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明治時代の花魁道中に付き添っている「禿」と「振袖新造」について
明治時代の花魁道中に付き添っている「禿」と「振袖新造」について 下のような、明治時代の花魁道中の写真を見ましたが、 花魁に禿や振袖新造らしき女の子が付き添っています。 http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/070319/009c.html http://fuutiger.blog115.fc2.com/blog-entry-20.html 吉原炎上で有名な斎藤真一さんの本を読むと、 「明治時代は法的に禿が許されていなかった」 「江戸時代の新造は、禿から花魁見習いになった女性のこと言った。しかし、明治の頃の新造は意味が違っていて、花魁の身の回りの世話係」 (つまり、新造が将来、花魁になるわけではない)といったことが書いてありました。 でも、上の写真を見ると、禿や振袖新造がしっかり写っています。 彼女たちはなんだったんでしょうか? 明治の頃の花魁道中は、ショー的な意味が強かったと聞きますから、 実際に妓楼で働いていた娘ではなく、その時だけどこかの家庭から借りてきた子役みたいなものだったんでしょうか。 ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
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- sijya
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>つまり、花魁道中の振袖新造は、下新さんだったということで大丈夫でしょうか? リンク先の画像を見ましたが、実年齢はともかく、花魁の脇に写っている少女は 両方とも「かむろ」の衣装風俗のように思います。 現代の「道中」図を拾ったものですが、振袖新造ならこのような衣装を身につけていると思います。 http://image.blog.livedoor.jp/shipponao/imgs/d/0/d0769ad6.JPG http://mochime.img.jugem.jp/20080417_501617.jpg 振袖新造=大正期の下新 というのは、たぶん間違いないと思います。
- sijya
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明治のことについては残念ながらわかりません。 「青蛙房」という書店から 「吉原夜話」という明治期の吉原について書かれた本が出ているので、ひょっとすると それから何かわかるかもしれません(私は未見です)。 主に大正時代から昭和時代の吉原について書かれた「吉原はこんな所でございました」によれば 「かむろ」はすでに遊女屋にはなく、振袖新造の代わりに「下新さん」と呼ばれる15,6の少女 (花魁に出られるのは18歳からでした)が、下働きをしながら花魁になる準備をしていたようです。 18で売られた人は、そのまま花魁になります。 が、15歳未満の女性はどうやら売られることはなかったようです。 何事にも裏がある、とはいいますがこの頃の吉原はかなり管理体制もしっかりした「公娼」地帯ですから めったなことはできなかったのではないでしょうか・・。 小学生くらいに売られた子の話はこの本にも、「華より花」というやはり大正から昭和にかけての 吉原について書かれた本にも出てはきますが、それはどちらも「吉原芸者」になった子の話です。 この時代に花魁道中が行われるなら、かむろは間違いなく近隣の少女が扮したことでしょう。
- 川原 文月(@bungetsu)
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bungetsuです。 言い忘れました。 7~8歳位から10歳頃までは、おかっぱ頭の「禿」で10歳位を過ぎると「振袖新造」と呼ばれました。 なお、禿も振袖新造も花魁や格子の身の回りの世話役でした。 花魁や格子の部屋の掃除などもし、いずれは、遊女となる心得を教え込まれました。 客をとれるようになるのは15歳位からでした。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんばんわ。 NO1.bungetsuです。 >>いろいろ細かくて申し訳ありませんが、教えてください。 いえいえ、そういう細かいところまで調べることが、いずれはあなたの血となり肉となるのです。 私の解る範囲で一生懸命お答えしたいと思います。 >>見世の格などで禿がそもそもいなかったのかもしれません。 その通りです。吉原には数百軒の見世がありましたので、禿を置く花魁や格子などを抱える「上格」の見世と、花魁や格子を置かない「中格」以下の見世とがあり、中格以下の見世では禿は基本的には居ませんでした。従って、すべての見世で禿を置いていたわけではありません。 >>花魁付きの新造は「上新」「中新」「下新」とあって、 上新は「花魁と客の間を斡旋」する女性。(近藤さんの小説で紹介されていた上新は30代と年齢も高く、花魁見習いという感じではないです。どうも新造を卒業した女性がなったようです) 下新は「女中、下働き」で新造候補(中新候補?)とありました。 時代にもよりますが、遊女の格付けは、 なお、吉原の場合は幕府公認でしたので、必ず「遊女」と呼ばせ、岡場所(非公認)の「女郎」とは区別されていました。 吉原ができた頃は、 太夫、格子、端(はし)。 その後、 太夫、格子、散茶(さんちゃ)、梅茶、端。 さらに時代が進むと、 太夫、格子、散茶、梅茶、五寸局(つぼね)、三寸局、なみ局、次。 さらにさらに、 花魁、格子、散茶、梅茶、五寸局(つぼね)、三寸局、なみ局、次。 なぜ、「太夫」が居なくなって「花魁」になったかは、次のサイトを参照してください。 http://bungetsu.6.ql.bz/ さて、本題の「新造」の件ですが、 明治維新により、諸外国(アメリカ、イギリスなど)が日本に上陸した際、 「日本には貞操観念というものがない」 と、本国へ報告しています。 それを受けて、日本の新政府では、吉原の粛清に乗り出しました。 その結果、花魁や格子などという上級遊女は次第に減少しました。 そして、登場したのが客をとる「新造」でした。 もっとも、江戸時代にも新造も客をとってはいましたが、「上新」「中新」「下新」という呼び方は、近藤氏の「便宜上使った言葉」だと思います。 花魁、格子の下に「部屋持ち新造」という位があり、「格子格」で客をとっていました。 次に、「振袖新造」は、7~8歳から15歳位で、まだ客をとらないで、花魁や格子などの身の回りの世話をしながら、徐々に作法や遊女としての心得を習っていました。また、花魁や格子の身支度や部屋の掃除などもしました。 そして、「番頭新造」という者もいました。これは、27~28歳の年季が過ぎても行く宛てがなく、廓に残った者で、こちらは、ただ単に花魁や格子の身の回りの世話だけをしました。客はとりません。 近藤氏の言葉を借りれば、 客をとる新造が「上新」。 振袖新造が「中新」。 番頭新造が「下新」。 なのかもしれません。 >>近藤さんの小説で紹介されていた上新は30代と年齢も高く、花魁見習いという感じではないです。どうも新造を卒業した女性がなったようです ちょっと、私の見解とは逆のようですが、年齢順に言えば、 番頭新造が「上」。 客をとる新造が「中」。 振袖新造が「下」。 と、言いたいのかもしれませんね。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>「明治時代は法的に禿が許されていなかった」 これについては、YesともNoとも言えます。 もともと(江戸時代でも)人身売買は禁止されており、特に、吉原では、禿にしても花魁たちにしても皆「奉公」と呼ばれて、身売りをしたのではない・・・と言う立場をとっていました。 従って、明治頃になると、諸外国の影響もあり、人身売買には警察権の及ぶこととなり、表向きには、幼女が売買されることはなくなりました。 しかし、裏には裏があり、当然、「奉公」という名のもとに人身売買は行われており禿は存在しました。 >>「江戸時代の新造は、禿から花魁見習いになった女性のこと言った。しかし、明治の頃の新造は意味が違っていて、花魁の身の回りの世話係」 これについては、異論を唱えます。 禿にしても振袖新造にしても、江戸時代には全て、花魁の身の回りの世話を担当していました。 従って、明治になってから禿や振袖新造が花魁の世話役に徹したわけではありません。 当然、花魁などの世話役をしながら、行儀作法や遊女としての心得を教え込まれました。 明治になったとたんに、吉原の階級制度が急に変わるはずはありません。 >>吉原炎上で有名な斎藤真一さんの本を読むと、 私は、残念ながら斉藤氏の本は読んではいませんが、禿や新造に対して、かなり美化した、あるいは、気遣った表現をしたのではないかと考えます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E7%82%8E%E4%B8%8A このサイトの一番下の方に、田中芳之プロデューサーは、 「映画はヌードシーンもあったが、そのような描き方はしない。悲しい境遇でも強く生きる女性の姿を描くことで、現代の女性にも共感してもらえるドラマにしたかった」 と制作方針を話している。 と、あり現代風に脚色されたものでしょう。 結論: 明治になっても、禿や振袖新造はいました。
補足
非常に詳しい解説をありがとうございました。 歴史作家の方の意見を拝見できて光栄です。 >>しかし、裏には裏があり、当然、「奉公」という名のもとに人身売買は行われており禿は存在しました。 禿についての謎は解けました。すっきりしました! 大正時代に実在した花魁の手記「吉原花魁日記」を読むと、禿の存在がなくて不思議だったので・・・。 時代が少し違いますし、著者の方の興味がなかったのか、見世の格などで禿がそもそもいなかったのかもしれません。 それと、「振袖新造」についてなのですが、すみません、まだ混乱しています。 前述した斎藤真一さんの本と、近藤富枝さんの「今は幻 吉原のものがたり」に書いてあった情報をあわせると、 花魁付きの新造は「上新」「中新」「下新」とあって、 上新は「花魁と客の間を斡旋」する女性。(近藤さんの小説で紹介されていた上新は30代と年齢も高く、花魁見習いという感じではないです。どうも新造を卒業した女性がなったようです) 下新は「女中、下働き」で新造候補(中新候補?)とありました。 この上新・中新・下新は、「振袖新造」とは違う人なのでしょうか? それとも、下新・中新から花魁になって、 年季が明けてから上新になるというルートなのでしょうか。 いろいろ細かくて申し訳ありませんが、教えてください。
補足
詳しいご回答ありがとうございました。 下新さんは花魁見習い。 つまり、花魁道中の振袖新造は、下新さんだったということで大丈夫でしょうか? 禿についてですが、「遊廓の世界」という本にも、大正時代の花魁道中の禿は「臨時にこしらえて間に合わせた」とありました。 この頃には禿は存在しなかったようです。 明治はどうだったのかはわかりませんが・・・ ご紹介いただいた「吉原夜話」と取り寄せて読んでみたいと思います。