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みなさんは、邪馬台国がどこにあったと思いますか。
みなさんは、邪馬台国がどこにあったと思いますか。 理由もつけて回答をお願いします。
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#2です。補足しておきます。 日本で出土した銅鏡のうち、魏朝の元号(年号)が入ったものは次の9枚です。 (1)青龍三年(235年)-京都府京丹後市の大田南五号墳出土 (2)青龍三年(235年)-大阪府高槻市の安満宮山古墳出土 (3)景初三年(239年)-大阪府和泉市の黄金塚古墳出土 (4)景初三年(239年)-島根県加茂町の神原神社古墳出土 (5)景初四年(240年)-京都府福知山市の広峯十五号墳出土 (6)景初四年(240年)-兵庫県出土 (7)正始元年(240年)-兵庫県豊岡市の森尾古墳出土 (8)正始元年(240年)-山口県周南市の竹島御家老屋敷古墳出土 (9)正始元年(240年)-群馬県高崎市の柴崎蟹沢古墳出土 このデータから分かるように、出土した場所は近畿地方の北部(京都府、兵庫県、大阪府)に多く、この事実は、この地域と魏朝との交流が盛んであったことを示しています。他方、魏朝の元号(年号)が入った銅鏡は、大和盆地からも、九州からも、一枚も出土していません。ですから私は、魏志倭人伝にいう「邪馬台国」は近畿地方の北部にあったと推定します。
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- hinode11
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#5です。一カ所、不正確な記述があったので変更します。 【変更前】 (6)景初四年(240年)-兵庫県出土 【変更後】 (6)景初四年(240年)-現在、兵庫県西宮市の辰馬考古資料館に収蔵されている。 出土場所についての正確な記録がないが、宮崎県西都市の持田古墳群から出土したという伝承が残っているという。(資料館の説明) なお、「邪馬台国は近畿地方の北部にあった」という私の推定は変更しません。
- bismarks05
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朝鮮南部 楽浪郡の位置に関して、朝鮮とする一般定説の真贋は問われていないが、仮に楽浪郡を山東半島と規定すれば、当時の任那に近く説明しやすい 既存の仮説は、楽浪郡のついての検討が杜撰なのは、否定できない事実らしい 個人的には、宮崎県西都周辺を支持してますがね
- toshineko
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おお、なるほど。見事に邪馬台国東遷説が説明できますね。 魏国が正式に朝貢していない国に鏡を下賜するとは思えません。 となると、鏡の出所は必然的に邪馬台国となります。邪馬台国は東征にあたり近畿地方近隣の実力者に協力を仰ぎ、その礼に鏡を送ったのではないでしょうか。近畿周辺の地方に鏡が点在することはこれで説明がつきます。 九州から大和へ移った際には、当然残りの宝物は一緒に持参するでしょうし、ひょっとしたら祖先の墓も移動させた可能性も考えられます。となれば、九州から鏡が見つかるはずがありません。
宮崎県もしくは九州のいずれか。 天孫降臨や、神武天皇の東遷に少しでも史実性があった可能性を考えると、そのように思います。
- toshineko
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大和以外のどこか(九州か?)。 (理由) 古事記や日本書紀では、天照大神を皇祖神として祭っている。その後天孫が降臨し、葦原の中つ国を治めている。このとき天照大神は「わが子孫が治める国である」と、その正当性を主張している。 ということは、天照大神の祖先は、この国を以前統治しており、倭国大乱のとき、亡命政権を樹立していたと考えられる。このとき魏の後援を得て、大和の国を奪回しようとしていたのではないか。大和の国を奪回したのは孫の代であった。 神武天皇が即位して以降、推古天皇まで女性の首長は存在していない。難升米は魏の帝に対し、邪馬台国を統治しているのは女性であると言っている。表向きの代表者は大王(男)であるのだから、わざわざ女性が国の統治者であるなんて言わなくてもいいはず。 したがって、大王として即位した神武天皇以前のことと考えられる。単なる祭祀者である倭姫や倭迹迹日百襲姫ではありえないと考えます(実力的にどうであったとしても)。
- hinode11
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近畿地方の北部に邪馬台国があったと思います。考古学的理由によります。 日本で出土した銅鏡のうち、魏朝との交流を示すと見られる銅鏡の多くは、近畿地方の北部から出土しているからです。
- PENPENMAKKY
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大和の国(奈良) 理由:中国では外国語は表音表記します。三国志時代の読み方は分かっていません。『ヤマタイ』と読むかどうか不明です。ちなみに『ヤマタイ』の読み方は隋の時代は『タイ』と読んだから『ヤマタイ』なのだそうです。表音から考えると『邪馬台国』という国が存在したのか疑いがあります。この時期の日本は戦乱状態だったようで(実は日本武尊のちょっと後)、ヤマト国が戦争していたのは間違いないようです。当時の皇太后は優秀な人とも伝えられています。(あくまでも古事記・日本書紀ですが) ヤマト国のヒメミコが魏に使いを送った ヤマタイ国のヒミコが魏に使いを送った 同じに感じるのは私だけでしょうか。