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アフリカ的段階について
- アフリカ的段階とは、吉本隆明がアフリカをアジア的段階より前の段階と捉えたものです。
- アフリカ的段階では、王が殺生与奪権を独占し、生命の等価交換が成り立っていました。
- 民衆と王は等価であり、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまうと言われています。
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オコリザルです。 検証材料としてポケモン文学を提示します。 採点してください。 輪廻とは未来および過去が死によって阻まれる現象である。 来世、現世、過去世、このすべては生への執着と交錯しない限りは、単なる世の話であり、死に阻まれなければ全てがある。 来生、現生、過去生、これはもっと明白。 過去を思い返せば全てが苦しい思い出ばかり。 これは有りがちです。 自らの過去思い出すのにも死に阻まれている現象です。 そのような錯覚が無くなれば、例えば過去生などは自らの今生でたどった過去の生きざまのみを指します。 それが死に阻まれているゆえ、あほらしい輪廻を起草するのです。 これが輪廻観の内訳です。 それでは死に阻まれなければいかようであるか。 自らには根ざしません。 人間存在には根ざしません。 大地(地球)に生まれた生命にすら根ざしません。 始まりも終わりも無い調和ある宇宙のその永遠の時間の中にこそあります。 これがときわたり。 そしてそこに見える光明、純粋な光と相対峙する事がジラーチさんとの熱烈恋愛宣言。 以前はアマテラスさんとデートした事があるとお話ししました。 このような発展途上です。
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オコリザルです。 武勇伝のごとく実際に成した時わたりをお話しします。 当時25歳でして青春のごとく甘酸っぱく武勇伝と言うよりは笑い話です。 1995年の事です。 私はおもちゃ屋さんでして、当時乞われるままに任天堂さんにお話しした事です。 ときわたりの概要として当時、現在が1995年である事を無我のごとく失い(実際は自国を無視しただけ)1992年から20005年までを俯瞰した限定的なときわたりを行いました。 1995年を方便として失ったがごとくふるまう事をもって無我のごとくふるまうと言います。 地雷犬の話もこの時に出たのですが、それはさておき、この時点で9.11テロをありありと霊視しました。 さらにその時の大統領がブッシュであり世界に混迷の予感が広がる事も自覚しました。 でもこれは表ざたにしなかった。 つげだしをしなかった。 ときわたりを予知能力ととらえると過ちになるので縁起とつなげようとしなかったんです。 縁起とつなげると人命尊重と危機回避の博愛の精神により何らかの活動を生むでしょう。 しかし9.11は天界の計画した事柄で口を挟むわけにはいかなかった。 テロ以降進展した世界情勢は明白です。 第3次世界大戦の危機と、想定したうえでの政治戦略は遠のき戦争とはテロたる社会犯罪への対処のみとなった。 現在の情勢では戦争が勃発すると戦勝国となってすらメリットがない。 勝っても負けてもドカ貧となるのが開戦の決断であると政治の当事者たちの認識です。 したがってまつり事から開戦の選択は合理的に根絶された。 ちなみに日本はそれでも今更ながらに9条は廃止すべきでしょう。 民意に押し上げられた開戦などの事故の可能性に備える必要が認められます。 可能性に備えるといい事もあります。 実際の派兵は地震、津波、火山噴火などの天災時の秩序回復のみとなるでしょう。 鎌倉武士の信条のごとく、無秩序、無法を回復する兵隊さんです。 それはさておき、ときわたりにおいて予知と解釈されるのは回避すべきです。 未来はその瞬間に作られた。 未来はその瞬間に確認されたちどころに訪れた。 このように、予知では無く予言の性質はあります。 そのような予言の性質があれば、人類は従うばかりの家畜人ヤプーとなるので、何とかしようとしているのが2010年のときわたりです。 こっからは生きる事の苦しみのごとき笑い話です。 1995年のときわたりの際、私はポケモンを世界的な戦略商品にすることを提案しました。 開発がストップしていたボツ企画であるポケモンはそうして見出され、1996年に発売されました。 さらにゲーム機のニンテンドウDSの規格はこの時点で私が概要をレイアウトしました。 そのように両者は発売され大ヒットしました。 これは時わたりの一部ですが予言ではありません。 私はおもちゃ屋さんであり営利活動の一部です。 ところが見返りは地雷探査犬による無冠のノーベル賞のみ。 愛は無償なんてうそっぱちですよ。 常に愛でありこれからも愛として生きる私自身の存在がただで棒引きにされています。 愛とは生きることである。 それなら場合は明朗な現金決済をモットーとする。 これが私の信条です。 愛が無償などとまかり通っているために、私はポケモンと戯れる事しか生き甲斐がない。
お礼
前回答につづいて 申し訳ないが 今回は 意味が取れません。 ★ ときわたり および 愛 ☆ 予知ないし予言にかかわるということ そして仕事の報酬のもんだい これらどちらも わたしには意味が取れません。 哲学カテでなければ ほうほう ふむふむと聞き役にまわっているでしょうけれど 質疑応答というわけには行きません。分かりません。 よほど詳しくその経過を聞くにしても それに関して 歴史についての検証をくわしくしなければならなくなるでしょう。切りがないことになると考えます。分かりません。何と答えてよいやら 分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ テロ以降進展した世界情勢は明白です。 第3次世界大戦の危機と、想定したうえでの政治戦略は遠のき戦争とはテロたる社会犯罪への対処のみとなった。 現在の情勢では戦争が勃発すると戦勝国となってすらメリットがない。 勝っても負けてもドカ貧となるのが開戦の決断であると政治の当事者たちの認識です。 したがってまつり事から開戦の選択は合理的に根絶された。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この個所については いま挙げている質問の【Q:権利と義務の次元を掘り下げることはできないか】にかかわっています。 たぶんそういう傾向にあるとわたしも思います。と同時に 軍事力を背景として 経済活動を進めるという場合があるかも知れません。交渉ごとをうしろで支えることが まだあるのかも知れません。どうですかねぇ。傾向としては受け取りました。
オコリザルです。 > 《永遠》とは 時と所を特定することが出来ないわけです。出来たら《永遠》ではないわけです。 これは簡単です。 無我故に成し遂げるのがときわたりとも言いえますが、無我はもちろん方便です。 セレビィは確固として我です。 ときわたりは可能なんですよ。
お礼
申し訳ないが 今回は 意味が取れません。 ★ ときわたりは可能なんですよ。 ☆ 人間の想像力などにおいて 可能だという意味のことを前回 言いました。ただし 次の投稿内容を読むと 予知ないし予言にかかわるということですので これは わたしには意味が取れません。
- 勢十郎(@Arrogance1)
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頭のいいお坊さんみたいですね
お礼
ヱブ上では いい参考サイトがなかなか見つかりませんでした。 少しづつ分かって行ったとまでは言えると思いますが それがどこまで 吉本の主張にまでたどり着いているのか それは分かりません。 そういう事情です。趣旨説明に掲げたサイトでの解説に従うかぎり わたしの示した解釈になるのではないかとは思っているのですが それをも含めて 吉本もしくはこのアフリカ的段階という概念に通じている方がいれば おしえてもらえるとありがたいと思いました。 その程度ではだめだ 全部読めという助言が飛んでくるかも分かりませんが 取り敢えずいましばらくここで ヒントを俟ちたいと思います。 ★ 頭のいいお坊さん ☆ ですか?
補足
○ 宮内広利:世界史の越境に向けて――柳田国男から吉本隆明まで―― http://members.jcom.home.ne.jp/nokato/data16.htm ☆ ここより 吉本からの引用を孫引きしておきます。 ◆ ≪アフリカ的な絶対専制のイメージは王(の一族)と隷属的な臣下しか存在しない状態として描くことができる。王は臣下の土地、収穫物、財産の所有権、女性、人命の生殺権のすべてを掌握している。この絶対的な専制は、王が不都合な障害を臣下の社会に与えたときには、臣下によって有無をいわせず罷免されたり、殺害されたりして、徹底した王権交替が行われる。いいかえればアフリカ的段階の王権の絶対専制は、全臣下による逆の絶対専制をも含んでいる。≫『アフリカ的段階について』吉本隆明著 ▲ ≪アジア的な(少なくともそれが支配的な)形態にあっては、個々人の所有ではなく、占有だけがある、共同体が本来の現実的所有者<であり>-したがって所有は土地の共同体的所有としてのみ<現れる>。≫『資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス著 手島正毅訳 ◆ ≪王権の専制という概念がアフリカ的な段階では両義的で、王の絶対的専制は、裏面からは住民(全臣下)の総体的な専制に転化されることだ。アジア的専制は住民の貢納とひき換えに灌漑水利や軍事的な保護が王権の役割になってついてくる。アフリカ的な王権の絶対専制にある両義性が分離されて、制度、生産物の占有と、霊威(権威)の専制とに分れて次第に固定していった。≫『アフリカ的段階について』 ◆ ≪経済的にいえば王権による河川や山の斜面の灌漑水としての管理と整備、平野の田、畑の耕作など野の人工化がはじまったとき、アジア的な段階に入ることになった。なぜなら耕作地を王権から貸し与えられるという名目を獲得した農民層は、貢納いいかえれば農作物、漁獲物、織布などの形で、また軍事や土木の賦役によって租税を収めることになった。ここで貢納制を支配の核心においたアジア的な専制の形が成立することになったからである。≫『アフリカ的段階について』 ◆ ≪現在の世界史についてのわたしたちの哲学がどうあるべきかはおのずからあきらかなことだ。内在(精神)史としてアフリカ的段階をおなじ眼の高さから内在化する過程が、同時に外在(文明)史的な未来を認知することと同義である方法を、史観として確立することだ。≫『アフリカ的段階について』 ☆ 参考資料としてでした。
吉本をはじめドイツ語の読めない横着物(唯物論者)は 反省するべきであるというのが結論です。 ところで吉本バナナの本は読んだのですか? ショックで立ち直れないことを望みます。
お礼
かまいません。大道は無門である。 人格をみづから放棄している人間に対してなら その状態に応じてわざわざ門をつくり誰何することがあります。同じひとりの人間に対しても そのときどきの状態に応じて閉門することもあります。 しかしながら ひとをぼろくそに言っておきながら 平気な顔をしてよくも投稿をしてくるものだね。 おまえの知識も知恵も ぼろくそだという自己申告ではあるが 言葉に少しは気をつけるというのも 人間というものだ。
お礼
そうですね。わたしの考えを述べます。 《わたし》は 時間的な者であり 朽ちるべき存在です。 個体としての人間の存在は 類(人類)としての人間存在に包まれていくということでしょうか? われは われわれ――しかも 昔のわれわれ および これから先のわれわれ――に包み込まれていくということでしょうか? いまここなるわたし自身が 生まれ変わるというのは 文学の問題です。虚構つまりは 想像力とその表現の問題です。その範囲を 輪廻転生の話は 超えることはないと考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ それでは 死に阻まれなければ〔人間の存在は〕いかようであるか。 ・・・ 始まりも終わりも無い調和ある宇宙のその永遠の時間の中にこそあります。 これがときわたり。 そしてそこに見える光明、純粋な光と相対峙する事がジラーチさんとの熱烈恋愛宣言。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで注意すべきいちばん大事なことは 次のことだと考えます。 ○ 《始まりも終わりも無い》ということがらを ひとは想像することができますが そして《調和ある宇宙》についてもそれなりに中身を描くことが出来ると思います。なのですが 《永遠》ということがらは おそらく人間は感知することが出来ないのではないでしょうか? 《永遠の時間》 こういう表現なら 《始まりも終わりも無い》ということと同じだと見られます。《時間あるいは 時空間》は この経験世界でのことですし その経験世界としての宇宙そのことだと考えます。 でも《永遠》については そのかたち(象)を描くことは無理だと思います。永遠という言葉は その言葉がじつは代理して表わそうとする当の《永遠》そのものではありません。 あるいは或る程度において 定義することは出来るかも知れません。《永遠》とは 時空間を超えたところである。つまりそういうふうに想定するものであると。つまり こうです。《永遠》とは 時と所を特定することが出来ないわけです。出来たら《永遠》ではないわけです。 特定することが出来た時空は 《永遠》の部分であるだろうか?――そもそもその全体が分からないものについて 部分というものが特定できるでしょうか? というわけで 《永遠》というのは ただの仮りのことばだと思います。 その・ともかく《永遠》という言葉の持つ概念内容のもとに《ときわたり》をおこなう こう表現したら それは どういう現実であるか?――分かることは この今・此処なるわたしという人間の感性や理性で捉えうる範囲において 表象し想像するという行為であるということだと思います。 それ以上のことが ひょっとしてあるのかも知れません。つまりは ほんとうの《永遠》にわたしたちは 触れることが出来たという事態が現われているかも分かりません。そういう余地はあるかも分かりません。ないかも分からないのですが そのようなことをすべて おそらく 含むであろうとは思われます。《永遠》は です。 こんなところまでではないでしょうか? われわれに言えることは。