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意識(心)は、どこからやって来たのか?

    哲学では、意識とは何か?とか、 死んだ後、意識はどうなるか? と、現在と未来については問われ、語られる事は多い。 しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。 けれども、現在、死後の意識を考える上で、その発生起源を考える事は重要なはずだ。 そこで、問いたい。 あなたの主体である意識は、いつ、どのように生じたか? 記憶をさかのぼる、自己観察、現在ある根拠と思われる物、現象から論理を展開し、この問いを考え、答えてみて欲しい。 ちなみに、意識、心、精神、は区別していない。  

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  • sheep67
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回答No.20

こんにちはー。 >惜しむらくは、漠然としている。 これは・・なんだか失礼だけどむさぼられるような感じ。 ここから先自分で考えないんですか? ちょっとルール違反のような気もしたんですが、これ以上の回答は難しいです。 なぜか、と言うのを書いてみます。 あと、せっかちなんじゃなくて、忙しかったんですー。 1.2.3の結論で、僕的には綺麗にまとまった、と思ったんだけど、ここで収束しないんですね~。 先天的や、超越的、というのは、普通に言う論理が扱える範囲の輪郭限界を指す言葉です。 こういう極限を示す単語、というのは、ある種の限界を指し示すことはわかって質問してきてますか? 論理の限界、というニュアンスを込めたし、伝わると思ったんですが、伝わってない感じなので補足します。いか、ずーっと論理のあり方と限界についてです。 子供が親を産めないように、論理と、論理を扱う自分の存在を支えるもの、先天、超越、というのは、論理では説明できないですし、自分の存在の正しさや、自分の思考パターンの正しさを理由もなく肯定していては理解できません。 先天と超越が、現在の自分と論理を生み出しています。先天と超越がメインであり、自分と論理はサブ副だ、というのも、ひとつの事実なのですが、了解されますか? もちろん今の自分がメインなんだ、というのもこれまた同じだけ正しい事実です。事実は複数あります。考えの起点の違いです。 例として、数学で、1+1=2などの極めて単純な前提から数学全体が成り立っていますが、難しい微分積分が解けても、1+1=2が正しいか間違っているかを判断することはできません。 数学に於いては、パラドックスが大事な概念です。矛盾は、数学の構成要素ですし、不完全性定理では、数学の論理は、自分の正しさを証明できないらしいです。 数学になぞらえてなんですが、論理は論理の正しさを証明できません。今のところそう言うことを証明した、などという話は聞きません。 実生活や哲学で使う論理に於いてそれが証明されたわけではないですが、まあおそらくです。正しいもの、と思ってみんな使っていますが、それは極めて盲目的です。論理がそんなに正しく完璧なものなら、とっくに謎はみんな解けててもいいと思うし、何百年何千年と哲学者が考えて解けないことは、考えが足りないのではなく、構造的に解けない問題もあるのだ、という発想の転換もありです。 論理的思考に於いて、帰納、演繹、アブダクション、という3つがあるのですが、この3つの間には、全く論理的に越えられない壁があります。越えられない壁だ、と証明されたわけではありませんが、経験上です。 このアブダクションも、すごく大きな武器です。 おたずねの問題は、この論理の壁を越えられるか? という質問に似ています。 また数学になぞらえますが、数学的帰納法でしか解けない問題はいくらでもありますし、演繹や分析が手のでない問題は普通にありますね。 日常生活においても同じだ、と僕は仮定します。例えは、実生活でごろごろ転がってると思います。 僕自身はアナログ人間ですし、分析より統合、演繹より帰納大好き人間です。その限界ははっきりありますが、なので僕はもともと哲学は嫌いでしたが、必要に迫られて、自分の内面に分析的思考も取り込み、統合と分析を組み合わせて全体の構造を調べる、ということをやっています。 なんかもう意識と関係ない話になっていますが。 宗教用語を避けて説明すれば、こんな感じです。 そういう、自分と違うタイプの論理パターンについて興味もたれたことはありますか? 複数の違う論理を使い分け、また組み合わせて考えることをされたことはあるでしょうか?もし興味があったら、そのあたり行われると、おもしろいです。 これにはステップを踏まないといけないし、哲学で使う論理の、その外側、論理のアウトライン、の認識が、質問に答えるには、必要だと思います。もう普通の論理をはみ出てしまいますから。 質問にある、先天、超越、共に、時間空間を越える、ということです。つまり、この世の時空間によって決まる、普通に使われる論理は使えません。 無茶な例えをいうと、いままでは、1+1=2でしたが、これからは、1+1=3を基礎に、数学を作り直しましょう、とか、そんな例え話になります。 この辺りが、人にもよりますが、いろいろ壁だと感じるところではないかと思います。 哲学をやる人は、僕から見ると分析と演繹だけに偏る傾向があります。それに問題点を感じてるのかいないのか・・よくわかりません。ただ、こういう質問を追加するということは、そのことに少しうといんじゃないか、とかなんとか。 自分の思考パターンが絶対、というスタンスでは、だから説明ができなくなります。(ん?なんかえらそう) 質問文では、帰納やアブダクションなど、その他の論理の存在価値を、いまいち認めているような感じを受けません。あるいは自分の思考パターンを把握するという方向性はありますか。これらは、本当に全く別物で、だからこそこれらをものにして使いこなそうとするのも、この壁を越える、手段の一つかも知れません。 もっとも、止揚、という名前で、分析のフィールドに立つ人から見た、統合論理を示す言葉もありますが。でも、どうも例外的扱いで、自家薬籠中のものとして、上の3つの論理を自由に扱う、という感じではありません。などと、んなえらそうなこと言ってますが、僕も3つを自由に使えるのではなく、ただ3つを使い分ける必要性は理解してるつもりです。自分でやってみて、道具としての論理の扱いや限界とか、いろいろわかります。 3つの、あるいはそれ以上あるかも知れない複数の論理の性質の違いと、その全くの対等な重要性と価値、にもかかわらず、自分の脳ではその壁は越えられないこと等々です。 どちらかというと、自分一人でやるのではなく、それぞれ違う論理の専門家が協力し合うことで、真理に近づけるはずだ、と思います。餅は餅屋です。 その意味では、お聞きの質問は、言われるような分析的考察は、僕が考えるより質問者さんのほうが専門家だと、僕は感じます。そういう意味も込めて、つまり、あとお任せしますねーという意味で、前回の投稿で、丸投げ、という言葉を使ったんですが、食い下がられましたねー。 つまり、僕は必要に迫られて分析や演繹にも手を出してますが、やはり生まれつきの限界を感じます。一個の概念を厳密に追求する意義はわかっても、向いてないのが分かります。でももともと得意ではありませんが、自分の内面の問題解決のために、苦手な分析的論理も取り込んで使うようにしたら、わりかし哲学やる人ともまがりなりにお話しできるようになっています。(と言っても、池田さんの14才の哲学という本がちんぷんかんぷんだった程度ですが)。 なのでもともと僕は、自分や自我について考えるなんて聞いたら、「頭大丈夫?」と心配したくなるタイプの人です。なので、14才の哲学は、宇宙人の話のようでしたねー。 僕の書いた話が漠然としているのは、もともとこういう由来があるからです。努力はしてるんですが。 まあ単に限界なんとちゃうん?といわれると、そうなんですが・・。そんなんできません、と言っては身も蓋もないので、いろいろ言い訳すると、上のようになります。 この辺りは、他流試合で、哲学やる人にいろいろ議論や指摘してもらって、分かってきたことです。 こんな感じです。わかってもらえるかどうか・・ なるだけ前向きに書いたつもりだけれど、ん~~、あんま自信ないな。 僕と質問者様の、上のような、基礎にしている論理の好みの違いと、その論理の拠り所になる直観の違いを、強く感じます。ここで議論してたらいつも感じることですが。 僕のメインは、直観や感性、主観の構造の把握や統合で、意識や自己については、あまり得意ではありません。でも人の持つ直観や感性、フィーリングの仕組みを理解すると、どうしてもそのコインの表裏の関係で、自我や意識についても自然と理解は深まります。コインの表裏でまとめて一つなんだ、という仕組みです。主観と意識は相補性があります。それでそもそもここの質問に興味を持ったのですが。 こちらで投稿した文章は、統合的把握から出てきた結論を、一度分析的論理に翻訳したものです。やれる範囲でですが。でも僕は基本として、統合や帰納、アナログを考える基礎や道具にしてます(そういうのが大好きで大好きで・・)ので、その範囲内でできるだけ翻訳はしてるかなと思ってます。 ただ、おっしゃるような、思考の鍛錬、と言われる意味は、僕にとっては、まるでアナログを捨てて、デジタル人間になれ、と言われるようなもので、そんな無茶な、という感じです。脳みそ入れ替えたら別ですが。 そこは、効率を考えるなら、個人が一人で壁を越えるのではなく、協力が大事だと思います。個性を生かしながらの協力が、絶対必要だと思ってます。というかその方がおもしろい・・。単に苦手なことをそこまで追求する気がないだけですが。好きなことをやるのが一番ー。 読む人の理解の補助、というのも、同じ理由で、そういう必要を感じません。 違う論理の、スタンスの違いは、普通に使う論理的思考の範疇を超える、ということを了解してもらえるなら、その違いが、考える人間の思考の前提土台、直観の違いだと言うこと(砕いていうと性格の違い)、その違いのほうが、論理的整合性や正しさより本質なんだ、と言うことを解ってもらえるなら、書いたかいもあります。 これは、もちろん、事実であったとしても、論理を越えるので、論理的には説明できませんね。経験から認知するか否か? という話です。それは、経験則?的なことになります。 3つの論理の違いは、帰納、演繹、アブダクション、いずれを使っても、説明は無理はなずです。3つの論理の違いと対等性があることは伝わりますか? それぞれの論理は、それぞれのフィールド内でしか有効ではないのです。どれかひとつの論理で、他の2つの論理まで説明し切ろう、というのは無理だと思います。(たぶん) それは、階層問題と似ていて、物理で政治を説明できるか?みたいな感じです。 kunobouさんの質問は、僕が統合的把握で煮詰めてきた論理を、根本的に分析的なものに置き換える、ちょうどその境界線を越えるものだという感じがします。それがそちらも分かってて、僕に質問してきてる気がしたので、ちょっとずるいんじゃないか、と思いました。 質問内容そのもののスタンスが、僕自身は、この質問のような発想をしないです。一個の概念を取り出して、それをとことん追求したい、というのは、僕にとっては、上に書いたようにその意義を認識はしてても、根本的には別世界の方法論です。たぶん生まれて一度もやったことはないですね。 僕にとっては、上のような理由で、一個の概念の厳密な定義は追いかけようという興味が無く、向こうから勝手に現れるもの、という感じです。 もっとも宗教は、そのあたりの壁を無理矢理壊していますが。例えば即非の論理とか、いくつかあります。論理でないものを論理とするのは宗教の基礎です。 でもそんな宗教的論理を使わず、無理矢理一般の論理で押し切って解釈するなら、この世の本質は、矛盾であり、矛盾こそ本質だと考えます。 なので、前回の投稿に戻りますが、その絶対解けない矛盾をどう扱うか? が大事だと思っています。人間の成長過程でその矛盾を対象化できず無理に取り込むと、意識のループは起こらなくなると思います。ループ循環の輪っかが、この矛盾と不整合、理不尽によって切断されるからです。 「おかしい、わからない、間違ってる、意味不明」というものは、そんな風に決めつけておかしなものとして排除するのでなく、そのまままず受け取るべきじゃないでしょうか? 受容することで把握が可能になり、対象化して考えられます。 そうやって現実を観察把握すると、パラドックスは、この世を形成する、基本的材料だと思うし、その存在を勘定に入れることは、本質的に大事だと思います。理解が浅くてわからないだけのことと本質的な矛盾を、より分ける必要もありますが。 そんなもの認めない、わからないことなんて無いんだ、と言っててはそれこそ壁です。矛盾は、解けないから矛盾です。矛盾の定義は「理解不可能」です。無理矢理解こうと、つまり理解しようとするのは、矛盾の存在を認められず、かえって前に進めなくなる、と僕は思うんですが。そしてそう考えると、上に書いた論理の本質的違いも捉えられますし。余計なお世話かしら。 意識が意識に飛び込めないのは、矛盾を認めないからだと思います。小さい赤ちゃんなら、そういうこだわりがないので、本当に最短距離なんですが。大人はこういう矛盾を取り込んでしまうことによる不安やプライドやいろいろあって、ループが邪魔されます。素直じゃないです。というより、素直じゃない、ひねくれてる人というのは、まさにこの矛盾を自我に内包している人のことですし。 なんで、僕は矛盾を矛盾として認め、自分とは別のものとして位置づけようと努力してます。実際それらは、本質的に人間とは無関係なものです。この世は意味によって成り立つことはご存じかも知れませんが、意味の本質は矛盾です(いっちまったー)。パラドックスはパラドックスです。それはそれだけで成り立つ本質です。他に説明はできませんし。それは定義そのものです。 普通は逆に考える人が多いと思います。いっぱい考えていっぱい理解して、最後に残ったわからない残りかすが矛盾だ、みたいな捉え方ですが、それはそれでいいとして、その逆の視点もあります。 パラドックスは、考えて分からなかったもの、などではない、という見方です。実生活においてもです。 矛盾を抱え込むことは、その見極めができてないと、いう判断です。 超越概念とは、矛盾の認知と、ほとんど一緒です。≒です。違いますが。矛盾の認識を前提として成り立つ話、というべきか・・。僕も今開拓中です。 「矛盾よ、あなたの存在を認めます」、とか、まあそんな感じです。今は、論理よりも思考よりも、矛盾が本質的存在だと思います。あんま大きな声では言えないですねー。 矛盾は、この切り口で考えると、絶対的存在であり、すべてから独立しており、どんなものの中に見いだしても、誰の言動にそれを感じても、物や人とは関係のないものだ、ということになっています。意味のメカニズムから考えれば、ということですが。 大体こんな感じですし、こういうことを提起します。 忘れてた、胎児ですね。胎児を何か特別扱いする理由はないと思います。どこかで線を引けるでしょうか?意識のクオリティーの階層は前に説明したとおりあっても、胎児は、ただおなかにいるというだけで、それは自分の部屋にいるのと変わりないという側面があります。僕がいう先天的というのは、そういう意味でないので、ちょっと誤解されてます。 矛盾=パラドックス は、厳密じゃないですね。僕は意味の不整合と呼んでますが、そもそもふさわしい単語は見あたらないので、適当です。 これに限らず、統合的な論理を、分析的厳密さへと近づけて、要素に還元しようとすると、表現する言葉がないので造語と代用品だらけです。 以上、超越や先天(いわゆるこの世ならざるもの)を説明するのが大変な理由とながいながい言い訳でしたー。もう、意識と一見関係のない話になりましたが。 では~~。 付け足しです。意識が意識に飛び込めないループを描けないのは、「今ここ」という瞬間を認知できないのと、仕組みは同じです。今この一瞬に生きろ、とはよく言いますが、同様の構図です。過去現在未来は捉えられますが、今ここ、という物を見ることはできないですね。鏡なしで自分の顔を見れないのと同じです。今こことは、意識のことですし。 逆に、意識が意識に飛び込めたら=真の意識が発生したら、自分と、今こことの同一化が起きる、と見ます。

noname#136007
質問者

お礼

  長い、丁寧な回答ありがとうございます。 >なんだか失礼だけどむさぼられるような感じ。 正解です。むさぼっています。理由は二つあります。 一つ、これが主な理由ですが、僕は、ここのサイトを「おおやけ」の場所と認識しています。 つまり、「沈黙の観客(?)」が、大勢いると、意識しているのです。 個人的には、前回の回答で十分だと思うのですが、「沈黙の観客」の立場に立った場合、「?」に思う人が多いのではないか、と考えるのです。 だから、その「?」に要求に応える意味で、さらに質問したのです。 もう一つは、追加の補足的な事ですが、自分が思考するのに、もう少し具体的な方がいいからです。 まあ、主な理由は、最初の方ですね。 ですから、気を悪くしないで下さい。  

その他の回答 (22)

  • ENERGEAR
  • ベストアンサー率18% (7/37)
回答No.12

>生命以前から、「意識」があったと言う事ですか?  はい、そう思います。 >つまり、無生物に意識があると言う事ですか?   「生命・生物」を物質体を持つ意識体と規定するのであれば、   物質体を持たない意識段階もあるでしょう。 >意識を生じさせたメカニズムの主体を何と考えますか?  混沌としての宇宙(無、虚無)だろうか。  いずれにせよ、頭で考えることのできる、限界まで既に来ているような気がします。

noname#136007
質問者

お礼

  限界と言う事なので、これ以上の質問を控えます。 回答ありがとうございます。  

回答No.11

人間の脳は思春期頃に、完成に近くなると言われています。すなわち、左脳と右脳の機能分化が完成に近くなるという意味になります。この頃から人間の意識は、分裂や、対立や、矛盾を意識し始めるという事です。 生まれたばかりの赤ん坊は、生まれる前から、生命活動を、自分の指をしゃぶったりして練習しています。生まれると直ぐに、泣いたり、乳を欲しがったり、安心したり、不安におびえたりしています。是は未だ動物と同じ生命活動とも言えます。 問題は思春期頃からになると思います。悩みが始まる頃と言えるからです。或いは精神疾患が始まる頃とも言えます。その訳は「意識をする」処から始まっています。中国のことわざに「ムカデがうまく歩く事を意識したら、足がこんがらがって、歩けなくなった」というのが在ります。 今の時代の精神性には、多分今言った諺が当てはまっています。話す事を意識したら話せなくなった=吃音。人に会う事を意識したら、人に会うのが怖くなって会えなくなった=対人恐怖。書く事を意識したら書けなくなった=書痙。心が何時も安定している事を意識したら安定しなくなった=躁鬱、或いは、感情障害。 死や生を意識したら、死や生そのものが不安や恐怖の対象になる=社会不安障害。という訳で、人間の障害は「意識」する事自体が障害になる場合が在ります。是は分かっている事をことさら意識する「意識性」に問題が生じている事になります。 死んだら意識はどうなるのか。無くなるに決まっている事を、どうなるのかと問題にしています。この陰には「死にたくない」という願望が隠されています。言い方を変えたなら「永遠の命を」求めている願望がみえかくれしています。はっきり言うならば是は、心の矛盾という事になります。 死にたくないのに、死は避けられないという現実。この心の矛盾を人間は「意識性」のせいで、古今より避けられない問題として抱えてきました。この問題こそが人間の営みを恐怖に陥れて、そうして又安らかな境涯へと導いてきました。 この恐怖感が「地獄」にもなるし、又他の見方からすると「天国」にもなるという事になります。今日は時間があまりないという事で、結論を書いてみます。 地獄とは「自我意識」が現実を認めたくないという事の現われです。言い方を変えたなら、自分が自分を受け入れられない事とも言えます。 天国とは「自我意識」が現実を受け入れた事の現われです。言い方を変えたなら、自分が自分を受け入れた事、或いは自分が自分を認めた事、とも言えます。 <<<しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。 この結論は>>意識が生じる時、言い方を変えるなら「父母未生以前、本来の面目」という事が分かる時に分かります。是は禅問答です。 「母親のお腹にいた時の気持ちは如何か?」という問題です。ヒントは毎日、毎日その気持ちを貴方は味わっています。処が貴方は知りません。それは人間は「意識界」と「無意識界や潜在意識界」と切り替わりながら正常な一日が過ぎている。という事になっています。 心が生じる時の事です。心が「無」から生じる瞬間の事です。無意識から「意識」が戻る瞬間です。雷よりも早いです。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 >心が生じる時の事です。心が「無」から生じる瞬間の事です。無意識から「意識」が戻る瞬間です。雷よりも早いです。 これは、何の根拠による考えですか? 返答、宜しくお願いします。  

  • ENERGEAR
  • ベストアンサー率18% (7/37)
回答No.10

 存在は何から発生したのか?  まず混沌としての宇宙があり、そこから「 在ろう、在りたい 」という想い、意識が生じた。  それが存在、意識。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 回答を読んで以下の2つの疑問が生じました。 (1)まず混沌としての宇宙があり、そこから「 在ろう、在りたい 」という想い、意識が生じた。 と言う事は、生命以前から、「意識」があったと言う事ですか?つまり、無生物に意識があると言う事ですか? (2)「在ろう、在りたい」という想い、意識が生じた。 としていますが、意識を生じさせたメカニズムのの主体を何と考えますか? 以上、2点の回答お願いします。  

noname#221368
noname#221368
回答No.9

 人間は、自分で自分をモニターする存在です。肉体の状態だけでなく、モニターしている意識も物理的には同じ脳がモニターしますが、モニターするモニターまでモニターして・・・、という無限連鎖が意識だと思います。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 その様な形態を自分も感じています。 ただ、今回は「意識」の存在形態については、問わない事にしています。 それは、それで大きいテーマになりえるので、次回以降のテーマとして保留しているのです。 (かなり、困難なテーマですが・・・) その前段、関連として、一個人での意識の発生起源の状態を、出来るだけ輪郭をつかみたいと考えて、今回の問題を提示しています。 例えば、無意識、意識、言葉、記憶、これらが、どんな順序で発生したか、と言う様な問題提起です。  

noname#136007
質問者

補足

  回答へのお礼で、今回の問題の趣旨を記しましたが、考えてみると今後の意識を考える上で、回答者様の「無限連鎖が意識」と言う考えはとても参考になると思えます。 今回の質問の趣旨と離れるのですが、回答者様の回答の根拠、または、論理展開等を詳しく説明していただけないでしょうか? 宜しくお願いします。  

  • ayu0821
  • ベストアンサー率16% (13/77)
回答No.8

ANo.3の者です。 ご質問に関して、私の考えを補足致します。 >生物と言う事は、植物も含むんですかね? 私は、よく以下のような話を聞きます。 植物に向かって、毎日やさしい声をかけたり、心地よい音楽を聴かせると元気に育つそうです。 不思議ですが、本当の話だそうです。 >小さい藻、ゾウリムシとかも意識があるという考えですかね? 私としては、ミクロンの世界の生物の域は分かりませんが、 「自我を持っている可能性はある」という考えです。 どんな小さな生物も、ロボットのように電子回路で動いて捕食しているわけではありません。 どんな小さな植物も、電池を入れて花を咲かせるわけではありません。 じゃあ、彼らはどうやってその行動をし、成長しているの?と私は考えました。 例えば人間だって、身体だけ与えられて自らの身体を動かせるわけではないと思いますよ。 そこに、「ご飯を食べよう」「運動をしよう」と意識を持って行動をしているからこそ、 心身ともに成長しています。 人間のそれと同じなのでは無いでしょうか? 勿論、私の個人的な考えです。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 コメントしたい事は、山の様にありますが、まず以下の記事に目を通し「意識」とは何か?と言う事を考えて見ませんか? ネズミの脳に電極を埋め込みリモコン操作する研究 http://wiredvision.jp/archives/200205/2002050801.html その後、感想などを書いていただければ、議論が深まる気がします。 宜しくお願いします。  

  • covanonki
  • ベストアンサー率48% (219/448)
回答No.7

「どこから来たのか」というご質問には沿わないかも知れませんが、 ご容赦ください。 仏教の考え方で、「唯識」という発想があります。 目の前に例えば水の入ったコップが一つあったとして、自分の目に 映っているそのコップと、隣に座っている人の目に映っているコップ は別のものである、と言う考え方です。 つまり、自分の目に映っているコップは、この世に唯一つしかない。 もっと言えば、自分が今見ているそのコップですら、刻々と流れる 時間に従って変化している、ととらえることもできるかと思います。 で、この考え方の中に、「八識」という考え方が登場します。 詳しくお伝えすると長くなるので、私が昔作ったブログ記事をご参照 ください。 (http://blog.goo.ne.jp/nonkinonki_001/e/1c75bafa65f33936818fc9f91c8ce0ed) この考え方の中で、「六識」をちょうど「意識」と呼んでいますが、 ご質問中の「意識」は「末那識(まなしき)」に近いものだと思いま す。末那識は、言い換えれば「感情」に近いものだと思います。 感情はでは何時作られるのか。これは、母親のおなかにいる頃から、 母親の心臓の音を聞き、外界から聞こえる音を聞き、じっくりと育まれ続けています。 ですから、母親がイライラしていたり、周囲にいる人が声を荒立てて いたりすると、これは胎児にも伝わってしまうんでしょうね。 そして外海へ生まれ出でて、そして、感情を人に伝える方法(言葉) を覚え、感情が感情であると気づき、やがてコミュニケーション能力 を身につけていく。 大人と子どもの決定的な差は、どの程度この「感情」が「感情」であ ると気づけているかで分かれるのかもしれません。 そして「阿頼耶識(あらやしき)」。感情の生まれ出る「泉」。この レベルで自身をコントロールできる(悟り)人って、・・・ある意味 恐ろしいです。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 個人URLは、消される可能性があるので、まず、ブックマークしました。 (個人URL記載は、違反のはずです。他の方法を考えて下さい。) これを、先に読みます。 後で、補足にコメント書かせていただきます。  

回答No.6

他の法則てのは「力学の三大則」「質量の保存則」あたりの 元初から在りそうなヤツで「熱死宇宙則」とかが近いのかな? 何だか「感じる」「考える」→「作用」「反作用」ぽい気がします 物理則が人類や他生物という環境で複雑化してるだけカナと 単なる入出力を人間が美化して「意識」と呼んでいるのでは? でもきっと「事象~思考」→「文字~小説」より違いそうですが

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 最初の回答からuronlyさんとの議論に困難を感じ、その感じがさらに強まっています。 このまま、議論を重ねても、水掛け論の様な、むなしい議論に終わる事を心配しています。 そこで、論理的議論が出来るか確認したいのですが、 哲学の代表的な思考として 帰納法 演繹法 の二つがありますが、uronlyさんは、どの思考方法が好きですか? これに、回答いただければ、その後の議論も有益になる可能性があると思っています。 申し訳ないですが、回答お願いします。  

  • juyjuy
  • ベストアンサー率22% (139/612)
回答No.5

哲学的な論考は他の回答者様に任せるとして・・。 私の今持っている最初の記憶は祖母と一緒に疎開で取り壊された家の跡を見ていた事です。今で言うなら4歳の時です。それ以前は記憶にありませんが、意識はあった事は確実です。 つまり私には意識がいつ始まったかはわかりません。 生まれる前の事は残念ですが何も覚えていません。従って最初の記憶以前の「意識」「心」「精神」はなかったとしか言いようはないのです。 死後も何も残らないでしょう。 私の希望としてはたとえ地獄に落ちても意識がある方がいいと思っているのですが、家内は何もなくなるからいいのだと言っています。 意識がなくなるのは本当に怖い事ですね。自分がなくなるのですから・・。 死後を問題にする宗教はこの怖れを和らげようとして(あるいは怖れを食い物にすることによって)出来たものだと思います。 幼稚な答えですみません。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 この様な、意識の起源に関する回答を待っていました。 とても、嬉しいです。 すこし、考えたい事があります。 (無意識、意識、記憶、言葉の関係など) ので、コメントは、補足の方に書かせていただきます。 嬉しい回答、ありがとうございます。 まずは、お礼と言う事で・・・  

回答No.4

種類を書いたつもりじゃないんですヨ→少し長く書き込むと~つまり 「他の法則と同時期に成立して 所有者の存在以前から在るベクトル」 てコトなんじゃなかろうかと→べつに確認したワケじゃありませんが 原理的には時間が過去から未来へ流れるのに似た「向き」なのではと 時間の使い道の自由さと同程度に「心」のカタチも自由かと思います 定義されているのは「感じろ」または「考えろ」だけダロて気がします

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 少し分かった気がします。 けれど、多少分からない点があるので教えて下さい。 >「他の法則と同時期に成立して 所有者の存在以前から在るベクトル」 の、他の法則とは、具体的にどんな法則を考えているのでしょうか? また、所有者の存在以前からと言う事は、生まれ変わりを「有り」とする立場なのでしょうか? そして、幼心のいつ、どのように意識が生じた。(意識された)と考えているのでしょうか? 補足回答、お願いします。  

  • ayu0821
  • ベストアンサー率16% (13/77)
回答No.3

私は哲学者や研究者では無く、 ご質問者様の聞きたいことではない、能書きばかりのお粗末な回答かもしれませんがお許し下さい。 私も、この問いと似たようなことをしばしば考えています。 心とは、この体の何処に存在しているのだろう?ということです。 ときめきや恐怖を感じるときは心臓がドキドキするから、心は心臓にあるのか? だけど、相手を騙そうとしたり、相手の心を察するときには頭を使うから、 やっぱり心は脳にあるのか?など。 だけど、心や意識は目に見えるものではありません。 当たり前ですが、レントゲンで撮影しても「心」と呼ぶに相応しい物質らしきものは写りません。 その為、身体に「死」はあっても、心に「死」はないのでは?というのが私の考えです。 私の中で何となく出している私なりの答えは、 若干オカルト的な考えなのかもしれませんが、心・意識・精神=魂であることです。 つまり、意識(心)とは、生じるものでは無く、 生物が生まれながらに持ち合わせているものだと思っています。 人間の赤ちゃんは泣きながら生まれてきます。 あれは聞くところによると、お母さんのお腹の中から、 突然知らない外の世界へ押し出され、ビックリして恐怖を感じているからだそうです。 言うまでも無いでしょうが、それこそが既に精神が与えられている裏付けだと思います。 心と体というのは非常に密接な結びつきがあるようですが、 一説によると、魂と自分の体は、ヘソの緒のようなもので繋がっているとか。 (勿論、嘘か誠か分かりませんが。) 恐らく、自分の体を失う(死)と精神も行き場を失うことと思います。 その行き場を失った人間の精神が、 いわゆる一部の人にしか見えない霊と呼ばれるものだったりするのかもしれません。 なんせ、霊同士って普通に世間話をしてるらしいですから・・・ (これも私には確認出来ませんが、霊感が強い方には聞こえるらしいです。) ちなみに、心とは生じるものでは無く、 生物が生まれながらに持ち合わせているものだと思っていますが、その根源は? 例えば母親が妊娠した状態で、生まれてくる赤ちゃんの精神は何処に用意されているのか? と食い下がるように問われれば、 心(魂)は輪廻転生の原理で生まれてくるのでしょう、というのが私の半ば無理やりな結論です。 段々とオカルティズムになってしまいましたが、 それほど、形の無いものというのは不可思議であるということでしょうね。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 生物と言う事は、植物も含むんですかね? 小さい藻、ゾウリムシとかも意識があるという考えですかね?  

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