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セクシュアル・ハラスメントは 蚊が刺しただけ
1. 《蚊が刺しただけである》からには 《傷はない》。 2. 人間のこころが 他人の言動によって傷つくなどということはあり得ない。 3. あったとしたら 自分の心にやましいところが――部分的にせよ相手の言動にからまるかのようにして――生じて その所為で 心に損傷を受けた。つまり みづからが みづからの心に傷をつくったのである。やがて――自然本性にそなわったちからによって―― 癒えるはずだ。 4. ハラスメント行為者は 生け捕りにするのが 本筋だ。人間性の回復を祈ってやるのが 基本だ。 5. こちらには まったく何の関係もないという問題であるはずだ。蚊の刺した跡は 消え 原状復帰が成る。 6. 以上は 次のような発言に接して考え 反応したものです。 ▲ “セクハラ罪という罪はない”発言にJDたちから「女性の立場になって考えていない」――「神保町☆女子大生Cafe」第89回 5/15(火) 週プレNEWS https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180515-00104657-playboyz-soci △ (Hちゃん・亜細亜大学2年・20歳) セクハラする側に悪意はなかったとしても、被害者側の傷は一生消えないと思います。 △ (Sちゃん・大妻女子大学3年・21歳) 被害者は一生、心に傷を負って生きていくことを忘れないでほしい。 △ (Tちゃん・早稲田大学4年・22歳) 被害にあった女性の精神的な傷は大きいと思います。 △ (Yちゃん・学習院大学4年・22歳) 被害にあった方の心の傷は一生消えないためセクハラというものを罪だとするべきだと思います。 (引用したものは 全体の中から この種の内容にしぼって 片寄って掲げたものです。別の意見も紹介されています)。 7. みなさんの見解をどうぞ。 参考資料です。: ▼ (ヰキぺ:ザビーヌ・ダルデンヌ) ~~~~~~~~ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C ▽ ベルギーで起きた有名な少女連続誘拐殺人事件(マルク・デュトルー事件)の被害者。6人の少女が誘拐され、そのうち4人が殺された事件で、1996年に無事生きて保護された2人のうちの1人。 ▽ 《私が生きているところを彼(誘拐暴行犯人)に見せてやりたい》 ☆ と このかのじょは語っています。なぜなら《蚊に刺されただけ》だから なのだと質問者には思われます。 ▼ サビーヌさんのメッセージ ~~~~~~~~~~~~ https://allabout.co.jp/gm/gc/55772/2/ 「一度きりの不幸に憐れみをかけられ、そこにどっぷりはまりながら、いつまでも『犠牲者顔』で生きていたらきっと新しい出会いも、未来もなかったと思う」 「だれにでも大なり小なり不幸なできごとはある。でもいつまでも『犠牲者』として生きてしまったら 大切な人生を無駄にしてしまう」 「忘れることはできないが、自分の中で区切りをつけることはできる。この本を書くことによって、過去に起こった事実として、事件の形跡を残すことはできたが、これから始まり続いていく未来に、この不幸な出来事は、私にはもう関係はない。 これからの人生を前に向かって歩んで生きたい」 「私はこの本で真実をすべて語ったのだからこれからの私には、自由を得る権利がある」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼ ヰキぺ:マルク・デュトルー事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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- BluesHeart
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あのね、発言というのは「誰がするか」で意味が違うの。 被害者が、過去に囚われないで生きていくことを語っている場合と、第三者が言うのでは意味が違うの。 誰にも、その人しかしなかった個人的経験というものがあって、それが発言を意味づけるの。だから、テレビのワイドショーでも被害者(の遺族)にマイクを突きつけるの。誰が言っても同じなら、スタジオのコメンテーターが言えばいいんだもの。 傍観者が安全地帯から言ってはいけない言葉ってものがあるの。 平和ボケ、安全ボケした(=誰かに守ってもらっているのに気が付かない)マヌケだけが、そんな言葉を吐くの。 見解、ってものがあるならば 「本当に、死の咢の中を見せられた人は、それを乗り越えなければ生きていけない」という実例がある。 というところです。 ついでに、「多くのセクハラ被害者がそうして生きていることを想像できない程度の、イメージ力の貧困者がいるのだな。」 というところです。 そして、「それを公開したら恥ずかしいという”人の成長”についての教養もない人がいるのだな。」 というところです。
- byrally
- ベストアンサー率14% (1/7)
お礼
書き込みをありがとうございます。 あらたに設問しました。 前のは リンク先のURLが 途中で切れてしまっていました。 いくつかあるので――そして 実質的に回答はなかった状態でしたので―― あらためたものです。 いま一度考えて ご投稿ください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ あのね、 ☆ のね。 ★ 発言というのは「誰がするか」で意味が違うの。 ☆ そうでしょうか。それは 聞く人の理解度や解釈の仕方によってでは? ★ 被害者が、過去に囚われないで生きていくことを語っている場合と、第三者が言うのでは意味が違うの。 ☆ 先ほど 人によって違いが出ると言いましたが 同感することがありますし 同じことですが 見解を同じくすることがあり得ます。 ★ 誰にも、その人しかしなかった個人的経験というものがあって、 ☆ というよりも 同じ情況と場で同じ事件を経験したとしても やはり――先ほどの論理と同じく―― 人によって違った捉え方をするということでしょう。 ★ それが発言を意味づけるの。 ☆ というのは じつは 本人の第一次の経験からさらに第二次の受け取り・受け留めつまり解釈の段階に移っています。むろん そこでも さまざまに意味づけがあり得ます。 ★ だから、テレビのワイドショーでも被害者(の遺族)にマイクを突きつけるの。誰が言っても同じなら、スタジオのコメンテーターが言えばいいんだもの。 ☆ そのとおりです。 ★ 傍観者が安全地帯から言ってはいけない言葉ってものがあるの。 ☆ どこが安全地帯かについても 人によって見解が違い得ます。 ★ 平和ボケ、安全ボケした(=誰かに守ってもらっているのに気が付かない)マヌケだけが、そんな言葉を吐くの。 ☆ という見解が 普遍性を持つためには 事件に遭った本人とまったく同じ経験とした人でないと 無理です。 完全な平和ボケと 中途半端な平和ボケとは けっきょく同じ穴の貉です。相対性の世界においては。 だから 表現の自由という命題(公理のようなもの)は 大事です。ひとの発言に 制約を加えてはならないのです。 ★ 見解、ってものがあるならば 「本当に、死の咢の中を見せられた人は、それを乗り越えなければ生きていけない」という実例がある。 というところです。 ☆ 意味が取れません。《死の咢の中を見せられた》というのは ほとんどの人にとって ただの修辞学の問題だと考えます。 ★ ついでに、「多くのセクハラ被害者がそうして生きていることを想像できない程度の、イメージ力の貧困者がいるのだな。」 というところです。 ☆ と あなたは考え 解釈した。ということでしょう。 むろん 見解をうかがっているのですから そのご回答は とうといのですが 《想像やイメージ力が 貧困かどうか》は やはり程度問題でしょう。つまり そのようにただ決めつけただけの議論は 説得力がありません。 ★ そして、「それを公開したら恥ずかしいという”人の成長”についての教養もない人がいるのだな。」 というところです。 ☆ 精神のストリップを厭うなら 哲学は不向きです。