、No.7のお礼欄にて、「その不可知の解があることを知っていれば じゅうぶんだ」とのご見解がございました。つまり、”命題の真偽の証明が不可能といっても、”解(=真)”は必ずしも、存在しない” ということは意味しないと思うのです。従いまして、経験上(まず間違いなく)「解(=真らしきもの)があれば、完全な証明がなされなくても、いいのではないか」と思った次第でございます。 例えば、”フェルマーの最終定理”も、ほんの少し前までは、このゲーデルの不完全性定理により、証明不可能と思われた時期もあったと耳にしてございます。ですが、完全に証明できなくても(1995年に最終的に証明はされましたが)、この”フェルマーの最終定理”( 証明されていない時点では、”定理”でなく、”予想”なのですが)は、まず間違いなく”真”であると考えられておりましたし、それで何の問題も生じませんでした。従いまして、極論ではございますが、仰っておられました「その不可知(かもしれない)の解があることを知っていれば じゅうぶん」かと考えております。 もし、その場で言及していれば、ok9608様のお手を煩わせる必要もなかったのではないかと反省しております。 今回は、最初から最後まで、愚生の不注意により、幾多のご迷惑をおかけしてしまい、深く反省致しております。この場をお借りしまして、深くお詫び申し上げます。 次の”部落”の問題に少し、駄文をお載せさせていただこうかと考えております。 それではまた、よろしくお願い申し上げます。
お礼
ひどっちさん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ?> ☆ 主観にとっては 共通の論理的な核にあくまで重心をおく場合と とは言うものの 大きく全体として《非知》という言い方を重んじる場合とがある。となりましょうか? 前者は、概して自然科学の領域に、後者は一般には”哲学”さらには”神学”とさらには大きいいものまで含まれる(”経済学”等も含まれるかも知れません)か と思われます。 つきまして、上記ご見解には、意見を等しくさせていただきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 確認していただいてありがとうございます。 けっきょく 後半で触れられている内容とも合わせて 大胆に言えば つぎのように整理できるでしょうか。 ○ 《いまここなるわたしが 人間として 生きること》が なぞを持って 何ものにも先行している。 ○ その存在を表わす言葉は 《信じる・世界観・神学・哲学》であり それらには根拠がなく しかも堂々とそれらは その無根拠という根拠を持って けっきょくその同じ内容としての自由を 享受していく。 ○ この世界観を持って 人びとは 出発点に何らかの根拠(公理である)を置くかたちで そこからこれまた自由に 論理を駆使しつつ 世界を知る。科学である。 ○ 公理から出発した科学の探究の旅において 一部として知り得ないという部分が現われ得る。だが この不可知は 部分的なものであり 一定の公理のもとでの現われであり 広く大きくは 科学としての可知に含まれる。解が知られなくても 存在することが確認されるからである。 ☆ というふうに再度 再再度 確認しえたでしょうか。 たぶん 公理系うんぬんというところについて わたしが突っ込んで尋ねていればもっと早く確認ができたでしょうし 同じことですが ひどっちさんも ぶらじゅろんぬくん 科学の論理には 公理系という設定があるのだが 分かっているかと ひとこと突っ込みを入れてくださっていれば 早かったかも分かりません。 そんな情況でしょうか。 念のため もう少し開いておいて そのあと閉めます。
- ok9608
- ベストアンサー率38% (50/129)
お返事ありがとうございました。そこで説明されている内容は是とおもいます。 つまり 論理(論理学、数学、自然科学など含む)は 論理構成から 証明(解明)の限界がある ということです。ただし これは問題にしている系のなかの話です。系がかわれば 違った展開になります。例えば 平行線は交わる として 非ユークリッド幾何学を構築することも出来るのです。限界があるから その先は 考えても無駄だ とういうことではなく 別の系を考えなさいと いうことだと思います。 世界観を論理的に構築する場合は 勿論 論理学の証明は活きていきます が、そうでない場合は 適用されないのは 当然です。定義なしで 出発する世界観は論理学の対象ではないとおもいます。不可知の定義も同様です。 余計なことですが 定義をどうするか(定義をしないもふくめて)は哲学の一つのテーマと思います。また他者の説得には 論理は有効な手段となると思います。
お礼
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の 歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとでつねに 確認しえていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 X が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば その大前提について あらためて想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 以上の定義だけの理論は 次が その心である。 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 * * * ☆ 日本では 信仰をめぐって 衝突することはあまりありませんが それでも世界にあっては この非思考の原点・信仰類型論を共通の見方とすることが出来るならば いくらかでも 風通しのよい世界になると思っております。
補足
お答えいただきありがとうございます。 そうですね。定義にあたるかどうかは分からないのですが ひととおりの説明を書いたものはあります。 【Q:現代日本に必要な哲学は?】回答No.9 (noname・・・はわたしです)。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html 補足とお礼の両欄を使って掲げることができますので ここに引きます。 ○ 信仰類型論 §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。
- ok9608
- ベストアンサー率38% (50/129)
長いやり取りをさっと眺めた状態ですので 十分には理解できてないのですが 論理学は あまり触れられてないようでしたので一言。ダブっていたら お許しを。 言葉の定義は重要です。不可知は 知り得ないモノ、未知は 今は 知りえてないが 将来は知りえる可能性があるモノ とします。 すると 『不可知とは何かは知ることは出来ないがあることを知る ことは可知の一つである。ただし これが不可知であるか 未知であるかをしる方法はない。』と説明があったように思います。 以下は ただし部分についての説明です。 論理学では 公理系(原則を仮定する)をたて 公理系を用いて多様な命題を演繹的に証明していき 系を構成します。その時、この公理系の正しさは この系のなかでは 証明できないのです。例えば ユークリッド幾何学という系のなかでは 公理の一つである 平行線は交わらないの正しさ は証明できないのです。 ではこの公理が証明されないは どう理解するかですが 演繹の出発点の定義は それ以上には知り得ない ことを示していると思います。ユークリッド幾何学では 平行線はまじわらない の正否は知り得ない のです。平行線は交わらないの正否は 不可知と理解していいとおもうのです。 もう一つは科学の領域です。 科学の領域のみで通用する論理があるわけではないと思います。仮説をたて 科学的観察により 検証が展開されます。当然 観察技術の限界により 未知領域の線引きができます。問題は 不可知があるか ということですが 科学の論理は論理学と同様ですから 公理(原理)の定義は不可知となるのです。
お礼
ok9608 さん こちらにも来ていただきありがとうございます。 さっそく勤勉な生徒からの質問におよびますが つまりは ★ ただし これが不可知であるか 未知であるかをしる方法はない。』 ☆ この《ただし部分の説明》をいただいたんですよね。そのこと自体が またまた 《不可知》の定義をすることになっているように感じてしまったのですが これはいったいどういうことなんでしょう? まづは こういう素朴な不思議です。なぜなら 《論理学なんだから》と思ってしまったという・わたしにとっても一幕です。 これは ひょっとして論理学やあるいは数学(同じですか)そしてもろもろの自然科学の限界を見たかのようにも感じますが これも まだ分かりません。 それにしても つぎのご説明は――素人ゆえに 或る人から言われたのですがわたしは《脊髄直下思考でものを言う》のだそうで そのざっくばらんに述べますが―― 素人の考えるところと何ら変わらないと思ったのですが まちがいでしょうか? ★ ではこの公理が証明されないは どう理解するかですが 演繹の出発点の定義は それ以上には知り得ない ことを示していると思います。ユークリッド幾何学では 平行線はまじわらない の正否は知り得ない のです。平行線は交わらないの正否は 不可知と理解していいとおもうのです。 ☆ わたしは何故あるか どうしてわたしはこのわたしであるか それは《知り得ない》と言う場合と同じだというかたちです。 そうしますと この科学においてさえ 例の《人間の条件》としての非思考の場を想定しておかなければならないという事態にあるのではないかと考えてしまいます。 ひとは何ものかを《信じる》というおこないを持ちます。たいていは 《事実である〔とされている〕こと》について もしくは 《いやそれは違う。事実ではないと自分が思うこと》について つよく思うといった意味で使われていますが 人間や自然の力を超えたものについても使われたりします。それでも この《信じる》という言葉を使う習慣は 非合理的だからやめましょうというのでなければ 世界観にとっては 《信じる》を大前提において 始めなければならない。こう思われます。 つまり このことが 例示されたユークリッド幾何学にとっての《平行線は交わらない》という一つの公理の位置関係に似ていると思いました。 ただし たぶんそこから出発したあとの処理が 科学と世界観とでは違うかも知れない。あるいは やはり出発点じたいの内容(形式?)を どう捉えておくかその処理の仕方で 変わってくるかも知れない。 すなわち 公理を公理として設定したとき その公理の意味する内容について《不可知》だと捉えるというのが 論理学および科学の論理であると示されたと解します。 世界観の場合は 微妙に違うと思うのですが 公理の妥当性についてはたとえば《無記》とすると思うのです。ブディズムの用語ですが そしてそのときには《善とも悪とも規定しない》と言っているのですが この場合は 《妥当であるかどうか分からないし 分かるか分からないかが分からない。ゆえに その公理をそのまま・つまり無根拠のまま 公理として用いる》 こういった内容になると思うのです。 《非知》なのです。 ただし ぎゃくに言えば 世界観の場合には 論理学や科学の論理という限定された世界を想定することもあると考えます。 ★ 『不可知とは何かは知ることは出来ないがあることを知る ことは可知の一つである。(* 《ただし》以下を削除したかたちです。)』 ☆ というかたちで けっきょく経験世界にかんすることがらをすべて広い意味の《可知》に入れることになると思います。言いかえると これは 《信じる》を・もしくは《信じるという大前提》を問わないという条件のもとでの知解活動であると捉えたことになるのだと思います。 これらいま述べてきたすべてをふり返ってみるに ここには――つまりおそらく 限定されず条件づけをされていない世界には――《不可知》がそれ自体として独立して存在することはない。こう思うのですが いかがでしょう? そのような世界において 人間の知解行為にとっては 《公理》〔を設定すること〕が便利だと考えられる行き方がある こうも思います。 荒削りのままではないかという感覚に抗して 切りを打ちます。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ☆ の図解もわかりやすかったです。メモしておきます。 ☆ その速さにおどろきました。つぎも メモしておきます。 誠に、光栄に存じます。 > ▲ イムノクロマト法(Immunochromato graphy):抗原と抗体が結合した抗原抗体複合体が試験紙上を移動する途上に、あらかじめ抗原と結びつく抗体を線状に塗布させた部分を用意し、抗体に補足させることで現れる色付きのラインの有無によって検出する方法。 現在では、病院いったその日に院内で結果がわかるようになっております(確かに便利な時代にはなったかと思います)。 > かなり主観の共同化が図れてうれしく思いました。 どうもありがとうございます。こちらこそ、うれしく思っております。 ★ the problem:「知り得るか知り得ないのか?」と致しますと、この問い(問題)は、“insoluble”:「解不能」とは、考えられないでしょうか? ★ ですが、「知り得るか知り得ないのか?」という問いにも、“知りえない(分からない)”と解しますと、"unknowable"でも構わないと思われますが、いかがでしょうか? ☆ すなわち 人間の自然本性としての(生まれつきの)能力にはない。つまり おっしゃるように《 insoluble (解不能) あるいは unknowable (知り得ない)》と規定されうる。しかも――しかも です しかも―― 生身で生きているあいだに 予感として何らかの知覚が得られるかも知れない。(これは 与えられるかも知れないという意味です。能力は はじめに ないのですから)。 確かに、仰るとおりかもしれません。「(何らかの契機として)予感として何らかの知覚が得られるかも知れない」 これは完全には、否定できませんでしょうから。 > でも いちおう こういうかたちと致します。ですから これを否定する主観も 互いに自由で 互いにとうとび合うことを大前提とするものとします。どうなんでしょう? 概略におきまして、ご質問者様との見解が重なるところがあり、愚生と致しましては、誠にうれしく思っております。また、「否定する主観も 互いに自由で 互いにとうとび合うことを大前提とするものとします。」となりますと、各々の人たちの“想い”に関わることかと存じます。従いまして、愚生と致しましては、何も申し上げられることはないようにも思えます。なお、“互いに自由で 互いにとうとび合うことを大前提とする”は、愚生も大事にしていきたいと考えております。 > 次の資料の中の記事で 分からないところがありました。 《庭の奥の妖精》というところですが これは 経験世界におけるものごとを例に出して来ているのですよね? つまり 人間の想像の産物の問題だと思うのですが だから 《非知》をめぐる例としてふさわしくないように思うのですが・・・?。 愚生も、断定しかねるのですが、その上に、ラッセルの言葉が載せられております。その中に出てきます“celestial teapot”は、ラッセルの“Russell's teapot”の概念と関係があるように察せられます(以下をご参照くださいませ)。従いまして、”経験世界“のものとは、基本的には、異なるものと解しております。 おそらく、“only to the extent「ほんのその程度まで」”との表現がございますので、一種の比喩表現かと思っております。 “Russell's teapot, sometimes called the Celestial Teapot or Cosmic Teapot, is an analogy first coined by the philosopher Bertrand Russell (1872?1970), intended to refute the idea that the philosophic burden of proof lies upon the sceptic to disprove unfalsifiable claims of religions. Russell's teapot is still referred to in discussions concerning the existence of God.” (http://en.wikipedia.org/wiki/Celestial_teapot からでございます) ご参考になれば、幸甚に存じます。
お礼
だいたい ひと段落がつきましたね。 ひどっちさん ご回答をありがとうございます。 ▲ Russell's teapot is still referred to in discussions concerning the existence of God.” ☆ 神の問題だと これだけはっきりしているのでしたら もう何をか況やです。分かりました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ・・・しかも――しかも です しかも―― 生身で生きているあいだに 予感として何らかの知覚が得られるかも知れない。(これは 与えられるかも知れないという意味です。能力は はじめに ないのですから)。 ★ 確かに、仰るとおりかもしれません。「(何らかの契機として)予感として何らかの知覚が得られるかも知れない」 これは完全には、否定できませんでしょうから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これもそれとして また互いに異見の受容を条件として 認めていただいたようです。 したがいまして こうなりましょうか。 ○ 《 agnostic 》とは 論理的に言って 《知り得ない》という或る種の核を共通に持ちつつ 一人ひとりの意志もしくは心の自由を束縛しないという意味で 《知るという問題にあらず(非知)》と言うかたちを排除しない。 ☆ 主観にとっては 共通の論理的な核にあくまで重心をおく場合と とは言うものの 大きく全体として《非知》という言い方を重んじる場合とがある。となりましょうか? もうしばらくして 閉じましょう。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
又書いてみます、貴方の感じた事を私も感じています。貴方の書いた内容は、私の感じていることと同じです。人間の知性で文明が切り開かれてきました。人間の知性が人間を悩ませて、心を病ませています。文明が進歩することは、人間の持っている本来性を損なう場合があるという意味ですが、人間の心が飽くまでも知性を伸ばす事と同時に、感性を取り込む事を同時に行う必要が有ると思います。 感性、直覚、思惟する事が=自分自身の存在自身『実存』と一つになった時が、人間の至福の時です。もうそこには『計らいもなくなっています』計らう事は『不可知の者』に任せています。 『意識』が停滞しなくなった時に『至福』を感じます。平常心とは『無為自然』と言う事が分ります。無意識と手を繋いで生きた時が『涅槃』という事になります。カラオケになり切った時が『道に到った事を知ります』 自分が自分ではなく『何かに』成り切った時の事です。
お礼
つまりとうさん ご返事が遅れてすみません。 これでひとまづ安心と思ったあと 放っておいていました。知らずに長くなってしまっていました。 ご回答をありがとうございます。 そうですね。 それでは わたしの見方から さらにもうひとつ要請をしてみましょう。たとえば ★ 人間の心が飽くまでも知性を伸ばす事と同時に、感性を取り込む事を同時に行う必要が有ると思います。 ☆ というそのとおりだと思います。思いますが 問題は まだ済んでいません。 知性を伸ばし 感性を取りこんだそのあと その状態(ただし 動態である)から さらに自己表現を推し進めていくということ。こうでなくっちゃならないとわたしは 考えます。 理念として これこれであると言うのではなく その理念を生かした状態にすでに成って 主題や課題に取り組んでいくということ。 このように考えますが いかがでしょう。 ものごとを終わりから始めるのだと思います。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
もう一度書いてみます。私がノイローゼから普通の状態になったかは前に書いた事がありますので、省きますが、鈴木大拙博士の著書から今でも毎日数ページを読むようにして学んでいます。 禅の本は『本当は、バカらしい事が多く書いてあります。』論理では全く歯が立ちませんが、おかしな内容の中にも、不可知なものを、自然と感じています。人間とは理論武装しているようで、案外訳の分らないものからの情報で助かっていると思います。 右脳からの問題です。『母親のお腹の中にいた時の心持を、一言述べてください。』是が分ったた時に、本当の不可知と言う意味が判ります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 たしかに気分が広く開かれたかに感じます。全体としてです。 どうでしょう? 今回のご議論は どこへ向かっているのかです。 ひとつには 理屈抜きのことがらに――あるいは 不合理でばかばかしいことがらの中に―― この世界についての全体観が得られるきっかけがある。こう言おうとされているのでしょうか? あるいは 不可知だと言っていても 不可知がもし神のことであるのなら 不可知なりに人がそこから――知覚などとしてでも――得られるものがあるにはあるのだ。そういう訓練をするとよい。ということなのか? さらにあるいは ともかく 《自然と感じる》ような体験を得るようにしなさい。その道において 不可知とも呼ばれる神のこと・もしくはこの世界にかんする見方が 身についてくるようになりますよ。ということなのか? ただ わたしにとっては こういう感覚でもあるのですよ。つまり 右脳とは 《わたしがわたしである》そのわたしの一部だ。左脳とて そうだ。自我もその意識も 超自我も無意識も みんな わたしの一部だ。 わたしは 自然である。そう言っているわたしは 自我意識をともなっているが その認識(認識事項)に取り込まれるわけではない。わたしはわたしだ。つまり 自然である。しかも 自然だと見止めているわたしは 世界そのものだ。自然に限られるものではない。全体そのものになってしまったわけではないが 世界が見える。世界におけるものが見えている。 おそらく 神にどこか一部分においてでも 触れられているからだ。もしそうだとすれば そのように神に知られているというかたちと限りで わたしは神を感じている。その限りで 神は不可知ではないというふうにも 思うようになっている。 そのわたしは もはやわたしではないかも知れない。だが そう思ってみるわたしは わたしなのだ。有り難し。ホーサナー。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
簡単に言うならば、人間の脳の事を言っています。誰でも自分は『自分を知っている』と思っています。処が人間が健康で、心には安心感が在って、何も障害が無くて、幸せを感じているなら。何も疑いが無いと言う事になります。処が眠る事一つにしても『如何して自分が眠れるのかは知りません』本当には、眠る場合は『自我意識は関与していません』眠る事を自我意識が関与してコントロールしようとする事が『不眠症の原因です』 人間が眠れるのは自我意識が無い時の事です。『自我意識が無くなって、無意識の世界に体と心を投げ出す事が出来た時に、無意識が、体と心を心地良い眠りの世界に誘っています』自我意識は逆立ちをしても眠りにはいる事は出来ません。 この事を不可知と言います。意識が無くなった事を『自我意識は認識出来ないからです』人間の生活が正常に、或いは健康に保たれている場合は、意識と無意識が交代制で調和が取れている場合です。このバランスが狂う事が『人間の苦悩や障害になる場合があります』 何故ならば『自我意識のみでは体と心の健康を保てないように出来ているからです』自我意識の機能とは分別で出来ています。つまり論理的に割り切れる事にしか対応出来ない様に出来ているからです。それは言葉で考える事からそのようになっています。物事を言葉で理解する事は、物を論理的に見る見方で可能となるからです。その見方でしか世界を見れなくなった時に、人間は『病む』場合が在るという事になります。人間の脳の機能からこの現象が起きる場合があります。人間は出来る事でさえ『出来ない』と思い込んで自ら『壁』を作って、その壁の中に閉じこもって、誰の言う事も聞けなくなる場合があります。 是は脳の機能の問題が分かっていない事によっています。心は人間の全てではない事を『本人が知らない事によって』起きている現象です。人間の心は二つの要素から成り立っています。一つは自我意識ですが、もう一つは『無意識』です。無意識の中に『不可知』の部分が隠されているからです。 意識が無くなった事を『自我意識は知らない』と言う事が毎日何百回と行われているからです。意識から無意識への移行を『自我意識は知りません』この事に気が付く人が『神経質』と言われている人達です。 意識から無意識への移行が出来なくなった事を『意識する』と言います。神経症などでは『意識することの無いようそのものが』症状名になっています。 精神疾患の場合も同様です。『心が苦しくなった、その内容が』症状名になっています。 心とは二つの違う機能から成り立っています。感じて言葉にする機能と、『環境の有様を見たままに在るがままに、感じる心に、脳梁を介して、言葉ではない情報として伝えるシステムから成り立っています。 この不可知の者がその情報を発信しています。自我意識はその情報によって『決断したり、やめろうとして判断』をしています。その不可知の者は心臓の速さでも、脈拍の速さでも、ホルモンのバランスでも自律神経の働きでさえも自在に出来る存在です。命そのものの番人と言う言い方でも可能な者です。 この命の働きを人間の自我意識は意識出来ません。出来た時が『悟る時です』が、容易な事では出来ません。精神疾患で苦しんでいる時は『自我意識とその働きが矛盾を起している時です』つまり心の矛盾の産物が『症状』となっています。 自我意識は『意識した所しか自覚できません』それでは命さえ守れない事から、意識していない所も監視して知らせるシステムが人間には生まれた時から備わっています。それが命を働かせるもの、『命そのものの働きの意思』という言い方が出来るかもしれません。それが『仏性』です。 キリスト教では『神』と呼んでいます。ユダヤ教では『在りて或る者=ヤーウエー』と呼んでいます。仏教では長い間に、沢山の呼び方が成立しています。『在る者でもないし、無いものでもない=不生不滅』それらに共通する事が『不可知』という事になります。 障害と意識している『症状は』心の矛盾の産物です。薬とは『命の働きの意思』からの情報を感じなくする効能で出来ています。右脳から必要として送られている情報を、自我意識が勘違いして受け取っています。症状とはわるいものではなかったと分る事が『悟り』という事になります。症状を起こしていた者と和解する事で、心の矛盾は解消できます。自我意識が自我意識の計らいで『苦しい想い』をしていました。今度は自分自身の命の働きの意思の元で生きてゆく事になります。自我意識が自我意識のみの計らいでは『生きてゆけないと判った時に』二つの意識が同調出来るようになります。此処を持って健常者と同じになります。二つの意識の『軋みが』無くなるからです。そうして意識と無意識は、わだかまり無く交代制を繰り返す事になりま
お礼
つまりとうさん ご回答をありがとうございます。 わたしは あなたがこのたぐいの文章をつらね続けておられるのを見て どうしてそうなのかと いつも不思議に思います。 だって 《大死一番》を経て来ておられるのでしょう? だったら ときには この自我意識を取っ払った自己表現をおこなわれてもよいように思うのです。 きゅうくつぢゃありませんか? ★ ・・・『在る者でもないし、無いものでもない=不生不滅』それらに共通する事が『不可知』という事になります。 ☆ おそらく そうであろうと これまでにも 回答者さんたちとともに 考えて来ております。問題は わづかにこの《不可知》という言い方にあります。 なぜか? 一方で 《知り得ない》。他方で 《知り得ない》と規定したなら その《不可知》という範疇に――つまりは その理論のかぎりで 起きているあいだは 意識という領域に―― じつはその《神》なら神が 押し込んでおかれているという状態が現われて来ていることになります。後者は 本意ではないでしょう? 人間にとってです。 神は 人間にとって 不可知である。ところが ここから ややもすると 《不可知》という抽斗(引き出し)に 神がしまい込まれていることになりはしませんか? という疑いから 出発しています。どうでしょう? 《非知》と言いかえたのですが これは そこに《不可知》をも包み込んでいるかたちだと思います。 そういう経過をたどって来ています。
お礼
ううーん。何だか ひどっちさんにとっては 初めから分かっていることであるようにも映り どうしてよいのか弱ってしまいますが――ご回答をまことにありがとうございます―― わたしとしては一つひとつ確実に知るようにしてまいります。 ★ “風邪の原因”は一応ウィルス(一部細菌によるものもございますが)とされております(特効薬は見つかってはおりませんが…..)。 ☆ 病因となるヰルスにしても 型がいくつもあり複雑になっていて 処方するすべがむつかしいのだとか。そういうことでしたか。すみません。でもそれを 不可知とは言わないのですよね? 二重のあやまちを侵すかも知れないのですが どこかよく似た事態であるようにも思ったりします。 特定のかたちでなくても解があることは分かっている。けれどもこれを知ることは いまはお手上げである。 ただし ★ 未知を「未だ知られていないこと」と定義し、また、永遠とは、今という時間の一瞬を∞にしたものと解すれば、《永遠の未知である》とも規定可能と考えられます。 ☆ と表現する事態は あまり意味がなかったようですね。いま証明によって不可知だと分かれば そのことが一応 知性を支配する。 ★ ・・・つまり、“電子雲”とは電子がそれぞれの位置に存在する確率の高い領域を示したものとのことだそうです(イメージがつかみにくいのですが)。 ☆ という“ペンタセン(ベンゼン環=亀の甲が5個つらなったものです)”の顕微鏡像の撮影に成功した事例というのは 不可知の壁に迫るものと見てよいでしょうか? ★ その後、高等数学を用いた手法(“代数的”手法以外の方法)ではございますが、シャルル・エルミートにより、五次方程式が解かれるようになりました(“六次”以上は未だのようでございます)。つまり、別経路の道筋であれば可能であったということでございます。 ☆ という事例もあるのですね。 そして ★ 原則、解は存在すると考えられます。ただ、量子論の場合、一般常識からは逸脱したものになろうかとは考えております。 ☆ ということなんですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《不可知》を持ち出して来たのは 有神論に対する無神論の側の反論のひとつのかたちだったのでしょうか? 以下のサイトにもございますが、無神論側からのものとも考えられますし、有神論側からのどちらからでも用いられそうでございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ▲ (ヰキぺ:不可知論) 宗教的には純粋に「神はいるともいないとも言えないのだ」とする公平な中立的不可知論 ☆ の箇所ですね。そうして この記事をわたしも読みまして 回答No.9へのお礼欄で次のようにわたしは反応しました。 ○ どうも《不可知》という訳語がよくないのではないか? それは《非知》――つまりは わたしの用語で《非思考》のことですが――とすると分かりやすいのではないか? ☆ すなわち こうです。 1. 《絶対》の想定。 2. これを擬人化して 《絶対者》と表わす。さらには 《神》を当てる。 3. 《絶対》の想定は そのまま経験世界を超えた場としてであるので そのまま初めから 《非思考》つまり《思考としての有る無いは超えている》。 4. つまりこのことを 《神はいるともいないとも言えないのだ》と表わしている。 5. すなわち 《 agnosticism 》は 《不可知論》と訳すのではなく むしろ《非知の場 もしくは 非思考の理論》と表わしたほうがよいのではないだろうか? ☆ となります。わたしとしましては これですっきりしたのですけれど ひどっちさんやみなさんは どうでしょう?