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意識(心)は、どこからやって来たのか?

    哲学では、意識とは何か?とか、 死んだ後、意識はどうなるか? と、現在と未来については問われ、語られる事は多い。 しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。 けれども、現在、死後の意識を考える上で、その発生起源を考える事は重要なはずだ。 そこで、問いたい。 あなたの主体である意識は、いつ、どのように生じたか? 記憶をさかのぼる、自己観察、現在ある根拠と思われる物、現象から論理を展開し、この問いを考え、答えてみて欲しい。 ちなみに、意識、心、精神、は区別していない。  

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  • sheep67
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回答No.20

こんにちはー。 >惜しむらくは、漠然としている。 これは・・なんだか失礼だけどむさぼられるような感じ。 ここから先自分で考えないんですか? ちょっとルール違反のような気もしたんですが、これ以上の回答は難しいです。 なぜか、と言うのを書いてみます。 あと、せっかちなんじゃなくて、忙しかったんですー。 1.2.3の結論で、僕的には綺麗にまとまった、と思ったんだけど、ここで収束しないんですね~。 先天的や、超越的、というのは、普通に言う論理が扱える範囲の輪郭限界を指す言葉です。 こういう極限を示す単語、というのは、ある種の限界を指し示すことはわかって質問してきてますか? 論理の限界、というニュアンスを込めたし、伝わると思ったんですが、伝わってない感じなので補足します。いか、ずーっと論理のあり方と限界についてです。 子供が親を産めないように、論理と、論理を扱う自分の存在を支えるもの、先天、超越、というのは、論理では説明できないですし、自分の存在の正しさや、自分の思考パターンの正しさを理由もなく肯定していては理解できません。 先天と超越が、現在の自分と論理を生み出しています。先天と超越がメインであり、自分と論理はサブ副だ、というのも、ひとつの事実なのですが、了解されますか? もちろん今の自分がメインなんだ、というのもこれまた同じだけ正しい事実です。事実は複数あります。考えの起点の違いです。 例として、数学で、1+1=2などの極めて単純な前提から数学全体が成り立っていますが、難しい微分積分が解けても、1+1=2が正しいか間違っているかを判断することはできません。 数学に於いては、パラドックスが大事な概念です。矛盾は、数学の構成要素ですし、不完全性定理では、数学の論理は、自分の正しさを証明できないらしいです。 数学になぞらえてなんですが、論理は論理の正しさを証明できません。今のところそう言うことを証明した、などという話は聞きません。 実生活や哲学で使う論理に於いてそれが証明されたわけではないですが、まあおそらくです。正しいもの、と思ってみんな使っていますが、それは極めて盲目的です。論理がそんなに正しく完璧なものなら、とっくに謎はみんな解けててもいいと思うし、何百年何千年と哲学者が考えて解けないことは、考えが足りないのではなく、構造的に解けない問題もあるのだ、という発想の転換もありです。 論理的思考に於いて、帰納、演繹、アブダクション、という3つがあるのですが、この3つの間には、全く論理的に越えられない壁があります。越えられない壁だ、と証明されたわけではありませんが、経験上です。 このアブダクションも、すごく大きな武器です。 おたずねの問題は、この論理の壁を越えられるか? という質問に似ています。 また数学になぞらえますが、数学的帰納法でしか解けない問題はいくらでもありますし、演繹や分析が手のでない問題は普通にありますね。 日常生活においても同じだ、と僕は仮定します。例えは、実生活でごろごろ転がってると思います。 僕自身はアナログ人間ですし、分析より統合、演繹より帰納大好き人間です。その限界ははっきりありますが、なので僕はもともと哲学は嫌いでしたが、必要に迫られて、自分の内面に分析的思考も取り込み、統合と分析を組み合わせて全体の構造を調べる、ということをやっています。 なんかもう意識と関係ない話になっていますが。 宗教用語を避けて説明すれば、こんな感じです。 そういう、自分と違うタイプの論理パターンについて興味もたれたことはありますか? 複数の違う論理を使い分け、また組み合わせて考えることをされたことはあるでしょうか?もし興味があったら、そのあたり行われると、おもしろいです。 これにはステップを踏まないといけないし、哲学で使う論理の、その外側、論理のアウトライン、の認識が、質問に答えるには、必要だと思います。もう普通の論理をはみ出てしまいますから。 質問にある、先天、超越、共に、時間空間を越える、ということです。つまり、この世の時空間によって決まる、普通に使われる論理は使えません。 無茶な例えをいうと、いままでは、1+1=2でしたが、これからは、1+1=3を基礎に、数学を作り直しましょう、とか、そんな例え話になります。 この辺りが、人にもよりますが、いろいろ壁だと感じるところではないかと思います。 哲学をやる人は、僕から見ると分析と演繹だけに偏る傾向があります。それに問題点を感じてるのかいないのか・・よくわかりません。ただ、こういう質問を追加するということは、そのことに少しうといんじゃないか、とかなんとか。 自分の思考パターンが絶対、というスタンスでは、だから説明ができなくなります。(ん?なんかえらそう) 質問文では、帰納やアブダクションなど、その他の論理の存在価値を、いまいち認めているような感じを受けません。あるいは自分の思考パターンを把握するという方向性はありますか。これらは、本当に全く別物で、だからこそこれらをものにして使いこなそうとするのも、この壁を越える、手段の一つかも知れません。 もっとも、止揚、という名前で、分析のフィールドに立つ人から見た、統合論理を示す言葉もありますが。でも、どうも例外的扱いで、自家薬籠中のものとして、上の3つの論理を自由に扱う、という感じではありません。などと、んなえらそうなこと言ってますが、僕も3つを自由に使えるのではなく、ただ3つを使い分ける必要性は理解してるつもりです。自分でやってみて、道具としての論理の扱いや限界とか、いろいろわかります。 3つの、あるいはそれ以上あるかも知れない複数の論理の性質の違いと、その全くの対等な重要性と価値、にもかかわらず、自分の脳ではその壁は越えられないこと等々です。 どちらかというと、自分一人でやるのではなく、それぞれ違う論理の専門家が協力し合うことで、真理に近づけるはずだ、と思います。餅は餅屋です。 その意味では、お聞きの質問は、言われるような分析的考察は、僕が考えるより質問者さんのほうが専門家だと、僕は感じます。そういう意味も込めて、つまり、あとお任せしますねーという意味で、前回の投稿で、丸投げ、という言葉を使ったんですが、食い下がられましたねー。 つまり、僕は必要に迫られて分析や演繹にも手を出してますが、やはり生まれつきの限界を感じます。一個の概念を厳密に追求する意義はわかっても、向いてないのが分かります。でももともと得意ではありませんが、自分の内面の問題解決のために、苦手な分析的論理も取り込んで使うようにしたら、わりかし哲学やる人ともまがりなりにお話しできるようになっています。(と言っても、池田さんの14才の哲学という本がちんぷんかんぷんだった程度ですが)。 なのでもともと僕は、自分や自我について考えるなんて聞いたら、「頭大丈夫?」と心配したくなるタイプの人です。なので、14才の哲学は、宇宙人の話のようでしたねー。 僕の書いた話が漠然としているのは、もともとこういう由来があるからです。努力はしてるんですが。 まあ単に限界なんとちゃうん?といわれると、そうなんですが・・。そんなんできません、と言っては身も蓋もないので、いろいろ言い訳すると、上のようになります。 この辺りは、他流試合で、哲学やる人にいろいろ議論や指摘してもらって、分かってきたことです。 こんな感じです。わかってもらえるかどうか・・ なるだけ前向きに書いたつもりだけれど、ん~~、あんま自信ないな。 僕と質問者様の、上のような、基礎にしている論理の好みの違いと、その論理の拠り所になる直観の違いを、強く感じます。ここで議論してたらいつも感じることですが。 僕のメインは、直観や感性、主観の構造の把握や統合で、意識や自己については、あまり得意ではありません。でも人の持つ直観や感性、フィーリングの仕組みを理解すると、どうしてもそのコインの表裏の関係で、自我や意識についても自然と理解は深まります。コインの表裏でまとめて一つなんだ、という仕組みです。主観と意識は相補性があります。それでそもそもここの質問に興味を持ったのですが。 こちらで投稿した文章は、統合的把握から出てきた結論を、一度分析的論理に翻訳したものです。やれる範囲でですが。でも僕は基本として、統合や帰納、アナログを考える基礎や道具にしてます(そういうのが大好きで大好きで・・)ので、その範囲内でできるだけ翻訳はしてるかなと思ってます。 ただ、おっしゃるような、思考の鍛錬、と言われる意味は、僕にとっては、まるでアナログを捨てて、デジタル人間になれ、と言われるようなもので、そんな無茶な、という感じです。脳みそ入れ替えたら別ですが。 そこは、効率を考えるなら、個人が一人で壁を越えるのではなく、協力が大事だと思います。個性を生かしながらの協力が、絶対必要だと思ってます。というかその方がおもしろい・・。単に苦手なことをそこまで追求する気がないだけですが。好きなことをやるのが一番ー。 読む人の理解の補助、というのも、同じ理由で、そういう必要を感じません。 違う論理の、スタンスの違いは、普通に使う論理的思考の範疇を超える、ということを了解してもらえるなら、その違いが、考える人間の思考の前提土台、直観の違いだと言うこと(砕いていうと性格の違い)、その違いのほうが、論理的整合性や正しさより本質なんだ、と言うことを解ってもらえるなら、書いたかいもあります。 これは、もちろん、事実であったとしても、論理を越えるので、論理的には説明できませんね。経験から認知するか否か? という話です。それは、経験則?的なことになります。 3つの論理の違いは、帰納、演繹、アブダクション、いずれを使っても、説明は無理はなずです。3つの論理の違いと対等性があることは伝わりますか? それぞれの論理は、それぞれのフィールド内でしか有効ではないのです。どれかひとつの論理で、他の2つの論理まで説明し切ろう、というのは無理だと思います。(たぶん) それは、階層問題と似ていて、物理で政治を説明できるか?みたいな感じです。 kunobouさんの質問は、僕が統合的把握で煮詰めてきた論理を、根本的に分析的なものに置き換える、ちょうどその境界線を越えるものだという感じがします。それがそちらも分かってて、僕に質問してきてる気がしたので、ちょっとずるいんじゃないか、と思いました。 質問内容そのもののスタンスが、僕自身は、この質問のような発想をしないです。一個の概念を取り出して、それをとことん追求したい、というのは、僕にとっては、上に書いたようにその意義を認識はしてても、根本的には別世界の方法論です。たぶん生まれて一度もやったことはないですね。 僕にとっては、上のような理由で、一個の概念の厳密な定義は追いかけようという興味が無く、向こうから勝手に現れるもの、という感じです。 もっとも宗教は、そのあたりの壁を無理矢理壊していますが。例えば即非の論理とか、いくつかあります。論理でないものを論理とするのは宗教の基礎です。 でもそんな宗教的論理を使わず、無理矢理一般の論理で押し切って解釈するなら、この世の本質は、矛盾であり、矛盾こそ本質だと考えます。 なので、前回の投稿に戻りますが、その絶対解けない矛盾をどう扱うか? が大事だと思っています。人間の成長過程でその矛盾を対象化できず無理に取り込むと、意識のループは起こらなくなると思います。ループ循環の輪っかが、この矛盾と不整合、理不尽によって切断されるからです。 「おかしい、わからない、間違ってる、意味不明」というものは、そんな風に決めつけておかしなものとして排除するのでなく、そのまままず受け取るべきじゃないでしょうか? 受容することで把握が可能になり、対象化して考えられます。 そうやって現実を観察把握すると、パラドックスは、この世を形成する、基本的材料だと思うし、その存在を勘定に入れることは、本質的に大事だと思います。理解が浅くてわからないだけのことと本質的な矛盾を、より分ける必要もありますが。 そんなもの認めない、わからないことなんて無いんだ、と言っててはそれこそ壁です。矛盾は、解けないから矛盾です。矛盾の定義は「理解不可能」です。無理矢理解こうと、つまり理解しようとするのは、矛盾の存在を認められず、かえって前に進めなくなる、と僕は思うんですが。そしてそう考えると、上に書いた論理の本質的違いも捉えられますし。余計なお世話かしら。 意識が意識に飛び込めないのは、矛盾を認めないからだと思います。小さい赤ちゃんなら、そういうこだわりがないので、本当に最短距離なんですが。大人はこういう矛盾を取り込んでしまうことによる不安やプライドやいろいろあって、ループが邪魔されます。素直じゃないです。というより、素直じゃない、ひねくれてる人というのは、まさにこの矛盾を自我に内包している人のことですし。 なんで、僕は矛盾を矛盾として認め、自分とは別のものとして位置づけようと努力してます。実際それらは、本質的に人間とは無関係なものです。この世は意味によって成り立つことはご存じかも知れませんが、意味の本質は矛盾です(いっちまったー)。パラドックスはパラドックスです。それはそれだけで成り立つ本質です。他に説明はできませんし。それは定義そのものです。 普通は逆に考える人が多いと思います。いっぱい考えていっぱい理解して、最後に残ったわからない残りかすが矛盾だ、みたいな捉え方ですが、それはそれでいいとして、その逆の視点もあります。 パラドックスは、考えて分からなかったもの、などではない、という見方です。実生活においてもです。 矛盾を抱え込むことは、その見極めができてないと、いう判断です。 超越概念とは、矛盾の認知と、ほとんど一緒です。≒です。違いますが。矛盾の認識を前提として成り立つ話、というべきか・・。僕も今開拓中です。 「矛盾よ、あなたの存在を認めます」、とか、まあそんな感じです。今は、論理よりも思考よりも、矛盾が本質的存在だと思います。あんま大きな声では言えないですねー。 矛盾は、この切り口で考えると、絶対的存在であり、すべてから独立しており、どんなものの中に見いだしても、誰の言動にそれを感じても、物や人とは関係のないものだ、ということになっています。意味のメカニズムから考えれば、ということですが。 大体こんな感じですし、こういうことを提起します。 忘れてた、胎児ですね。胎児を何か特別扱いする理由はないと思います。どこかで線を引けるでしょうか?意識のクオリティーの階層は前に説明したとおりあっても、胎児は、ただおなかにいるというだけで、それは自分の部屋にいるのと変わりないという側面があります。僕がいう先天的というのは、そういう意味でないので、ちょっと誤解されてます。 矛盾=パラドックス は、厳密じゃないですね。僕は意味の不整合と呼んでますが、そもそもふさわしい単語は見あたらないので、適当です。 これに限らず、統合的な論理を、分析的厳密さへと近づけて、要素に還元しようとすると、表現する言葉がないので造語と代用品だらけです。 以上、超越や先天(いわゆるこの世ならざるもの)を説明するのが大変な理由とながいながい言い訳でしたー。もう、意識と一見関係のない話になりましたが。 では~~。 付け足しです。意識が意識に飛び込めないループを描けないのは、「今ここ」という瞬間を認知できないのと、仕組みは同じです。今この一瞬に生きろ、とはよく言いますが、同様の構図です。過去現在未来は捉えられますが、今ここ、という物を見ることはできないですね。鏡なしで自分の顔を見れないのと同じです。今こことは、意識のことですし。 逆に、意識が意識に飛び込めたら=真の意識が発生したら、自分と、今こことの同一化が起きる、と見ます。

noname#136007
質問者

お礼

  長い、丁寧な回答ありがとうございます。 >なんだか失礼だけどむさぼられるような感じ。 正解です。むさぼっています。理由は二つあります。 一つ、これが主な理由ですが、僕は、ここのサイトを「おおやけ」の場所と認識しています。 つまり、「沈黙の観客(?)」が、大勢いると、意識しているのです。 個人的には、前回の回答で十分だと思うのですが、「沈黙の観客」の立場に立った場合、「?」に思う人が多いのではないか、と考えるのです。 だから、その「?」に要求に応える意味で、さらに質問したのです。 もう一つは、追加の補足的な事ですが、自分が思考するのに、もう少し具体的な方がいいからです。 まあ、主な理由は、最初の方ですね。 ですから、気を悪くしないで下さい。  

その他の回答 (22)

回答No.2

ソレがソレであろうとする方向性→つまり「慣性」の一種では?

noname#136007
質問者

お礼

  そうですか・・・・・  

noname#136007
質問者

補足

  種類を聞いたつもりではないんですが・・・  

回答No.1

心を中心に考えると、「宇宙は心の中に生じた幻想」だと言え、 物質を中心に考えると、「心は実体のない亡霊」だと言えます。 “両雄並び立たず”とでも言いましょうか、あるいは折り紙の 「帆かけ舟」のように、相補的に変換すると言いましょうか、 歴史的に、「自己の意識の中の宇宙(心)」と「宇宙の部分と しての自己(体)」の関係は問題になってきました。 しかし、最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測 される事によって生じており、これまでのように、「認識体とは 独立して外的存在がある」という“日常的感覚(=素朴唯物論)”的 世界観は否定されました。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのであり、自我仮説に対する相補的な時空仮説における、 他我性こそが宇宙(無の無限の闇に対する自我の射影)。 真の自己とは、あなたの感じる「自分(感受表面)」の内側(肉体) ではなく、外側(宇宙=意識)だと言えるのです。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめ込む と存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの中に、 仮想的な認識体の断面を切ると、その認識可能性にとって、相補的 不確定性を伴う存在による宇宙が見えます。 無限不確定の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数の収束 の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体は その光の向うに、自我仮説の相補としての時空仮説=宇宙を認識します。 「相補」というのは、絶対時空を否定し認識体との相対においてしか 時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が現象表面的 に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的存在性は生じる とする不確定性原理といったものを伴う時空、ということです。 即ち「何か有るんじゃ?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた 時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、 存在は生じていると言えます。 (認識体自身が、その仮説的空間に有限な大きさ(肉体)を 占めていることで先入的根拠の完全否定) 無いとは分からない事が有なのです。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 すみません。よく分からないです。 この説明は、意識とは何かを説明している様な印象を受けます。 幼い子供にいつ、どのように意識が発生したかを、説明しているんでしょうか? ・・・・・  

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