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邪馬台国って
奈良県大和郡山市の矢田地区あたりは「邪馬台国があった(かもしれない)」みたいなかんじで卑弥呼祭りなどをしていますが、何を根拠に言っているのですか? 掘って何か出てきたんですか?
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大和郡山の卑弥呼コンテストの雰囲気がわかるHPを見つけました。(参考URL) ところで、邪馬台国や卑弥呼は町おこしにかなり有効な手段なので、何か目立つ発掘があると、新聞社の支局が、町おこしサポーターになって、都合の良い事をかなり断定的に記事にする傾向があるような気がしています。例えば、ホケノ山古墳の発掘では、「石囲い木槨」が見つかったというのが一つの目玉ですが、「棺あって槨なし」という魏志倭人伝の記述と明らかに矛盾します。「魏志倭人伝でも、そこ迄の詳細は無視する」という考え方かも知れませんが、何の説明もなしに、かなり誤差の大きな放射性炭素年代測定法を主な根拠の一つにして「邪馬台国大和説の補強材料」と言われてもなぁ。建前上は事実を伝えるはずの新聞でもこんな程度なので、私としては、大和郡山説に基づく町おこしも許してあげてもいいんじゃないかな、と思っています。 尚、邪馬『壱』国についてですが、 ・ 現存する魏志版本(古いもので12世紀のもの)には、「邪馬壱国」(一部では「邪馬一国」)とある。 ・ 魏志以降に成立した「後漢書」等々の数多くの文献で、魏志を参照していると思われるものには、すべて「邪馬臺国」とある。 という事実を、通説は、現存する魏志版本の「壱」が「臺」のあやまり、と考えるのに対し、『壱国』の主唱者である古田武彦氏は、 (1) 魏志中の「壱」「臺」のすべてを調べても、他に両者を書き間違えたと推測できるものはゼロ。魏志の原文が写されて現在に伝わる過程に置いて、「臺」を「壱」に読み間違える(書き間違える)人はいなかった。 (2) 「臺」は天子のいるところを示す「神聖至高」の字で、蛮族の国に対して使う事はありえない。 ⇒ よって魏志の原文は「壱」で、それ以外の「臺」は後漢書が「臺」としたのを受け継いだもの、と解釈しています。 古田氏に対する反論(私は至極的を得た指摘だと思っていますが)は、 (1) 素人でも疑問に思う事だが、「他に似た例が見つからない時は、残る一つも間違いではないと思え」などという理屈があるか?。書き間違えが一つしかないって事はいくらでもあるだろう。二つ以上似たような間違いっぽいのがあれば、ほぼ確実にどれも間違い、と言えるだけの事。もし本当に「壱」から「臺」に変わったのなら、隋書がわざわざ「(後漢書ではなく)魏志でいうところの邪馬臺国」と書いたのはなんでだ? (2) 魏志の中には、敵の戦死者を埋めた塚の意味で『臺』を使っているところがあり、臺=神聖至高というのは、事実と異なる。 が主なところでしょうか。 話の性格上「100%これが正しい」とは誰も言えませんが、こういった『邪馬壱国』説を、まともな「説」と扱うのなら、相当好き放題な事が言えてしまいます。 邪馬台国大和郡山説の主唱者である鳥越憲三郎氏の著作は、他に関するものしか読んだ事がありませんが、『邪馬壱国』説ほどはびっくりするような事は書いていませんでした。『邪馬壱国』にくらべれば、大和郡山の卑弥呼コンテストの方が、相当根拠があるんじゃないでしょうか。 邪馬台国論争って、ホント訳がわからん。以上長々と失礼しました。
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- -ria-
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漢書だったか何だったかうろ覚えですが、中国の歴史書に倭国にあるクニについての記述があるのですが、それを辿っていってつじつまを合わせるとその辺になる、というのと、同じく中国からの贈り物で邪馬台国へ届けられたっぽいものがその辺で見つかったりなどなどという理由でその説はあった・・・はずです、たしか。 お祭りに関しては町興しとかの目的だと思いますけどね。
お礼
ありがとうございます。
- izumokun
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誤解があってはいけないので、追記します。古事記や日本書紀は、聖徳太子が稗田阿礼に命じて改ざんしたのではありません。 聖徳太子が編纂したのは「天皇記」や「国記」です。それに対し、「古事記」や「日本書紀」の編纂を命じたのは天武天皇です。 ところで、邪馬台国について、「魏志」には「邪馬壹国」と書かれてあり、「壹」は「壱」ということなので、そのまま読めば「ヤマイ国」になるそうです。 ところが、東洋史学者の那珂通世氏の、「壹」は「臺」の誤字とする説が通説になってしまっているそうですね。 本当のところは、どうなんでしょうね。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 ほんとに、本当のところはどうなんでしょうね~。
漢書か後漢書か忘れましたが. 朝鮮から.方向と日数が記載されて.「なこく」に届く道筋が記載されています。 ここで.方向をちょっと変えて解釈すると.大体近畿地区にたどり着きます。 この近畿地区と日本書紀の記載内容から.邪馬台国の所在地としているようです。 日本書紀や古事記も.他の歴史書と同じく.権力者としての聖徳太子が稗田阿礼に命じて改ざんしたので.信頼性はかなり低いです。 ただ.北九州付近に巨大な古墳があることも考えると.九州説もうなずけるのですが。 ただし.沖縄とは別です。なこくと慣習や体格の異なる民族が住んでいたとの記載があります。
お礼
ありがとうございます。 邪馬台国は九州説と大和説では現在大和説のほうが優勢みたいですね。
- Budori-Neri
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以下のサイトをご覧ください。 邪馬台国 大和郡山説http://nabegon.hp.infoseek.co.jp/home/yamatai.htm 他にも、「郡山 矢田 邪馬台国」で検索すると、ヒットすると思います。
お礼
ありがとうございます。 URL参考になりました。 それにしても矢田にいますくしたまひこ神社に卑弥呼の墓説があるとはびっくりです。 私は箸墓なんじゃないかな~と思ってるので。
- izumokun
- ベストアンサー率30% (1129/3679)
特に何もないみたいですね。単なる町興しではないでしょうか。 ちなみに、私の職場に吉野ヶ里遺跡の発掘に携わっていた方がいますので、他にお聞きになりたいことがあれば、何なりと・・・。
お礼
ありがとうございます。 毎年女王卑弥呼コンテストとかいうものを開催してるみたいなので何か根拠があるのかな~と思ったんですが、なさそう…? 吉野ヶ里遺跡ですか。 確か現在は邪馬台国説は打ち消されてますよね。
お礼
詳しくありがとうございます。 ホケノ山古墳は一説によると卑弥呼の親のものではないかという事だそうですね。 邪馬台国論争はほんとにわけがわからないですね~。