>再会することがないならそれまで感情をめちゃくちゃにされたのは何だったのだろうと思うのです。
そうですよね、確かにそう思ってしまうのかもしれませんよね。
先の謡曲では、遊女は無事に暇を貰うことが出来るのですが、
愛人である武将に直接感謝の意を伝えていないのです。
で、何に感謝をしたかというと、
あら嬉しやな尊やな、これ観音の御利生なり
これまでなりや 嬉しやな、
と、花見への道中、車中から六波羅の地蔵堂に向かって、母をどうかお守り下さいと自らが手を合わせていたことから
「観音のご利益」というのです。
なにかちょっと、不思議な気がしますよね、
だって本来なら、暇を出すはずの当の武将に感謝すべきことのようにも思われるので。
そして、最期は
──花を見捨つる雁の、それは越路我はまた、東に帰る名残りかな、東に帰る名残りかな。
などと、まるで「花」を「愛人たる武将」にたとえているかのように、名残惜しそうに去っていくのです。
ここでの「花」も、もちろん「桜の花」ですね。
そうすると、この遊女の醸し出していた憂鬱の美というのは、そう単純なものではないのかもしれないのです。
病床の母のもとに一刻も早く戻りたい気持ちに偽りは無く、
されど、都の愛人の傍にいるのは厭わなかったようでもあり、また、
相手の武将もそれを薄々察知していたからこそ、暇を出さずにいたなどと、
ちょっと独善的ながらも、複雑な両人の心の綾を紐解いてみたりもするのです。
そしてさらに、仮に暇を得られなかった暁には、一体遊女の心持ちはどうだったのだろう、つまり、
その遊女は観音のご利益の無かったことに対し、何か憤怒の気持ちを抱くことなどあり得たのだろうか、
などと思い耽ったりもするのですよ。
「感情をめちゃくちゃにされた」と感じて「誰それが悪い」という責任転嫁をせずにはいられない心境というのは、
女々しい私にはとても良くあることでして、まったくもって恥ずかしいかぎりです。
この「前へ進む」というのは、堂々めぐりから一歩足を外界へ踏み出すという意味であって、
時に「誰が悪い/自分が悪い」と決めつけることなど、本意でも人生の主題でも何でもないはずです。
一度きりの貴重な人生、これからどのように歩んでいくのがご自身にとり最善なのかを冷静に見極めるためにも、
まずはしっかりと体調面を整えることが大切なことのように思われます。
なにぶんパソコンの先からでしか拝察することが出来ませんので、失礼な点はお詫びします。
そして、どうかご自愛下さい。
お礼
愛憎半ば複雑です。