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栄花物語と源氏物語の万葉集について

栄花物語 月の宴には、 昔、高野の女帝の御代、天平勝宝五年には、左大臣橘卿、諸卿大夫等集りて、万葉集を撰ばせたまふ と孝謙天皇の勅撰とありますが、 源氏物語 梅枝には、 嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻 と嵯峨天皇が撰んだとも読めるようにあります。 このほぼ同時期に書かれた二つの物語の相違はどう解釈されているのでしょうかお教え下さい。

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  • fumkum
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回答No.1

>栄花物語と源氏物語の万葉集について 「栄花物語」の記述については一昔前は妄説の類いとして無視されていたのですが、近年「万葉集」19巻の成立に関して橘諸兄(左大臣橘卿)以下が大伴家持に命じて、19巻のもとになる資料を提出させたのではないかとの説が出ており、再評価されているのが現状です。なお、「万葉集」の詞書に年が書かれている和歌の中の最後の歌は、天平勝宝五年(752)の7年後の天平宝字3年(759)の因幡国庁での大伴家持の歌ということも関連します。 「源氏物語」のほうは、嵯峨天皇が古万葉集から抄出(書き抜き)させ、4巻にまとめたものと考えられています。もともと万葉集の原型の巻数については15巻説から数十巻説まであり、現在の20巻になるまでに紆余曲折があったと考えられ、また、一度に完成したのではないとの説が有力ですが、4巻は少なすぎ、後代の勅撰集が20巻というのも万葉集に倣ったとされていますから、「源氏物語」の文を万葉集の成立を記述したものとは考えられていません。 以上、参考程度に。

hanatsukikaze
質問者

お礼

万葉集の成立論などと本を読んでおりましたので、御礼が遅れてしまいました。感謝申し上げます。 やはり、4巻では少なすぎますね。栄花物語にいう、巻第一、巻第二がこの勅撰と呼ばれる部分という説は、読んでみました。 巻第一から巻第四まで嵯峨天皇の勅かなあとか思いましたので。後の巻は、山上憶良や大伴旅人、家持が集めた歌集と。 古今二十巻が万葉集に倣ったという説も面白いですね。 また機会がございましたら、よろしくお願いします。

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