漫談です。
江戸三白といいまして、米、大根、豆腐がまず江戸人の食べ物代表です。それに鯛と白魚をたして、五白ということもあります。
これらの料理法を江戸の人は究めまして、当時から「豆腐百珍」というレシピ本がベストセラーになります。この「百珍」は、蒟蒻、鯛などの亜流がでるほど売れました。また、「料理物語」というレシピ本もあります。
牛は農耕のための財産であり、食用ではありません。イノシシは「山鯨」という隠語ができ、クスリと称して売っていたくらいなので、実はみな好きでした。
夜泣きの移動屋台のソバがまずあります。かけ、という言葉はどんぶりに入れたソバにダシを「ぶっかけた」が語源です。本来は店では蕎麦つゆにつけて食べるものでした。タネは、以外ですがテンプラが一番古いタネです。ネギと桜海老ていどの安価なものです。なぜなら、ソバにあげておいた(当然冷たい)かき揚げを乗せてダシをはると、ダシが少なくてすみ、またソバが冷めにくくなるからです。揚げ玉だけのたぬきは、テンプラの「たね(具)」を「ぬき」にして、「たねぬき」が語源です。スパイスとして七味唐がらしがありますが、江戸人は「七色(なないろ)」といいます。いまでも、東京に長く住んでいるひとや下町では七色といいます。
脚気のお話がありましたが、脚気はビタミンB の不足から来るのですが、白米オンリーのゼイタクは珍しかったので(大概は麦をまぜる)、江戸期には大流行していません。精米技術が進んだ明治期に流行しはじめ、陸軍がこの対策に困ります。なぜなら、兵は白米食べていたからです。日露戦争では脚気に25万が罹患し死亡した兵士が2万以上と非常に多く、ロシア側は「日本側に伝染病の兆候あり」とその様子をつかんでいます。
一方の海軍は当初パン食でしたが不評で麦飯にしたのですが、ビタミンBが結果的にとれたので脚気がおきませんでした。
当然、日露戦争前に陸海軍とも脚気について対策を取ったのですが、海軍は「今の食事で起きていていないのだから、麦飯」と英国で医学を収めた高木兼寛が主導し、惨事になりませんでした。英国では例として、海軍兵士にレモン・ジュースのませれば、理由はわからないが壊血病にならない、という、結果オーライな軍事医学の方向性があったからです。高木は日露戦争後、脚気を防いだ功績がみとめられ、男爵を授かっています。
が、陸軍はドイツで当時最先端の細菌学をまなんだ森麟太郎(森鴎外)が軍医トップにおり、「脚気も細菌が原因」と(今日の目で見れば)まちがった方に対策リソースがふられてしまったので、大惨事となったわけです。
脱線しましたが、ネタとしてお納めください(;^_^A
杉浦日向子氏の著作に、江戸の食について楽しく詳しく書かれたものが多いです。下のURLもみてください。楽しいですよ。