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日露戦争当時の日本側軍用地の確保方法とは?
- 日露戦争当時の日本側軍用地の確保方法について詳しく探求します。
- 日本軍は兵士の宿舎地や広大な軍用地を確保するためにどのような手段を取っていたのかを解説します。
- 清国民からの買い取り説や収奪説など、異説も含めて軍用地の確保方法について考察します。
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なかなか面白い切り口の質問ですね。ただ日露戦争を主計的な目で書き残した資料が記憶する限り見当たらないので、手持ちの資料でも傍証的な資料での回答とさせてもらいます。 >当時の日本軍は軍規が厳格に守られていた(らしい)。 当時の米ニュース週刊誌(フォトジャーナリズム)で、日露戦争の間従軍取材を行ったコリアーズ誌(R.F.COLLIER&SON)によれば、戦争の間日本の大部隊が移動した後に、焼き払われた村や集落、略奪された家、さらに逃げ惑う現地人などの姿や光景を見ることは一切なかったと報告されています。外国の従軍記者たちの前だけこのような芝居を打っても、いずれ事実は明らかになることは明白ですので、日露戦争を通じて日本軍の軍規はかなり厳格に守られていたのではないでしょうか。 対するロシア軍は前線から撤退する際、頻繁に建物や食料に火を放っていたため、日本軍の紳士的な態度はいっそう対照的に見え、各国の従軍記者たちを驚かせたようです。 また戦闘終了後の彼我の戦死傷者の収容は、敵味方の区別なく行われた記述が幾つも見られていますので、それなりに互いがモラルを持って闘っていたことは歴史的事実です。 >当時の日本軍は国際法を厳格に守っていた(らしい)。 日露戦争中日本軍は当時日本では屈指の国際法の権威である、有賀長雄を法律顧問として同行させていました。このことからも日本は少なくとも対外的には、国際法を遵守した上で戦争に臨んでいるという姿勢をアピールしていたことは確かです。 ただ日清戦争時に起きた「銀塊事件」や「旅順虐殺事件」を見れば分かるように、全軍に亘って厳しく規律や国際法を守らせることは、まず不可能だったとも言えるのではないかと個人的には考えます。しかし日露戦争は今もって古き良き時代の戦争というイメージを頑なに守っていることもあって、もし当時不祥事が起きていたとしても、それが明らかになることは今後もまずないと思います。 >遼東半島はロシアの租借地で、このロシアとの交戦国は軍用地代を清に払うべきなのか?。国際法上、どうだったのか? 日本はどうしていたのか? 残念ながらこの件に関しては、詳細な資料や知識を持ち合わせていません。ただ日本が日露戦争で軍用地代を清国に支払っていたという話は寡聞にして知りません。 日露戦争を通じて、日本軍は戦地定立病院や包帯所、各部隊の司令部などは民家や廟などを利用していたことは事実です。しかし一般兵士たちや野戦病院などは良くて天幕を設営したり、あるいは塹壕内に横穴を掘った中に宿営したり、いわゆる掘っ立て小屋などを設営しての露営がほとんどだったようです。 百や千の規模の部隊ならなんとか屋根の下に詰められますが、当時の部隊は5桁6桁の兵士の移動でしたので、いちいち家屋を接収することなどは逆に非現実的だったはずです。当時の日本軍は後の太平洋戦争で、兵站をまるで無視した無謀な戦争を遂行した同じ軍とは思えないほど、緻密で先見の明を持った兵站業務をやり遂げていました。ただ弾薬(特に砲弾)の不足だけは当時の国力の限界を見せつけましたが。 ではその宿営地の確保に関して金銭的な問題はどうしていたかということですが、これも確証はありませんがそれだけの大部隊を収容させるだけの広大な用地ですので、その持ち主をいちいち探し出すことはこれもまた非現実的でしたので、個人的には無断借用的な(もし地主が居たとしてですが)方法をとったのではないかと思います。 これも前述のコリアーズ誌従軍記者のレポートですが、日本軍は行軍途中にある畑の作物などは、目に付く限りほとんどのものを一括で青田買いしていて、地元の農民たちに非常に喜ばれていたという記述がありますので、一方的な略奪などはほとんどなかったのではないでしょうか。 さらに開戦してからの戦地は急激なインフレになり、各国の従軍記者はもちろん、日本軍もその物価の高騰に困惑していたということです。 以上このような形でしか回答できませんでしたが、多少とも参考になれば幸いです。
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- Pinhole-09
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大山参謀長は他国(交戦国でない清国)で戦うに際し注意事項の一つとして、「各部隊随意の徴発は最もこれを戒むる事」を示しました。 清国民に対する配慮です。 一応守られたとのではないでしょうか。 日露講和条約の第五条には「日本帝国政府に於いては、前租借地域におけるロシア臣民の財産権が、完全に尊重せらるべきを約す」とあります。 ロシア民間人に対する配慮です。 この条約締結までは遼東半島租借地の権利はロシアにあり、ロシアが清国に払わねばなりません。 余談ですが戦闘中のある時、ロシア軍の赤十字病院で看護を受けていた、日本軍の負傷兵士(捕虜)の見舞いが許され、日本軍の副官等が赴いた事があったとの事。 以上当時の新聞記事より。
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国際法を厳守していたのは本当なのだと思っています。嫌でも守らねばならない事情を抱えていたのでは? 租借の条件に従って租借地を管理するのはロシアの義務で、仮に日本軍(と限らず)の行動に看過できないことがあれば清国はロシアに苦情を言うべきだ。これが国際法だったでしょうか。 分からないことが多いですが、今後はこれに関した情報にアンテナを張っておこうと思います。 有り難うございました。
- pri_tama
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>日露戦争当時の日本側軍用地の確保の仕方は? 土地収用法(明治33年)に以下の条項が有りますから、司令部の確保などはこれにしたがっていたと思います。 第二条 土地ヲ収用又ハ使用スルコトヲ得ル事業ハ左ノ各号ノ一ニ該当スルモノナルコトヲ要ス 一 国防其ノ他軍事ニ関スル事業 同法には、収用ノ手続・収用審査会・損失ノ補償・費用ノ負担・訴願及訴訟に対しても規定されています。 軍隊も一応、官僚機構ですから法律に従って行動しなければ成りません。
お礼
この法律は対象が日本国内であったり、対日本人であったりしないのですか。ロシアの租借地であった当時の遼東半島において、相手がロシアや清の民間人の場合にも、このまま適用されていたのでしょうか。 分からないことばかりですが、この法律には留意しようと思います。 有り難うございました。
- isa-98
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日露戦争の動向は列強にとっても重大な事件でありましたので 各国からの従軍記者申請が相次ぎます。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/04_2_2.pdf 日本海海戦は英国海軍の提督も観戦しています。 英陸軍だけでも27名の観戦武官を送り込んでいます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E6%88%A6%E6%AD%A6%E5%AE%98 この状態ですと、不正な行動はまず取れません。 それは各国へ報道され、国債の売れ行きに直結します。 また、軍票でもって現地で調達出来る物は購入しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E7%A5%A8 上の事から、 紳士的に軍票で買い上げて見せ、 中に武官を案内したのはまず間違いありません。 (民間人が残っているような場所は街だと考える。物資購入などが可能な場所。) 降伏勧告もそれ(報道)が理由でしょう。 兵士の宿舎などは廃屋でしょう。ここに民間人はまずいられません。 見えない所は記録に残りません。 租借地で請求するのは難しいでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%9F%E5%80%9F%E5%9C%B0 日清戦争の戦費と賠償金から、ロシアの租借を容認します。 もう、対等な話し合いは出来ない状態です。 民間人の被災などの証拠を集めれば請求は出来ます。 ただ、その数十倍の被害を被り、更に利権を失う行為だと考えます。
お礼
>>兵士の宿舎などは廃屋でしょう。<< そうだったのかもしれませんが、今の私には基礎知識がないので半信半疑です。 連日、何万人もの兵士が戦うのですね。当時の移動は徒歩でしょうから、相当狭い地域に密集して居住していないといけませんよね。清国民は疎開していて空き家や廃屋があったとしても広い地域に点々と存在する程度ではなかったのでしょうか。 荒れ地、空き地、農地にでも兵舎を建て、代価の要求があれば軍票を渡す程度のことはしていたのではないでしょうか。どうもイメージが掴めません。 無闇矢鱈に理不尽なことが出来る状況にはなかったのは分かりました。 有り難うございました。
お礼
1 日本軍への有賀長雄の同道は思い出しました。 (ア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1 (イ) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (イ)に見える不平等条約の改正を悲願とする日本政府は欧米諸国に口実を与えないために神経質といえるほど国際法を厳守していた、こういう資料を他でも読んだことがあります。 「銀塊事件」や「旅順虐殺事件」のキーワードは初耳で、お蔭様で(ア)、(イ)の記事に出合えました。 2 天幕の設営、塹壕内での野営、掘っ立て小屋などで凌いでいたらしいと見当がつくにしても、厳冬期には河川が結氷するので橋を架設する必要がなかったというではありませんか。また、戦闘中に兵器を操りながらの飯盒飯は凍りついていたとも読んだことがあります。そんな気象下での旅順開城は1905年(明治38年)1月1日だったと聞くと、如何に日本軍の士気が高かったにしても兵舎はどうしていたのだろうと疑問になります。 戦史、外交史、政治史など公文書は残っても、末端の庶民の歴史は残り難いものらしいですね。 有り難うございました。 早くても、23日(金)19時までは締め切らずにおきます。