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人間どもへの考察をすると精神に悪い 

いろいろと普段思うところがありますが、人間そのものについて考察すると精神を病んでしまうのではないかというほどの無力感とか、失望感嫌悪感に襲われます。若干長くなりますが、いろいろと書き連ねてみます。 ここでの質問ねたと言うことではないのですが、いろいろと思いつきまして、実際質問しているのと人の質問を参考にしているのとありますが、例えば ☆もう実情に沿わなくなっている駅名をなぜそのまま残すのか(東急の「学芸大学」「都立大学」など) と言うような問題があります。これはどうも地元民の反対とか、変更にかかわる費用の問題とか、そういうところに理由があるらしいのですが、それは情けないじゃないでしょうか?地元民の反対とかイメージの崩れがあるからと言うのは、たしかにそうで、その地域の「ブランド名称」的な特権が失われるとか混乱を招くとかそういう、なんとしても経済活動的低下を避けるためなら駅名の実情などどうでもいい、という浅ましいと言うか、過度に保身的な欲求からきていると感じられます。また、そう考えるほうにも幾分か妥当性があって、実際、それを受ける消費側のほうも「ん、何だこの駅名は?聞いたこともないぞ」で、そのあたりに宅地や家を探している人が宣伝を見ても捨てられてしまうという可能性が大いにあるからだろう。その「ブランド思考」の頭が一般人に根付いている。イメージの桎梏にどっぷり使ってる人間がほとんどだと言うことです。その結果30年かもっとか、大学がなくなっているのにいつまでも「大学」の駅名を冠することになる。 また、例えば「自転車を雨の日にかささして乗りますか」というアンケート質問したとすると、こういう質問にもきっと「はーい!私は傘さしで乗ります。だってそのほうが合理的でしょ?片手でちょっと危ないけど、合羽なんて買うの面倒だし着るのも面倒で、実際おおくのひともやっているし」と得意げに答える人は少ないと予想しています。なんらかの後ろめたさから、「そうよ、乗ってるけどいいじゃない、でもずっと黙って隠れながらやってやる」という、いい加減さに達観したような精神でそのくせ心の底では罪悪感を感じながらという状況の人間がいかにも多いのでしょう。 そういう、後ろ向き思考、ブランド名の無反省的無批判的崇拝思考、保身的なつじつまあわせに徹し、悪いことでも黙っていりゃいい的ずうずうしさとせこさ、そういうものに支配されている人間の多いことに、どうしても絶望感とか嫌悪感を禁じえないわけですね。 で、私とてこれらのものから逃れられているとは言えず、少なからずその要素を持って生活しているわけで、その自己嫌悪感というものもあります(なるべくそのようなものからはなれるよう心がけています) というわけで、長くなりましたが、そういう人間どもの世の中に生きていて、嗚呼という気持ちなわけですね。 そういうことを達観して生きるべきなのか、いい加減さに浸って生きるべきなのか、どうするべきなんでしょうね。

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回答No.3

garcon2001さんの主張読ませていただきました。 よく考えていますね。考えることはとても大切で無駄にはなりませんが、度が過ぎるとリミットが外れてしまいそうですよ。ですから自分の許せる範囲で問題に当たったり考えたりするのがよろしいのではないでしょうか?と私はそう思います。これは一つの参考意見ですのでどうぞご自由に。そして達観して生きるのが最良だと思いますよ。生きてくことにおいて理性にしたがってゆけば間違いはありません。→間違わないってことは正しいってことにもなりそうですが先のことは分かりませんね!(^^)!気楽が良いと思いますよ。参考になれば幸いです。

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  • ENERGEIA
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回答No.5

 駅名についてはブランド志向とか虚栄心からというよりも、むしろ特に変える必然性を感じないからでしょう。実際変えるとしたらどのような名前にするか という問題もあります。その場合、特にその土地だけに対応する、適した名前が見つからないのでは ないでしょうか。 実際、「学芸大学」「都立大学」に変わる、具体的な その土地固有の適切な駅名を思い浮かべることは出来ないのではないですか。  それから、雨の日に傘をさして自転車に乗ることに何の後ろめたさもありません。確かに合羽を着たほうが安全といえるかもしれませんが、それを言うなら「徒歩でも合羽を着たほうが安全だから、そのほうが良い、そうすべきだ」と言うこともできます。程度問題かもしれないが、自転車に乗っても自分の判断能力、危険回避能力に自信があって、無事故の実績もあるのであれば、雨の日に自転車に乗って傘をさしてもなんら問題はないと考えます。  極端な話、雨が降っていなくても、普通に歩いていて自分でつまづいて転んだりして、他者に迷惑をかけるかもしれないから 外に出るのに罪悪感がある と言う人間もいるでしょう。そう考えるとなるべく外に出ないほうが素晴らしい。それが理想である と言うことさえ出来ます。 >そういうことを達観して生きるべきなのか、いい加減さに浸って生きるべきなのか、どうするべきなんでしょうね。  まだ、達観と言うには遠いような気もします。タイトルに 「人間ども」という言葉を使っている点も踏まえて。  そういう意味?で、思考内容に対してはNo.2が言うような「ほどほど」(量)の問題ではなく、どのように(質)の問題でしょう。まあ、本気で考えるか・生きるかという意味においては まだまだ(量)という問題であるとも言えますが...  私が人のことを言える立場かどうかは怪しいところですが^^ 参考になりましたでしょうか。

  • hunaskin
  • ベストアンサー率30% (1854/6060)
回答No.4

一つの仮説を思いついたのだとしてもそ、れについて反証を試みない、検証をしないのならそれは考察ではありませんね。 質問文を読んでみて感じたことは質問者様は 考察している、というより思いつきに拘泥している状態だと思います。 そういう状態は精神にあまりよろしくないのではないか、という気はします。

  • ratesu
  • ベストアンサー率13% (16/122)
回答No.2

ほどほど。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

山路を登りながら、こう考えた。  智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。  住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。  人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。  越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。  住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。 お後が宜しいようで。

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