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葛藤を超えるには?

葛藤を超えるには? 私は葛藤の多い人生をやってまして、よく言われる「本当の自分がない」ってこういうことなのかなと最近つながりました。 本当の自分とは何か?どうやってそれと知れるのか?選択するときの基準とはどこにあるのか?(食べたいラーメンが2つあって、どちらかを選ぶかでも人生の重要なことでもいいのですが) そんなことで日々心的エネルギーを使いすぎているので、葛藤やジレンマを解消する方法がありましたら教えてください。個人的な経験や考え、出典などなど何でもよいです。

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回答No.18

 回答No.4のお礼を見て、思いました。  frauさんは、取り付けられた“箍(たが)”をはずしたいのだと。  酒樽の箍。  酒樽は箍をはずせば、ばらばらになって崩壊。  酒樽は箍があってこそ。  その箍は、酒樽の役目を支え、生かしています。  でもfrauさんに取り付けられた箍は、frauさんを生かしていない。  だから苦しい。  その箍をはずしにかかっているfrauさん。  たぶん箍は、はずせます。  自身のことをよくわかっているから。  人を思いやる優しい気持ちがあるから。  時間はかかると思うけど、  だんだん自分が見えてくる。  人の意見も気にならず、  元の自分を生かせると、  思えば心も晴れてくる。  嗚呼・・・・・・私も心を晴らしたい。            

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >酒樽の箍 なるほど!とても分りやすいイメージをいただきました。 箍があるからこそ、分裂しそうな心の形造っている。 >でもfrauさんに取り付けられた箍は、frauさんを生かしていない。 本当にそうなんですよ。生かされてない=本当の自分ではないとは思いますがここでは「本当の自分とは何か?」という高尚なことを訊いているのではないんですね。もっとシンプルに今までの自分では居心地が悪くなってきたというような感じのことです。たとえば身体が成長してきたので、服が窮屈になってきた、というような。 今の自分への違和感は他者の自我を背負っているからだと気づきました。その他者とは私の場合主に「親」なのですね。また社会というのも人格化したとき、親の人格を拡大したようなそれからも影響を受けている自分なんです。ですがそれは負の部分が強すぎて、本当の私が違和感あると感じている今の自分の足をひっぱってるんですね。しかしそれは病んでいる心の部分を引っ張っているわけですから、足枷をつけられているのは実は健全な自分なのだ!と気がつきました。 箍はそのように、箍は心にとって必要なものですから外すべきは本当の自分だと自分を偽ってきた仮面なんですね。 >人の意見も気にならず、 これも悩みだったのですが、こうして変わり始めてから、このような他のことも同時に変わり始めてきました。過剰に気にしていた人の目を気にならなくなってきたところです。今、自分を少し好きなっているところです。

その他の回答 (20)

回答No.10

おはようございます、frauさん。 【資本主義とは】 http://www.mfi.or.jp/kumiya/stock11f.html 【第1節 労働日の諸限界】 http://kyawa.no-ip.info/capital/vol1/ch08/sec01.htm 『ヤマトナデシコ七変化』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND4583/index.html 【主婦の友】 http://img.zassi.net/mag/shufunotomo/200806/top/_SWF_Window.html

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 このテーマに、このリンク同士がどのような関連をもっているのか・・・考えてみます。

  • jameseuk
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回答No.9

表現が難しいのですが己を無くし受け身に徹すると言う事ですo(^-^)o私は子供の頃から少し変わっていてf^_^;たびたび色々な宗教の人達から教祖様の椅子を用意されて断り続けて今日に至ってるものですからf^_^;何と言って言いか解らない事が多々有りアドバイスになるかどうか…なんせ天然なのでf^_^;

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >己を無くし受け身に徹すると言う事です 「己」で、自我と自己の違いを思い出しました。 自我ではなく自己をなくすことは難しいです。「自我中」(笑)でもなくせたら楽になるかもしれません。

回答No.8

 いろんな人にいろんな葛藤があり、葛藤のない人は古今東西皆無であると存じます。  無論、解脱の大聖者や大思想家は別にして。  私たちが葛藤に足をすくわれたり、横なぐりの風に倒されないようにしていくには、自分にこだわらないようにしていく事だと存じます。  自分が自分であるという錯覚を払拭する事だと存じます。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 二律背反と同義語だと思います。自然はそれを完璧なまでにバランスを取り、サイクルしているのですが、人間はどうも白黒つけたい生物なのでしょうか。 となると解脱というのはバランスがとれた状態であり、二律背反を両手に持ちながらグレーゾーンに布置している状態なのかなとイメージしてます。それは「>自分にこだわらない」姿なのでしょう。

回答No.7

 こんにちは。  ○ あやまつならば われあり。  ☆ これは 我れに還るからです。  その我れは なんぢゃいな? と またまた分からなくなりますが――なると思いますが―― それは われわれが 時間的な存在だからです。経験思考しつつ生きる動態であるからです。  つまり こうです。  ○ わたしは自分で考えたことにもとづき意志決定したことをおこなう。主観としては 妥当なことだと思って 行為する。それが 時にはあやまちであったと知る。そこで 我れに還る。――こういう動態として《わたし》はある。つまりこれが 《本当の自分》です。  ☆ でどうでしょう?  《たゆたえども 沈まず》というごとくわたしという船の航海するすがただと思います。そのわたしが 本当の自分です。  この存在は 現実です。  死など 知ったことか。  無だって? ちゃんちゃらおかしい。《本当の自分》を知らないから わざわざかっこうを付けているにすぎない。  いえ 知らなくて構わないわけです。我れに還る(還った)という現実を持っていれば だいじょうぶです。なおも本当の自分を問い求めつづけるのですが そのように問い求めつづけること自体が わたしという動態だと知れば うたがいはおしまいです。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに無の状態が悟りであっても結局「有」という現実世界で生きなければなりません。死ねば無の極地が否が応でも味わえるのかなあとも思います(笑) 悟り願望は早くそれを知りたいのかなあ。つまり死に急ぐ?といったら言い過ぎですかねえ・・・ ところでデカルトの「我思う、ゆえに我あり」の近代自我は「自我の社会学」という領域ではジコチューで孤立したイメージだと捉えられてます。自立精神の目覚めをうたうものではあるが、同時に個人主義、自己中心的となり、しいてはアノミー状態がもたらされるようになった。しかし人間は一人では決して生きられず社会的な生き物です。クーリーという社会学者はデカルトを批判し「我々思う、ゆえに我あり」と我々的自我、社会的自我を説きました。 という観点からも、自我は社会というカオスの中で生まれ続ける「我」を見続けて見つけるもの。それは無を見つめる前提ともいえるのでは?有機体である以上、まず同じ世界のものを知ることではないでしょうか。

noname#136007
noname#136007
回答No.6

  瞑想をやられたらいかがですか? 多少練習すれば、何も考えていない「無」を体験できます。 熟達すれば、短時間で、「無」になれますよ。  

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 瞑想はたまにやってます。確かに夢と現のあいだの催眠状態に入ることはできます。 でも私は尼ではないので、ずっと瞑想をやっているわけにはいかず、実生活上での実際的、具体的な葛藤をまず解消しないと瞑想するような時間的、労力的余裕も得られないというのが本当のところです。

noname#122986
noname#122986
回答No.5

本当の自分とは何か?どうやってそれと知れるのか? → 哲学又は宗教を追求してください。また、インド哲学は、哲学と宗教の二面性を持っています。 選択するときの基準とはどこにあるのか? → 選択の基準は、ご自分の肌に合うほうを選択してください。  

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 宗教のみならず、哲学や心理学も本当は線引きしてはならない領域だと思ってます。 いずれも人の心、人生に関わる人文学ですから・・・。 とある仏教の本では「たくさん苦労を味わえ」と書かれていました。それが悟りへの近道だと・・・。 それでも一瞬の慰めにしかならないんですね。

noname#112269
noname#112269
回答No.4

わたしも、悩むべくこと無いことで悩んでいる気がして、なりません。 何と何が葛藤しているのかと言えば、自分存在と他存在であるとおもうのですが、自分存在を全く一にして、はたして他者はどのように関係してくれるのだろうか、全く見当がつきません。 しかしながら、自分存在を完成させることは決して悪いとは思えず、しかし他存在を容認できないのは道理としておかしく、自分存在を完全にしてしかも他存在を容赦できるような理想は、実際にはどのようなものなのか、。 いいんだよ、不完全でも、というのが世間の道理でありやさしさであるとも感じられ、にもかかわらずすでに不完全では生きられない自分があったために、これ(世間のやさしさ)は自分にとっては瓦解を意味しています。 本当の完成とは何か、容赦とは何か、きっとここらへんが、私の解答のような気がします。 私見でしたが、ご参考になれば幸いです。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >何と何が葛藤しているのかと言えば、自分存在と他存在であるとおもうのですが そうです、確かにそうなんです。 もしかしたら私はその他存在になってしまっているのかと思いました。 ある意味で「他存在」になってしまっている自分が、「自分存在」探しをしている状態が葛藤としたら本当の自分ではない自分が、解決できない理由なのではないかと最近感じてきたからです。 具体的にいうと、親や教師から常に虐待に近いほどのコントロールや干渉をされてきたとします。 >いいんだよ、不完全でも、というのが世間の道理でありやさしさであるとも感じられ の真逆の世界です。常に(彼らにとって好都合でしかない、彼らがいうところの)完全であれ、と言われ続けてきたら。 >不完全では生きられない自分があったために、これ(世間のやさしさ)は自分にとっては瓦解を意味しています。 不健全な完全を求められ、神経症者になり、世間のやさしさも信じられず、その人の世界は瓦解された場合、本当の自分は何なのかという葛藤が始まります。 心理的な病理からみると、「本当の自分」とかけ離れていくとその純度の薄さより順に「神経症水準」⇒「人格障害水準」⇒「精神病水準」と移行していくそうです。神経症は強迫性障害など、人格障害は境界性人格障害など、精神病は統合失調症です。 すると私などはすでに瓦解していますから、上で述べた「ある意味で「他存在」になってしまっている自分」というのはたとえば親からコントロールされた部分ですからなにをするにせよ葛藤はつきものになっている状態は親が自分の側面(弱さや認めたくない部分、醜さ)を子に投影し、子が養育者として信じたものをそのままそっくり自分の人格にしてしまっている状態です。 親の病的なところを模倣していたりする自分、親に押し付けられた価値観に苦しむ自分、また親自身の姿、偽りの自分などを演じている自分・・・ 病理的な理屈からすれば今の自分は本当の自分ではないかもしれません。 潜在下に本当の自分がいると心が感知している場合それら自分の中の偽の自分に対し異議申し立てをしているのが、葛藤する苦しさであり、あまりにも深さや強さが強いとそのように病気などに表れてくるのですがひどい親でもまったく影響されない人もいるわけで、抑圧しすぎだとしたらそれも病気の一形態ともいえましょう。 私の場合は明らかに前者で、何をしても不全感を伴い、自分がないと他者からも言われ続け(皮肉なことにそう言う一部に親がいましたが)、悩んできましたが、最近自分がないと気づいたのは本当の自分探しをする準備ができたという逆説的な心理状態だと実感しております。これはとてもよい兆候です。 >他存在を容認できない 常に完全であれ、といってきた存在に対し、そういうあなたも不完全な人間だからこそ、不完全な自分を補完すべくその弱さを人に投影してきた相手の不完全さというのを容認することを求め容赦する。私にとっても解答はそこにあると思います。

  • jameseuk
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回答No.3

お礼有り難うございますo(^-^)o了解です(^O^)/具体的にか~私細かい説明は難しいです。無になる状態が簡単に出来るものですからf^_^;お役に立てずごめんなさいね(>_<)でも私の言いたい事を分かって下さって有り難う(^O^)/

frau
質問者

お礼

>無になる状態が簡単に出来るものですから ほ、本当ですか? うーん、知りたい!やっぱり、教えてください♪♪

  • bakkyy
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回答No.2

葛藤というより、もしかして決断しきれない性格ではないかと察します。 「本当の自分がない」というよりもむしろ自分をさらけ出すのを押さえているのかと思います。いや、怖いのかもしれません。 気を悪くしたかもしれませんが、性格的なものかと思いますので、 まず小さな克服から始めると良いかと思います。 例えば、 コンビニで買い物をするときに、レジの人の目をちゃんと見て、 「ありがとう」と声に出してみるとか・・・ 的が外れた回答であれば、無視してください。 実際に葛藤を抱えて居るのであれば、 接近回避の場合は、回避に対して割り切る事。 私の場合は、そう言ったときには 「死ぬ事はない」と何でも割り切るようにしていました。 また接近接近の場合は、選択後の二つ先まで考えて、得する方を選ぶ。 回避回避の場合も同様に、先の予想でリスクの低い方を選ぶ。 そして、肝心な事は、自分の決断であるので、後悔はしないこと。 以上です。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 意外と決断するのは早いのですが、決断したことに対しああすればよかった、こうすればよかったと後悔や決断の過ちに悔やむことが多いですね。無防備で衝動的な性格であると自覚しています。 葛藤の末取捨選択し、捨てた方もが正解だったとわかれば両方間違ってたわけで、その場合は「本当の自分がない」せいだ、ということになりますよね。私はそういうのが多いと思うんですね。その根本を予想すればなるほど、ご指摘のように「自分をさらけ出すのを抑えている」ということになると思います。 たとえばラーメンの選択では選ばなかった方の方がおいしいと気づいて後悔したのなら両方共食べればいい話ですが、人生の重要な局面などではそうもいかないんですよね(笑)日常では小さな葛藤の連続ですが、それを素直になぞり、小さなことから克服しようとは確かにしてますが・・・。 接近回避の例で実践するのはナイスアイデアだと思いました。常々葛藤の対策について考えてましたが、あえてこのようにタイプに対する自分なりの実践を試みることを気づかせていただいて感謝します。 挙げていただいた「コンフリクトのタイプ」とその具体例、それに対してbakkyyさんのアドバイスで私の選択するものを述べてみますね。 >接近回避 例/好きな人に告白したいが、失恋する可能性がある場合。 ⇒私の場合は、告白しないことの方が後悔する。(「行動しない限りゼロの状態でいるよりも、結果がどうであろうとも行動することで何らかの事実を作る方がよい」というのが私の信条であるので、たとえ失恋しても告白しないでいたことの方が後悔する) >接近接近 例/ラーメンも食べたいしパスタも食べたい。 (カロリーが高めだし今お金がピンチなので、今回はカロリーの低いパスタを選び、家食にする。ストレスはダイエットの敵だから、たまには外食の息抜きも必要だがそれはまた今度にする) >回避回避 例えば、仕事に行きたくないが、生きていかなければならない。 (今している仕事は好きではないが、本当にやりたいことの手段と考え、そのときのために何が生かせることかを考える。惰性に流されたり目的を忘れるなどの心理的なリスクを負わないように意識する) という実践例をあげてみました。 >肝心な事は、自分の決断であるので、後悔はしないこと 決断が本当の自分からでてくれば、後悔したとしてものちのち引かないと思うんですね。あまりにも後悔する場合は、本当の自分じゃないと思います。なので自分と向き合い、本音を探ることがまず必要だと思いました。

  • jameseuk
  • ベストアンサー率17% (48/277)
回答No.1

何も考えない事ですかね。どうしようもない事は考えない。それが出来る様になると超えられますよo(^-^)o

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 考えないということは悟りの状態ですよね。ある意味脳が最後に到達する状態かと思いますし、当方いかんせん未熟者ゆえなかなかそれができませぬ。(最近「考えないでよい脳になる」というような本を見つけましたが読む前にもう少しこの問題と対峙しようと思います) ここではもう少し柔らかい感じ、というか具体的な例でお願いしますね♪