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人は愚かな生き物、という考え方

「人は愚かだ」 というようなことを口にする人はどういう心理で、また、どういう価値観で、なにをもってそう感じ、それらは何と比べている(と思われる)のでしょうか。 時々耳にしますが、理解ができません。 例えば、『NANA』という漫画が原作のアニメがあり、主題歌が頻繁に変わっていたのですが、特に第6代目らしいエンディング(YouTubeで『NANA - "Stand By Me" - Sixth Ending』)が好きなのですが、話が逸れましたがその曲のフルバージョンを聴きましたら、このような歌詞がありました。 「人は弱く残酷で愚かな生き物 でも貴方は許してくれた」 この例では、ただ単に自分が「弱く残酷で愚かな生き物」で、同じような人間しか目に入らないだけなのを勝手に「人全体」に拡大している点において、とても傲慢で不遜に思えます。 このような流れで「Stand By Me」などとヌカされるとちゃぶ台をひっくり返したくなる、というよりむしろ、ひっくり返ったちゃぶ台を直したくなります。 他の方々も同じにすることが失礼であることを理解していないと思われるところが確かに「愚か」ですが、そういうことを言っているわけではないことくらいはわかっております。 もちろんご自身がそういったことを感じておられる方の回答も大歓迎です。

みんなの回答

noname#112847
noname#112847
回答No.6

私の場合 人は愚かだ、ではなく自分は愚かだった、です。 あくまで自分の事としての実感です。 自分を他人と比べて客観視した時に、自己嫌悪の感情と共に湧いてくる言葉です、でした。 他人の事を愚かだと一時的には思っても、自分に言い聞かせた重みとはかけ離れているように思います。 人は愚かだ、という事には余り感情はありませんが 自分は愚かだった、という事には涙が出てくる時があります。

vitamin-o
質問者

お礼

「客観視」とありますが、果たしてどこまで客観視ができているかどうか疑問です。 自らを賞賛したい場合も批判したい場合も、見たいものしか見れていない人が多いからです。 また、ここでは「人は愚かだ」という考え方に対して質問をしています。 と言ってもいいのですが、、とりあえず泣かないで下さい。

回答No.5

 #4です。先の回答は紀元前中国の思想家である荀子の唱えた「性悪説」の「悪」を「愚か」と解釈して言い換えただけです。自分も解説文読んだ程度の知識ですが。孟子の「性善説」と対比するものとしてそれなりに知名度はあると思います。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%AD%B0%AD%C0%E2

vitamin-o
質問者

お礼

そういうことでしたか。性悪説という言葉は知っておりました。 補足ありがとうございます。

回答No.4

 何か理由があるから人間が愚かになるのではなく、そもそも本質として何もない状態の人間は愚かであり、そこから高めていくことが重要だという思想もあります。

vitamin-o
質問者

お礼

参考になるアドバイスをいただきありがとうございます。 ちなみに、そういった思想はどういった人が共有されているか、国内のものか海外か、広く知られているものなのか否かなど、参考までにお時間がございましたらお教え願います。 (私が質問文で書いたのは、そこまで批判精神を持ち合わせていないと思われる人による「人全体」への批判についてでした。)

noname#108517
noname#108517
回答No.3

比較対照物などなくとも愚かで卑しい生き物ということはわかるでしょ。 地球は人類のものではない。

vitamin-o
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ですから、それを「わからない」と書きました。 「自分がそうなのを人全体に拡大しているのでは」と。 誰が「地球は人類のもの」と考えていると思い、「地球は人類のものではない」と仰るのでしょうか。 今晩新たに飼い犬に関する質問をいたしますのでNo.3さんにはそこでもご回答を願います。

  • kanakyu-
  • ベストアンサー率30% (1916/6194)
回答No.2

若かったころは、私も、自分のおろかさを、「人っておろかだねえ」と 解釈することで、かろうじて認めることができてました。 「人は」ではなく、 「私は弱く残酷で愚かな生き物 でも貴方は許してくれた」 そう言い切るほどの勇気や謙虚さがないから、 「人は」と言う事で、最初から免罪符にしているのです。 弱くて不遜なのはそのとおりだと思います。 だからこそそのような風に言ってしまうのでしょうね。 「人は」とつけていれば、責められにくいですからね。 かつての私と同じ考えなら、 自分の長所は、「私は」 自分の短所は、「人は」 という風に言うと思います。

vitamin-o
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 1億分の1の経験談としてですが、貴重なご意見として大変参考になりました。 ただ、こういった文章において、もしも「若かったころは、私も、」の、“若かったころ”や“も”が、“多数派であることを知っての甘えの構造”だとしたならば疑問に思います。 「私は弱い(しかし、多数)」 というのは(しかし、多数)という条件が加わると実は「弱い」ほうが「強く」なり、「強い」ほうが「弱く」(もしくはあたかも、悪く)なることからとても卑劣に思うからです。 そういった傾向がある回答が寄せられそうなことから一般論として書いたのであって、No.2さんがそう見えたというわけではありません。

回答No.1

「人は弱く残酷で愚かな生き物 でも貴方は許してくれた」 人が犯した罪、己が犯した罪を報い、愚かと表現しているのではないですか?。  私は愚かをどんな風に受け止めるか。馬鹿とは違い成長を促す言葉として受け取ります。  感性の問題であり、良い方向に受け止めるようお勧めします。    

vitamin-o
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 こういった回答をされる場合は、「人が犯した罪、己が犯した罪」の例も挙げていただかなければ、「成長を促す言葉」となりえるか否かはわからないはずです。 このような回答では偽善も隠されてしまいますし、仮に当事者であれば非常に卑怯な回答となります。

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