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ザビーヌ事件について
広くみなさんのご見解を あらためて おしえて欲しいと思いました。 ▲ (ヰキぺ:ザビーヌ・ダルデンヌ) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C ザビーヌは1996年5月28日、12歳のときに通学中に誘拐され、犯人の家の特製地下室(幅99cm・奥行き2m34cm)に80日間閉じ込められる。その間、小児性愛者である犯人から性的虐待を受け続けた。 ▲ (2005年12月来日したときの会見) ~~~~~~~~~~~~ http://www.sonymagazines.jp/new/sabine/report.html 記者の質問 : 自分から一歩踏み出し、ハンデを打破していく強い意志はどこからくるのですか? Sabine : もともと負けん気が強い子どもでした。“かわいそう”と同情されると反発したくなるんです。 自分は一生懸命忘れようとしているのに、町を歩くと見知らぬ人から「かわいそうに」とか「辛かったでしょう」と腕をつかまれ、声をかけられることが、度々ありました(今でもあります)。 でも、私はいつまでも『犠牲者』でいたくはありません。誰にでも不幸は訪れます。 一度あった不幸に哀れみをかけられ、そこにどっぷりはまっていたくはありません。 一生、犠牲者として生きていく必要はありませんし、そんな気もありません。 いつまでも『犠牲者』として生きていたら、その先の人生を無駄にしてしまいます。 事件のことを忘れることはできませんが、自分の中で区切りをつけることで、自分の過去にうち勝っていきます。 この本を書くことによって、過去に起こった事実として、事件の形跡を残すことはできましたが、これから始まり続いていく未来に、この不幸な出来事は関係ありません。 普通の女性として、幸せをつかむために前進していきたいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたし質問者は 《蚊が刺しただけ》という見解をもって 全面的に かのじょの考え方に賛成です。みなさんは いかがでしょうか?
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こんばんは、Hidocchiでございます。 何かご参考になるところがあればと思い、筆をとらせていただきました。 (1)被害者の気持ち(女史の著作から) 1. 解放後に敵となったのは、周りの人の善意だった。ダルデンヌさんの苦しみをまるで自分のことのように受け止めた家族、友人、医療関係者、警察、事件に震撼したベルギーの社会全体の空気だったという。 2. また、犠牲者として振舞うことを期待されたことも苦しかったと言う。「だんだんよくなってはいるけれど、とってもつらかった。今でも仕事に出かけるために電車に乗るとじろじろ見られる。サインをくださいと頼まれたり、私の苦しみを他の人と共有するべきだと言う長文の手紙をもらったりする。レイプされたほかの女性からも手紙をもらって、私の気持ちが理解できる、と書いてある。頭に来る。何も『理解』することなんかない。あることが起きた、そこで終わりなのだから」 愚見:犠牲者扱いされる”空気”、変な同情心、野次馬、これらが少なくとも事件以後の、ダルデンヌさんにとっては、最大の苦痛であったように見けられました。これは、以前、愚生が紹介させていただきました「レッサーパンダ帽事件」の被害者家族と共通点がみられるかと思われます。つまり、第三者の(被害者は未成年ということを考慮しますと、家族は例外かもしれませんが)善意・親切心(とその空気)は、かえって、こうしたダルデンヌさんの発言につながった可能性は高いと考えられます。 従いまして、女史の発言の動機、そして内容につきましても、理解はできます。 (2)加害者について asyura.com/0401/bd33/msg/989.html をご参照下さいませ。 また、追加情報としまして、以下のものがございました。 「ベルギーのアルロン地裁(2004年6月)は終身刑、(共犯の)前妻に懲役30年を求刑。 初公判から約4ヶ月に及ぶ猟奇的事件の裁判は、事件に絡んでは検察官や証人が自殺したり、証拠が行方不明になったほか、ベルギー王室の関係者を含んだ上流階級の「児童セックスパーティー」の存在が証言されるなど、公判の中身を欧州のメディアが注目していた。」 愚見:組織的犯行ということもあり、かなり複雑な背景があるようにも見受けられました。一応、努力はしてみたのですが、詳細な情報が入手できませんでした(ウェブ上では結構調べたのですが)。「犯罪者処遇法」観点から見た、適切な処遇につきましては、ご意見を述べられるだけの情報が不足しているため、加害者についての言及はここまでとさせていただきたく存じます。 (3)第三者からの見方 愚見:日本におきましては、特にこういう性犯罪では被害者を「ケガレ」扱い、悪者扱いしかねない風潮があろうかと思われます。この風潮(空気)につきましては、残念ながら、被害者は事件解決後も被害者のまま、その後の人生を送っていかなくてはならないという現状につきましては、考え直す必要があろうかと考えています(もちろん、野次馬の類いは論外でございます)。だからこそ、かような日本の国におきましては、女史のような発言は非常に重要かと考えさせられた次第でございます。 ご一読いただきまして、誠にありがというございました。
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あけましておめでとうございます。Hidocchiです。 ”Acte gratuit”を仏英辞典で調べてみますと、以下の情報がえられました。 http://www.wordreference.com/fren/gratuit Acte(仏): act Gratuit(仏): free, [gratuitous], spurious, pointless gratuitousを調べてみますと、 [語源] L.gratuitus(=given freely) 1. 好意からの、心からの 2. 無料の、無償の、無報酬の 3. 根拠のない、理由のない、不当な、いわれのない、余計 以上から、 《無償の行為》: 理由のない行為(振る舞い)と訳すべきだったかと考えられます。 そういたしますと、 《無根拠の価値》説 「ri_rong さんの紹介する《無主体》ないし《無根拠の価値》説では、この《与えられる恩恵》が ひとから見ればどう見ても非情で残酷だとしか見られない《〔変な〕贈り物》も含まれるということのようです。《恩恵》説においても 事態はそうなります」 を考え合わせますと、《無償の行為》は《恩恵》と同義語であると解しても何ら問題はないと考えられます。 そこで、この事件なのですが、計画的な組織的犯行です(おそらく、多量のビデオが撮影されていたことから、幼児ポルノ向けの商売目的だったかと考えられます)。 仮に、ダルデンヌ女史が狙われなかった場合、間違いなく他の幼女がターゲットとなったと考えられます。そして、計画的かつ組織的という面からしますと、防御は極めて困難であったかとも考えられます。 かような表現をしてしまえば、非常に酷な感をお与えになってしまうかもしれませんが、何者かの偶発的な(ダルデンヌ女史を特に目的とはしない、つまり”理由のない”)事象だったかと思っております。 > これからも餓鬼の根性でまいります。 ”円月殺法”節(?) を期待しております。 全くとりとめのない、内容となってしまいましたが、ご参考になれば幸いでございます。
お礼
Hidocchi さん わたしのさまよいをあたたかいおこころでつつんでくださって はっとしてわれに還りました。のですが それは どうも一瞬だったかというありさまです。それが 正直なところであります。 ご回答をありがとうございます。あたらしい年を迎え およろこびを申し上げます。 ★ この事件なのですが、計画的な組織的犯行です(おそらく、多量のビデオが撮影されていたことから、幼児ポルノ向けの商売目的だったかと考えられます)。 ☆ ヰキぺの外部リンクで英語の情報を少し読んだのですが どうも組織があることが言われています(そういう気配を感じさせようという情報です)。 もし犯人のデュトゥルーが何か知られてはまずい情報を握っていたりしたなら 組織は殺していたかも知れないとは思ったところでした。 《無償の行為 いえ 理由のない行為または相手との関係で動機のない行為》 これと《恩恵》との関係には 三つの側面があると考えました。 行為(この場合犯行)をする者とその行為がひとつの側面。 この行為(犯行)と被害者との関係には 二つの側面があると考えられる。それもいわば裏表のふたつであって ひとつは《変な贈り物(つまり被害)》で その裏側もしくは奥には《恩恵》が控えていた。 恩恵と言っても けっきょくはただの《なぞ》だというほどのことのようですが。 《無償の行為》をめぐってジッドにかんしても情報が意外に少ないようです。『法王庁の抜け穴』なる作品を読まなくてはならないというのも いま調べをとどこおらせています。 ううーん。この主題は どうも信仰ないし神学を持ち出さないとうまく説明しえないかも知れません。あらためて思いました。いちどそう思って あらたな質問を設けたのではあったのですが。 でもそれほど向きになって取り組むことでもないのかも知れません。追い追いです。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > むしろこの一文にわたしは反応したのかも知れません。素朴に尋ねたいことがあれば 《禁忌》にはならない。ザビーヌもたとえ禁忌としたい事柄であっても ひとつにはそのまま それはタブーにしてちょうだいと答えるかも知れないし ひとつには おしえましょうか じつはこれこれこういうふうだったのよと応じるかも知れません。 単純に言いますと それほど――腫れものに触るように―― 構えなくてもよいのではないか。といったところです。どうでしょう? 以前、愚生がご紹介させていただきました、レッサーパンダ事件の被害者遺族の言葉を以下に記載させていただきました。 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき) http://dell-support.okwave.jp/qa5468127.html 「こういう事件があって、誰が自分たちのことを本当に考えていてくれるか、改めてよく分かった。野次馬は、電話をかけてくる。今度の事件のあの子、あんたのところのなんとかだろう、そう電話で確かめてる人間もいる。私らのことを考えてくれている人は、なにも言わない。黙って、そっとしておいてくれる。いまだから笑い話になるけれど、事件のあと、店がしばらく暇だった。いつも来てくれていたお客さんも、ばったりと来なくなった。後で聞いたら、かける言葉はないし、とてもじゃないが足を運ぶことができなかった、そう言う。そうした人はほんとうにあるがたかった。」 (p.306から307) つまり、黙ってあげた方がいいのではないか と考えた次第でございます。 ですが、知人ともなりますと、自然体に声をかけた方がある意味自然とも思われます。従いまして、仰いますように、知人ならば、”腫れものに触るように”接する必要はないと思われます。 bragelonne様の意見を支持いたします。 強姦罪におけます、男女差におけます違いは以下のスレッドをご参照くださいませ。 http://dell-support.okwave.jp/qa5263819.html No.24の方の意見が一般的かと考えられます。以前、FBIのプロファイラーの本を読んだことがあるのですが、”強姦した後、殺害するかしないかの違いは、その国の刑罰の度合いに影響される”とのことでした。重罪ですと、殺害し、逃亡してしまうケースの方が多いのだそうです。 > そうではなく「この問題は人間によって語られている」という水準に、質問を引き止めておかねばならないと思います。 以上の知見も含め、この意見は正しいかと思われます。 なお、愚生は、明日、妻の実家の方に行きますので、新年から発言させていただくことになろうかと存じます。 この1年間、本当にありがとうございました。この場をお借りし、厚くお礼申し上げます。 それでは良いお年をお迎えくださいませ。
お礼
No.11お礼欄に 《2009年 MVP 論文についての覚え書き》を書きました。 ところがこんどは Hidocchi さんのご論文については ほとんど何も触れずに終わってしまっています。 そこでは《恩恵》という概念を ザビーヌ類型に絡ませています。そうわたしが見ています。 考えてみればそれだけでは ザビーヌ類型としての判断およびそれをめぐる人びと一般の態度(つまり同じく判断)について ひとの自由意志を――かなしいかな 非情にも超える――恩恵のはたらきがいったいどのように介入しているのか? と思われるかも知れません。 わたしは全然見えていないというのでもないですが しっかりと分かっているというわけでもありません。 この恩恵というのは ひとが受け身になれば《与えられる》ことになるのですが * ri_rong さんの紹介する《無主体》ないし《無根拠の価値》説では この《与えられる恩恵》が ひとから見ればどう見ても非情で残酷だと しか見られない《〔変な〕贈り物》も含まれるということのようです。 《恩恵》説においても 事態はそうなります。 その与えられるという事態が起こる前には 積極的に行為を為しているということも見ておく必要があると思います。つまり それが《無償の行為》という主題にかかわるのではないでしょうか? これは 《見返りを求めない行為》としての武士道の精神につながります。ちょうどその質問をも出しています。 【Q:武士道!?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548820.html ところが ヨーロッパ人でも アンドレ・ジッドがこの《無償の行為》ということを言っているそうです。どうも同じなのかどうか わたしは詳しくなくて分かりません。分かりませんが おそらく確実につながった主題であるように思います。 ですから これらの全体から見てみれば 《合わせ技》だというその成り立ちが分かってくるのではないかとは思っています。 覚え書きにさらに覚え書きを添えました。
補足
Hidocchi さん お早うございます。あらたな情報をつめたご回答をありがとうございます。 この一年 いろいろありましたね。けっこういろんな主題を取り上げやり取りして来ました。たぶんだれやらの感情丸出しの文章に何度も辟易されたことではないかと思いおそれます。と言いつつもあまり反省していないようで これはたぶん死んでも直らないのではないでしょうか。(締めくくりの言葉が浮かびません)。 ★ 以前、FBIのプロファイラーの本を読んだことがあるのですが、”強姦した後、殺害するかしないかの違いは、その国の刑罰の度合いに影響される”とのことでした。重罪ですと、殺害し、逃亡してしまうケースの方が多いのだそうです。 ☆ これにつきましては 留意ということにさせていただきます。えらそうにこんなことを言いますが アメリカの社会事情とそれぞれの国の事情との異同の問題と そもそも法律や裁判のこととしてわたしは考えて来なかったという大チョンボを堂々と発表するという問題とです。ここには ★ 強姦罪〔* あるいは ほかの犯罪行為〕におけます、男女差におけます違い ☆ の問題も したがいまして 含まれています。 ま でも 性差をそれとしてきちんと考えなければ話が始まらないと判断したときには そのときには しっかりと考えを推し進めるという方針で来たことに間違いはないのです。(へんなところで これも 中断というかたちになります)。 ★ ですが、知人ともなりますと、自然体に声をかけた方がある意味自然とも思われます。 ☆ ありがとうございます。わたしの見るところでは 誰でも自然本性において――ザビーヌさんと同じように――《わが自由意志の与り知らないものごとについては その影響からまったき自由を持つ》と考えるのですが そしてしかも人によってその境地はまちまちだとも思うのですが * 《その影響からまったき自由を持つ》とき それをそれでもわが 身に引き受けるというのも ふつうのこととしてあり得ると思います。 たとえばこの上の話に沿って言えば ひとは誰でも多少は野次馬根性を持っていると考えます。だからというので勝手な言動を誇ることには何の根拠もありませんが 片やその根性を封じるということにも 何の根拠もないのではないか? と思った次第です。そのことは ザビーヌは知っているはずだという見立てです。 その上で ★ つまり、〔被害者の人たちには その事件については〕黙ってあげた方がいいのではないか と考えた次第でございます。 ☆ という思いやりもあります。そしてこちらも ときを経て互いに打ち明けたりして 話をし合うようにもなりました。《自然体》という言葉をお借りしてその言葉で締めくくることも ここでももうひとつ しっくり来ないのですが どうなんでしょうねぇ。 あえて餓鬼のごとく書きましょうか。《なぜスサノヲ独りが自由なのか?》――それは もう一人(一群)ほかの人びととは断絶をともなって違ったかたちで我が世の春を謳歌したいという特権的自由を持ちたいと願う人間がいるので しかもその安全保障のために 社会の中にひとりは《大いなるきちがい》をつくって活かしておくという方策を採っているから。 この断層は要らないと思います。それこそきちがい沙汰なのではないでしょうか? 経済生活もうまく行かないでしょう。努力が報われないのではなくて ふつうにまじめな努力はするなという足の引っ張り合いが 偉い自由人と偉くない自由人との上下の二項が見世物となる仕組みのもとに 世の中が出来ているのですから。 * この前 益川さんの私の履歴書を読みましたが 自然科学のほう では ふつうのまじめな努力を奨励しあう気持ちがあふれているよう に思えました。 これからも餓鬼の根性でまいります。そろそろ愛想をつかされるころかと 思いませんが そういうふうに表現しておくべきかと思います。 わたしには いつでも新しい年 新しい月 新しい日であります。 (ちょっと重すぎたかなぁ)。
- ri_rong
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デリダの援用が間違っている――というのはよくわかりませんが、少なくとも彼は、それ以前の構造主義者たちのお説には重大な穴があるよと言ったわけで、その説明は >その意味するところは 《受け取り手》が誰であっても 一義的に読みとれるもの という少し加筆の必要がある文章によく表れている。 ところで、人間論とおっしゃるのは、その通りだと思います。けれども異なっているのは、近頃の哲学書の多くが「人間」というものを(ブラジュロンヌさんほどに)確たる拠り所を持っては答えられないでいるという事でしょう。少なくとも、 >人間の意志行為としては成り立たなかった。 というふうに、人間を過去形では語れないでいます。 人間ってこうあるべきだよ――と、もしも仰るのなら、それは倫理の問題でしょう? そうではなく、人間という問題を哲学的に考えるとき、視線は常に未来に向けられているはずであり、人間としての意味や価値、規範のようなものは、現在形では述べられないという点で一致しているはずだと思います。むしろ、現在はその意味がわからない――けれども、やがてその意味は見出される、いや、事後的にしか見出し得ないものとして、その「無根拠の価値」を扱う――というステージに、近頃では人間を置いていると思います。 人間というのは、この一点において、「一義的に読みとれる(すなわち価値があると思う)もの」を有している――と、僕は思いますし、それのみが他の生き物とは決定的に違うのではないでしょうか。 ライオンやサルが意味不明の行いをした結果、後々その価値にハッとさせられて、いたく感激したというような話は聞いたことがありません。彼らの行為は常に、直接的な価値に結びつく。 この視座に立てば、 > ○ 無効の行為 にしては、断じてならない。また、本の著者も自らに起こったことを、無効の行為だとは考えていないと思います(そうじゃなきゃ、本なんて書かない)。むしろ逆で、 無効だと考えようとするのではなく、そうと知るのでもなく、あくまでそれは現実世界において、実際に贈られた「こと」なのだと事後的に気付いたのではないかと思います。 そうか、自分は刺されたのか――という「こと」への気付きです。贈られてくる「こと」は、その当事者にとって常に歓迎されるものとは限らない。何が来るかはわからない。それでも尚、その「無根拠の価値」を受け取り続ける――これが人間としての問題であり、事態の解決には、これしかないと僕は思います。
お礼
補足欄へのおぎないです。 ☆☆ 不可抗力 ☆ これは 人為のおよそかかわらない〔と認定されるような〕自然の力や運動のことを言おうとしたものです。 人間の行為を《不可抗力》として見なす場合は 含みませんで 除外して捉えていただきたいと思います。舌足らずでした。
補足
ご回答・ご説明をありがとうございます。 ★ むしろ、現在はその意味がわからない――けれども、やがてその意味は見出される、いや、事後的にしか見出し得ないものとして、その「無根拠の価値」を扱う――というステージに、近頃では人間を置いていると思います。 ☆ こういう傾向のことは知りませんでした。また これこそ《無主体》の理論であって 自由意志を基礎におくのでなければ わたしには哲学であるとは思えません。ふるいのかも知れませんが 世界の風景が それだと一変し 天地が逆立ちしたかにさえ思えます。 ★ 無効だと考えようとするのではなく、そうと知るのでもなく、あくまでそれは現実世界において、実際に贈られた「こと」なのだと事後的に気付いたのではないかと思います。 ☆ これは 不可抗力の場合だと考えるのです。もしそうではなく 飽くまで人間の――いちおう――自由意志によっておこなった行為については 人間の自然本性(≒自由意志)から見てまた社会的な観点(=共生という大前提)に立って 有効かそれとも有効でないかを判定すると考えます。 有効でないつまり無効だと判定されたなら とうぜん無かったことになる。つまり 人間がおこなったことではないとなります。 それだけだと思います。 ザビーヌが本を書いたのは 自己表現を自分以外の他者というともかくもうひとりの人間に当てて読ませたかったことが ひとつ。 もうひとつには 事件の取り扱い方を自分が考えた結果として明らかにしておきたかった。 ほかに副次的に 事件の経過をたどり 自分の意志のあり方・たましいの軌跡あるいはその後の悩みやその克服その他その他をも整理しておきたいと思った。 そんなところだと考えます。 もはや現代において 神隠しだという見方はありません。これは けっきょくなぞだと見なし不可抗力だとして処理しようとすることでしょう。 ★ そうか、自分は刺されたのか――という「こと」への気付きです。 ☆ という新しい展開を用意したとしても これは 《神隠し》の自己認定版だと考えられます。 人間が為した行為をこうむったという事実から出発するものでなければならないと考えます。 そしてこの場合は 人間が人間ではなかった。――こういう結論にみちびかれます。それだけだと思います。そのほかは あとで息をととのえる休息期間というだけだと思うのです。 ★ 人間ってこうあるべきだよ――と、もしも仰るのなら、それは倫理の問題でしょう? ☆ わたしの見方はたしかにこの当為論に似ていますし 内容も重なるようですが ただ出発点が違っています。行為事実つまりいちど何らかのかたちで完結した現実から出発するということです。そこで すでに述べたように その人間のそのときの状態・こころのあり方はいかようであったか これの判定にすすみます。その結果であるのですから 倫理としての当為論とは かなり色合いがちがうはずです。 言いかえると それを――つまりその人間の判定を――しないで済ますことが出来ないという情況にすでに置かれていて そこで判定作業をおこなうのだと考えます。その結果 倫理臭を帯びるということに過ぎないと思います。 ★ これが人間としての問題であり、事態の解決には、これしかないと僕は思います。 ☆ という同じ捉え方を 別の結論において わたしはしています。 それは この《無効という判定。つまり 犯人はその自由意志による社会行為において人間ではなかったこと》を再出発点としてでなければ 犯人は その後の人生はあり得ないということを意味するはずだからです。この解決法しか この事件にかんしては あり得ない。こう思います。
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
あんたには答える義務があるよと、補足を頂いたようで、答えます。 といっても、すでに書いた通りです。端的に言えば、哲学のカテゴリーに上がってはいるけれど、この質問は倫理の問題なんですよ――というふうに、多くの回答者が投稿を寄せている。倫理の問題なのだから、わたしは黙してそれ以上は語らない――という事なのだろうと僕は思います。 何とかそれを哲学の領域に引っ張り込もうとしたら――つまり、この現実世界の問題に対して、具体的な回答を用意しようとしたら――性差の水準ではなく、人間と他の生き物という水準で答えを用意する他ないという、これが前回の僕の回答です。 そして、かの本の著者は――そうした。それだけのことです。 これは、「男あるいは女という観点から事件や世界を捉えようとすると なかなか見えて来ないという説明で足りる」わけではなく、ある集合に属する要素からその集合の真偽値を量るのが、決定不能な問題だからです。確かに、倫理はその問題に対しても、答えを準備することができる。 けれども答える人が、もしも真面目であれば、或いは少なくともこの問題に対して、自分がどれほど間違った答えを出す可能性が高いかという、その可能性を査定できるだけの知性を有していれば、その人はきっと、黙して何も語らないだろうと、こう思うんですね。なぜならば、その回答者はこの問題が倫理の問題だと思っているからです。 だから僕は、(著者が取った行動を鑑みて)問題をその上の水準で解決しようとする道が重要だと、まあ、それが哲学にできる唯一の回答なのだろうと思って、「何が」という点ではなく、「刺した」という点を取り上げたわけです。なぜならここは、黙して語らない倫理ではなく、具体的な解決方法を探そうとする哲学の場だからです。たぶん、質問者の意図は、そうじゃないかなと思いました。 >☆ この内容がうまくつかめないでいます。その前の一文は すんなりと心に入ります。《制度の水準》と《無根拠な価値》とのつながりが分からないということですかね。どうもそのようです。どうですか? 人間のコミュニケーションは、やり取りされる情報の「等価性」に従って行われるのではなく、むしろ、不等価な情報のやり取りのなかから、事後的に得られた(自分にとって)想定外の「価値」を求めて成されるものだと前に投稿しましたけど、「無根拠な価値」というのは、この想定外の事態を指した表現です。そのモノの価値に対して、妥当性を与えることが「できなかった」――のだから、これを無根拠と、呼ぶわけです。 それを「文化」だと表現する人(岸田さん)もいるし、「制度」だと書かれる(フーコー)事もある。共通しているのは、いずれも事後的にしか、その価値が見出せない無根拠のものだということです。もちろん慣習でも良いし、この場合は恐らく、性差になるのでしょう。 ただし、すでに書きましたが、それらの概念に当て嵌めて、「無根拠な価値」を語ろうとするときには、細心の注意が必要だということです。それらの言葉には、多分に時代的な理念や概念がさまよい込んでくるからで、というのも、例示されたその言葉の意味を特定するのは常に受け取り手(デリダ)だからだと思います。そういうときは、自己流に「無根拠な価値」とか、贈り物とか呼ぶほうが良い。 こんな説明でよろしいでしょうか。 岸田さんのご本は、取られる表現が特殊なところが多いという――これもすでに投稿した事ですが、そういうところを解読して読めば、ブラジュロンヌさんの嫌いなほれ、無主体のアレですよ。けれども、《蚊が刺した》という表現も、ひんしゅくを買うという点においては、似たり寄ったりだとは思いましたけど。 > ところが ちょうどこのあとのご回答に いま確認したのですが amaguappa さんからの投稿が来ています。まさに筋書きがあったかのように われわれの力量が問われているようです。 そうかなぁ、少なくとも僕は、そんなに問われていないと思います。だって、僕は単なる他の回答者のひとりだし、倫理的指導を受けているのはブラジュロンヌさんだ――という、他の回答の価値については、すでに重々お分かりでしょう?
お礼
ri_rong さん ご回答をありがとうございます。 局面のあたらしい展開がよく分かったような まだ分からないような・・・。局面が変わったと見ることじたいが 哲学と倫理との区別をまだ分かっていないことを示すということのようですが どんなもんでしょうかねぇ。 たぶんわたしは 次のデリダとその援用は間違っていると考えます。倫理としても哲学としてもです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それらの概念〔* 文化・制度・慣習・性差〕に当て嵌めて、「無根拠な価値」を語ろうとするときには、細心の注意が必要だということです。 それらの言葉には、多分に時代的な理念や概念がさまよい込んでくるからで、というのも、例示されたその言葉の意味を特定するのは常に受け取り手(デリダ)だからだと思います。そういうときは、自己流に「無根拠な価値」とか、贈り物とか呼ぶほうが良い。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 間違いだという根拠は こうです。 わたしの《蚊が刺しただけ》という表現は 通念にしたがった《無根拠な価値》に属すと言えば属しますが その指し示すところは 人間論の問題だからです。 その意味するところは 《受け取り手》が誰であっても 一義的に読みとれるものだからです。 ○ 人間として生まれてきた生物存在がおこなった行為であるが それが 人間の意志行為としては成り立たなかった。 ☆ こういう意味に一義的に解されるはずだと思っています。《蚊が刺しただけ》 この表現でだいじょうぶだと考えます。哲学の問題だと思います。 ○ 無効の行為 ☆ という言い方が 一般的だというところでしょう。これなら 受け手によって解釈が違うということもなかろうと思います。どうでしょう?
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
3,8,12です。噛み合わないようです。「言うだけ余計」は、まさにNo11のお礼における最後の一行です。 見解は要らない、という主旨でわたしの話は一貫しています。事件の写生をして沈黙する。見解は放棄する。一言でいえば黙んなさいであるというのは、そういう意味です。 じゅうぶん見つめたあとに、無言で関心をひきはがすということをしないのですかとbragelonneさんに問うています。 博愛は、孔子と空海をもって理解したい言葉ですが、日本語は西洋に感化されたあとのバイアスやツイストがすさまじいですから、手垢がついた感はたしかにあります。ヒューマニズムを根に持つphilanthropyの語は、神に奉仕する滅私の信仰とは相容れません。この語の和訳としての博愛は撤回しましょう。 わたしの話に地下水脈のようにあるもうひとつの論旨は、ザビーヌの願いが一枚岩ではないし、病をくぐってきているという視点から来ています。そこがなおさら、一様の見解を避けさせようとするわけです。ほかの数名の方の回答とわたしの角度は違っていると思いますよ。確認すればこんなところです。
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
amaguappa さん これは長丁場になるかに思えて来ています。まづはご回答をありがとうございます。 直前の二件(No.14&15)でのやり取りをも読み合わせていただくと わかりやすくなると思います。 そして いまの段階でわたしは 答えを持ち合わせていません。つまり この質問の主題が いわゆる哲学としての一般的な探究と びみょうに異なるというかたちをわたしは 期せずして ri_rong さんと Hidocchi さんとからおそわったのですが それは ひとことで言えば つぎのような問題です。 ○ 性差がかかわる問題であるにもかかわらず 性差を前面に出したかたちでは 探究もしないし解決策をも問い求めない。それは なぜか? ☆ つまり《人間》の観点で問い求めることをつらぬくという方針ですが――そしてこのことは 《見解を避ける》ことなく しかも《一様なる見解》を表わすこととつながっているわけですが―― あるいは問題を別の言い方で表わすなら こうです。 ○ 《〈わたし〉がやわらがしめられているのでなければ 問い求めは むなしい》。これは なぜか? 答えを持ち合わせていないと言いましたが いまふとひらめきを得ました。ちょうど ri_rong さんのロマン主義の質問へのわたしの投稿からです。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 古代日本の国家には 采女(うねめ)という制度がありました。スサノヲ市民圏なる地方ごとに 美しい女性を朝廷(アマテラス圏)に差し出すというものです。 すでに許婚がいた場合には 悲劇が起きました。たとえば 陸奥の国・安積の里(現・郡山市)の春姫の物語が伝えられています。召し上げられたあと かのじょは その朝廷から逃げ帰ったのだけれど その許婚の男は すでに死を選んでいたということを知って かのじょも後を追ったという話です。 ○ 春姫:http://f32.aaa.livedoor.jp/~basyou/basyo/sub1028.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは悲劇ですが 《一様なる見解》に合致すると思います。そして 性差は関係ないのです。ザビーヌ類型にこの春姫も入るでしょう。すなわち ★ ザビーヌの願いが一枚岩ではないし、病をくぐってきているという視点 ☆ を容赦なくしりぞける観点なのです。その心は こうです。何も《病をくぐってきている》ことや悩みや葛藤があったろうことを打ち消そうとしているのではないのです。しかも そんなことはどうでもよいと見ているのです。これは いわば――性差を見ないでよいとするところの――絶対値として不動の見解なのです。 しかも 嵩にきて言いますが それでこそ 女は女であり男は男であると捉えています。 まだ不案内であることを自覚しています。とりあえず ここまでです。
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
こんばんは。 興味深い質問だと思い、これまでの投稿を眺めていたのですが、関連する質問の継続であるだけに既視感のようなものを感じました。これは男でも女でも同じだと思うのですが、自己決定の是非や可能・不可能が問われる事になるのは、そこに現実的で具体的な問題があるからに他ならないわけで、質問の本意は、その問題の解決に「具体的に」近づくということであって、自己決定という理念そのものを純粋に突き詰めることではないというところに重要さがあるのだと僕は思います。 その意味において、「刺した」と表現されるのでしょう。 つまり、性の問題を理念の水準には決して置かない――という事です。あるいは、性の問題を制度の水準(すなわち、無根拠な価値)でのみ語る――という、これがブラジュロンヌさんがご投稿されていた別な質問で、岸田さんが仰っていたお説だろうと僕は思います。 まあ、炙り出しなのかなとは思いますが、恐らくこの問題(性道徳)に対して、(人間として一般化された)理念としての立場から何らかの批判を加えると、その語り手が女であればあるほど、まるで女という性を見失ってしまったかのように、そしてその失われた女を取り戻そうとするかのように懸命になっている姿が現れてくる。そういう構造を持っています。 まるで、失われた女を取り戻す役目を分担しているかのような、そういう彼女たちの役割が前景化してくると、だからこそ、そうではなく「この問題は人間によって語られている」という水準に、質問を引き止めておかねばならないと思います。 ザビーヌさんは恐らく、それくらい醒めた眼で、自分とそれを取り巻く世界を見ただろうと思う。
お礼
補足欄をおぎないます。 ★ 《制度の水準》と《無根拠な価値》とのつながり ☆ 《無根拠な価値》というのは 《社会慣習》ということであって その価値としての妥当性や普遍性が必ずしも定まっていないということでしょうか? それならそのつながりは 分かりました。 そうしますと あとは 《その水準でのみ 性の問題を語る》ということが 岸田秀の唱える説であるかどうかの問題になるようです。 これは いまわたしには当否が分からないのですが 何だか込み入って来ているようにも感じます。 ★ つまり、性の問題を理念の水準には決して置かない――という事です。 ☆ これはまったくおっしゃるとおりだと考えますし そのとおりに初めからの趣旨がつながっています。 そのことと 岸田説とのつながりが こんどは 分かりづらくなって来ています。 いえ 精確に言えばこうです。この《性の問題を理念の水準には決して置か〔ず〕 制度の水準(すなわち、〔社会慣習としての〕無根拠な価値)でのみ語る》ことと 岸田説とが同じものかどうか――こういう問題になりますね。 《蚊が刺した》というのは 《制度の水準》つまり要するに通念に沿って表現しています。岸田は そういうふうに述べているかどうか? そういう問題になりますね? とりあえずここまでです。保留して追い追い考えていきます。
補足
ヤッホー。こんばんは。ご回答をありがとうございます。 直前のNo.14でのやり取りをもごらんください。 あなたのご議論は わたしをあたらしいステージに連れて来てそこに立たせました。ただし理論として述べることは いままでとそれほど変わらない。基本的に変わらない。しかも 視点が単眼から双眼そして複眼へと――あるいはさらに 多重性を見つける視点へと――揚棄されていなければならない。という局面であるようです。 ところが ちょうどこのあとのご回答に いま確認したのですが amaguappa さんからの投稿が来ています。まさに筋書きがあったかのように われわれの力量が問われているようです。 ★ 「この問題は〔*――男女の性差を前面に推し出したかたちでの男か女によってではなく――〕人間によって語られている」という水準に、質問を引き止めておかねばならないと思います。 ☆ という判断を なぜするのか。なぜそれがよいとするのか。これを説明する義務(しかるべき務め)があるようです。 ★ ザビーヌさんは恐らく、それくらい醒めた眼で、自分とそれを取り巻く世界を見ただろうと思う。 ☆ ということなのだと思うのですが それは ではどういうことか? それは 男あるいは女という観点から事件や世界を捉えようとすると なかなか見えて来ないという説明で足りるのか? ステージが 一段高くなっているようなのです。 ★ まるで、失われた女を取り戻す役目を分担しているかのような、そういう彼女たちの役割が前景化してくると、 ☆ やはり思いきった言い方をなさいましたね。ひんしゅくを買うと思うのですが これを説明して行かねばなりません。 ひとつ単純な質問です。 ★ あるいは、性の問題を制度の水準(すなわち、無根拠な価値)でのみ語る――という、これがブラジュロンヌさんがご投稿されていた別な質問で、岸田さんが仰っていたお説だろうと僕は思います。 ☆ この内容がうまくつかめないでいます。その前の一文は すんなりと心に入ります。《制度の水準》と《無根拠な価値》とのつながりが分からないということですかね。どうもそのようです。どうですか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これは男でも女でも同じだと思うのですが、自己決定の是非や可能・不可能が問われる事になるのは、そこに現実的で具体的な問題があるからに他ならないわけで、質問の本意は、その問題の解決に「具体的に」近づくということであって、自己決定という理念そのものを純粋に突き詰めることではないというところに重要さがあるのだと僕は思います。 その意味において、「刺した」と表現されるのでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 名文のようですね。
こんばんは、どうもご返答いただきまして、ありがというございました。Hidocchiです。 ご参考にしていただきまして、こちらこそ望外の喜びとする所でございます。 このスレッドを全て読み直してみたのですが、男女間におきまして、大きく考え方が違うように見受けられました。 ・ザビーヌ女史の本当の気持ちが分かるのでしょうか? 正確には、その気持ちは誰にも分からないと思います。わかるのは、女史の発言(or 著作本の)内容からのみだと思われます(従いまして、女史の発言、出版物での記述内容以外の第三者の”勝手な憶測”はむしろ、禁忌かと考えております)。従いまして、女史も、成人してからの著作であるため、女史の意志を尊重しつつ、発言・文面からのみ、考えるべきかと考えております。従いまして、女史の発言内容から、擁護するのは自然なことと考えられます。 ・無反応や無関心について苛立ったことはあるのでしょうか? おそらくないと思います、むしろ、「自然発生的に生じた(本人の意思とは無関係に)」であろう”変な同情心”、”被害者を演じなければいけないという空気”、”野次馬”、これらに対して、矛先を向けたかと思います。そこで、敢えて出版物を書いたのかと予想されます。逆に申しますと、第三者が”無反応”を示し続けてくれていたなら、かような本を書くことさえなかったと考えられます。従いまして、女史の立場に立ち、擁護されようとしておりますご質問者様には(他の一部の方(VIVIDNESS様)も含みます)、何ら非難されるべきものはないかと断じます。 もし、おかしいところ等ございましたら、ご返信いただければ幸いでございます。
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 これは 風雲急を告げてまいりましたと言うべきか 対話というものは最後の最後まで根掘り葉掘り吟味しつつ人事を尽くすべきだと言うべきか 心の襞にも分け入ってなお思惟と判断を的確に表わす仕事があったのだ――というように思うかたちにて ここからは あたらしい段階に上がったように思います。 つぎのNo.15に ri_rong さんからもご回答をもらっていて Hidocchi さんのこのご回答とを合わせてそれらは 新しい局面をわたしに見させたと言うのでしょうか 位相が変わって質疑応答はつづくのだよとわたしにおしえていると言えばよいのでしょうか いづれにしても言わば二段ロケットのようですね。 No.11にいただいた Hidocchi さんのご回答で わたしは質問者としてもう満足です。むろん批判的な見地からのご投稿をなお注意深く受け取ろうともしていますが いまのところ理論としては それほどの内容のものを受け取っていないと考えています。 ところが 人間というものは ――とうぜんでしょうが――理論だけで話が片づくというものではない。そういう第二ステージにいつのまにかのぼったという恰好であるようです。 ri_rong さんの見解にもあるようですが ひとつには 男女の性差がいかほどかこの議論にかかわっているようだという側面の問題。しかも ri_rong さんの考えでは――そしてそれは わたしも以前から言っていたことと同じようだと思っているのですが―― そのように性差の問題もかかわってくるのだけれど それでいて根本的には 人間の問題なのだから その視点での言説にとどめるのがよいという見方がある。 そうなるとこれからの仕事はたぶん この《人間論》における・人間論としての《ザビーヌ事件観》でじゅうぶんであるというのは どういう根拠でどういう内容のものとして捉えているのか。これの尋究にあるのではないでしょうか? 一点 表現のことで 違った考えを持ちました。 ★ 第三者が”無反応”を示し続けてくれていたなら・・・ ☆ この推論の過程を問題にするのではなく ただ ★ 無反応・無関心 ☆ という言葉について感じたところを述べます。第三者一般の人びとは それはやはり《反応》はすると思うのです。中には《関心》を寄せる者もいるはずです。でもけっきょく問題は ふつうに接するということではないでしょうか? 特に挨拶をする間柄にないのであれば もうただかのじょを見て あぁ ザビーヌさんだと思うところまでの反応をするでしょうし 知り合いであれば 多少は事件について関心を持つことでしょう。 そして事件のことをたずねてよいとなれば それはやはり尋ねると思うのです。そしてそのときには 結局 事実と感想を互いに述べあえばよい。こういうことではないかと思います。 どういうことかと言いますと たとえば友だちと知り合いとの中間の間柄だったとします。その人は 多少の野次馬根性を持っていても そしてそれを交えてザビーヌに尋ねても 構わないと思うのです。ザビーヌも あぁそういうものだと受け取るのではないでしょうか? そしてそれでおしまいなのだと思います。 ★ 従いまして、女史の発言、出版物での記述内容以外の第三者の”勝手な憶測”はむしろ、禁忌かと考えております。 ☆ むしろこの一文にわたしは反応したのかも知れません。素朴に尋ねたいことがあれば 《禁忌》にはならない。ザビーヌもたとえ禁忌としたい事柄であっても ひとつにはそのまま それはタブーにしてちょうだいと答えるかも知れないし ひとつには おしえましょうか じつはこれこれこういうふうだったのよと応じるかも知れません。 単純に言いますと それほど――腫れものに触るように―― 構えなくてもよいのではないか。といったところです。どうでしょう?
- mashumaro2
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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5468127.html No.73補足欄より引用 ☆ ことほどさように ひとは誰もがみづからの主観を むろんしかるべく自由に 述べあうものです。 主観には その基礎としておのれの価値観ないし信条や信念があります。 あるいはさらにその中核にあって これは誰に対してであってもそれ以上はゆづれないという自由意志とその心の在りかを持ちます。 そしてこの中核は 意識しているいないにかかわらず ひとの非思考としての信仰に いしずゑを置いているはずです。 主観の自由な対話において きわめて煮詰めた捉え方をするなら ひとは互いにその信仰を しかもしかるべく自由に うながしている。こう考えます。なぜなら そうであるゆえに ひとは 心で同意し 主観の中身を互いに共同化しうる。 つまり話し合える。理解し合える。こころざしを同じくし得る。また正当にも違いを分かり合える。間主観性とか 共通感覚あるいは共同主観 つまりそれとしての常識です。知識の問題というよりは これは判断力だと考えられると思います。 このように《非思考なる信仰》は その中身をただちに具体的にこれこれだと言って示し得るものではないにもかかわらず おおむね意志の自由(その互いの平等)に関しては 共通である。こう言いきってもよいはずです。 ところが この信仰を積極的に打ち出すブラジュロンヌなる輩は 突出していると見えるようで つまり有徴性を帯びているようです。 これまで それを契機として 排除の論理なる風が吹きすさびました。量としては風当たりが強かったようです。けれどもこの台風は 構造的に衣替えを いま しつつあります。不当な排除であると明らかになりました。そもそも何の根拠もなく 批判と言うにはまるで論旨が成っていない投稿だったわけです。 このたび 根拠はなお明らかになってはいないのですが 論旨がはっきりしている批判の投稿が舞い込みました。つまり おまえには有徴性がある。突出しているきらいがある。というところまで はっきりしている。根拠はなおありません。有徴性が突出していようがいまいが 誰もが同じく互いに信仰をうながすという要素を持つ対話をしている。これだけのことなのですから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上記引用を省みた上で、いつもの如く、質問者が「自身の理想の共同体に関する理念の体系化目的のため」に、サビーヌさんの事件を「サビーヌ類型」などと称して周囲から賛同を得たい、あるいは合意を得たい、利用したいと思っているにすぎない。 このように私は思いました。 でも、被害者の胸の内を「共同化」まではし得ないのです。 人の感情に拘る命題は憚るべき配慮が時としてあろうというもの。 何度も重ねて問いただしたり、万歳三唱する類のものでもないはずです。 このことをお含みおき頂いた上で、人間感情に拘わらない言語学、神学の類を中心にご教示或いは体系化のために質問なさったほうが、よろしいと切に思い進言申し上げます。 これはこの一年、私が大変お世話になり、またご迷惑をおかけした後悔の気持ちと、今後一切の回答も関与もしない宣言も兼ねております。 私がミラー・ニューロンとのこと、私には≪いつもものごとく≫わかりませんが、質問者が私の回答の受け皿にならざるを得ないとの恐怖やご懸念には至りませんので、どうかご安心くださいますよう。 この一年、大変お世話になりました。 良いお年をお迎え下さい。さようなら。
お礼
仲好し倶楽部はやはり仲がおよろしいようで。 スカウトすべき相手がみつかった場合には 総力を挙げて運動しますってなぐあいで。 ★ 今後一切 ☆ がいったい何度あるのでしょうか?
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
やったー を見てずっこけて帰ってきました。 無反応、無関心という「装い」は、できない、何がどう転んでもできない、ということなのでしょうね。。。bragelonneさんは。 ザビーヌは、無反応や無関心に苛立ったり傷ついたりしましたか? 出来事を、「黒マジックでなぞり書き」するのなら、どんな書き方であれ、ほかの関心を寄せた反応と同じ効果しか生みませんよ。 よもや日本人が、簡単に無反応や無関心の装いをするなどとはおっしゃらないでくださいね。 わかろうとしない無反応や無関心はありふれていますが、 わかるわけがない限界の手前までわかって無関心でいるという心は、ありふれてはいません。 そういう心のしつけを経験した者でないとそれと気づかないものでもあると思います。 相対峙して、全部開いている、そのつど開け広げて、直截である、しかしあなたに関心はないよという在りよう。 気遣いをしたいと思わない相手になら、これでよいとは考えませんか。 いえいえbragelonneさんは博愛をもって全員に関心を示すのでしょうか。 でもそれが、求心性のある心的傾向、執着的、積極的、直接的関心である必要はないのでは。 ザビーヌに「わたしは蚊に刺されただけでしょうか」と聞かれたのでもないかぎり、彼女が蚊に刺されたかどうかなどを考えない、というふうにはならないのですか。。。 問われればきっと応えようというだけの姿勢の。 わたしは、彼女の考え方に賛成ですとまでは断言できず、否定はしないというところどまりです。 本が売れるということは、関心を浴びるということです。しかし、それを逆手にとって、心に寄り添われるのではなく事件へ関心を集約するという試みになっています。 bragelonneさんが彼女の希望通りこの図式に乗ってあげるなら、心の問題は抜きにするとしても、事件には正確に向き合う必要があります。 それではじめて賛成すると言えるのではないですか。否定しないだけのわたしは、逆手に取られるだけの関心もないということになるでしょうか。
お礼
amaguappa さん だめです。酔っているのではありませんか? ★ やったー を見てずっこけて ☆ いるのなら ★★ (回答No.8) 一言でいえば、黙んなさい、と申し上げている ☆ とご自分で言った言葉には いったいどういう反応をなさるのですか? これでは――いくら これまでのやり取りの経過があるからと言って―― ほとんど犯罪ですよ。だから その筋からスカウトが来たくらいなんですから。 酔っておられるのではありませんか? 二度手間になるのを防ぐために 申し上げておきますが ★ 博愛 ☆ などという薄っぺらな言葉を持ち出し 選りにも選ってこのわたしに当てはめるなどとは!! ○ となりの人を 自分と同じほどまでは――ということは ちょっと色をつけると 自分よりほんの一秒ほど多く相手のことを思うというくらいには――愛しなさい。 ☆ とわたしは言っています。 (もし概念は同じようだと言うのであれば 言葉には歴史があって この言葉はすでに手垢がつき過ぎていると申しておきます)。 ★ 問われればきっと応えようというだけの姿勢の。 ☆ もちろんわたしという第三者がいまは問うているのですが そのように第三者のあいだで考えを述べ合うことを ザビーヌさんも――本まで出して何らかのかたちで世に問うたのですから―― すでに自分の中に織り込み済みになっているはずです。 なんら問題はありません。
- heartmind
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サビーヌさんは勇気ある人だと思います。 しかし、彼女の内面の葛藤の悲しみの深さには想像をぜっするすさまじいものがあると思います。 ただ、絶句する、黙する他ないのです。 そこには誰も立ち入ることのできない崇高な孤独があるのみです。 何が言えるというのでしょうか、何も言えないではないですか。
お礼
ハートマインドさん ご回答をありがとうございます。 あぁ 何も言えませんか。 ★ そこには誰も立ち入ることのできない崇高な孤独があるのみです。 ☆ というふうに受け取られ見られることが いやなのではないでしょうか? かのじょは 自分がふつうの人間であり女性であると言っていませんか? そう見て欲しいと願っていませんか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ サビーヌさんは勇気ある人だと思います。 しかし、彼女の内面の葛藤の悲しみの深さには想像をぜっするすさまじいものがあると思います。 ただ、絶句する、黙する他ないのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶんかのじょも 自分がそのように第三者としてながめるというときには そう感じたであろうと言うのではないですか。同じような感想をもったはずなのに 自分が当事者になったときには こんな勇気も元気も出て来ましたと報告しているのだと思います。 ではそれは ザビーヌさんが特別のひとだったから そうなのだろうか? かのじょ自身は そうではないと言おうとしているのだと考えます。ふつうの人間であり女である にもかかわらず わたしにはこんな力があったのです――こう言おうとしているのではないでしょうか? そして ただこれだけのことであり これだけの話であるというに過ぎないと言おうとしていませんか? この孤独は 煮て食おうが焼いて食おうが とどのつまりは 孤独関係である。こう悟ったと言っているだけなのではないですか? 蚊が刺しただけ なのです。どうでしょう?
- 1
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お礼
2009年 MVP 論文について 覚え書きを添えます。 つぎの論文―― 【Q:ひとは やわらがしめられうるか】その回答No.6およびその応答 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5495975.html これは ri_rong さんのご見解ですが これにわたし自身の見解も多少ともからんでいるので このように言うのは ふだん厚顔無恥である上にさらに鉄面皮になってしまうかと思うと困るのですが でも ことの成り立ちを明らかにする上で 覚え書きをしておくべきだと考えた結果 述べるものですが―― そこに述べられた世界観は 恩恵の理論です。恩恵とそれのもとにある人の自由意志のあり方を捉えようと迫る文章です。 という意味は その理論の確立――具体的な事例における検証と確認と発展――を文章にしえたのが この Hidocchi さんの論文であると思います。 ヘンな言い方をすれば ふたつの論文が合わせ技になっているかと思います。それが ことの成り立ちであると考えました。 その ri_rong さんですが ここでの回答においてその後 《無主体》の仮説に傾いた気がありますが どうも上に述べた見地から捉えると 《恩恵》説とを混同したかっこうになっているなと――かなり上から目線になりますが―― 思いました。 たとえばいい例が この二つの論文の合わせ技といったことの成り立ちです。つまり それぞれの論文は 飽くまで人間という主体がその自由意志においてものした文章ですが 何故かなおどこからか《無根拠》なるあたかも恩恵の力がはたらいて成り立ったという様相を呈しています。 つまりですから この《恩恵説》によっても 言葉としてほとんど同じように《無根拠の価値の――社会的に交通し合い錯綜する過程の中からの――落ち着きとしての成立》を説明するかたちになるというわけです。 つまりは それぞれ個別の行為は あくまでひとりの人間という主体の自由意志による意志行為であり しかも同時に《恩恵》を持ってくれば 《無根拠の無主体 あるいは なぞの超越的主体なる無根拠》があたかも一枚咬んで人びとの互いの交通をうながしたり妨げたりしているかに見える。 こういうふうに見ることもできるようです。どうでしょう?
補足
Hidocchi さん ありがとうございます。来てくださいましたね。 そして わたしから言わせれば ○ やったーっ!! ☆ のご回答だと思います。 ★ 組織的犯行ということもあり、かなり複雑な背景があるようにも見受けられました。 ☆ なるほど。犯罪には 政治家がらみですとか著名人の恥部が明るみに出てしまうですとか そういうたぐいの事件がありますね。もみ消しという言葉があるくらいですから。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 日本におきましては、特にこういう性犯罪では被害者を「ケガレ」扱い、悪者扱いしかねない風潮があろうかと思われます。 この風潮(空気)につきましては、残念ながら、被害者は事件解決後も被害者のまま、その後の人生を送っていかなくてはならないという現状につきましては、考え直す必要があろうかと考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから ザビーヌさんの側に立ちかのじょを擁護するわたしに対する風当たりは かなりきついものがあるようです。 日露戦争後の日本人は いったいほんとうに日本人なのか?とお怒りでしたが こんどはわたしが怒ります。ザビーヌさんの自己還帰をよろこぶなかれという発言は いったい人間の口から出る言葉なのでしょうか? こう問いたいところです。そうではないでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 犠牲者扱いされる”空気”、変な同情心、野次馬、これらが少なくとも事件以後の、ダルデンヌさんにとっては、最大の苦痛であったように見けられました。 これは、以前、愚生が紹介させていただきました「レッサーパンダ帽事件」の被害者家族と共通点がみられるかと思われます。 つまり、第三者の(被害者は未成年ということを考慮しますと、家族は例外かもしれませんが)善意・親切心(とその空気)は、かえって、こうしたダルデンヌさんの発言につながった可能性は高いと考えられます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 2009年の MVP に決まりです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1)被害者の気持ち(女史の著作から) 1. 解放後に敵となったのは、周りの人の善意だった。ダルデンヌさんの苦しみをまるで自分のことのように受け止めた家族、友人、医療関係者、警察、事件に震撼したベルギーの社会全体の空気だったという。 2. また、犠牲者として振舞うことを期待されたことも苦しかったと言う。 「だんだんよくなってはいるけれど、とってもつらかった。今でも 仕事に出かけるために電車に乗るとじろじろ見られる。サインをくだ さいと頼まれたり、私の苦しみを他の人と共有するべきだと言う長文 の手紙をもらったりする。レイプされたほかの女性からも手紙をもら って、私の気持ちが理解できる、と書いてある。頭に来る。何も『理解』 することなんかない。あることが起きた、そこで終わりなのだから」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《蚊が刺しただけ》だよおおおお!!