- ベストアンサー
本能寺の変での信長の最期の様子はどのようにして、記録に残っているのでし
本能寺の変での信長の最期の様子はどのようにして、記録に残っているのでしょうか? たとえば「是非に及ばず」と言ったとのことですが、これらの事実を生き残って記録した人がいるはずですが、それはどのような人でしょうか?
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
織田信長と共に本能寺にいた者全員が死んだ訳ではありません。 (信長が女達は、落ちのびる様に指示した。) >『信長公記』の著者・太田牛一は、本能寺の変には立ち会っていないが、自身で「女どもこの時まで居申して、様躰見申し候と物語候」と記すように、信長に帯同していた女人衆からその有様を聞いたのである(池田家文庫本)。 http://www.geocities.jp/zanyphenix/place.battle16.html
その他の回答 (3)
- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
本能寺で信長の身の回りの世話をしていた僧と女の中で、信長に殉じた者がいたと伝わっています。 殉じようとして信長の命で仕方なく最後に出た僧がのちに話した言い伝えでしょうか。 口伝え中に内容は変わって行くでしょう。 「是非に及ばず」でなく「おのれの招いた災いか」とつぶやいたとの説もあります。 どちらもこの先の運命は悟った言葉です。 のちに「信長記」を書いた牛一は、かっこよい前者を選ぶでしょう。 「日本史」のフロイスも変の当時は長崎にいました。 のちの聞き伝えです。 南蛮寺から何人かすぐ調べに出たようで概要はつかみましたが、正確な事は判らなかったでしょう。
- ?橋 昌也(@fudousin)
- ベストアンサー率21% (138/631)
「是非におよばず」 かっこいいですよね。信長らしい、それだけに嘘くさくもあり、誰が聞いたんだよって私も昔、不思議に思ったことはあります。 善意に解釈すれば、身の回りの世話をする女たちは逃げていますので、そのへんからというのが考えられます。 本能寺は謎だらけの事件で、どうも断定できることが少な過ぎるんです。間違いないのは、信長が死んだということだけで。包囲当初、光秀がいたかどうかさえ疑問に思っています^^; bungetsuさんがあげておられる資料でも、包囲から炎上までの時間が、兵数が大差の割に長すぎて、包囲が目的か攻撃するのが目的かわからないところがあります。また、炎上のしかたが激しすぎるという見解もあり、新型火薬(爆薬)による爆破ではないかという説を読んだこともあります。そのかたは、その犯人はルイス・フロイスであると言ってました^^; 先だって、本能寺の焼けた瓦が発掘されたという記事が出てましたが、新しい発見があることを期待しています。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- 川原 文月(@bungetsu)
- ベストアンサー率51% (834/1628)
こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 確かに、皆さんが第一に挙げるのは、太田牛一の「信長公記」ですが、 実は、オランダ人でイエズス会の宣教師でもあった、ルイス・フロイトの「日本史」という著書にも残されています。 内容は、 「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」 と言うものです。 イエズス会の本山である「南蛮寺」と本能寺は、わすが300mしか離れていませんでした。 従って、戦況を逐一見ることができたと考えられます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 しかし、それでは「是非に及ばず」を記録することはできないと思うのですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、脱出した女たちの証言と考えれば納得できます。