- ベストアンサー
やおろず神と日本版新自由主義
- 日本版新自由主義の特徴を考えてみると経済的合理性のみで社会と組織を分析する点にあると思います。
- 一神教と多神教の信仰の違いがその背景に関係しているのかもしれません。
- 経済的合理性のみによる説明で納得することができるのは、文化的な癖が影響している可能性があると考えられます。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>「思わぬところと思わぬところが関係しているかもしれない」という意識の欠如 この言葉は抽象化能力の欠如の別な表現ですね。この能力のない人は、単に頭が悪いというだけです。例えばここに3冊の本と3本のバナナが在ったとして、チンパンジーにそれらの間に共通な部分があるかどうか聞いてご覧なさい。チンパンジーは共通部分がない、何故ならバナナは食べられるが、本は食べられないからと言うと思いますよ。私自身が質問者さんの主張を抽象化してみると、この主張は「日本版新自由主義の連中は、やおよろずの神という日本固有な文化が原因で、一神教の連中から比べるとチンパンジー並みになっているのだ」と言う主張をしているように思えます。 >一神教においてはひとりの神が万物を制御していると考える為に、世界全体は極めて精緻で人間がうかがい知れぬという認識になり、多神教においては多数の神どうしの関係が相対的に緩やかである為に、世界の捉え方がアバウトになるのかと思っています。 この主張に関していくらでも反例が在ると思いますが、直ぐに思い浮かぶのは、アメリカ人の物の考え方です。ご存知のようにアメリカは世界でも突出したキリスト教原理主義の国ですね。彼等の思考のナンセンスさ、バランス感覚の欠如は、しばしば芸術的です。何かの結論を導き出すときに、彼等は自分の目の前の事象を回りの事象から完全に孤立させてしまう。例えば、ある州でマリファナの取り締まりを強化する法律を作った。その結果、マリファナを未成年者に売った者は、麻薬の胴元か末端のチンピラに関係なく、25年だったか30年だったかの刑にしてしまった。そして、現にその刑の判決を受けているチンピラが何人もいます。ところが、どこかの州では12才ぐらいの女の子を強姦して殺してしまった者が10年以下の刑で釈放され、また同じような殺人を犯していることが問題になっている。まるでバランスが取れていないのですね。ある放送局の記者がマリファナに関するこの法律を通した政治家にこのバランスの欠如に関して質問をしたら、その政治家は、「今は殺人の話をしている訳ではない」と先ず話の範囲を回りの事象から完全に切り離し、麻薬の害を滔々と捲し立て、如何に自分たちの作った法律が合理的であるかを主張しておりました。 つい最近の例では、35才ぐらいのある女性が13才の男の子に自分の乳を触らせたことが訴えられ、その結果、その女性は未成年者に対する性犯罪として、終身刑を受けました。アメリカでは各州で法律が違いますから、性犯罪に関して、上の例の女の子の殺人に対する判決と比べて、これだけ開きが在ります。その女性の判決が出た裁判で彼女の弁護士が「もし彼女がその時その男の子を殺していれば30年ぐらいの刑で済んでいただろうに」と涙を流しながら裁判官に訴えていたのが印象的でした。 これらの例は、一神教で凝り固まった人達が、現象を全体として眺めつつ思わぬところで関係しているというバランス思考が出来ない、すなわち、抽象化能力が欠如した頭の悪さが露骨に出ている結果起こりえる現象だと思います。 一神教の物の見方は世界を超単純に眺めてしまう傾向があり、その結果、上の例のような馬鹿馬鹿しくて、かつ人迷惑な現象を生み出す原因になっている可能性もあります。ところが、世の中は複雑に出来ている物で、この単純さが、しばしば強力な武器になることもある。事実アメリカ人の幼稚さはヨーロッパでも評判ですが、そんな幼稚さが、若者達の向こう見ずな力を彷佛とさせるようなアメリカの底力の一因に成っているようです。 実は、私も普段から一神教の世界観が自然科学の後押しをして来たことを主張しているのですが、その西洋人の成功は、このアメリカ人の例と同列な彼等の世界観の単純さに原因が在るのではないかと考えています。 それに対して、八百万の神に代表される多神教的な発想は、始めから「多様性」の重要性を認識した世界観です。そして複雑なものを複雑なままで捉え、かつ理解しようとする。その結果、各部分を切り離すのではなく、各部分が互いに複雑に関わり合っている全体をとして捉えようとする。このような世界観で合理的な結論を下すには、大変高度な論理的思考が要求されます。長い時間を掛けてそのような訓練をされてきた日本人の間では、さすがに上のアメリカの判決を是とするような単純な連中を見付けるのは大変でしょう。 ところが、戦後この一神教的な単純な物の見方がアメリカから圧倒的な勢いで入り込んで来た。そんなことが原因で、貴方の憂えているような連中が日本にも出現して来たのかも知れませんね。 しかし、そのことを憂いている必要はないと思います。現在では自然科学でも複雑系の科学が長足な進歩を遂げており、いよいよヤオヨロズ派の出番になって来たようですから。
その他の回答 (2)
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#1です。 >私的には、米国の知識層はユダヤ教的世界観、それ以下はキリスト教的世界観なのかと勝手に思っていますが、ユダヤ教だとしても同じ感想をおもちでしょうか? 貴方的にはそうでしょうが、私的にはそれとは違う的なアバウト的な感想を持っております。私はユダヤ・キリスト教文化として、十束一絡げにしております。自然界を「Laws」すなわち「法」と言う考え方で捉えることによって自然科学が生まれましたが、それは西欧のキリスト教文化に特有の考え方であり、その原因を遡ると、キリスト教がユダヤ教の単なる一派であることに思い至からです。 ユダヤ人はキリスト教やイスラム教を通じて人類に多大な影響を与えて行きましたが、ユダヤ人がそれ以外で重要な影響を演じるようになったのは、マルクスやフロイトやアインシュタイン等々、近年になってからですね。学問関係ばかりでなく、芸能界でも枚挙に暇がないくらい居りますね。 私はその理由を、ユダヤ人の迫害に一因が在ると踏んでいます。彼等はいつもよそ者として迫害されて来た。その結果生き残りのために、ユダヤ人は子供達に学問や教養や芸能界などの一芸に秀でることの重要性を学習したようで、親達は他の白人達よりも、それらに大変な投資をしております。その結果、アメリカではハーバード大学などの一流な大学に通うユダヤ人の割合が他の白人達よりもずっと多くなり、政財界の上層部や学者になるユダヤ人が多くなっているのだと思います。しかし、上層部とは言っても政財界ではあくまで裏方です。既得権をもった非ユダヤ系の白人の一部の家族達が絶対にその権益を他に譲ろうとはしませんから。 他の例では、アメリカのインド人達です。彼等は一見目立ちませんが、アメリカではどこの病院に行っても、インドのお医者さんだらけです。また、高度なエンジニアーは大抵インド人です。被差別民族が、たまたま一芸に秀でるという生き様を発見した結果、ユダヤ人やインド人や在日の方の中に沢山の成功者が出ているのではないか。 日本でも芸能界に在日系の方が多いのは同じ理由だと思います。その世界なら、既得権や家柄に頼らずに頭角を現す機会が、他の世界と比べて圧倒的に多いですから。ま、歌舞伎系のご子息ご子女達が芸能界ででかい顔をしているという例外は在るにはありますが。 もう一つ思い当たるのは、私にはユダヤ人の知人が居りますが、彼等の議論好きな文化に感心しております。アメリカでは11月のサンクス・ギビングデーは、親戚一同が集まる大変大きなお祭りです。その日に一度その知人の家に招待されたことがありました。その時、三、四十人の親類が集まっておりました。彼等が会話を始めると皆黙って聞いておらずに必ず一言挟み込み、その喧しさは大変なものでした。「ユダヤ人が二人集まると、必ず三つの意見が出る」と言う冗談があるくらいです。ただし、これには、ポーランド人だとかギリシャ人というバリエーションもありますが。 アメリカには個人の集まりは在りますが、皆テンデンばらばらで、社会という概念が存在していません。そんな中で生き残りのために、身内で助け合うと言う方法を被差別人達が見付け出して来たのかも知れません。おしゃべりの喧しさはユダヤ人程でもありませんが、アメリカではマイアミのキューバ人やロスアンジェルスの韓国人達は、アメリカでも例外的な人達で、彼等は身内や隣人同士で助け合う、他の国では「社会」と呼ばれる組織を持っています。また、アメリカの最下層に属するメキシコ系などのヒスパニックと呼ばれる人達の間には、人口が大変多いにも拘らず白人達と比べて不思議にホームレスが少ないのも、彼等には普通のアメリカ人達とは違って、社会と言うものを持っているからのようです。 以上が、私的な意見的みたいな物的なものです。
お礼
回答ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ご質問は いくつかの主題を――しかも大きな主題を――かかえていると考えます。取り敢えずいわゆる宗教をどう扱うかの観点について 回答を寄せます。 結語として: 1. 個人の信仰から見れば 有神論と無神論とは互いに同等の非思考という場である。 2. 有神論は 全体という意味での一を言う唯一神の信仰しかありません。多神論・汎神論のその複数性(つまり 神々と言うそのこと)は分かりやすく言えば 唯一神の分身です。つまり やほよろづのかみがみも 唯一神を言う有神論とまったく同じことです。 3. 個人の信仰が集団の宗教となると――もしくは けっきょく信仰における《非思考》が 思考に非ずと言っているにもかかわらず 経験思考によって理性の問題だと見なされるようになると―― その理性による議論や科学が世界に君臨することになります。リバタリアンにしろコミュニタリアンにしろ 同じことです。 4. ここから次が帰結されるという寸法です。 ★ この文化的な癖が経済的〔――あるいは 科学的ないし哲学的な――〕合理性のみの説明で納得する要因になるのかと思っています。 ひとつの事例を挙げます。 古代人のアウグスティヌスは ○ われあやまつならば われ有り。(われ欺かれるなら われ有り)( Si fallor, sum. )。 ☆ と言ったのですが デカルトはここから ○ われ考える ゆえに われ有り。 ☆ を導き出しました。そのことではデカルトに独自性があると パスカルが議論していますが 問題は 個人の信仰と集団の宗教とそして科学 これらの位置づけにあると考えます。そしてそれはすでに述べました。 デカルトの命題に近い文章を敢えて引いておきます。 ▲ (アウグスティヌス:三位一体論)~~~~~ だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。 ・・・だから精神は 知解力が存在し生きるように 自己が存在し生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し存在し生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・ さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。 もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・ (三位一体論10・10 c.399-421) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ われあやまつならば われ有り。(われ欺かれるなら われ有り) ☆ というのは あやまちに気づき 欺かれたと気づくなら ひとは我れに還り わたしがわたしである境地を知るからです。二度とあやまちをすまいと思ったり たとえ欺かれたとしても――なぜなら人は信頼関係を知るならば それが絶対ではないと知っているのだが そのゆえに 到るところで欺かれるはずだ―― 欺かれたくないという意志は 誰によってもまた何によっても欺かれることはないと知ったりするこのことは わたしがわたしである証拠であるからです。 したがって アウグスティヌスの命題にもとづくなら やほよろづの神々を包み込むことができるし 新自由主義を 科学的ではあっても単なる人為としての思想かつ行動であると位置づけるはずです。
補足
回答ありがとうございます。 高度過ぎて意味がわかりませんでした・・・ 多分、最後の三行がまとめなんでしょうが・・・ まあ、時間かかるけど気長に読んでみます。すみません。
補足
回答ありがとうございます。 ユダヤ教的なものを念頭において考えたのですが アメリカですか・・・アメリカがありましたね。 確かに、一神教をそのまま信仰すれば単純になりそうですね。 私的には、米国の知識層はユダヤ教的世界観、それ以下はキリスト教的世界観なのかと勝手に思っていますが、ユダヤ教だとしても同じ感想をおもちでしょうか?