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精神に個別性はあるか

精神に個別性はあるか 昨日の自分と今日の自分が同一人物である証拠は何かと聞かれれば、どんな回答であれ自分の記憶をもとにアイデンティティを証明するしかないと思われます。 逆に、記憶がなければアイデンティティーの証明は無理であるという事になりますが、すると記憶を参照している本体である精神にはアイデンティティーという概念をあてはめることは出来ないのではないでしょうか。 もっと言えば精神に「私」という個別性はないといえないでしょうか。

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  • hakobulu
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回答No.35

#32です。 >人間の心理的な部分と哲学的部分或いは生物学的部分が混ざってしまっているように感じるのですがどうでしょう。 :私としてはまさにそれを目指しているのですが、だめでしょうか。^^; 模索途上なのでなんとも確信はありませんが、一応期待をしているところです。 心理的な(自我による)攻撃性というのは、おっしゃるようにまさしく自己防衛の裏返しなのですが、なぜ防衛の必要性があるかと言うと、その根源に怖れがあるからではないでしょうか。 根源に怖れがあるために他者(自分自身の場合もありますが)への攻撃として現れるということですが、その怖れというのは本人しかわからないものでしょうが、本質的には自己保存に関する怖れ、あるいはアイデンティティ喪失の不安と捉えることができるでしょう。 前者は生物学的怖れでしょうし、後者は哲学的怖れと言えるわけで、それが心理と連動していたことになります。 心理面で攻撃として現れるものは、生物の基本である本能(エス)的には「破壊」、動物から人間への移行条件として付与された超自我的には「知力」、そして原理的(物理的)には「安定」という分類が可能です。 心理・哲学・生物(脳科学)の要素は必然的に私たちが包含しているもので、あるひとつの面に現出してくるものは必ず他の側面と連動的に作用している、と考えるのが合理的であろう、と思います。 因みに、これらは、それぞれ友愛、愛情、慈愛、保存という性向に対応しており、そのときの生命力次第で様々な現れ方をするにすぎません。 知力ー超自我ー慈愛 攻撃ー自 我ー友愛 破壊ーエ スー愛情 安定ー物 理ー保存 このように図にしてみるとわかりやすいのですが、攻撃的な自我状態は、知力としての超自我を発揮し、エス的には破壊を希求している傾向があります。 その心は、「安定」です。 心身は全て拮抗(バランス)することによって保たれているわけですが、一例として、攻撃的な人というのは、その拮抗を保つだけの生命力が弱っているために、「保存」するエネルギーが枯渇に近い様相を示していることが伺えるわけです。 成型された茶碗が粉々になることによって安定した元素の状態になりたいと望んでいるような状態です。 いわゆるタナトス(死の欲望)に自我が乗っ取られている状態ですが、こういったことが分析により明らかになることによって、そういった攻撃的な人間を新たな視点で見ることができるでしょう。 こういった視点の転換が納得につながる場合は多いのではないか、と考えます。 ただ、この納得には普遍性を持たせなければ意味がありません。 そのためには事実を事実として認識していく以外にないわけで、総合的なアプローチが必要かな・・・、と思っているところです。 シフトさんの斬新な提議に釣られて色々述べてきましたが、今回のご質問に対して自分の感想を端的にまとめるとすれば、 自我による拮抗作業の放棄は、拮抗させられるべき本能と超自我もまとめて放棄することになるのではないだろうか、ということになりそうです。 その状態に耐えられるのであれば普遍的納得を得ることになるでしょうが、それが可能なようには思われません。 むろん、可能であるならば、それを否定する必要性は全くないわけですが。 後もうひとつ、「排他(否定)の本質」が厳然として人間(というか生命あるもの)には備わっている、という現実を無視するのは仮象としての納得しか得られないのではないだろうか、という懸念ですかね。 そういった事実は事実として認めた上で、それをいかに昇華させて(=別のエネルギーに転換して)いくのか、ということを課題としていきたいわけです。 言ったわりに端的にはまとまっていないようですが、こんなところでしょうか。         

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 まあ私もその事に気付いた(気付かされたというのが本当)のはほんの数週間前ですからそれが人の生に対してどのような作用を及ぼすのかは自分自身を使って確かめてみたいと思います。 私的には哲学から卒業となりましたので、今後あまりここで投稿する機会もないとは思いますが、また機会がありましたらよろしくお願いいたします。

その他の回答 (34)

回答No.14

 No.9からの連続投稿となります。  補足。  >それに、「まったくの別人」であるのに、それが自分であるとなぜ思ったのでしょうか。  夢であるとはいえ体験していて、それを起きたときに覚えているから、それが自分であった、と思ったんですね。つまり、夢を見ているときは「まったくの別人」として存在していた、ということですね。  私の誤解だったようです。   

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうです、その通りで別人として(例えるならキムタク)として私は夢の中で行動していました。 キムタクとしての自覚はありましたが、Shift-2007という自覚はありませんでした。 夢の中とは言え、私は別人格になれてしまうのです。そうすると自分の本体とは何なのか、何処にあるのかと疑問に思うのです。アイデンティティーというのも絶対ではないなと我ながら思うのです。

回答No.13

人間という複雑系を人工物に例えることの潜在的誤謬はさておいて、単純化してコンピューター系で考えてみます。 コンピューター系はソースコードおよび制御パラメーター、そしてアプリケーションデータで構成されます。 ソースコードは複製可能でパッケージソフトなどの場合数千コピーが配布され同じソースコードのシステムがたくさん利用されています。 制御パラメーターは利用者が決定するシステムの属性です。超単純な例をあげればメッセージを日本語で表示するか中国語で表示するかの選択などに使われますし、業務処理系であれは減価償却計算に定率法を使うか定額法を使うかや、端数処理ルールなどの選択ですね。 三つ目が業務データです。同一の購買管理ソフトを二つインストールして制御パラメーターも同一とし、その後Aシステムはもっぱら食糧品の購買に使用され、Bシステムは電子部品の購買に利用されたとします。3年も使用するとAシステムは食糧品の情報が蓄積され、どのような品目がいくらの値段で購入可能で標準的納期は何日、、、、など食糧品専門の個性を持つようになります。一方の電子部品購買系では、品目ごとの流行り廃りや納入業者ごとの不良品返品率などの情報を持つようになり、これもシステムの個性と言えるでしょう。 人間にたとえるなら、ソースコードが持って生まれた知性に相当します。 そして、制御パラメーターは教育によって授けらる言語処理能力や数値計算能力に相当します。 最後のアプリケーションデータは経験によって蓄積した知識や情報に相当します。 精神は言語処理能力でもないし、蓄積された情報でもないので、ソースコードに近い位置付けでしょう。 コンピュータ系になぞらえた議論の結論は、精神の個別性は無い、ということになります。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 共通のソースコードを使用しているかどうかが分かればいいですね。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.12

こんにちはー。 アイデンティティーですが、一番の特徴は、ある種の再帰性、つまり自分に戻ってくるのが、アイデンティティーの一番の特徴だと思っています。ループ的です。 つまり、これが自分の個別性なんじゃないか、と思って捉えていたものが、理解が深まると、そう捉えていた自分の精神本体そのものも、その一部の要素として含む構造仕組みになっている、そういう構造上の、対象と精神本体を両方内包するという本来あり得ないはずの仕組みが見いだされること、それがアイデンティティーだと思います。 なので、shiftさんは、対象として知っている個別性と、その個別性を捉える精神本体を分けて考え、それを本体と証明対象としてのアイデンティティーや記憶に2分されていると思うんですが、つまり2つの階層に分けることで質問を提起されてます。 でもアイデンティティーは本来、上に書いたように、この、絶対別々であるはずの2つの階層をつなぐ、あるいは2つの階層を共に内包する仕組みを見いだすことなので、 質問文は成り立たないんじゃないか? と思いました。 質問文でおっしゃりたいことは、つまり、個別性と、普遍性(でいいでしょうか?)に自分を2つに分けるなら、 僕は、その2つの境界線は、意識とそれ以外(精神や自我)の間に引きたいんですが。確証あるわけじゃないですが。 純粋意識をもし取り出して仮想的に分けて取り出せるなら、それには個別性はない、と感じます。 というか、難しい話ですねー。正直、この辺りは考えてるところです・・

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 No.14のお礼に書いたとおり、私は夢の中で別人格になってしまったのでshift-2007のアイデンティティーは所々途切れていると感じています。 イヤイヤそれよりもアイデンティティーなしに生きることが出来るか?という事が本題です。これが出来れば世界が変わるのです。

回答No.11

ANo.4のお礼へ: 【自己から普遍を見るのではなく、普遍から自己を見れば一目瞭然ではないでしょうか】 kriya1998:(正に仰せの通りと存じます。どうしても自己を中心にした視野と意識しかもてないのが、普通の人ですね。これをどう超克するかが課題ですね。とても素晴らしいご認識です。私如きが偉そうに口を利きまして申し訳ありませんが)

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 いやー私もその域に達したわけではありませんので偉そうなことは言えないのです。自分の頭を整理するためにこうして質問を立てているのです。お付き合いいただきありがとうございました。

回答No.10

 ANo.3のお礼へ:私の勉強とことばを使っての、その範囲の補足の説明をさせていただきます。 【もし個別自己がなかったらそこには普遍自己があるのではないでしょうか。】 kriya1998:(「普遍自己がある」というのでなく、現象するかどうかの問題だと存じます。普遍自己は個別自己がなくても常に存在しておりますから。しかし個別自己は普遍自己から派生(発生ではなく)しておりましょう。普遍自己は生まれてもいないし死ぬこともない。しかし現象的存在ということを知覚・経験する、或いは知覚・経験の主格になるというのでしたら、それは常にそうであり、個別自己がなければ直接にそうでしょう。そういう経験をされている存在である特定の人もいるでしょう。) 【それとも第三、第四の自己が存在するでしょうか?】 kriya1998:≪個体という存在形式を認める次元、ベクトル(位相)でいえば、個別自己は一主格には一つです。この個別自己の自己性は質の変移はあっても、普遍自己においても消滅しないものとなっています。≫ 【洋の東西を問わず、哲学は個別自己から普遍自己(神といってもいいですが)を探求してきました。探求者とは観察者です。観察者は我こそは神の発見者なりと言っています。しかし実際には個別自己に執着してきました。その自覚もないままに。個別自己の作り手は恐らく私たち自身です。故にその解体(終焉、死、呼び名はなんでもいいですが)が出来るのも私たちではないかと思います。】 kriya1998:≪素晴らしいご認識ですね。神というか、神も幾つかの段階で個別人間という存在に意識を投入してきておりますので。最初に創造の意識となって、夢を紡ぐ意識の面を機能させ、自分の観念でガンガという創造界の場(女神)をだしますね。ガンジスということですね。そしてその場、舞台に様々なことを展開してきますね。ガンガは普遍自己ですね。女神ですが、神の観念、オームですね。太初のことばです。所謂る太極は自己内に陰陽(いんよう・おんみょうではない)をもっていいて、その陰がガンガですね。それに対極的に陽が発生するのですね。 神の発見者は自己を神にした人ですね。神しか神を知りませんから。そして対象としては神は存在を確認できない。それになるという意味での直観ですね。 個別自己執着という言い方は妥当です。この以下も素晴らしい言い方です。≫ 【神の設計図を見たがるくせに、神になろうとはしないのが「私」というものの性癖ですね。あるいは神による「私」という概念を使った一人芝居でしょうか】 kriya1998:≪素晴らしいご認識ですね。≫

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 個別自己が普遍自己へつながる門と思うのです。 この門には「自我」という鍵がかかっています。 それを開ける為に「私」を理解する必要があるのではないかと思うのです。 自我はエネルギーの吹き出し口ではありますが、同時にその力を抑圧してもいるようです。

回答No.9

>夢の中で自分がまったくの別人になることがありませんか?  そのような体験はないです。経験がないので、想像もできません。  それに、「まったくの別人」であるのに、それが自分であるとなぜ思ったのでしょうか。  心のどこかで、「まったくの別人ではあるが、それは紛れもなく私である」と思ったからそう思うのではないでしょうか。そうであれば、自己同一性は失っていない、と言うことが出来ます。  以前読んだ「前世療法」という本だったと思うのですが、退行催眠を施され、「前世」を思い出した人の話があって、その思い出した記憶(夢?)によれば、「全く違う容貌をしているが、それが私であると解った」ということであるそうです。それに近いものであるのかもしれません。 >故に同一性を保証するものはなんだろうと考えたわけです。  「全くの別人だけど、それは自分である」と思う(解る)魂でしょうか? >問題なのは「私という自我」ではなくその裏にある精神(私はそう呼んでいます)です。 基となる あるいは土台となっている精神(あるいは魂)にさえ、個別性がある人もいるかもしれません。 >これに個別性が無いなら私という自我から見た世界は一変するのではないかと思うのです。  これは、意味を読み取ることが出来ませんでした。違う言葉で説明してもらえれば、言いたいことが解るかもしれません。  質問履歴を少し見ましたが、まともな考え方をしているとは想います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 夢の中の出来事についてはNo.14の通りです。 そこで、アイデンティティーが着せ替え可能な洋服の様なものだったとすると、着ているのは誰かという事になりますが、それを私は「精神」と取り合えず呼ぶこととしました(名前はなんでもいいのです)。精神は私という服を着て世界を生きているのですが、この服を着ていると色々な問題を背負い込むことになります。人としてこの世界(社会)を生きるのは大変なであるということは説明するまでもないですね。なのでその服を脱いで精神のままで生きることが出来たら世界(私という服を通して見た世界)は一変するのではないだろうかと思うわけです。

  • hakobulu
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回答No.8

#5です。 >「自我の終焉」これがどうしても必要なのです。 :なぜに? そのための目的論というわけではないですよね。 凡人にもわかりやすく、もう少し説明してよ。    

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 簡単に言うと不安や恐怖といった私にとって都合の悪い感情、感覚をきれいさっぱりなくすためです。 私という自我がなければ不安や恐怖は無いという事が最近分かりました。 自我を消す方法というのは無いのですが、この「無い」というのが実はみそなのですが、今の私にはうまく説明することが出来ませんのでその時が来たら皆さんにご披露(皆さんをお救いかな)いたしましょう。方法なないがそれは出来るという事を理解するまで20年かかりました。

回答No.7

「過去と現在の自分が同一である」と考えることが、今のアイデンティティーを証明するものでもないような気がします。 また、過去の記憶が無い人 例えば昨日のことを思い出せない人はアイデンティティーがないとは言えないと想います。  それから、もう「なんかおかしいな」と思っているとは思いますが、例の屁理屈さんは気にしないでください。すいません。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 夢の中で自分がまったくの別人になることがありませんか? 自己同一性というのは時々消失してしまうことがあるように感じています。 故に同一性を保証するものはなんだろうと考えたわけです。 しかし、問題なのは「私という自我」ではなくその裏にある精神(私はそう呼んでいます)です。 これに個別性が無いなら私という自我から見た世界は一変するのではないかと思うのです。 哲学カテの本当の変人は私だと自負しています。 質問履歴を公開していますので変人ぶりをご堪能ください。

回答No.6

「アイデンティティを証明する」という言明には、自己以外の「他」がある、 あるいは「自己の外に独立した環境が存在する」という暗黙の前提があります。 実際には、量子論的には「そうした有限な実体を持つ存在性は、観察される ことで生じる」=量子的な相補的不確定性を介して自我仮説(記憶=時間的流れ) と時空仮説(可能性=空間的広がり)が相補分化するのです。 意識=時間である時、この宇宙そのものが「私」のアイデンティティなのです。 ここから先は長くなるので、僕の過去回答をご参照下さい↓(BAではありませんが) http://okwave.jp/qa/q5919303_2.html#answer

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 自我の終焉については量子的にはどのような見解になるのでしょう。

  • hakobulu
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回答No.5

#2です。 >アイデンティティーという言葉を操っているのは私という自我ですが、この自我と精神は果たして同じものでしょうか。 :自我を単純に「我」と広義に解釈したので「同じ」と捉えました。 自我を狭義に捉える必要があるとすれば、その定義というか解釈の明示が必要になるでしょうね。 >例えば脳を持たない植物という生物にはアイデンティティーはあるでしょうか? :無いと思います。 >もしアイデンティティーがないとするとその統制内にある精神もないことになりますがどうでしょう。 :精神はアイデンティティの統制内にある、というのは、精神とアイデンティテイという概念をどちらも適用できる対象(今回の場合は人間)に関して述べたまでです。 アイデンティティと精神が常にセットとして存在しているわけではない(と思う)ので、アイデンティテイが無いからといって精神も無い、ということを言ったわけではありません。 無論、植物に精神があるか否かは別問題ですが。 因みに、精神に相当するものはあるとすれば、それは生きる意志みたいなことになるはずで、しかし、それはあくまで比喩としての表現になろうか、つまり、精神があるという表現は妥当ではない、というのが私見です。   

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「自我の終焉」これがどうしても必要なのです。 それが分かるまで20年もかかりました。 そのための哲学でしたが、哲学では越えられない壁があると知りましたのでここでの質問も減るだろうと思います。おかげで哲学カテの変人呼ばわりされることも減りますが。それはそれでさみしいですね。 しかし私はついています。なぜなら平均余命まで何十年とありますから、この体が終わりを迎えるまでには何とかなるでしょう。

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