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exact number/ approximate number
今年の千葉大学の前期入試の第2問にdyscalculiaについての英文が使われました。 計算不能症と訳されるこの病気の原因についての二つの仮説を紹介してその治療の可能性を示唆する内容ですが、そこに出てくるexact number module/ approximate number senseの定訳が見つからず困っています。 どなたかご存知の方お教えください。 二つの表現が意味するところは英文の内容から概略理解できます。そのまま訳して「正確数モジュール」「概数感覚」としていいものでしょうか。耳になじまない生硬な訳に思えます。 全文をお読みになりたい方は、代ゼミか河合塾の過去問サイトに行くと見られます。 代ゼミ:http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/chiba/zenki/index.html 河合塾:http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/ 次に英文の一部を引用しておきます。 People with dyscalculia fail to see the connection between a set of objects and the numerical symbol that represents it. This concept of "exact number" is known to be unique to humans, but there is much disagreement about where it comes from. One school of thought argues that at least some elements of it are innate, and that babies are born with an exact-number "module" in their brain. Others say exact number is learned and that it builds upon an innate and evolutionarily ancient number system which we share with many other species. This "approximate number sense" (ANS) is what you use when you look at two heavily laden apple trees and, without actually counting the apples, make a judgment as to which has more. In this view, as children acquire speech, they map number words and then numerals onto the ANS, tuning it to respond to increasingly precise numerical symbols
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- stomachman
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例えばみかんが5個テーブルに載っている。それと「5」という文字で表されたシンボル、あるいは「いつつ」という音で表されるシンボルとの関係が理解できないのがdyscalculiaの症状であると。するとこの文脈では、「exact number」は普通の言葉で単に「個数」と呼ぶ概念を指しているように思われます。 「approximate number sense」は2本のリンゴの木を比べて、実が多い/少ないをパッと見分ける感覚であるということなんで、すると「概数」の概念とは明らかに違う。なぜなら、シンボルとの関係において成り立つという意味で「概数」は「個数」と類似である。いやむしろ「個数」よりも抽象的で高度な概念だろうと思います。実際、個数をかぞえられる幼児にも概数を扱うのは難しい。なので、「approximate number sense」なる用語は、ヒトが進化論的祖先から受け継いだ原始的感覚の名称にはふさわしくない。どうもこの用語を創った人は考えが浅いっつーか、ものが分かってないと思う…なんて文句を言ってもしょうがないんで、どうしましょうかね。 説明を素直にウノミにするならば、比較において相対的な多い少ないを直感的に判断する感覚、ってことですから、造語で「相対的多数感覚」「多寡判別感覚」とでもしますか。 ところで、説明に使われている、リンゴの木2本を比べる、という例はちょっと不適切なんじゃないか。というのは、ここで出てくるべきは「あっちの木より多い」だの「普段より多い」とか「普通より多い」という比較の話ではなくて、単に「うわーい、いっぱいある~」というような感慨を生む原因となる感覚(あるいはクオリア)、という話でなくちゃおかしいでしょ、と思うからです。(「多数」と「多量」とが果たして別の感覚なのかどうか、という点にも疑義がありますが、ま、)そういう意味でこの概念を捉えるのであれば、造語で「多数感覚」とか「沢山感覚」じゃどうでしょ?