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可謬主義について疑問に思うことがあります
可謬主義について疑問に思うことがあります。 ウイキペディアの記述によれば--可謬主義は我々が知識を捨てる必要性ということを含意しない。我々は我々が知っていることを論理的に確実に正当化する根拠を持つ必要はない。むしろ可謬主義は、「経験的知識は、さらに観察をすることによって修正されうる」ということを理由に、我々が知識とみなしているものはどれも、誤りであることが判明する可能性があるということを承認することである。-とあります。 「我々は我々が知っていることを論理的に確実に正当化する根拠を持つ必要はない」についてはその通りだと思います。純粋に論理的に正しさの根拠が求まらないことは確かです。ある前提Aの正しさを論理的に求めようとすれば、前提Aを成立させるための前提Bが必要になります。ところが、前提Bの正しさ論理的にを求めようとすれば、前提Bを成立させるための前提Cが必要になります。このように、前提の無限後退という事態に直面することになるので、正しさの論理的根拠が持てないことは明らかです。 でも、だからといって、「経験的知識は、さらに観察をすることによって修正されうる」ということを理由に、我々が知識とみなしているものはどれも、誤りであることが判明する可能性があるということを承認することである。」という考え方が正しいのかというと、大いに問題があると思います。 上のような考え方は、科学の考え方としては妥当なのでしょうが、人間が生きてゆく上での考え方としては随分いい加減なもののように思われます。 例えば、アメリカ大統領はイラク攻撃を決断する時、自分の決断と考えが、自分の生きている社会状況と時代状況においてののみ正しいと主張できるものであって、社会や時代が変われば正しさを主張できなくなると思いながら、決断を下したのでしょうか。 また、人が苦しんでいる人や困っている人を助けようとする時、自分の行動が別の社会や時代に置いては支持されないかもしれないと思いながら行動したりするでしょうか。いずれの問いに対しても人はNo と言えるように思います。自分の行動や行動のもととなる考えが何らかの正しさの基準によって支えられているはずだと無意識のうちに確信して行動しているはずだと思います。 誰も彼もがそうした確信を持たずに生きていると想定することは困難だと思います。 むしろ、そうした確信がどこからくるのかと問うことの方が大切なことではないかと思うのです。可謬主義を信奉する人たちは、今言ったような考え(基礎付けと呼ばれるそうです)を嫌がる傾向にあるとのことですが、彼らだって、正しさというものに対していくばくかの確信を抱いていなければ、苦しんでいる人や困っている人を助けるための決断や行動ができないはずです。また、そうした確信がなければ、可謬主義的な発想を自信を持って主張することもできないはずです。 もしかして、彼らは、正しさの根拠は論理的に求まらなくてもいい、そのようなものは宗教のレベルで扱うべきだと思っているのでしょうか。だとしたら、彼らは17~18世紀に登場した懐疑主義者たちの現代版にすぎないか、あるいは少なくともさほど大きく異なることはないように思えます。その場合、可謬主義の信奉者たちの哲学は当時からほとんど変わることはなかったと言えそうに思います。 中世の教会や聖職者の存在を思考の枠組みをいったん外してしまって、その上で、この世のあり方や仕組みを考えようとした先人達の意図にもそぐわないものになるように思います。 少し、考えすぎなのかなという気もしますが、哲学に詳しい方にご意見を賜りたいと思います。
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- koiprin
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>だからといって、「経験的知識は、さらに観察をすることによって修正されうる」ということを理由に、我々が知識とみなしているものはどれも、誤りであることが判明する可能性があるということを承認することである。」という考え方が正しいのかというと、大いに問題があると思います。 上のような考え方は、科学の考え方としては妥当なのでしょうが、人間が生きてゆく上での考え方としては随分いい加減なもののように思われます。 通常、われわれは考えに確信が持てなくても決断して?行動することがほとんどですし、確信して行動した結果、失敗をすることも良くあることです。 可謬主義が嫌っているのは、固定観念であると言えます。 懐疑主義は、原理原則以外を排除するという考えですが、可謬主義は、さらなる改善ができるのではないかと常に進歩を促すという意味で建設的です。 科学に限らず、進歩すべきであるという考えは重要です。 現状維持こそ素晴らしいという考えでなければ、最後に述べられている、 >中世の教会や聖職者の存在を思考の枠組みをいったん外してしまって、その上で、この世のあり方や仕組みを考えようとした先人達の意図 をまさに踏襲しようとしているわけです。先人たちは、まず当時の常識に修正すべき点がないかを考えていたわけですよね。 改善を促すために現在の常識が間違っている可能性がある、と考えることなしには、進歩はないんじゃないかと思います。 ちなみにイラク攻撃は、当時のブッシュ大統領の血族が運営する石油会社の利権ためです。
- dropyork
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人が持つ知識・思考に誤りがあるとみるのは経験則で当り前です。 確答と思えたものがひらめきに似た考えで保持していたその考えを打ち消す。 可謬主義は当然の知恵です。 懐疑主義で終わるも終わらないもその人次第です。当然です。 政治家・国家が哲学的・人道的に動くわけないでしょう。「国家」を読まれたらどうですか。
補足
可謬主義は当然の知恵です。 懐疑主義で終わるも終わらないもその人次第です。当然です。--その通りだと思います。その上で、あえて質問しています。
- 雪中庵(@psytex)
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量子論的世界像では、有限な存在性は観測によって生じています。 それは、そのように聞いた場合にイメージする「詳しく探求する事 で存在性が確定される」というものではなく、「確定しようとすると 不確定性原理により不確定性無限(=無)に発散する本質(超弦)を、 不完全な認識において、階層現象表面的(超弦(量子)<クォーク< 素粒子<原子<分子<細胞<個体(認識体))に捉える事で、非確定 の限りにおける有限的な存在性を派生させる」ものなのです。 ご指摘の「経験的知識はさらに観察をする事で修正される」という 言の対極に置くべき知見は、「無とは分らない事が有である」です。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め 込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識 体の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば、相対的に 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン) の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識 するのです。 認識可能性の時系列化=自我仮説(時間的流れ=記憶=過去)と、 時空仮説(空間的広がり=予測=未来)の相補分化。 その経験(過去)による予測(未来)としての仮想的時空の広がりに おいて、原点(現在)たる感受表面(量子相互作用=光速)が 有限な大きさを占めている事で、実質的根拠の喪失=不完全な 認識の射影たり得るのです。 この世界(有限的存在)は謎として生じ、そこへの無の射影は光 として物理=無への還元を成すのです。
補足
随分難しいですね。こうした話は専門家ではないのでもう少しわかりやすく説明して頂けるとありがたいのですが。 とりあえず、質問させて頂きます。---この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。--ということですが。このことを認識するのは観測によってですか? 観測が認識を可能にするということなのでしょうか?もしそうだとすると、なぜ観測が認識を可能にするのか、その根拠が確認できなければならないと思うのですが。 いずれにしても、小生には難しすぎて理解の及ぶところではありません。とにかくありがとうございました。
お礼
--上のような考え方は、科学の考え方としては妥当なのでしょうが、人間が生きてゆく上での考え方としては随分いい加減なもののように思われます。--という自分の意見を変えます。確かにいい加減なものではないわけですね。 正しさの根拠を持とうとするのではなく、常に進歩しようとしているわけですね。正しさを問題にすることは一切ないわけですね。 正しさが問題になるのではなくて、進歩するかどうかが問題なのですね。僕個人としては、永久に進歩し続けるより、正しさの指針がほしいですね。 ありがとうございました。