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ザビーヌ事件について なぜそれを無効の行為だと判断してはならないか?
犯人の行為は 人間の意志によって為されたものでありながら その意志は人間の意志ではなかった。――こう判断する人間の意志行為は 哲学のものではないのか? ▲ (ヰキぺ:ザビーヌ・ダルデンヌ) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C ザビーヌは1996年5月28日、12歳のときに通学中に誘拐され、犯人の家の特製地下室(幅99cm・奥行き2m34cm)に80日間閉じ込められる。その間、小児性愛者である犯人から性的虐待を受け続けた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ * 参照→【Q:ザビーヌ事件について】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html
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こんばんは、bragelonneさん。 【贖罪】しょくざい 財物で罪をあがなうこと。 ●―――魚や鶏をボーンと食卓の上に置いていくシェフの自由意志による意志行為は 限りなく無効に近い。 第3編 民法(権利の主体/物権と債権/契約による債権の発生/無効と取消し/代理/弁済等による債権の消滅/債務不履行/担保物件/人的担保と責任財産保全/物権変動と債権譲渡/所有権の取得/物の貸し借り 【犯罪被害者救済に関する一考察】 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/hosei-2/yoshiki.pdf ●あなたは ザビーヌさんについて あるいはデュトゥルーに対して どういう見解をお持ちなのですか? さて、ザビーヌさんについて何処から語りましょうか? 12歳のザビーヌさん、20歳のザビーヌさん… 誘拐…80日間監禁… あったかい家、 両親のもと、なに不自由なく暮らす日々の生活 一変して 外界とは隔絶した地下の穴蔵のような場所へほうり込まれる これは現実じゃない、これは現実じゃない…これが現実なの… 先の見えないこの状況にどれほど不安に苛まれたことだろうか 親から引き離され、誰知る者もいない場所で、人として扱われず 家畜の如く、ただただ生かされている12歳の幼子 なぜ、なぜ、なぜ わたしなの… 人さらいに遭い、80日目に救出 家に、両親のもとへ、無事還される あったかい家、 両親のもと、なに不自由なく暮らす日々の生活が… ―――――――――――――――――――――待っていると思いきや 一変して 周囲の奇異なまなざし、腫れものに触るような周囲の扱い、口さない人びと わずか12歳の幼子が自ら内に籠る だれに監禁されたわけでもないのに…閉じこもる(閉された言語空間) 直接手を下したデュトゥルーなのだけれど… デュトゥルー以外に姿なき加害者がいる 罰せられることのない姿なき加害者 12歳―――――8年間の沈黙―――――20歳 その身を清める儀式(祓い)の如く、公衆の面前に立ち証言 1:ヨブ記 / 28章 28節 新共同訳 そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」 「罪」 http://jhc.plala.jp/jhcs/school/hukuin03.pdf
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こんばんは、bragelonneさん。 ●シェフなら 料理をしたものを食わせるものである。 ―――魚や鶏をボーンと食卓の上に置いていくシェフの自由意志による意志行為は 限りなく無効に近い。えっへん。 ↑ ( ̄^ ̄)もしもし なにが、「えっへん。」よ。 あのね、様子見もせねば。 客の好みもわからぬうちから、「さあ食え!」とばかりに モノこさえるのもどうよ? はじめから、制限ありきなのはなんだかなぁー 魚や鶏をボーンと食卓の上に置いて 制限を設けずにまずは食してみんさいな ひとそれぞれ嗜好がちがうんだから、それそのように 何かしらご意見承れるってもんよ はじめから味をつけると、そのもんの元の味がどんなんだってのが わからんくなる 留置権 【法律には必ず当該法律が予防を目的とした想定危難がある】 http://www.iwasaki.jimusho.jp/houritunosouteikinan.html 【QNo.4462818 吉本隆明の思想について】No.13 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4462818.html 【法は人為法から自然法へと 既に一変している】 http://www13.ocn.ne.jp/~hidemasa/houjintoiuhitowasonzaisinai.html
補足
littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうぢゃのう。《制限》って なんぢゃいな? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ はじめから、制限ありきなのはなんだかなぁー 魚や鶏をボーンと食卓の上に置いて 制限を設けずにまずは食してみんさいな ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《制限を設けずに》ったって まだ料理してないものをどうやって食うの? この場合 あなたの言っていることが妥当だというのは ひとつの前提のもとにのみ成立します。挙げられた参考資料の内容が あなたの見解と一致するという場合です。そういう前提があるのなら じゅうぶん分かります。つまり すでに料理してある品物を外から仕入れて それをそのまま客に食わせる場合です。 ★ 【法律には必ず当該法律が予防を目的とした想定危難がある】 ★ 【法は人為法から自然法へと 既に一変している】 ☆ これら法律にかんする資料は どうだかなぁ。 ▲ 多様なる人生の共存を規範とする超法規社会規範が実在してする社会での権利義務の実体は、この超法規社会規範に適っている故の、社会的な妥当性の意識である。 ☆ 《法の精神》として捉えればいいのでは? あるいは《条理》ないし《慣習法》として。つぎも同じく。 ▲ 法人の実体は、組織としての体をなしている組織の、「組織構成員全員」たる特定多数自然人のことなのだから、そして、財産は実質的にはその合有物なのだから、会社は誰のものか、という問いは、会社の「組織構成員全員」たる特定多数自然人は誰と誰か、という問いに他ならない。少なくとも大会社が、株主だけで組織としての体をなしている、と考えるのは、現実離れしている。 ★ 【QNo.4462818 吉本隆明の思想について】No.13 ☆ 高村光太郎と智恵子 あるいは江藤淳とその妻 さらに吉本隆明と和子 これら夫婦それぞれについて 前二者は一方の死をめぐっての情況において 三つの場合とも 一人ひとりの自由意志の問題をあつかっておられます。しかも うまくまとめています。あぁ なるほどとうなづかれるような説得力があります。 でも どうなんですかねぇ。いま考えるに ものごとの成り行きとして・成り行きに沿って うまくまとまった解釈がほどこされているのですが だからその解釈が 理論だというふうには受け取りがたい。これが 偽らぬ・まづは感想です。 だって 自由意志は もっともっと《自由》でしょう? ★ はじめから、制限ありきなのはなんだかなぁー ☆ ですよ。制限というほどのことでもないでしょうが 要するにひとの意志にかかわることについては 解釈がひとつに決まるというのも――いま扱っている《無効》の場合を除けば―― ないのではないですか? (つまり なにはともあれ相手のあることだという場合です)。 有効であれば多少とも推論が弱かったり妥当性が薄かったりしても その行為をめぐる動機や情況から来る原因や要因は さまざまであると採ったほうがよいのではないかと思えて来ますね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ひとそれぞれ嗜好がちがうんだから、それそのように 何かしらご意見承れるってもんよ はじめから味をつけると、そのもんの元の味がどんなんだってのが わからんくなる ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ってなわけではないかな。 ところで あなたは ザビーヌさんについて あるいはデュトゥルーに対して どういう見解をお持ちなのですか? 《「さあ食え!」とばかりに》 ずばり明らかにしてくださいな。時間がゆるしたなら ヨブについてもですよ。というのは 注文が多すぎますかね。
こんばんは、Hidocchiです。ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > 《なぞ》だと言っておくことは重要であるように思いました。そういう意味でアンガジェした状態にありつづけますから。 ご賛同いただきまして、どうもありがとうございました。 > 人間がものごとを分かったように《さばく》ことを意味すると思います。神の罰だと言っても それはそれを人間が想像し判断をくだし みづからは全知全能であるかのごとく振る舞っているということになってしまいます。 かような人におきましては、自分には甘いという人たちも多いような気がしておりますが、気のせいでしょうか。 “みづからは全知全能”は、もうどうしようもないと思っております。 > マルク・デュトゥルーの役割は何だったかなどなどという詮索を 社会的法益の問題にちなむならば 起こしたくなりますが たぶんその気になったところでやめておきましょうか。 どうもありがとうございます。そもそも、愚生のオツムの範囲を超えておりますし、また勘違いに解釈される方たちもおられるため、とても助かります。 > 社会的法益とは そうしますと 共同体益でしょうし 個人にとっては《関係性》の側面に焦点を当てた格好でその法益ないし共生目的を表わすと見てよいでしょうか。 まさしく仰るとおりかと存じます。 > 共生目的において 存在とその自由意志を守るという行為が その種の犯罪に対して無効という判断をもたらす。・・・ “社会的法益”と“個人的法益”との重みのおき方は、ケース・バイ・ケースのように考えておりますが、通説は“個人的法益”を第一義に考えられているようでございます。確かに、かような特殊な状況下では、また共生への道程に向けては・・・・・・・ (個人的法益:ソースは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E7%9A%84%E6%B3%95%E7%9B%8A からでございます) デリダが現象学に取り組んだ例を以下に示してございます。 このころにハイデガー、キルケゴールなどを読書後、フッサールの現象学を研究することを決意し、ベルギーのルーヴェンにある「フッサール文庫」に行く。1954年のアグレガシオン(教授資格論文)はフッサールについてのものだった。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80 からでございます) > 本質よりは実存であるにもかかわらず サルトルの場合には《自発的側面が強い傾向にある》と捉えられたゆえに あたかも《本質としての主体》を説いていると見なされたのでしょうか。 愚生の印象と致しましては、以下のサイトの方とほぼ一致しております。根本的な思想の方向性としまして、マルクスの中における形而上学的部分を批判しているだけかと思っております。 http://blogs.dion.ne.jp/hiroads/archives/6630472.html > ぼちぼち行きましょう。 どうもありがとうございます。ご心中をお察しいただきまして、感謝の極みでございます。 駄文、ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。
お礼
☆ デリダに触れていないのが残念ですが むすびの言葉は よく事情を捉えているのではないでしょうか? 存在論には 意志の自由選択が来ると思います。構造=つまり関係は 意志行為のあとの情況でしょうし その情況じたいとしては確かに個別の意志のすでに与り知らない領域として推移するものと考えます。 だからと言って 書斎の椅子にもたれかかっていてよいとも思えないのですが。 反対の立ち場の方々の参加を得られませんでしたが だいたい周辺事情のほうからも議論を果たしたように思うのですが いかがでしょうか? (特にありませんでしたら 放っておいてください。そのうち閉めます。リトルキッスさんのご投稿を待ちます)。 重ねて感謝を申し上げます。ありがとうございました。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 《法益》の概念について なじんで行きたいと思います。ありがとうございました。 ◆ たわしの雑感&読書メモ ☆ は残念ながら ほどよくつかみ切れませんでした。論点をとりあげづらい感じです。 ★ マルクスの形而上学 の批判 ☆ というところに関心を持ったのですが なかなか評言を与えるまでに到りません。 ちょうどひとつの解説に気づきましたので これを掲げて もし何かありましたら取り上げてくださるようお願いいたしておきたいと思います。そこでは 《マルクスは誰よりも〈構造〉や〈関係〉を多用した学者であったが》といった見方も出て来ています。どうなんでしょうか。 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~ 人間の社会や文化を考える場合に 近代の人文・社会科学の主流的見解は 人間《主体》中心の立ち場を採用してきたが 構造主義はこの《主体中心主義》をのりこえ 《主体》を包みこみ 《主体》の思想と行動を決定づけ軌道づける《構造》の概念をもって文化と社会の理解を一変させた。 社会は個人の算術的合計ではなく それ独自の《構造》を持つ。文化は単なる個々人の制作物ではなくひとつの首尾一貫した構造を持つ。 この観点から 未開社会の親族組織や神話の精密な構造が解明され(レヰ゛-ストロース) フロイトが着手した《無意識》の世界も 《構造》をもつことが明らかになった(ラカン)。 マルクスは誰よりも《構造》や《関係》を多用した学者であったが 新しい構造主義の角度からもういちど再解釈されることになった(アルチュセール)。 文化史も単なる観念や作品の歴史ではなく 無自覚的ではあれ明解な《構造》をもつこと(フーコー) 個々の哲学者の仕事も著者の意図を超える構造をもつこと(ゲルー) などが明らかになった。 このように構造主義は 積極的な認識の方法として活用され これまで未知の領域を開拓し 多くの成果を挙げた。したがって 構造主義は思想の一タイプである以前に 《科学の方法》として理解すべきである。 ところが 六〇年代に実存主義と構造主義の白熱した論争が開始して以降(とくにレヰ゛-ストロースとサルトルの対決) 構造主義は科学的認識の立ち場からひとつの思想の立ち場へと転換しはじめる。 どのような意味で 構造主義は《思想》たりうるのか。実存主義は近代の《主体(主観)》中心の思想の最後の代表であるが この伝統的思考類型を拒否する構造主義は必然的に新たな《構造の哲学》へと移行せざるをえない。 人間的主体(または主観性)が世界の中心でも世界の能動的形成者でもなく 逆に人間的《主体》は構造の中の一要素であり 構造が作る諸関係の結節点とみなされる。つまり 構造主義(または関係主義)は 人間観・社会観の大転換の口火を切ったのである。構造主義によって実存主義が打倒されるとともに 実存主義を含む近代思想の大建築物が解体しはじめたのである。 * 《結節点》なら それとして自由意志とその――有限で相対的な意 味合いにおける――行為主体が想定されるとは思われるのですが。 ここに構造主義という科学運動が哲学的・思想的レベルでもつ決定的な意義がある。構造主義者たちは 好むと好まざるとにかかわらず 自己を一個の哲学者・思想家へと訓練せざるをえない。 レヰ゛-ストロースは社会科学方法論を ラカンは言語=数学的構造の認識論的研究を フーコーは理性と権力との社会哲学的分析を アルチュセールは新たな因果性概念の構築を バルトは構造化と脱構造化とのせめぎあいの現実態を というように 各人が各様に科学的知を基にして広義の哲学的思索に踏み出す。 構造主義は 二〇世紀が経験したひとつの《科学革命》であると同時に 可能的には人間存在の新たな思索を用意するものでもあった。ここに 構造主義が 味方の中でも反対者の中でも 多大の論議をまきおこした理由があるし おそらくは思想史上の画期的な事件として長く記憶にとどめられるに値することであろう。 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ご返答、さらには、貴重なご意見まで賜り厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。 > 浅田彰について 《無主体》説を想起させるというのは 例の《逃走》論からです。アンガ-ジュマンの反対ですね。でも 今回のご回答に接して いや待てよ 《逃走》するというのならば その意志があるではないか。とも考え直しました。 いえ、こちらこそ駄文にお付き合いしていただき、また、かような貴重ご意見を賜り、愚生と致しましても、とてもありがたく存じております。 > ▲ (浅田彰:構造と力) ☆ 《本文を読》んで納得したということもなかったように思うのですが かれが全面的に 上の丸山と同じ立ち場ではないと確認しておきます。 愚生も大変勉強させていただきました。つきましては、厚くお礼申し上げたい とそう思っております。 > デリダについてひとことです。 ☆ というふうに展開して説くところの《ディフェランス》ですが これは サルトルの次の見解とそう遠くはないように思えましたが どうでしょう? 確か、両者とも、現象学(ハイデッガーも含みます)からも影響を受けたといわれています(両者とも、後になってフッサールとは離れていきますが)。 明らかに、サルトルの場合では、自発的側面が強い傾向にあると思われます(参考1 and 2をご参照ください)。一方、サルトルほど強くは感ぜられませんが、デリダにおきましても確かに共通点は見られるかと考えられます(参考3をご参照ください)。 参考1:自己が主体的に状況内の存在に関わり、内側から引き受けなおすことができる。このようにして現にある状況から “自己を” “開放し”、あらたな状況のうちに “自己” を“拘束する” ことはアンガージュマン<engagement>といわれる。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB からでございます) 参考2:対自は仮に存在といわれたとしてもそれ自身は無<néant>である。これは人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。このことについてサルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は “自分の本質を” 自ら “創りあげる” ことが義務づけられているとした。 参考3:差異を意味するDifférenceの e を、その発音にひかれて時折なされるつづり間違いに従って a にいれかえて造語された。anceという名詞化語尾を持つことで能動態でも受動態でもない、“中動態”(ギリシア語などでの再帰的な態 「“自分自身を” “……する”」 )的な意味合いを持つようになる。 (http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%B1%E4 からでございます) > 香山リカの《言葉がひとりで勝手に歩き出す》というのは わたしたちは《無我》や《空観》についていやというほど味わっていると思います。すなわち この現実を離れたところ・つまり彼岸に何もかもを持って行って解釈しているように思います。この質疑応答の場などの一般にです。皮肉です。 他のご質問者様・ご回答者様の心証を害するかもしれませんが、上記ご意見に賛同致します。 以下、宗教的文言も含まれているため、ご叱責を賜ろうかと存じますが、愚見をのべたいと思います。 (1)偶発性? この事件は、以前にもご紹介させていただきましたが、主犯者の妻も懲役刑を下されたことからもおわかりのように、複数人による組織的犯罪であったかと考えられます。 では、「なぜザビーヌ女史が?」という疑問も出てこようかと察せられます。つまり、他の女子児童ではなく、ザビーヌ女史であったのか? でございます。組織反である以上は、誰かが、仮にザビーヌ女史がその場にいなければ、別の女子児童が狙われ、拉致されていたことは容易に想像できるかと思われます。改めて、ではなぜ彼女だったのか? この問いには、残念ながら、愚生は回答を持ち合わせてはおりませんし、おそらくは“謎”かと考えております。 (2)ザビーヌ女史とヨブ? 犯人達の逮捕により、かような犯罪組織の存在が明るみに出、さらにはベルギー王室をも巻き込み、さらにまた、政権を転倒させる結果をも引き起こしました。 これらの取り締まりから、ベルギーに内在する“膿”が幾分かは排出できたかと考えております。もし、モラルを取り上げてしまいますと、当犯人と、かようなベルギー社会とどちらが、問題があったかは不明かと考えております。 また女史が発言していたように、安易な同情は差し控えるべきですし、またヨブに友人が“因果応報論”を浴びせたように、女史に単純な“因果応報”等を押し付けるなどはもってのほか と考えている次第でございます。 女史にとりましては、全くの突発の不幸ごとだったかとは思います。ですが、彼女の発言・与えた影響を鑑みますと、運・不運 とは“神の定めし”ところだったと考えております。つまり、神の目から見れば、犯人も悪役の一人であり、ベルギー社会にとりましては、有効であったとさえ考えられます(“社会的法益”には、抵触してはいないと考えております)。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E6%B3%95%E7%9B%8A からでございます) (3)日本人とザビーヌ事件 とかく、日本では、彼女のような境遇に会われた方達には、“穢れ”のようなラベリングをされる傾向にあろうかと察せられます。日本にも、少なくとかようなラベリングは無くなっていって欲しいと願っております。 ご参考になるところがございましたら、幸甚に存じます。
お礼
★ 確か、〔サルトルおよびデリダ〕両者とも、現象学(ハイデッガーも含みます)からも影響を受けたといわれています(両者とも、後になってフッサールとは離れていきますが)。 ☆ しかと承りました。デリダもなのですね。 本質よりは実存であるにもかかわらず サルトルの場合には《自発的側面が強い傾向にある》と捉えられたゆえに あたかも《本質としての主体》を説いていると見なされたのでしょうか。 たしかに《差異の体系のみ》(=文化的社会状態=構造)ゆえに 主体については後回しになるというのは それとして分かるわけですが。 だとすれば やはりソシュールも問題になりますね。 これは こんどは Hidocchi さんがご関心が薄いと来ています。 ぼちぼち行きましょう。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ひと段落がついたようにも感じましたが たぶん課題はつづくのでしょうね。偶発性をめぐっての問題は 答えがないかのように思えますし。 あぁ でもやはり 《(1)偶発性?》で なぜこの人に降りかかって あの人にではないかの問題 これは分からない。つまり《おそらくは“謎”かと考えております》というふうに《なぞ》だと言っておくことは重要であるように思いました。そういう意味でアンガジェした状態にありつづけますから。 これを 《(2)ザビーヌ女史とヨブ?》および《(3)日本人とザビーヌ事件》に触れておられるように 《因果応報》を当てはめてみたり 《“穢れ”のようなラベリング》をしたりするというのは――たとえ 《道徳》的であったり果ては《神》を持ち出したりしても―― 人間がものごとを分かったように《さばく》ことを意味すると思います。神の罰だと言っても それはそれを人間が想像し判断をくだし みづからは全知全能であるかのごとく振る舞っているということになってしまいます。 なるほど 《法益 / 社会的法益》とはそういうことを言っているのですか。よほど――もし言うとすれば――神のこころに近いかとさえ思われます。(たぶん パターン化すると いけないのでしょうけれど)。 ★ さらにはベルギー王室をも巻き込み、さらにまた、政権を転倒させる結果をも引き起こしました。 ☆ 澄みません。未知でした。背後の組織にかんする情報は 読みました。 ★ 女史にとりましては、全くの突発の不幸ごとだったかとは思います。 ☆ うんぬんと考えて行きますと もう何が来ても どんなことが起こっても こわくはないというかの――単純単細胞ですので――気になって来ます。 マルク・デュトゥルーの役割は何だったかなどなどという詮索を 社会的法益の問題にちなむならば 起こしたくなりますが たぶんその気になったところでやめておきましょうか。 それゆえ《予知》説も出て来たのかも知れません。たぶん 現代からは この予知説もあまり前面に出さずに 法益なら法益といった経験思考において解釈や説明が成し得るものならば なかなか未来も開けるかも知れません。ありがとうございました。 * そう言えば マルク・デュトゥルー本人は この事件にかんしてどういう判断を持ったのでしょうね。ザビーヌさんと同じならば 哲学にも普遍性があるというものでしょうね。(ちょっと放談に傾きました。おゆるしあれ)。 * 社会的法益とは そうしますと 共同体益でしょうし 個人にとっては《関係性》の側面に焦点を当てた格好でその法益ないし共生目的を表わすと見てよいでしょうか。共生目的において 存在とその自由意志を守るという行為が その種の犯罪に対して無効という判断をもたらす。・・・
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ―――スピノザによる意識の批判――― P23~ http://books.google.co.jp/books?id=R4G35NUoVhsC&pg=PA29&lpg=PA29&dq=%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%BE%A9&source=bl&ots=3jrXkJk6zh&sig=Gxc_UhN0fWNd78Vcw4idVdLRzr0&hl=ja&ei=3QGVS66cNoz-7APC24DWCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CBMQ6AEwBQ#v=onepage&q=&f=false
お礼
littlekiss さんに 自由意志の存在を証明することは いともたやすいことですよ。 回答者というものは 或る種の仕方でシェフである。料理をつくって出すのだが そのとき 食材をそのまま皿の上に載せて出すシェフは いなかろう。すき焼きで卵を割ったり 焼き肉で肉を焼いたりするくらいが 客のすることだ。 だが だれかさんは 材料だけをポーンとテーブルの上に置いて厨房へ去って行ってしまう。 まともだけではなく真面目になったが まだまだだ。シェフなら 料理をしたものを食わせるものである。 つまりこんな自明な常識であっても それに従わないところの《自由意志》がひとにはある。ということになる。 このようにガミガミ言うわたしも この自由意志の前には どうすることも出来ない。自由でそれは有効だからである。 けれども 魚や鶏をボーンと食卓の上に置いていくシェフの自由意志による意志行為は 限りなく無効に近い。えっへん。
補足
littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ▲ 平尾昌宏:生命と自覚―――スピノザによる意識の批判――― ☆ コピー&ペイストがかないませんね この資料は。 平尾じしんがどういう思想の立ち場であるのか いまひとつ分からない感じを持ちます。ので 論点をそれぞれ取り上げて もっぱらわたしの批判をしるして行きます。 ▲ 《自由意志》にかんして その原因をひとは知らないと言う。だから たとえ自由意志による主体性を発揮したとしても その行為は無力だと。 ☆ これは 自由意志はみづからの原因を持つか持たないかをひとは知らないと言い直すとよい。つまり ひとに自然本性としてそなわると言われる自由意志は その意味で 根拠を持たない。つまり無根拠に拠っている。無根拠という原因を持つと。 そしてむしろ主体性如何の問題は 内面における原因がどうかによりは 意志行為の結果にある。外にある。 それは 二人以上の意志行為が合わさって社会現象となったとき その段階で 一人ひとりの個人はすでにその結果に対して責めを負わない。この結果がさらにあらたな原因となって別の結果を生むことになったとしても つまりそういうふうにあらゆる個別の意志行為が寄り集まってかたちづくるその全体情況については 同じく個人は責めを負わない。と言わねばならないことに 主体性の問題はある。 せいぜい答責性つまり説明を成せと攻め寄られるくらいで 済む場合が多い。それゆえにも主体性のあいまいさ あるいは 内実の無さが問われる。 あるいはまた じっさい社会力学上 個人の意志行為は自由であったとしても 非力であり無力である。しばしば無効の事象が 既成事実だからという理由で 有力となっている。既得権益を守る意志行為が大手を振って歩いていて 有力である。悪貨が良貨を駆逐するとは このことだ。 無力であるにもかかわらず 意志の自由とその実行行為は 有効である。有効だが 無力である。しばしば無効のものごとが 有力である。ただこれだけのことだ。 ▲ 人間ないし自由意志と 自然とのつながり あるいはさらに一体感のことが扱われている。 ☆ まぁ 言わずもがなだ。スピノザの場合 自然という言葉で 神を意味させることがあるそうだが 神となれば 無根拠という捉え方で ここは一貫させたほうがよい。無根拠を意識し自覚しても始まらない。無根拠つまり神に対しては 非思考なのである。 ・・・賢者は自己 神 物を或る永遠の必然性によって意識=自覚し 決して存在することを止めず 常に心の真の満足に達する。 (5部定理42注解) このスピノザからの一節が結語のところに掲げられているが これは ただの想像の産物である。お遊戯には違いない。神のままごとだ。 《非思考》を忘れてはならないのである。つまりこの非思考があたかも思考の内に入って来たと この一節は言おうとしている。んなことたぁない。いくら《賢者》でも。 ▲ 自由意志はみづからの原因を知らないという命題から 《無意識》の領域が設定されている。 ☆ そうではなかろう。無根拠ゆえに その無根拠と《わたし》の関係としてわれわれの生は 賭け あるいは あそびだと言ってもよい。だがここで《無意識》は 問う必要がない。 意識にのぼったときに取り上げ 考えればよいからだ。 無意識が――無意識じたいが――意識にのぼったとすれば どうするか? あぁ 意識していないことが あたかもわが意志のごとくはたらいたのだろうか? いやいや そんなことはないだろうか? と戸惑ってみせれば それでよい。それでおしまいである。意識していないことは 意識していないことである。 ▲ 自殺 ☆ の問題が取り上げられている。 自殺に追いやられるのが 外部の原因によるか内面における理由によるか これは どうでもよい。全部の原因だと言ってしまえば済む。 自殺は自由である。ただし 存在=生命存在=人間存在を抹殺することは 自由意志を抹殺するところの自由である。これは 実際問題として 無効だと 人間は考えるのだ。そのように想定されている。現在のところ 《生きる》が 《生きない》を凌駕しているのだ。みなで投票したわけではないけれど。
こんばんは、わざわざ駄文にお付き合いいただきまして、厚くお礼申しあげます。 > もしその感触のみから言えるものならという条件で言えば ソーカルの批判は クリステワ゛が 自分の思索の内容を飾るために物理学等の学説を持ち出したその飾りの部分に対するものに過ぎないのではないかという印象もあります。つまり その意味では ソーカルの批判がその思索の営為をすべて葬り去ったとは言えない要素もあるのではないか。 おそらく、ソーカルが指摘したかったのは、仰る通り、本質的な部分ではなかったかと考えております。”難しい概念”を、”(本質的な部分をろくに理解せずに)複雑な数式・記号で表現”する”風潮”のようなものを批判したかったものと思っております。おそらく、研究者としてのソーカルとしては、それが耐えられなかたのではないかと推察しております。 「ソーカルの真意は思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用していることへの批判だった、と後にコメントしている。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6 からでございます) > 「マルクス主義はきわめて人間主義的であり 実存主義的」 はい、全くその通りかと存じます。サルトルもそうだったかと理解してございます。 > そのぶれに対する批判をもって もう一方の《無主体》説へ振れて行くというのも 何とも理解できません。 おそらくこの部分がbragelonne様と愚生の意見の違いがあろうかと推察してございます。 これは、”朝まで生テレビ”で香山りか女子が発言していた内容でございます。 「浅田彰が用いた”スキゾ”という言葉も勝手に一人歩きしてしまい、本人の当初の意図から離れてしまった」と言っていましたが、何か”はやり”的なことがあったろうかと推察しております。(そして、《無主体》説に移ってしまったのではないかと……..) (http://okwave.jp/qa/q3050733.html もご参考にしていただければ、幸いでございます) ですが、この周辺につきましては、愚生よりも遥かに理解力の富んでおられますbragelonne様の方が的をえているとも思っております。何分、その当時は愚生も流行で読んでいことは否定できないものですから。教養課程の折は授業そっちのけで、これらを読んでいました(笑)) サルトルの《主体》説を批判したというのですが そもそもかれは ○ 実存は本質に先行する。 ☆ と言っているのですよね? つまり本質=ないし存在というのは コギトの主体としてのそれを言うのでしょうし 遠くイデアとの関連での主体のことですよね? ぎゃくに見ると 弁証法過程をたどる人間は・つまり実存は このような《本質的な主体》とは別なのではないですか? 以下にもございますように、”実存”と”本質”は、別物(むしろ、ま逆の言葉)かと考えております。 「実存は本質に先立つ」: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E3%81%AF%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E3%81%AB%E5%85%88%E7%AB%8B%E3%81%A4 > 実存主義は 意志行為すなわち自由意志を暗黙のうちにでも認めているという違いがあるかと思われます。 仰る通りかと存じます。サルトルは”自由”という言葉を肯定的にとらえていたかと理解してございます。 > 誤解および偏向が ほかのいろんな誤解と腕を組むかのようにしてうんと寄り集まって判断の中断ならぬ完全停止に落ち入ってしまった。結果 複雑怪奇とさえ映るポスト・モダンの方向へ向かったかのように見えます。 全く、納得させられました。たぶんそんなところかと推察している次第でございます。もう少し時が経ち、あの当時の評価が正しくなされる日を待っている次第でございます。 ザビーヌ事件 の無効性につきましては、愚生のオツムでは、困難な状況にございます。 (1)ただ、単純に”倫理”に抵触する事件とは別として考えるべき (2)彼女の発言は相当な影響を与えた(もちろんいい意味でございます) と解してございます。 つきましては、上記も含め、No.3の(3)の観点から、一度ご返答させていただきたく存じます(誠に、申し訳ないのですが、現在は考案中の段階でございます)。 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
■ (ヰキぺ:サルトル) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB 対自<pour-soi>である人間とは、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」とした。人間は、何をやっているときでも常に自分を意識することができるので、物事のように自己同一的なあり方をしていない。AはAであるといわれるのは即自存在においてのみであって、対自においてはAはAであったとしか言われえない。(* つまり ズレがある)。 対自は仮に存在といわれたとしてもそれ自身は無<neant>である。これは人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。このことについてサルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 最後の《人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない》が 《エクリチュール つまり みづからテクストを織り出して行くもの》に似ているように思います。 香山リカの《言葉がひとりで勝手に歩き出す》というのは わたしたちは《無我》や《空観》についていやというほど味わっていると思います。すなわち この現実を離れたところ・つまり彼岸に何もかもを持って行って解釈しているように思います。この質疑応答の場などの一般にです。皮肉です。 《偶発性》をめぐる議論 お待ちします。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 構造主義の思想家たちに関してわたしは解説を読んだだけの場合が多く あとは推測を交えて議論しています。それだからでしょうか よく言えば張りきって 悪くいえば根拠が不確かなくせに断定調で ものを言っています。どうか突っ込みを入れていただければさいわいです。 浅田彰について 《無主体》説を想起させるというのは 例の《逃走》論からです。アンガ-ジュマンの反対ですね。でも 今回のご回答に接して いや待てよ 《逃走》するというのならば その意志があるではないか。とも考え直しました。(実際 浅田も 逃走によるたたかいだと言っていたように思います)。お詫びとともに 訂正いたします。すみませんでした。 もうひとつ訂正があります。自然と文化(=非自然)との截然とした区別――そして 後者の《文化的社会状態》(つまり《構造》)にのみ人間の世界はあるのだという丸山圭三郎の言語哲学――の件ですが 浅田は 《自然とのつながり》をどうも《部分的に認める》立ち場のようでした。 ▲ (浅田彰:構造と力) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人間も生物である以上 生命の世界と完全に断絶しているわけではないことも事実であるが 我々は生とのズレを確認した上で部分的な連続性(* つまり 自然と文化とのつながり)を認める立ち場をとり 生との連続性を基本とした上でいくつかの飛躍を認める立ち場を退ける。その理由は 本文を読めば明らかになるだろう。〔p.28 註(1)〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《本文を読》んで納得したということもなかったように思うのですが かれが全面的に 上の丸山と同じ立ち場ではないと確認しておきます。澄みませんでした。 デリダについてひとことです。 ◆ (ヰキぺ:差延) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%BB%B6 ソシュールは・・・「言語には差異しかない」と述べた。彼によれば、記号の意味は、他の記号との違いによってしか規定されていない。ひとつの記号は他の諸記号が「不在において」介在している限りで意味しうる。しかも、その他のものは、その記号それ自体においては不在であるから、あらかじめどういうものかは決して規定されない。 このことは言語論的転回を参照するまでもなく、それ自体ひとつの記号であるところの哲学的な概念、とりわけ、他のすべての概念がそこから意味を汲み取っており、他の概念には依存していないとされる、形而上学的で超越的な観念やそこからなる体系にも波及せざるを得なかった。 デリダはこのソシュール的な差異のあり方を痕跡として捉え、そこに時間的な遅れ、ずれを見出した。 言語においてある語が何かを意味するとき、その語は、意味されているものの代わりに、我々に対してたち現れて意味する。代理・代表・表象する(represent)するということは、一方では代理なしでは現前(present)しないものを現前させることだが、他方では直接には現前させない、ということでもある。代理するということは、不在の形で現前させるということでもある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに展開して説くところの《ディフェランス》ですが これは サルトルの次の見解とそう遠くはないように思えましたが どうでしょう?
申し訳ございません。Hidocchiです。ひとつ申し忘れておりました。 ポストモダニズムの終焉はあっけなかったと記憶しております。以下のサイトをご参照くださいませ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6 硬直した権威主義がはびこっていたように見受けられます。 それでは、また明日よろしくお願い申し上げます。
お礼
補足をいただきありがとうございます。 ★ ポストモダニズムの終焉はあっけなかったと記憶しております。 / 硬直した権威主義がはびこっていたように見受けられます。 ☆ フーコやデリダは読んでいません。ドゥルーズ;ガタリの本は めちゃくちゃだと思いました。ラカンは まったく分かりません。(解説も読みました)。 ただ クリステワ゛は多くを読んでいます。分かりませんが それこそ《表象し得ぬもの》――原記号態だとかいうのでしたか?――に迫ろうとしているといったこととして受け止めました。 もしその感触のみから言えるものならという条件で言えば ソーカルの批判は クリステワ゛が 自分の思索の内容を飾るために物理学等の学説を持ち出したその飾りの部分に対するものに過ぎないのではないかという印象もあります。つまり その意味では ソーカルの批判がその思索の営為をすべて葬り去ったとは言えない要素もあるのではないか。――この点は 感触としてのべました。 ▲ (ヰキぺ:ソーカル事件) ~~~~~~~~~~~~~~ なお、浅田はソーカル事件で示されたフランス現代思想潮流の衒学性の問題に対して、フランスで『知の欺瞞』が出版された1997年当時から少なくとも2001年8月1日にいたるまで一貫して、「ソーカル事件」の教訓を強調し、ソーカルらによる論証は対象となるそれぞれの論者を本質的に批判してはおらず、また批判の根拠たる科学主義も絶対とはいえないと応じながらも、「明晰にできることはできるだけ明晰に」すべきという見解を出している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしは浅田の著書にも《無主体》説を見ますが この評言の中で 《ソーカルらによる論証は対象となるそれぞれの論者を本質的に批判してはおらず》という部分が 部分的にクリステワ゛の或る種の思索に当てはまるかも知れないとは感じています。 ▲ 「明晰にできることはできるだけ明晰に」すべきという見解を出している。 ☆ これは言い得て妙ですね。 それではお休みなさい。明日に。
補足
お礼欄を書いたあと 考えが思い浮かびました。 サルトルの《主体》説を批判したというのですが そもそもかれは ○ 実存は本質に先行する。 ☆ と言っているのですよね? つまり本質=ないし存在というのは コギトの主体としてのそれを言うのでしょうし 遠くイデアとの関連での主体のことですよね? ぎゃくに見ると 弁証法過程をたどる人間は・つまり実存は このような《本質的な主体》とは別なのではないですか? むしろ弁証法過程の主体〔というふうに 主体という言葉を使うとしますと この主体〕は 推測で述べますがデリダの《差延のはたらきをいとなむ時間過程的存在なる〈わたし〉》にきわめて似ているとさえ考えられます。わづかに たぶん 実存主義は 意志行為すなわち自由意志を暗黙のうちにでも認めているという違いがあるかと思われます。 安易な物言いを承知の上で言いますが どうも誤解が錯綜しているように思えてならないのですが どうですか? 《モダン=近代人》の人間類型がそんなにやわな・あるいは偏向した思想だとも思えません。その出発点から偏向してしまうということが問題だったのではないでしょうか? コギトはコギトとして位置づけていれば何の問題もなかったはずなのに そこから科学万能主義へと片寄ってしまった。といった誤解および偏向が ほかのいろんな誤解と腕を組むかのようにしてうんと寄り集まって判断の中断ならぬ完全停止に落ち入ってしまった。結果 複雑怪奇とさえ映るポスト・モダンの方向へ向かったかのように見えます。――ここまで言うと 何も分かっていないやからの間抜けた言い過ぎになるでしょうか?
こんばんは、Hidocchiです。ご返答賜りまして、厚くお礼申しあげます。 残念ながら、ソシュールにつきましては、愚生は疎くございます。従いまして、サルトルの個所から愚見を述べたいと思います。 なお、前回の内容は、小阪修平著「わかりたいあなたのための現代思想・入門」からのものです(うろ覚えのものを自分なりに綴ってみました)。 > 反論する! > つまりそれとしても そもそもマルクスを初めとして このコミュニズムの革命は 世界史的に一挙に起ち上がるというもので それは資本主義の成熟と世界全体にわたる展開ののち起きると見通しているのですから ロシア革命は その展望に入っていなかったのですし 変則的な歴史経験になったというものです。 仰るとおりかと存じます。当時の非先進国であるロシアは含まれず、もっとも資本主義が発展しているイギリス等にて“革命”が勃発するというのが、その当時の予想だったかと記憶しております。 > その意味でも ソ連および東欧の社会主義国家とその世界にかんする《実験》については 話がずいぶん込み入っているという前提を抜きにして論じるわけにはまいりません。 賛成でございます。 > 《プラハの春》は ドプチェックでしたかその周りの人々もずいぶん笑顔がよかったという印象を写真から得た記憶がありますが 条件付きで議論すべきかと考えます。 《プラハの春》以降の「ソ連軍の侵攻」のことを指してございます。つまり、“自由意志”に基づく(自由主義への)変革が、ソ連の圧倒的武力で押しつぶされた ということでございます。 そしてその当時の知識人の中には、人間(理性)なるものへの疑惑・不信(人間は、どこまでいっても、残虐性を持っており、マルクス主義が持つ”人間中心主義”(人間理性主義)には限界があるのではないかと考えた人もいたようでございます。その中に、”構造主義者”がいたかと思われます。 > 何が何でも《アンガージュマン》だとも言えないわけで マルクス主義のほかにも 何にどのように参加するかは それこそ《実存》の数だけ異なっているとも言わねばなりません。要するに 大前提が《自由》なのでしょうから。 実際に、サルトルがとった行動を以下に列記させていただきます。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB からでございます) ・徐々にサルトルはマルクス主義に傾き、ソ連を擁護する姿勢を打ち出す。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなった。 サルトルはアンガージュマン(政治参加もしくは社会参加)の知識人として、自らの政治的立場をより鮮明に打ち出し、アルジェリア戦争の際には独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支持する。 ・アルジェリア独立後もサルトルはキューバ革命後のキューバの革命政権を支持するなど脱植民地化時代における第三世界の民族解放運動への支持は一貫していた ・ソ連による1956年のハンガリー侵攻(ハンガリー動乱)、1968年のチェコスロヴァキア侵攻(プラハの春)に対する軍事介入には批判の声をあげた。 ・ソ連への擁護姿勢を改め、反スターリン主義の毛沢東主義者主導の学生運動を支持するなど独自の政治路線を展開していく。しかし、左派陣営内であったことはかわりがない。 つまり、種々の《アンガージュマン》をしたようですが、根本的には”左派”だったようです。 > かんたんな大雑把な批評つまり批判を為しましたが それだけで論旨を継ぐとしますと そのあとに起こったという構造主義 この思想には 何とも魅力を感じないのでした。腰を落ち着けて勉強しようとは これまでついぞ思わなかったのです。なんで草木はみななびいてしまったのでしょう? 構造主義とは単なる、当時の(1960~1970年代)マルクス主義批判だったのではないかと考えております(その矛先には、左派のサルトルもいたかと思われます)。 そして、当時は、因果関係は分からないのですが、価値相対主義がはびこりました。かつては存在した“労働”への価値観が失われ(1960年代後半から1970年代前半のアメリカ)、また“性”にたいする情熱のようなものが消え去っていった時期(フリーセックスの風潮が生まれた1960年代)だったかと思っております。 愚生が青春時代にもてはやされたデリダに致しましても、今考えて見ますと、当時の流行に近かったのかと思っております。詳細は、後世の歴史家(哲学史家)が証明してくれるものと考えております。 ~~~ 「これが青春なのだ、これが情熱というものなのだ、これが身も心も捧げ尽くすということなのだ」(ツルゲーネフ「初恋(改)」) 残念ながら、ポストモダニズムに傾倒した愚生の青春って何だったのかな? ~~~ > あるいはいま 少なからず構造主義は批判を受けている側面もあると思います。それなのに 《主体性・ひとの意志行為・責任・判断》といったことがらについて あたかも振り子の振りきったままのごとく 考慮を及ぼさないようになっているのでしょう? この問題につきましては、愚生も推測の域をでないのですが、”○△主義”なるものが最終的には、社会にも影響をもたらし、マルキシズム程ではないにしましても、問題を生じてしまう という冷めた見方が大勢のように見受けられます。 すみません。ザビーヌ事件につきましては、次回にお願いさせていただきたく存じます(本日は、会議で疲れてしまいました(涙))。 駄文、ご一読いただきまして、厚くお礼申しあげます。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 さて マルクス理解がどうも違っているように感じます。マルクス主義やソ連の路線がどうであれ マルクス自身は――暴力革命のことを脇に置けませんが措くとしたら―― きわめて人間主義的であり 実存主義的です。 ▲ (マルクス&エンゲルス:ドイツ・イデオロギー) ~~~~~~~~ 共産主義は経験的にはただ《一挙に》( auf “einmal” )または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。・・・ 共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。 この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる。 ところでただの労働者たちの大衆・・・は したがってまた一つの保証された前提としてのこの労働そのもののもはや一時的でない喪失は 競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》( weltgeschichtlich )存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。 ( 古在由重訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん 労働価値説あるいは搾取の理論 ここに弱点があるとわたしは見ていますが 残念ながらうまく説明し得ていません。ただ この一節にいくらかは垣間見られるところのむしろ現象学的な存在論ないし実存主義の態度は サルトルが左へぶれようともソ連が帝国主義に走ろうとも そのぶれに対する批判をもって もう一方の《無主体》説へ振れて行くというのも 何とも理解できません。 無意識の構造ないし社会力学的な関係が ひとをして生きさせているとか。(おそらく レヰ゛ストロースの交叉いとこ婚の仮説において そういうふうな・人間の意志を超えた力の存在に人間は従っているということなのでしょうか?) あるいは つねに今と過去もしくは未来との差延の構造的な過程じたいとして ひとは生きるとか。――これまでにも触れて来ましたが それら自体についてそれほどの違和感はありません。けれども それだけだと言われてしまっては 困ります。 ひとには 自由意志がある。(これが社会において有力にはならないとしても・つまり無力であっても 理論において有効です。そしてこの理論が有効ではなく 無益だとか無効だとか言うのであれば この世は 飲めや歌えやでおしまいなはずです)。 あるいは 人為的で文化的な社会関係としての構造が 一挙に自然から抜け出て人間の世界として成り立ったとは思えません。自然が たとえ痕跡だけだとしても ひとには備わっています。 ▲ (マルクス:経済学・哲学草稿) ~~~~~~~~~~~~~ 男性の女性にたいする関係は 人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。 だから どの程度まで人間の自然的態度(* 自然児スサノヲの人間語)が人間的(* 品格を重んじるアマテラス人格語 もしくは スサノヲ=アマテラス統合語)となったか あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは 男性の女性にたいする関係のなかに示されている。 (第三草稿〔二〕私有財産とコミュニスム 城塚登訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Hidocchi さんの貴き青春にどろを塗るわざになってしまうのでしょうか? 世代の違いが色濃く現われているというのでしょうか? わたしも青春のうちの恋にかんしては 五十年の不作でしたが そのようにまとめています。哲学とはこういうものではないでしょうか? (でも そのおかげで アース役ですとか ミラーニューロン現象ですとか 甘えには 相手の甘え(=甘やかされた甘え)を先取りして 機先を制するこちら側の甘えもあるですとか いろんな社会現象ないし人間の心的現象について おそわったと思っています。たたかいとは 何もしないたたかいであるですとか=相手が自分勝手にみづからの幻影と一本勝負をするのを見守っているというもの)。 いまいちどご見解をおしえていただきとう存じます。どうでしょう?
- littlekiss
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デュトゥルー事件 http://www.rue89japon.com/?p=1433 ●或る日の朝いつもと同じように自転車で通学している途中 バンのくるまが前をさえぎったかと思うと 二三人が出て来て 瞬く間にかのじょをくるまの中に連れ込んで走り去った。監禁した。虐待した。 この犯行者は 誘拐およ人身売買の常習犯である可能性が示唆されています。 人身売買は 昔の貴族だとか町の名士だとかも何人か裏のつながりとして 絡んでいるのではないかともうたがわれています。 ------二三人が出て来て 複数による犯行―――誘拐・監禁・虐待… 非親告罪(被害者の告訴がなくても公訴できる) 親告罪(被害者の告訴がなければ公訴を提起することができない) ・親告罪の告訴は、犯人を知った日から6ケ月以内にしなければならない。 法改正2000年5月より親告罪についての強姦罪等一部の公訴期間は撤廃された。 (強制わいせつ、強姦、営利目的等略取及び誘拐罪など) ザビーヌ事件1996年,ザビーヌ12歳未成年 【QNo.1767693 未成年者の告訴権】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa1767693.html ●犯人の行為は 人間の意志によって為されたものでありながら その意志は人間の意志ではなかった。 ――こう判断する人間の意志行為は 哲学のものではないのか? A(デュトゥルー)=B(集団デュトゥルーを含む) 自由意志とは http://humanscience.tripod.com/nippon/humansciencejpn.html
補足
★ ザビーヌ事件1996年,ザビーヌ12歳未成年 / 【QNo.1767693 未成年者の告訴権】 ☆ この点に関しては 問題ないですね。 ★ デュトゥルー事件 ☆ 情報がさらに詳しい。ザビーヌ事件そのものはこのサイトで読むとして ここにはその背後の事情を記事から引いておきます。 ◆ (幼児性愛:1996年のデュトゥルー事件が始まりだった)~~~~~ http://www.rue89japon.com/?p=1433 幼児性愛(売買と売春)のメッカはかって東南アジアのタイだったが、80年代に入り、最大の顧客だったドイツで反幼児売春キャンペーンが行われ、ドイツ人のタイ観光旅行が自粛されるようになった(あからさまではないが、日本人が同じような行為を行っている)。 しかし、需要に変化はないので、供給先を替えることを余儀なくされた。そこで彼らはヨーロッパの貧しい国から子供を調達するようになった。その中でも確たる保護基盤を持たない流浪のロマ民族がそのしわ寄せを蒙り、ルーマニアやスロバキアの子供たちが買い取られている。 デュトゥルーは盗難自動車の売買も行っていて、その売り先が東欧だった。その時、彼は幼児性愛の供給先と接触を持ったようだ。その一つがスロバキアだった。 96年からインターポールが中心になり、毎年毎年、幼児性愛、児童ポルノの国際的摘発が繰り返されてきたが、いまだに子供を犠牲にする性犯罪は減少の気配を見せない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 自由意志とは ▲ (人間科学基礎論・臨床人間科学 ――Dr. Mori Without Borders )~~~~~ http://humanscience.tripod.com/nippon/humansciencejpn.html 1. 教育の基礎は「可塑性」であると思う。「人は変われる」からこそ教育が成り立つのである。 2. 「可塑性」を加速化するのは「自由意志」である。「自由意志」による「主体的参加」が教育効果・治療効果を上げる。「動機づけ」が不可欠な所以である。 3. 「自由意志」の存在は即ち「自己責任論」へと変化する。しかし自己責任論は集団力学の前には無力である。自由意志に基盤を置きつつも「集団力学」や「精神力動」を考慮する必要がある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 勝手に抜き書きしたものですが この議論は 教育論という前提から出発していると思います。 ですから おそらく哲学における人間論としてなら まづ第一に――存在にそなわる自然本性そしてその中でも記憶と知解を全体として担い得て中核となるところの――意志という行為能力が来ると考えます。 それゆえ ここでいま議論している《主体性》が来るでしょうし その主体的な行動の過程において おのれの人間形成としての《可塑性》が潜在能力としてありそれが発揮されるでしょう。 意志は 自然本性そのものとして《自由》です。つまり自由意志であり 意志による自由選択が本性そのものだと考えられます。 《自由》のもとに自己表現して生きる《わたし》には その表現行為について つねに相手もしくはほかの人から問われる自由を持ちます。そこで答責性(説明責任)を帯びます。つまり 自由は 責任を伴ないます。 個人の自由ないし自由な意志行為が社会において関係し合い錯綜して全体を構成しているとき この社会総体について では個人が責任を負うかとなれば どうでしょう? ▲ 自己責任論は集団力学の前には無力である。 ☆ と断じています。たぶんこう言い直しておくのがよいでしょう。 ○ 自己責任は自己責任として あくまで個人としての《わたし》の一つひとつの行為にかんする自由および責任の問題である。これの社会総合的な成り立ちや結果について どこまで責任を負うかは 議論の余地がある。おそらくこれを みなで考えるというところ――つまり民主制としての社会過程――にその責任の取り方も 過程的に問い求められていく。たしかに 社会力学のちからの前に 個人個人は 非力である。 どぢゃ? (いつもまともですが こんな真面目なリトルキッスさん 見たことない。へへっ)。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 さてわたしが ふたつの参考資料について論点をきちんと抜き出せなかったのは――つまり Hidocchi さんに先に出して欲しいと言ったわけではないのは―― 実際に《拉致行為の無効という判断》の問題とどうかかわらせるかで ためらったためです。 承知致しました。 > 1. こんどは逆に見るかたちで なぜ人間にかんして《主体》ないし《答責性を持った主体性》を捉えなくなったのか? > 3. 指摘していただいたように独立性における自己責任などなどの人間性の貴き側面をも捨て去ったしまうような思潮に流れが全面的に変わってしまったのか? おそらく、実存主義が主張する”アンガージュマン(意思的実践的社会参加)”では、行動が要求されます。 確かに、実存主義に基づく行動(= アンガージュマン)には、美しさがございます(仮に失敗したとしましてもです)。しかし、例えば、プラハの春のチェコ事件等に実際に参画するのは、一般人には酷な所があろうかと容易に推察されます。妻子あるものにおきましては特にそうだと思われます。これらの理想と実際の実行との間にある苦しさ(美しいのだけれども)が、実存主義を支持する者にとっては、非常に酷だったことも一因だったかと察しております。誰しもがそれを成し遂げられる訳ではないからでございます。 これらが、確かに”ふぬけども!”と言われましても、実存主義から遠ざかっていったのかと推察しております。 > 2. 一面として レヰ゛ストロースの《西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識》 これは 文化人類学ないし社会人類学ないし民族学のモースでしたかマリノウスキーでしたか達もじゅうぶんそのフィールドワークの成果から主張したところだと思うのです。これは この確認をしておけばよいことだと考えます。 > 4. ☆ マルクス主義の側面は いまはその教条主義について批判する必要がないほどでしょうから 措いておくという前提で そのようにふつうに捉えればよいであろうのに なぜ振り子は他方の極にまで振りきったのでしょう? プラハの春(チェコ事件;1968年に起こったチェコスロヴァキアの変革運動。および、ソ連による軍事介入事件)をきっかっけに、共産主義に対する疑惑の目が向けられたと言われています。因に、「共産主義=人間理性を中心とし、弁証法的に発展していく西欧型イデオロギー」とある意味定義可能と思われます(非西欧型では、かような高みまで進歩するという思想はなかったかと思われます)。その中で、人間理性に対して疑惑の目が向けられたと言われております。つまり、人間とは、いざとなれば、どんな残虐なこともできてしまう。そして、その人間を中心にして、社会改革を押し進めていくことが適切なのかどうか?ということです、なお、実存主義はマルクス主義をその根底にしております。 そこで、レヰ゛ストロースが西欧型思想形態(弁証法を用いた共産主義社会の達成)とは相矛盾する思想かと考えられます。そして、この脱西欧型システムの風潮が高まり、流行化してしまい、マルクス主義を礎におく”実存主義”がわすれさられていったかと記憶してございます。 > 5. ソシュールの仮説もとうぜんこれに力を貸しているのでしょうが それをあたかも世界観の基礎として全面的に採り入れるというのも やはり振り子の振れが大きすぎます。そして、1970年以降には、逆に振り子がふれてしまった理由かと考えております。 > 6. 要しますと 人間はいったいどうなってしまったのでしょう? もはや、その後に生まれた”ポストモダニズム”も”ソーカル事件(Wikipedia ソーカル事件)”にて、1990年代に衰退していくこととなります。権威主義化が大きくなると、必然的にそのほころびも生じてくるものなのかもしれません。 そして、現在ですが、混迷の時代かと思われます。 以上の内容を下記ウェブでご一読いただけますと、ご理解も深まるものと推察している次第でございます。 http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2006/12/vs_fae6.html でごございます。 愚生の感想と致しましては、かような(ポスト)構造主義がもたらしたものは、ひとは”善・悪”の定義を(容易に)してはならない。ぐらいでしょうか。余り建設的なものは得られなかったと考えております(と言いながら、はまってしまいました(笑)。”若気の至り”としてお許しいただければ幸いでございます)。 さらに、この構造主義の孕む問題点が、なぜ《無効判断を成さないのか》の問い につきましては、明日にでもご返答致したく存じます。 デリダにつきましては、以下のウェブをご参照くださいませ(愚生には荷が重すぎますので)。 ”差異」と「書く」こと” ”榛名 貢” 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
補足
Hidocchi さん こんばんは。今回は 異見があります。ご回答をありがとうございます。 デリダからまいります。まづ次の結びの内容について別段の異存はありません。(そのように詳しく捉えるかどうかに違いはあってもです)。 ▲ (”差異」と「書く」こと” ”榛名 貢”)~~~~~~~~ http://www2u.biglobe.ne.jp/~katabami/haruna/200201sai_kaku.htm 自分のまわりに、自分の内部に我々は絶えずテクストを作り出している。そうすることを通じて、我々は我々自身を流動的、可変的なテクストとして織り出している。瞬間ごとに様相を変えていくテクスト織り出しの、きわめて人間的なこの営みをデリダは書くと呼んでいる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ところが その推論の過程で 世界は差異の体系のみにて成るという仮説については 異論があります。 ▲ (同上) いかなるものも差延と間隙化に先行はしない。 ☆ すなわちこれに対する批判が ソシュールの《言語記号の恣意性》はまちがいだという物言いです。次の事実が《先行》しています。 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html ☆☆ (その趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例です。 (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・ 心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・ これが消滅する というシニフィエとなっている) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◆ (サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義) ~~~~~~~ http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2006/12/vs_fae6.html 反論する! 「共産主義社会が到来するのが歴史の必然」なら、革命を寝て待つ方が利口ではないか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは大いなる誤解です。《主体とその行動》を言うのですから 《寝て待つ》という読みは出て来ないはずです。(だからと言ってわたしは全面的に 社会主義革命を支持したわけではありません)。 つまりそれとしても そもそもマルクスを初めとして このコミュニズムの革命は 世界史的に一挙に起ち上がるというもので それは資本主義の成熟と世界全体にわたる展開ののち起きると見通しているのですから ロシア革命は その展望に入っていなかったのですし 変則的な歴史経験になったというものです。 その意味でも ソ連および東欧の社会主義国家とその世界にかんする《実験》については 話がずいぶん込み入っているという前提を抜きにして論じるわけにはまいりません。 《プラハの春》は ドプチェックでしたかその周りの人々もずいぶん笑顔がよかったという印象を写真から得た記憶がありますが 条件付きで議論すべきかと考えます。(当事者としては そのような理論や展望とはまた別に 大事な歴史であることにまちがいはないでしょうが)。 ということは 何が何でも《アンガージュマン》だとも言えないわけで マルクス主義のほかにも 何にどのように参加するかは それこそ《実存》の数だけ異なっているとも言わねばなりません。要するに 大前提が《自由》なのでしょうから。 かんたんな大雑把な批評つまり批判を為しましたが それだけで論旨を継ぐとしますと そのあとに起こったという構造主義 この思想には 何とも魅力を感じないのでした。腰を落ち着けて勉強しようとは これまでついぞ思わなかったのです。なんで草木はみななびいてしまったのでしょう? あるいはいま 少なからず構造主義は批判を受けている側面もあると思います。それなのに 《主体性・ひとの意志行為・責任・判断》といったことがらについて あたかも振り子の振りきったままのごとく 考慮を及ぼさないようになっているのでしょう? ぜひ次回のご回答をお待ちしたいと思いますが どうでしょう。
ご辺頂きまして、どうもありがとうございました。 > まづ何はともあれ ★ 「人の意志」と「構造性」との関連(対比)が問題の所在というところでしょうか。 ☆ ここに――わたしの今の認識に関する限りで―― 焦点があるとわたしも思います。 とりあえずのご賛同賜りまして、厚くお礼申し上げます(論点が多数に渡る可能性があるため、まずはこの点に注力したいと思っております)。 > ですからおしえていただければ ついてまいりたいと思っております。 まったく、そうでございました。これは回答者が任ずべき事柄でございます。申し訳ございませんでした。 > ★ ”サルトル・実存主義vs.ストロース・構造主義” and”太陽の帝国” and”柳生大佐” http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2006/12/vs_fae6.html ・サルトル:”主体的な人間の一人一人の人格や自由を重んじる実存主義” ただし、前提として、マルクス主義的歴史観がある。 と読めます。 また、以下は、Wikedia クロード・レヴィ=ストロース からです。 「彼の問題意識はサルトルの実存主義という”主体”偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。前者に対しては、”主体”ではなく、「”主体”間」の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、「絶対的な主体ではありえない」)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。」 以上からまとめますと、 レヴィ=ストロースの批判は、「”主体”間」の構造こそが重要だと主張した。その理由は、主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造によるものなので、「絶対的」な”主体”ではありえない」。 しかし、愚生は以下のように考えます。 サルトルの主張は、”主体的な人間の一人一人の人格や自由を重んじる実存主義”かと。 確かに、この”主義”を実際に行動に移せるのは、限られた人達に限られるます。つまり、愚生のように、心身面に難がある者には、実行には移すことには難がございます。しかし、”実存”そのものの存在は別段問題はないと考えています。むしろ、「リーダーたる者はかようにあってもらいたい」と思っている次第でございます(無責任なガリ勉君がリーダーになるのは.........)。 因に、これを完全に否定しまいますと、相対主義をも通り越してしまい、虚無主義に陥ってしまいかねないのではないか とも考えております。 つまり、サルトルの主張から、”主義”なるものを除けば、別段問題はない ように思えるのです。また「主体間」これはむしろ ”主体”を持つ者同士の"dependent!な関係が前提にあるものとも受け取れます。また”主体”の存在が当時は(因に愚生はG.デリダが全盛期のときに学生でございました)、”ロゴス”なるものを内包するものは、いつも「ロゴス中心主義!」として、非難されていたかと記憶しております。ほとんど病的なまでにです。確かに理性主義(ヘーゲル、さらにはマルクス)を打ち破るのには有効だったかと考えられるのですが、実際的(実用的)ではなかったかと考えております。実際、議論は有益だったかも知れませんが.............. そして、その構造主義も後のデリダに、「ロゴス中心主義!」として、非難されていきます。(”デリダによる批判” をご参照くださいませ) また構造主義一般は、言語以外の対象や活動にこうした言語学理論をあてはめていこうとする試みでもあります。 神話、プロレスの試合、親族関係の体系、レストランのメニュー、油絵など、すべては記号の体系とみることができる。そして、こうした記号が結合されて意味となるとき依拠する深層の諸規則を、構造主義者である分析家は抽出しようとするだろう。構造主義は、記号が実際に「語っている」ことについては、おおむねこれを無視してはばからない。 → 主観内で受け止められた”感動”等はいったいどこからしょうずるのか疑問に思えてきます(愚見です)。 構造主義とは、簡単に言ってしまえば、あきれるばかりの反歴史主義かと見けられます。構造主義が分離に成功したと主張する、精神の諸規則――平行性、対立性、転倒性その他――は、人間の歴史という具体的な差異のレベルからはいちじるしくかけはなれた一般性のレベルにおいてのみ、作用するものだった。このオリンポス山の高みからながめれば、人間の精神などどれもこれも似通ったものにはちがいあるまい。文学テクストの深層規則体系を逐一特徴づけたあとで、構造主義者に残されていることといったら、椅子に深々と腰をかけ、さて次になにをやろうかと思いをはせることだけだ。 → 非常に静的(static)な主義かと見受けられます。この大義語である、「”動的”なものは認めない」 これは一種の反歴史主義であり、躍動ある”生”なるものは蚊帳の外 といった観がございます。 以上愚生の”構造主義”にたいする批判であり、またそれは、一般人が実存なるものを意識し、ときには責任をも自己に課し、その責任感の基で、行動していくことは無意味とも移りかねないと察せられます。 取りあえず、愚見をのべさせていただきました。 これをもとに(叩き台にして)議論を進めさせていただければ愚生としましても、非常に助かります。 それでは、よろしくお願い申し上げあます。
補足
Hidocchi さん お早うございます。ご回答をたまわりまことにありがとうございます。 まづ 思わず やるうっと思ったのは 次です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 因に、これ(* 実存主義の基礎としての人間の主体性)を完全に否定してしまいますと、相対主義をも通り越してしまい、虚無主義に陥ってしまいかねないのではないか とも考えております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《虚無主義》までは思い及ばなかったのですが 昨今の独我論との兼ね合いで さもありなんと思いました。いえ むべなるかな でしょうか。相対主義も独我論と深く絡んでいるようには思いますが。いまは さかんに《自己チュー》という言葉が飛び交っているようですね。 さてわたしが ふたつの参考資料について論点をきちんと抜き出せなかったのは――つまり Hidocchi さんに先に出して欲しいと言ったわけではないのは―― 実際に《拉致行為の無効という判断》の問題とどうかかわらせるかで ためらったためです。 そうして実は 今回明らかにしてくださった構造主義批判にわたしは賛成いたしますが――その労を取らせてしまい 申し訳ありません―― ここからなぜ《無効判断を成さないのか》の問いにどうつなげるか これがまだまだ分からないと思っていたからです。 つまりいきなり焦点の課題について しょうじきに申し述べてまいりますが たとえばこうです。 1. こんどは逆に見るかたちで なぜ人間にかんして《主体》ないし《答責性を持った主体性》を捉えなくなったのか? そのように唱える構造主義がなぜ――デカルトだかカントだかあるいはヘーゲルなりマルクスなりの系譜における一部の反動としてだけではなく それに取って代わるような――主流になってしまったのか? 2. 一面として レヰ゛ストロースの《西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識》 これは 文化人類学ないし社会人類学ないし民族学のモースでしたかマリノウスキーでしたか達もじゅうぶんそのフィールドワークの成果から主張したところだと思うのです。これは この確認をしておけばよいことだと考えます。 3. 《サルトルの実存主義という”主体”偏重を批判し》――これも 煮詰めて言えば 人間存在の《独立性》とそのほかに同時に《関係性》を見るという意味で 大いに大事なことだと考えます。しかも ではなぜ あたかも産湯とともに赤子も流してしまうかのように 指摘していただいたように独立性における自己責任などなどの人間性の貴き側面をも捨て去ったしまうような思潮に流れが全面的に変わってしまったのか? 4. ★ つまり、サルトルの主張から、”主義”なるものを除けば、別段問題はない ように思えるのです。 ☆ マルクス主義の側面は いまはその教条主義について批判する必要がないほどでしょうから 措いておくという前提で そのようにふつうに捉えればよいであろうのに なぜ振り子は他方の極にまで振りきったのでしょう? 5. ソシュールの仮説もとうぜんこれに力を貸しているのでしょうが それをあたかも世界観の基礎として全面的に採り入れるというのも やはり振り子の振れが大きすぎます。(ソシュール自身は どう考えていたのか。これも問題になるのではないでしょうか? 分からないという答えでしょうが)。 6. 要しますと 人間はいったいどうなってしまったのでしょう? たぶん西欧においては特に知識人のあいだで 二度の大戦という実にむごたらしく不条理極まりない振る舞いを《人間》が侵してしまったという絶望感もあずかっているという議論があります。――それでは 何も意志行為としておこなわないのが 人間であるのか? あるいは意志行為も それは確かに意志なんだけれども 結局のところ本人が全面的に責任を負えるというものではないのだと見たからと言って 説明責任も何もかも うっちゃってしまっていいとはならないはずです。責任を問わないのなら 法律も要りません。 ★ 一般人が実存なるものを意識し、ときには責任をも自己に課し、その責任感の基で、行動していくことは無意味とも移りかねないと察せられます。 あるいは曰く: ▲ 文学テクストの深層規則体系を逐一特徴づけたあとで、構造主義者に残されていることといったら、椅子に深々と腰をかけ、さて次になにをやろうかと思いをはせることだけだ。 ☆ ・・・!?1? おあとがよろしいようで。 * デリダについて〔も〕詳しくありません。 【Q:【教えて下さい】以下の文章について解釈願います、特に後半部。】回答No.5 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5676312.html この投稿は 急ごしらえでした。
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お礼
親愛なるlittlekiss さん お早うございます。ご回答を寄せていただきまことにありがとうございます。 今回のお答えに接して 満面が火の海です。顔の赤らめが退いて行きません。きわめて度の過ぎたこころの高ぶりのまま 前回のガミガミを書きこんでしまいました。 しかも これでも反省をする様子もありません。よかったとさえ思っています。これでこそわれらがりとるきっすさんだとさえ思います。 でもお応えをどうお返しすればよいのか 少し考えます。時間をください。補足欄にてお目にかかります。 (なんちゃって!)
補足
いとしのりとるきっすさん あらためてお応えいたします。 ★ 【犯罪被害者救済に関する一考察】――犯罪被害賠償基金設立への展望―― ☆ 副題にあるように 法律制度としてのまた広く社会一般としての《心の癒しや やわらがしめられ》の問題をあつかっているようですね。りとるきっすさんは しばしば法律の観点を出して来られますが それはそれが現実における問題解決の仕方であるという基本だからなのだと思います。また この《被害賠償基金》の提唱のように 被害者へのあたたかい気づかいのことも垣間見られます。これらのことに何の問題もないと考えます。 そこで わたしとの違いなのですが わたしは気が短いのではなく長いのですが 遅くもなくふつうに気が早いのでもなく人一倍早いのです。そのこころは 一気に一挙に《癒しと和解》がかなわなければ人間の問題ではないという立ち場に立つという意味です。そういう意味での哲学の立ち場です。 このザビーヌさん事件の場合には すでにご案内のように 《蚊が刺しただけ》という評言を得ています。ゆえに広く伝えようとしてもいます。ちなみに 《蚊が刺したようなものだ》では 絶対にありません。 事実は 子攫(さら)い・監禁・虐待行為です。真実は 蚊が刺した事象です。現実は この事実と真実との総合です。こころの真実は 行為事実に関して《無効》と宣言していますので この場合 現実は 真実が勝ちます。そういうわれわれ人間のこころばえが わたしの哲学です。それでなぜいけないのかと問うていたわけですが だいたいけりがついたのではないかと思います。ひどっちさんと はーとまいんどさんを合わせてわれわれ四人の井戸端会議でしたが ひとまづ結びとしてよいと考えます。ありがとうございます。 細かくは:―― ▲ 被害者にとっての正義は,加害者の責任が確定され,その行為が否認され,物質的・精神的な損害調整が行われてはじめて実現されるのである。 ☆ 法的正義はそうであるのでしょう。人間の存在にかんする自己の回復は このばあい 《蚊が刺しただけ》という一言だと思います。そういう見方もしくは立ち場のちがいです。わたしの立ち場は こころの泉の水の涸れたのをふたたび湧くような自分を回復すること この一事へ向けての対話です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1:ヨブ記 / 28章 28節 新共同訳 そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この一事をふつうの言葉に翻訳すること それのみです。 ★ 「罪」(キーワードによるキリスト教概論) ☆ 少しおぎないます。(おまえは 学者よりもえらいのか!?!?) 1. ケ:日(=日常性・生活日常の元気) cf.カという母音交替を想え。 カ:日 つまり ひとひ(一日)のヒに対して 二日三日のカ。 あるいは コ(日)ヨミ(読み=数える):暦のコにも母音が 交替する。つまり ヒ(日)∽カ・ケ・コ(日)。さらにまた フ・ヘル(経る)は このヒ(日)を動詞にしたものか。 ハレ(晴れ)のハも そうか。 2. カレ:離(か)れ cf. あく(あこ=場・われという場)‐かれ(離れ)=憧れ 3. ケガレ:日常性から離れること。明暗の両面がある。 (1) すなわちハレ(晴れ)のこと:あらたまった時や場。まつり。 (2) あるいは逆に ケガレ(穢れ):病い・死など。(出産なども そう見なされていた)。 4. 《罪》は そして特に《原罪》は じんるいにとって もうすっかり癒されてしまっています。勘違いがあるのみだと考えたほうがいいとさえ思います。戦争から何から大きな勘違いが 大手を振って歩いていますが。 ★ なぜ、なぜ、なぜ わたしなの…? ☆ これは ひどっちさんの提起されている《偶発性》の問題です。課題としてつづきます。 ザビーヌさん物語として りとるきっすさんが小説にでもしてくださいな。 もう少しして 閉めましょう。