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ド・ゴールが国際的な会議に不参加の理由ついて
ド・ゴールが国際的な会議に不参加の理由ついて ヤルタ会談やポツダム会議など国際的な会議 にド・ゴールは参加しなかったのですか? フランスも連合国軍の大国なのにです。
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フランスはもはや強国とは言えず、戦争にも大きく貢献していたとは思われなかったため、アメリカ、イギリス、ソ連の三大国から会議に参加する事を望まれませんでした。 ちょっと古い本ですが、1989年に社会思想社から出版された山上正太郎著書の「チャーチル ド・ゴール ルーズヴェルト ある第二次世界大戦」という本によれば・・・ ポツダム会談に、ド・ゴールが招かれなかったのは、 「・・・戦争遂行に貢献しなかったフランスを三大国に伍する事を、ほかならない大国主義が許さなかった」とあります。 この本は外交関係に焦点を当てている本ですが、チャーチル、ルーズヴェルト、スターリンがフランスやド・ゴールをどう見ていたかわかります。 ルーズヴェルトはフランスを軽視していたようです。 これは1940年のフランス敗北に強く影響されたようで、弱体国フランスは重んぜられるに価しないと考え、それがド・ゴール軽視にもつながったようです。 ヤルタ会談やポツダム会談の前に行われたテヘラン会談でルーズヴェルトは「少なくとも25年間はフランスは第1級の強国になりえないだろう」と表明したそうです。 スターリンも同様で、テヘラン会談では・・・ 「フランス人は対独協力に対して償いをしなければならぬ」 「ド・ゴールは力もないくせに大国首脳のようにふるまう」 と語ったり、ド・ゴールが代表するのは実体のないフランスであり、現実のフランスを代表しているのはペタンではないか、とも言ったそうです。 ヤルタ会談にはド・ゴールから参加の要望が出されていますが、拒否されています。 チャーチルはイーデンへの書状の中で、このド・ゴールの参加要望について・・・フランスが戦争遂行に充分力を尽くしていない事や、ド・ゴールは現在のフランスの実態を超える地位を要求して自らの名声を国内に売ろうとする男であるとか、彼を我々と同席させる事ほど不愉快で、我慢ならぬ事を考えつかないとまで書いたそうです。 ルーズヴェルトもチャーチルに「我々三人の会合にド・ゴールを加えるというのは複雑で望ましくない要因を持ち込む・・」と伝えたそうです。 特にルーズヴェルトは必ずしもド・ゴールをフランス代表としては認めていない部分がありました。ノルマンディー上陸作戦でフランス進攻が開始された時のルーズヴェルトとド・ゴールの対立についてアイゼンハワーが次のように記しているそうです。 「ド・ゴール将軍は米英両政府からフランスの統治者として承認してもらう事を望んでいた。彼は自分だけが連合軍に対する必要な協力をフランスの住民に命令する権利を持つと主張した。 しかしルーズヴェルト大統領はこれを拒絶し、フランスの主権はその国民にあり、連合軍は特定の政府の統治者を押し付けるためにフランスに入ったのではないという見解を堅持していた。」 そもそもフランスは1940年の敗北で早々とドイツとの戦争から脱落しています。 北アフリカにフランス政府を移し戦いを継続しようというイギリスの提案も蹴ってドイツに降伏し、以後フランスはヴィシー政権がドイツの傀儡となって対独協力に力を尽くしてきました。 ド・ゴールが自由フランスを作り戦争を継続したとは言っても戦力は小さく貢献も小さななものです。 ド・ゴールがフランス植民地をまとめあげようした時も殆どの植民地はヴィシー政権の側につきました。 フランス植民地が自由フランスについたのはアメリカの参戦後であり、これはアメリカが戦い力ずくで従わせました。 フランス解放戦争においてフランス植民地軍は人数的には大きな戦力とはなりますが、武器、装備、食料、燃料はすべてアメリカが負担しています。 フランスはドイツとの戦争で常に大きく貢献したとは言い難い国です。 こうしたフランスの歴史・状況がアメリカ、ソ連、イギリスがフランス、ド・ゴールを軽んじさせ、大国の会談から疎外させる事になりました。
お礼
大変、勉強になりました。どうも、有難う。