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倫理って客観的じゃないでしょ?
人は倫理にかなう行動をするべきであると言われますが、 時代・場所が違えば何が倫理的で何が非倫理的か、その 答えも変わってきます。ということは、現在、倫理的に 「正しい」とされている事柄というのは、結局は単に、 今、大勢の人が「正しい」と思ってる事柄に過ぎないので あって、客観的に(論理的に)現在の倫理の正当性を 説明することはできないだろうと僕は思います。 というか、論理で説明できないからこそ倫理は強力なの ではないかと思っていました。 しかし、過去・現在の哲学者によって倫理を根拠付ける 試みがなされているという話を聞きます。それは、一体 どのようになされるのでしょうか?そんなことが可能なの でしょうか?ぜひ教えていただきたいです。
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私も 倫理は基礎づけできない と思います。 ロールズも決して「基礎付け」ようとしたのではないと思います。 「原初状態」というものは「決して現実にはありえない。」 と述べた上で、「人が原初状態におかれたら、つまり、自分の性格や社会的地位 を何もしらなければ、平等と自由を望むだろう。」と言い、 読者の想像力を掻き立てているのだと思えます。 カントは、「理性によってなされる行為は、行為の結果では判断できない。 その行為をする時の内面が問題だ。」と言います。 しかし、この場合、倫理や道徳の客観的な評価はまったくできない ということになります。そうなると、「みなが理性の要請に従っている。」 という「目に見えない前提」を受け入れないことには、カントの道徳論 は基礎付けにならないと思います。 実際、われわれの時代だと、この前提を受け入れるのは難しいと思われます。 アリストテレスは、「善は誰もが求めているものである。ただし、善の内容 はそれぞれ異なる。」というように言います。彼は、そこで、個人の善と共 同体の善の一致を論じるのですが、これは、「私が大衆の教えてあげよう。」 というような「啓蒙」的な姿勢ゆえに可能なのです。 この倫理学では、最終的のは「俺の善は、みんなの善と異なる。」 と言えばそれまでなのではないでしょうか。 最近では、だいたい、個人と全体を対立項とみなし、個人を生を重視する サルトルやキルケゴール、ハイデガー等の実存主義的な倫理観か、 個人の善はと社会の善と同じものであるべきとする、ハーバマス等のどちらか が主流ですし、このどちらかの要素を含まずには、倫理学は無理でしょう。 ちなみに、レヴィナスは個人よりも他者を重視する珍しい立場と言えそうです。 倫理や道徳は言葉で表される限り、既にある倫理観や道徳観を描きなおすか、 新たな語を導入するかしかないと思います。 しかし、新たな語を導入したところで、 「共有」できなければ意味がないでしょう。 ですから、今は「基礎付け」る倫理学よりも、「役立つ」倫理学 が望まれていると言えそうです。 もし、倫理が成り立つ「条件」や「起源」を知りたいなら、 哲学の伝統よりも、「進化論」や「認知科学」のほうが ためになるでしょう。 哲学は、既にある現象を、それと同じ言語で描きなおす試み であり、「原因」を言い当てることはできないと思うのです。 こういった「反基礎づけ主義」とその帰結を考えたいならば、 リチャード・ローティの著作をおすすめします。
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- jume
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>そういうわけで、レヴィナスにしろロールズにしろ、 >そういう人たちが「どのように」倫理の基礎付けを >試みたのか、っていうのが僕の質問だったわけです。 なるほど、良かった、これなら理解できます。でもすみません、それらの哲学者の名前は、今、わたしが注目している哲学者というほどの意味なので、実のところそれについてよく知っているわけではありません。 でも、聞きかじりの話で、大変申し訳ないですが、知ったかぶりで名前を出してしまった手前、ちょっと調べてみました。 ロールズは『正義論』という本の中で、正義とは何かを問うた政治哲学者です。キーワードは、原初状態と無知のヴェール。人間は、自然のままでいると、お互いに争い戦争のような状態に陥ってしまいますよね。そこでみんなが納得するようなルールを作ろうと言ったのがロールズ。まぁそれだけだと当たり前な上、空想的な事なんですが、そこをゴリゴリ行くのが哲学者です。みんなが納得するルール、つまり社会契約を結ぶには、どうしたらいいか?そこで出てきたのが、「原初状態において」という考え方です。そして原初状態において「人々は無知のヴェールのもとに置かれる」のだと言います。どういうことか。つまりですね、現在および来るべき社会の中で、自分がどのような地位についてどのような生活をしていくのかという情報を一切、持たない状態になったと仮定して話を進めようというわけです。つまりボクもワタシもアナタもキミも、みんな、それこそ王様もサラリーマンも哲学者も科学者もホームレスも、みんな、自分を規定している一切のものを捨てて、一個の人間になる。そして考え始めれば、「善い社会」がどんなものかわかるでしょ?といういうわけです。で、ロールズが考えた善い社会は、最悪のケースにおける損害を最小化しようとする社会だそうです。ロールズが構想した倫理は、社会の倫理、政治の倫理ですね。 レヴィナスは、実は私もよくわかりません。でも、一番気になっている哲学者であることも確かです。キーワードは、他者性。それは私に対して、私の知り得ないこと、支配し得ないことを指します。それを一般に超越性とか外部性と言います。どうやら、彼はそこに不毛な争いを超克する希望を見出したようなのですが、私にはこの辺までが限界です。申し訳ありません(>_<;) 参考文献はロールズが『友達のノート』(笑)で、レヴィナスが『岩波哲学思想事典』です。
お礼
何度も回答ありがとうございます。 友達のノートまで使って(笑)答えていただき、感謝します。 ロールズは理想的な社会を作るために必要な倫理を考えたわけ ですね。なるほど。 レヴィナスはよくわかりませんが、興味があります。 講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズに確かレヴィナスが 入っていたと思うので、今度読んでみようと思います。新書でも 多分ちくまから入門書が出てた気が。 読みたい本が沢山でてくるのは嬉しいですよね。 それでは、ありがとうございました。
最初に、次の三つのことを確認しておきます。 (1)shunchiさんは、「倫理」という言葉を「道徳」という言葉と同じ意味で使っている。 (2)shunchiさんは、ここで、「倫理」=「道徳」の存在そのもののではなく、その内容(道徳規範)の客観性、普遍妥当性を疑っている。 (3)以上の前提に立って、「道徳」の内容の客観性、普遍妥当性を根拠付ける論理があるのなら、聞かせてほしいし、また紹介してほしい。 以上のことが間違いないものとしてお話しさせていただきます。 結論から言うと、shunchiさんを納得させるだけの、「道徳規範」(僕は「倫理」と「道徳」を区別したいし、「道徳」の存在そのものではないという意味で、「道徳規範」と言わせていただきます)の客観性を積極的に根拠付ける論理はないだろうと思いますし、おそらく、shunchiさんも、既にそうお考えなのではないでしょうか。けれども、そこにとどまっていては、一歩も先に進めないでしょう。shunchiさんが「『倫理を論理的に根拠付けようとする』哲学者ではなく、むしろその逆の立場に立ってい」るとおっしゃる永井均氏も、そんなところにとどまってはいません。 以前、shunchiさんが「独在性」についての質問をなさった時に紹介したので、もうお読みになったかもしれませんが、永井氏は「規範の基礎――「べき」の生成論の立場から――」(『〈魂〉に対する態度』所収)の中で、「道徳に関する人間性の発達段階」として、1「快楽主義的段階」、2「自己利益的(目的合理的)段階」、3「道徳主義的段階」の次に4「超脱(賢慮)的段階」を取り出し、「そうすることが自分の利益にならない場合でも、誰でも正しいことをすべきであるのか」という問いに真正面から答えるには、この第4段階を方法的に取り出さなければならないと言っています。詳細は、該当著書に委ねるしかありませんが、少なくとも、永井氏は、ネガティブな形ではあれ、「倫理」そのもの根拠を取り出してみせたのです。 僕の回答も、おそらく、shunchiさんの求めていらっしゃる回答ではないでしょうが、問いの立てられ方に何か不毛な質疑応答を招来するものを感じたので、書き込ませていただきました。お気に障ったら、申しわけなく思います。 ちなみに、shunchiさんのおっしゃる意味での「倫理の論理的基礎付け」を試みていると思える(成功しているかどうかは別として)書物として、もう読んでいらっしゃるかもしれませんが、柄谷行人『倫理21』をご紹介しておきます。 少しでもご参考になれば幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 現代では、哲学にしろ科学にしろ、真理の基礎付けは ほとんど諦められてしまい、相対主義的な考え方に 支配されているように思います。もちろんそれに対する 反抗の試みも沢山ありますが、もはや近代的な素朴実在論を 擁護するのは不可能なようです。 今パトナムの「理性・真理・歴史」を読んでいまして、 価値判断を含む相対主義への批判がそこに出てくるの ですが、相対主義は破壊的な説得力があり(無論、問題点も ありますが)、それを完全に封じることはできていません。 そんなわけで、他の哲学者がどのように真理を、 とりわけ倫理を基礎付けようとするのかに興味を持ち、 質問してみたわけです。 『倫理21』はできれば読んでみたいと思います。 ありがとうございました。 他の方から、他の哲学者についてのご説明があるかもしれませんので、 もう少しこの質問を閉じないでおきます。
- caballero
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そのように流れまくるものは倫理とは言いません。 善悪系を提示すれば、倫理を言うことができるかもしれません。 善悪系は、流浪するこの世の中の、個々人のもつ言語では把握できません。 流れぬ世界を見る言葉。これによりです。永井均をよく知ってらっしゃるようですので、shunchiさんはウィトゲンにもお詳しいのでしょう。「私の」言語といっている間は多分無理です。「私」の言語常有持者には、善悪系は見えないし、聞こえないし、倫理を言う事も無理でしょう。 僕は、とりあえずきめつけ系の流れまくる言語を常に使うので、善悪の判断はつきません。流れのないところを見たとして、果たして善悪系がそこに見つかるかもわかりません。そんなものないのかもしれないです。でもあるかもしれないですね。流れはなくても道はあることが出来ます。定的論理というんでしょうか。 倫理はそういう世界の道のような、定的論理によりもたらされているのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >流れはなくても道はあることが出来ます。 ん~、道というのは比喩的な言い方なんでしょうか、 具体的イメージがどうもつかめません。 そしてそれが定的論理であるということもよく 分からない。もう少し考えてみます。
- jume
- ベストアンサー率46% (71/152)
わー、確かに私は、倫理と倫理学をいっしょくたにしてますねぇ(汗)。どうやら「倫理的=問い直す生き方」、「道徳的=問い直さない盲目的な生き方」という私のイメージ(先入観)が混じってしまっているようです。いきなり、「倫理的」でなくてすみません…。 shunchiさんのご質問の意図は、つまり、問い返さない倫理の論理的な根拠付けということですね。う~ん、申し訳ありません。哲学は、既にして問い返してしまうものなのではないでしょうか?従って、哲学による倫理(道徳)の根拠付けは、永井のような「問い返す」倫理学によってしかなされないような気がします。ソクラテスやレヴィナスやロールズといった人たちも倫理を問うた哲学者ですが、みんな既存の倫理を問い返してしまっていますよね。 あえて言うなら宗教者が、それに当たるのではないでしょうか?でもルターは問い返したな…。ん、儒者はどうでしょう?儒者は、過去の偉大な人のように生きることを倫理とした、と聞いたことがあります。…わ~わかりません!ピント外れでしたら、ご指摘ください。ごめんなさい!!
お礼
いや、何もあやまらなくても(笑)。 No.3のお礼で僕が、 >永井均は面白いんですが、彼は僕が質問で書いたような >「倫理を論理的に根拠付けようとする」哲学者ではなく、 >むしろその逆の立場に立っています と書いたのは誤りでした。すみません。 よく考えたら、倫理を根拠付けようとする試みは、 jumeさんの言葉を使えば、「問い返す」倫理に決まってます。 問い返さないなら根拠付ける必要ないですからね。 そういうわけで、レヴィナスにしろロールズにしろ、 そういう人たちが「どのように」倫理の基礎付けを 試みたのか、っていうのが僕の質問だったわけです。
- jume
- ベストアンサー率46% (71/152)
聞きかじり、読みかじりの話で申し訳ないのですが、参考程度に…。 まず倫理と道徳は、区別されるようです。道徳は、確かに国や地域、時代によって異なるものになってしまいますが、倫理はそうではない、と。つまり、どういうことかといいますと、人間ってなんだろう?という根本的なことから考えるからなんですね。倫理学って哲学なんですよ、根っこは。原理を探求して、そこから言えることだけを言う。これが倫理学ですね。道徳は「あれをしちゃいけません、これをしちゃいけません、それをしなさい、なにをしなさい」といろいろ細かく言い募るんですが、倫理学は「人間は人を殺せる」ということをまず認めて、それから「では、なぜ人を殺してはいけないか」を考え始めるんです。 そんな悠長なことしてられるか!人は殺しちゃいけないんだよ!…ごもっともです。でも、同じように「女性には人権を認めない」とか「身分・階級をわきまえろ」それが道徳だ!と言われて、納得できますか?そう、倫理学は道徳とは反対の、時にはそれを破壊するような、思考法なんです。 …あくまで私個人の理解です。心配なので、私が参考にした本を一冊紹介しておきますね。永井均著『<子ども>のための哲学』講談社現代新書。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まず疑問に思ったのは、jumeさんの御説明は、倫理と倫理学を 混同しているように見える、ということです。ぼくは、倫理と 道徳はほぼ同じであると考えています。倫理的に生きるという ことは人として正しく生きるということであり、それは道徳的 と言い換えることもできる生き方だと思います。そして、倫理 学というのは倫理についての学であり、それはまさに根本的な 倫理・道徳への懐疑、考察であるはずでしょう。 >倫理学は道徳とは反対の、時にはそれを破壊するような、思 >考法なんです。 そうでなければならないと思います。例えば「人を殺してはいけ ない」という倫理に対し、盲目的にそれを信じるのが倫理的・道 徳的なあり方であり、その場合に「なぜ殺してはいけないの?」 というのは社会にとって危険な問いであり、非倫理的な問いです。 しかし、倫理学が学問であるならば、なぜ?と答えが出るまで問 い続ける事が必要であると思います。 しかし実際には、(永井均も<子ども>のための哲学の168頁以降に 書いている通り)倫理学者は倫理・道徳を疑いません。そんな訳で 少なくとも現時点では倫理学は倫理的であり、根本的かつ非倫理的 な思考を投げかけられるのは(つまり倫理そのものを疑えるのは)永 井のような哲学者だけのようです。 それで、えーと、永井均は面白いんですが、彼は僕が質問で書い たような「倫理を論理的に根拠付けようとする」哲学者ではなく、 むしろその逆の立場に立っています。 一体、倫理の論理的な根拠付けはできるのか、その問いに対する 回答をしばらく待つことにします。 ありがとうございました。
- kawakawa
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倫理というのは『廉恥であれ』ということですよネ。 そして、廉恥か破廉恥かの違いということは、勿論、民族や国、或いは、宗教によって異なる尺度を持っているものであると言えるでしょう。 ヒンドゥー教でウシを食べず、イスラム教で酒やブタを口にしない、韓国では目上の人の前では飲み物や食べものを口にするところを見られないようにしなければならない、インドネシアでは食事中に喋ってはいけない‥宗教や国によって様々な宗教的な戒律や社会常識がありますネ。 ですから、対象とするグループによって異なる物差しを使っていると言えるのですネ。 これらの異なる物差しも成立した時点においては、それぞれに非常に納得のいく根拠があったのですが、時代の流れによって状況が変化しても、その物差しだけが残っているのですネ。ウシやブタの寄生虫、砂漠で酒を飲むことは死を意味する‥といった十分な説得力のある戒律であったわけです。 さて、日本における倫理の根底は儒教にあるのではないでしょうか? 韓国では今でも儒教の考えは非常に強く残っていますが、日本では敗戦と共に連合軍に否定され、教育から排除されてしまいましたので、破廉恥な行為が溢れているように思われます。 多数の人が正しいと思っている行為が倫理である‥ そうなのでしょうか? その社会に根付いている文化に照らしたときに正当な行為が廉恥であり、それが倫理なのではないかと思います。 すべての人が廉恥であるならば、法律などもいらないということになりますよネ。 人のものを盗まない、殺さない、和を大切にする‥ 社会的な常識として根付いてきたもの、それが倫理であると認識していますので、論理的も何も、定理のようなものであると考えるべきなのではないでしょうか? 1+1=2ということ、『阿』を『あ』と発音すること、今日が平成13年11月10日であること‥こういったことと同じようなことであると考えるのは論理の飛躍になってしまうのでしょうか? 以上kawakawaでした
お礼
ご回答ありがとうございます。 >社会的な常識として根付いてきたもの、それが倫理であると認 >識していますので、論理的も何も、定理のようなものであると >考えるべきなのではないでしょうか? 僕の「倫理は論理的に説明できるか?」という問いに対し、「そ もそも倫理を論理的に証明する必要はない、それは自明の常識な のだから」というお答えですね。なるほど。 しかしだとしたら倫理の論理的基礎づけを哲学者はどのような方 法でしているのか、やはり気になるところです。 その辺に詳しい方からのご回答を待つことにします。 ありがとうございました。
私は哲学を学んだことのない、ごくごく一般の人間ですが… 倫理がそのときその場所の背景によって変わるというのはその通りだと思います。でも客観的に倫理の正当性を説明できないというのにはあたらないと思います。なぜなら、そのときその場所が変数になった方程式を解くようなものだからです。言い換えればそのときその場で正当だからこそ倫理たりうる。 一夫多妻を推奨するアラビアの倫理感はその昔、男が戦争で多くなくなり、家系を維持できなくなった歴史背景があtって生まれたと聞いたことがあります。つまり、家系を保つために生まれた(←これが論理的な説明といってはまずいですか?)そうです。殺人を忌む考え方も、個体や種族の存続を導くためのもの(だから戦争は否定されない=他民族だから)などとの説明もあります。 こうした個々の倫理条項のなかで、絶対倫理というどの時代でも形は変われど存続するものがあると仮定し、その論理体系を導くことが過去現在の哲学者のしてきたことなのではないかと思います。私は殺人の否定などがこの絶対倫理に入るものではないかと考えます。
お礼
いち早いご回答ありがとうございます。 >アラビアの倫理感はその昔、男が戦争で多くなくなり、家系を >維持できなくなった歴史背景があって生まれたと聞いたことが >あります。つまり、家系を保つために生まれた(←これが論理 >的な説明といってはまずいですか?)そうです。 倫理に対するこのような説明には二つ問題があると思います。 第一に、この説明に対してはすぐさま、なぜ家系を保つ必要があ るのか?という疑問が浮かびます。それに対しまた何か答えても、 やはりその答えに対してなぜ?と問うことが可能です。そのやり とりを繰り返していると、答えは尽きてしまい、最後には問いだ けが残る。結局説明しきることはできないという訳です。 第二に、たとえ説明しきれたとしても、それは「なぜそのような 倫理が存在するのか」という問いに対する答えであり、「その倫 理はなぜ正しいといえるのか」という問いへの答えではありませ ん。 以上の理由で、まだ僕の問題は解決されていませんが、shu_sさん の回答によって始めより問題が整理されたと思います。 ありがとうございました。
お礼
御回答ありがとうございました。 僕の質問の意図を完全に理解して頂けているだけでなく 非常に分かりやすい回答で、勉強になりました。 反基礎づけ主義に関しても非常に興味があります。 以前ローティーの「哲学と自然の鏡」を読もうとしてやめて しまった(値段高くて…)ので、こんど図書館に入荷リクエスト してみようと思います。 今回は、納得できる回答を頂けたことと共に、教えてGoo!の 哲学分野でコミニュケーションが正しく成立したことに感動(笑) しました。 ありがとうございました。それでは。