- 締切済み
日本教は 自由な対話をゆるすか? なら話し合いを!
○ 神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論 第五章 多神教は その一まとめとして一神教である 補論 § 5-d 日本教は 自由な対話をゆるすか? なら話し合いを! (序) 用語の設定 社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや生活態度としての思想やが かなりの程度において規定される。こう考えます。 市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S 公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α) こういう用語で説明して行きます。 (1) 国ゆづり型としての A‐S 連関制 (1-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。 その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。 優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。 市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定するような檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。 (1-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。 このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。 簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。 (2) A と S とが《競争型》なるその連関制 (2-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A = S 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。 (2-2) すなわちこの競争型とは (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制 である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。 言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。 そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか? (3) (α)および(ω) 両者の比較対照 日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。 土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。 日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。 ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。 (4) さらに三つ目の A - S 連関制 これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民らに絶対主権があるようなかたちである。 (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制 ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~ http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。 ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。 ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。 ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。 ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。 * * * Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか? Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。(ときには 権力の代弁者もいる)。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか? Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。いや 洗脳状態か。 Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。 Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか? Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか? Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
みんなの回答
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
>「情報交換のときに 互いに分からないところについて尋ねたり あるいは違うではないかと批判しあったりして さらに互いの見解を理解するように成る。これを目指します。 或る程度確実な内容であっても 質問する場合があります。これは 常識と違っているという理由で 考えてみれば容易に常識がマチガイであると分かることであっても それが明示的になることを目指して・また確認のためにとしてでも 問うことをおこなってもいます。」 何かの規格ですか(笑)
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
こんばんは。 もっと「ディベート」を、ということでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 この質問のばあいは そのまま趣旨説明欄に問いとして表わしています。よ。 ★ 「ディベート」 ☆ という言葉でどういう中身を当てておられるのか知りませんが 質問は 情報交換が基本的な中身であると理解しています。 情報交換のときに 互いに分からないところについて尋ねたり あるいは違うではないかと批判しあったりして さらに互いの見解を理解するように成る。これを目指します。 或る程度確実な内容であっても 質問する場合があります。これは 常識と違っているという理由で 考えてみれば容易に常識がマチガイであると分かることであっても それが明示的になることを目指して・また確認のためにとしてでも 問うことをおこなってもいます。
お礼
★ ディベート ☆ ではないという意味です。