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復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
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- IdeaMaster
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でも 物事を人より認識できる人 感受性が高い人 繊細な人は 思い知らせるべき人には思い知らせてやらねばならない 相手のためにも 世界のためにも 自分のこころを守るためにも 正当なやり方で。 そのために生きている人もいる
- IdeaMaster
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訂正: 誤:あれれ?解んなくなってきちゃった 正:解ってきました でもそうするとやっぱり他者は必要なくなってくるなぁ...
- IdeaMaster
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ある意味 因果が個人間の間で 帰結する・させることができない社会、それを許さない法があることで、別のエネルギーとして科学技術や その他もろもろの人間世界の 営みが発生してきた。たぶん、それは良いこと 究極的には自分の中だけで 因果を帰結・完結させる そうすれば 即刻 昇天 あるいは 別次元へ 移動 もしくは 生きながら 極楽 自信:自信あるなしあるなし あれれ?解んなくなってきちゃった
改めまして・・・ 私がお勧めしたかったのは、自分自身と向き合う事でした。 阿修羅を通してご自分と向き合う事の中から、答えが見つけられるのでは、と思ったのです。 お礼の言葉の中に、・・・古い記憶・・・とありました。 失礼ながら、一時の感情では無く、積年の思いが・・・という風に感じ取らせていただきました。 今までに、有り余る心の葛藤を繰り返されてきた事とお察しいたします。 ご自分の中の阿修羅を見続けてこられたようにも思われます。 他人である私が、この先申し上げられる事は社会通念上限られたものになってしまいますが、少しでもご参考になればと思います。 復讐をしたい、という人に、復讐を勧める人はいません いるとすれば、同じ憎しみを持っている人だけです 同じ憎しみを持っている人にしか理解してもらえず、その人が居なければ、孤独の内に憎しみはさらに増すばかりでしょう。 以前の事になりますが、別なカテにおいて、女性の方で個人に対する非常に強い恨みを持った人の相談が載っていました。 私の答えもありますのでご一読してみてください。 仕事上での感情的な軋轢の場合ですと、最終的には会社内の暗部の内部告発という形での復讐を遂げたいと思っている人が数多くいるようです。 そうした話を聞かされた事もあります。 しかし、そうすれば自らの社会的な地位も失い、家庭崩壊の危険すら覚悟しなければならないものと思われます。 差し違えの覚悟で仇を討つ・・という事になってしまいます。 私が話を聞いた人は、家庭があるから、大切にしたいから・・・という事で思い留まっているようでした。 冗談まじりに、やってみれば・・・などと言ったりもしましたが、あくまで気晴らしになる範囲の冗談です。 このような話が目に見えないところで、日常的に行われているのでしょう。 失礼ながら、会社内の事でしたら、こうした会話によって気分転換を図るのもよい事だと思います。 一人で抱えすぎない事でしょう。 しかし、話相手がいない場合には、自分だけでいずれは結論を出さなくてはならなくなります。 その結論に対して、私が言いえるのは 人間として許される範囲での事・・・というものです。 たとえ感情的にどのようなものであっても、客観的に許される範囲に留めるべきだと思います。 でなければ、自分自身が救われない 自分で自分を責める、さらに苦しい世界に落ちていくように思えます。 復讐が悪に至れば自分を苦しめるだけです。 以上です。 ご無理なさらぬように、少しでも明るい方を目指して進んで下さい。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.14です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ かく言う私も社会的に死んだも同然です。 そしてそのうらみつらみを晴らさなければならない。 過去の私の記憶と私のつけた記録が復讐せよと訴えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ かくまでにこころの〔表面の〕錆びてしまった人であるとは思いもしませんでした。極北の詩人と申せばよいのでしょうか。 すでに申しましたように 解決法はまだ分かりません。ご返答を受けて考えてみます。 まづ お問い合わせです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >もっと言えば やがて死ぬのではなく すでに じつはわたしたちも 死んでいます。 すみません、この辺から分からなくなりました。 大局的に見れば、我々の生きている時間は一瞬であり、死んでいるも同然、という意味でしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃるところが ひとつの内容ですし もうひとつは われわれの誰ひとりとして 《憎しみを抱かれ復讐をしてやりたいと思われている人間》でないという保証はない。こういうことではないでしょうか。 こころに逆らって うそをついたということ これですでに人は死にあたいすると考えられるからです。そのやましさや後ろめたさは もう一生消えません。ゆえに すでに死んでいます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そしてゲバラの言葉が浮かんできてしまいます。 「打撃は、絶え間なく与えなければならない。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは うっすらと聞いた話では その《絶えず与える打撃》によって 体制側にしろ社会全体にしろこころある普通の善良な市民一般にしろ 目覚める・反省する。ならば 絶対的な暴力革命には意義がある。というような趣旨だったでしょうか? たぶん こうでしょうね。その暴力によって失われるいのちが再生するのあれば それも考えようであるかも知れない。こういう答えになるのではないでしょうか? たぶんこれは決まりでしょう。それ以外にはないと思います。その意味では このようにご回答申し上げます。 と突き放したものの言い方をしてしまいましたが ひとつには 《第二の死》をどのように回避するか。すでに落ち入っているのなら それにどう対処するか。もうひとつには 次の思索が 大切であるのではないかと考えるものです。 【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5468127.html ☆ ひとは 能力において ひとのあやまちを赦すことも出来ないし 赦さないことも出来ないという命題を提出して 問うています。 罪や犯罪ならそのつぐないを求めることが出来ますし まちがいなら その訂正・修正を求めたり言論として批判をおこなったり出来ます。しかもそれらの対処のあり方というのは――それで 基本的に 全体なのですが―― ひとの心の内における主観としての赦す・赦さないとは 別個のことである。という見方です。 思索の深まっていかれることをいのります。
補足
(前回答での補足欄の続き) 5. では、復讐とは一体何なのかという事を探ってみます。 まだ材料を揃える段階で、どうとも結論できないのですが、一応書いておきます。 復讐は別の関連する語句で仇とも言います。 仇となる相手に対しては、「言われ無き仕打ち」を受けたのが発端になります。 上司がミスをした部下を怒るのは理由があるので仇の対象にはなりませんが、 気分で怒ったり理不尽だったりする場合には仇の対象となるでしょう。 また、仇の反対として「恩」を考えてみる事にし、その後再度仇とは何かを考えてみる事にします。 恩とは何かが欠乏している時に無償で与えてくれた愛に対して感じる感情が恩だと仮定します。 「言われ無き愛だが、有り難いもの」となるでしょう。 そして、これに対しては必ず返したくなる事が道理です。 対して仇は「言われ無き仕打ちで、忌避すべきもの」となり、 今度は、これに対しても必ず返したくなる事が道理となります。 6. 他の回答者の方から頂いたご意見も含めさせて頂いた上で書くのですが、 倫理観の基準は集団と個で異なります。 「人を一人殺せば殺人者だが、 人類を半分殺せば英雄だ。 自分以外を殺せば神になる。」 これは人を殺す場合だけのお話しになるのですが、この言葉はそれを正しいと認識する人数の割合によって倫理観が変化する事を示しているように思います。 上記が集団の倫理観であれば、それでは個の倫理観とは何かと言った際、自分自身の信念や信仰に関わる部分によって決まるとも言えるでしょう。 復讐の社会的正当性は、社会を構成する人間の、同じ倫理観を持つ人数比によって決まるとも言えます。 そして現在は、それが国家が個人から取り上げた復讐権を公的に行使する事で復讐の社会的正当性が達成されているように思います。 但し、これは飽くまで集団の倫理観であって、個人の倫理観や情念との間にギャップがあってもおかしくはありません。 今回の問題はここが核心なのではないかと睨んでいるのです。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.1です ご質問の背景、確認させていただきました。既にお礼欄にてご自身でまとめられておられるようですので、蛇足になるかも知れませんが、私の記述した内容について補足させていただきます。 私がNo.1で例示させていただいたのは、「復讐」という感情が貫いているであろう連鎖を遡っての記述に該当します。 「復讐したい」という情が消失する、ないし癒されるというのが、どの地点にて落ち着くのか? 典型的な二つのパターンにてそれを表してみました。 被害をもたらすであろう直接的な原因のみへの排除でいいのか(ボールが顔面に当たらないように防具をつける。弾丸が体に当たらないように防弾チョッキを常に身につける。)---「復讐」の情は、直接的な原因のみのレベルにて収束するのと同じことでしょう。 被害をもたらした物理的な機構のみへの対応でいいのか(ボールを投げるコントロールを良くする。弾を発射する装置・拳銃を排除する。)---「復讐」の情は、物理的な機構レベルにて収束するのと同じことでしょう。(このレベルまでは、「能動的な主体・相手」という概念ではなく、「受動的な主体・私」という概念内部で処理可能ということを意味するでしょう) 被害をもたらした個人(人間)のみへの対応でいいのか(ボールを投げたのは自分だから自業自得だと悟って、どうすればいいのかを考える。息子を殺害した犯人を捕まえて私刑・仇討を行う。)---「復讐」の情は、個人レベルにて収束するのと同じことでしょう。 被害をもたらした個人(人間)を育んできた社会への対応でいいのか(ボールを壁にぶつけなければならなかったのは、むしゃくしゃするような状況を作った他者との関連性だと悟って、柔和な関連性を構築するよう考える。どうして殺人を犯すことになったのかを明らかにし、同様の人が生み出されないように裁判を行う。)---「復讐」の情は、社会レベルにて収束するのと同じことでしょう。(このレベルになると、「昇華」させているという概念になろうかと思われます) 「怒り・恨み・憎しみ」といった情、ないし「復讐」といった情は、失ったもの・損害を受けたものの「交換可能性・不可能性」に依拠して、その程度が変容するものでしょう。交換可能なものであれば、情は、それほど動かされないでしょうし、そのもののみに限局しているので、被害をもたらすであろう直接的な原因レベルでのみ、対処しうると思います。 しかしながら、「交換不可能なもの(かけがえのないもの)」を失った場合、そのものへの「思い・情」は、特定のものを通り越し、社会レベルでの対応を越えた先へと思いが残り、「復讐」といった情が消え去らない場合もあるかもしれません。 そうして切断され、切り口を塞ぐことのできなくなった情は、たとえば宗教的な救いへと繋がれ・癒されるのかも知れないですし、自身の知的・意識的な思索にて癒されうるかも知れないでしょうが、少なくとも自己と他者との関連性において「情」自体のありようが変遷していくことは確かでしょう。 知識として知っているということと、本当に分かるということとの違いは、おそらく、そういったレベルでの経験を通して、自身と他者との関連性を結びつけている「情」というものを見直すときに明らかになるのかも知れません。
補足
皆様、回答ありがとうございます。 御礼が追いつかないので、補足への書き込みで少し御礼に替えさせて頂きます。 皆様からの回答で少し復讐という概念が少しずつ見えて来ました。 また、自分でよくよく考えたのも加え、復讐というものは、ある観点からは意味を為すが、ある観点からは意味を為さない、という所に着地しつつあります。 整理前ですが、考えている材料を少し書いておきます。 1. まず自分というのは思考、情念、知識(記憶・経験)で成り立つものと思っていますので、 情が深く関わっているであろう事は同意します。 これを復讐の観点から見直すと、 思考:再発防止、見せしめの為に行う必要がある。 再度同じ事がなされた場合、自分が同じ損害を蒙る可能性があるのでこれを防止する。 情念:憤慨する気持ち でしょうか。ちなみに私の場合はある程度の部分までは再発防止ができたように思いますが、絶対に再発の防止ができているかというとできていないように思われます。 2. 復讐という観念は人間に必ず備わるものである。 そしてそれが良いか悪いかは、その時代の倫理観が決める。 ・韓国の恨はある種国全体のイデオロギーである。 ・チェチェンの「血の報復の掟」によれば、男子として生まれれば、先祖7代の名前を覚えさせられる。 どこで生まれてどこで死んだかという事も暗記させられる。 そして先祖7代で誰かが殺されたならば、そのやった相手も憶えさせられる。 そして調査した後、必ず報復せねばならない。 (なので、チェチェン掃討の時のロシア兵は顔を覚えられないように覆面をして作戦遂行したそうな) ・上記は日本人の観点から一般的ではない、 「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉があるではないか、 戦争をしたアメリカとも、今では仲が良いではないか という意見もあるでしょうが、そもそも怨みが無ければ「怨み」「かたき」「仇」「仇討ち」という言葉は生まれない。 呪詛のかけようも無い。 復讐の感情は日本人であっても逃れる事はできない。 一番分かりやすい例が下記になるかと。 長州風年始の挨拶 http://www.shigyoblog.com/wakabayashi/index.php?itemid=14530&catid=182 後は徳川家康が幼少の人質時代に受けた恨みをずっと憶えていて、 偉くなった時に呼び出して切腹させている、という話しもあるようです。 各個人が心に持つ「正義」を基準にしてうらみを持つ為、個々の復讐が公平足りえない結果を残す事は必然的な帰結といえます。 3. 復讐に関して忘れる事が最善、という意見もありましたが、どうしても納得できませんでした。 少し辛辣な言葉になってしまいましたが、重要な事だと思いますので書かせて下さい。 過去の話しになりますが、第二次大戦時の東京大空襲で日本人を人とも思わないような形で作戦を遂行したカーチス・ルメイには、当事者からすれば怨み晴らさでおくべきかという感情がつくられるのではないかと想像します。そしてこのような所業に対してもともと怒りが沸かない、あるいは「まあまあ戦争など悲しい事は忘れて」と言う言葉を信じてしまう、そういった場合には失ったものへの悲しみを捨てよ、といった基本的に人間としての愛が足りない思想で諭しているように感じるのです。 大切なのは愛情を基にした「怒り」に対して、それをどうコントロールするかという部分にかかっているのだと思います。 復讐の有無に関わらず、ここが人間としての出発点だと思います。 皆様の回答を頂いた後に、過去の怒りを忘れるという事は愛が無い事と同義であると私は考えました。 そして、復讐をする場合には徹底的にやり、復讐をしない場合には「あなたがやった事は鬼畜にも劣る所業だが、私は人間なので復讐はしない」と復讐を超えた態度を毅然と取る、このいずれか2択のうちの一つを選択する事が必要なのだと思いました。 まとめると、まず物事の理不尽に対する怒りありきで、その次に論理的判断、乃至は信仰を基に対象を赦す、という流れが良いように思われます。 最初から「怒りは人間として持つべきではない」とすると、人間的な人間足り得ないように感じるのです。 4. そして上記を基に考えた場合、 >その次に論理的判断、乃至は信仰を基に対象を赦す、 とした場合に論理的判断を考える上でこのQAで消化できれば良いのではないかと思いました。 ただ、頂いた回答の中で信仰に対するご回答を蔑ろにする訳ではなく、むしろ考える材料を提供して頂きありがたいとも思っていますので、ここに補足させて頂きます。
憎しみは段々に薄らいでいくものであっても、完全に消え去る事はないものと思います。 そして、復讐をしても救われるとは限らない 人を呪わば穴二つ・・・と言いますね。 イスラエルとパレスチナのようなものでしょう。 憎しみの連鎖は断ち切りがたく、救いが無い・・・ 争いにつぐ争いの姿は、客観的に見れば愚かなようであっても 当事者にとっては、どうにもならない感情に動かされた結果なのでしょう。 阿修羅と帝釈天の争いの話は有名ですが、ここから伝わってくるものは、復讐の悲しみと憎しみを抱く狭量の悲しさ・・・といったものです。 どうする事もできない憎しみを抱えなければならない悲しさ・・・ 阿修羅はその姿を表しています。 一度、阿修羅像でもご覧になってみてはいかがでしょうか 憎しみと悲しみの姿から何かを得る事ができるかもしれません。 理屈だけでは、まず解決できないでしょう。 幸運を祈ります。
お礼
回答ありがとうございます。 阿修羅像は写真でいろいろな角度から見た事があります。 (現物は見た事があるかもしれませんが記憶になく・・・) 私の阿修羅像を見た中で一番古い記憶を引っ張りだすと、 徹夜明け当たりですいている電車に乗って座席に座った所、ふと目を上にやると電車のつり広告に阿修羅像展だかの広報がありました。 この広告に使われている阿修羅像の写真を見て、 「あれっ、何で自分の顔があそこにあるんだ? 」 というおかしな感想を持ったのが最初だったように思われます。 ともあれ私自身がその広告に写っている訳でもなく、私がその写真のモデルになっている訳でもなく、よくよく観察してみると怒りながらも悩んでいて葛藤している表情が当時の自分自身のそれとそっくりだったのと、徹夜明けで朦朧としていたのでこれを錯覚していたのですが、私自身がその当時から阿修羅のような怒りに溺れていたのでしょうね。 Wikipediaを読んでみて、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85 「たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。」 とあります。 ただ、私はこれが倫理的に良くないものであるとは知識として知りましたが、どうしてそうすべきなのかまでは理解できません。 復讐をせよと私の心が命令しているのですが、社会的に悪なのかもしれない、という点でジレンマに陥ってしまい悩んでいる状態なのです。
お礼欄を確認させていただきました。 ああ、「再発防止」のことを念頭に置かれていましたか。なるほど。最も重要なことでしたね。 前回わたしが申し上げた、「忘れ去ること」、これによって、その意義を深く実感し終えているならば、これだけでも、じゅうぶんな再発防止になる可能性はあると思われます。 ですが、長い時間をかけて、やっとの思いで、そこまでたどり着く前に、またも復讐心を掻き立てられるような出来事が起こりますと、その前から抱え込んで解消へと向かう途上であった怒りまでが触発されかねないですね。 もちろん、一番理想的なのは、個々に怒りを起こさずにおれること。あるいは、妬みなどの感情を持たないでおれるなら、それに越したことないのですが、現実問題として、あまりにも理不尽な、と疑問や怒りを感じざる得ないような出来事が起きないようにすることも、あるいはまた、妬みの感情というのは、これは比較の意識から出ますから、この意識を全廃するということも、人間まず不可能な要請でしょうね。 個々に努力といっても、その資質やら何やらで、結局、全体的に限界があるのは目に見えてます。 昔の、公的裁きのシステムが整っていなかった時代ならば、個々の憤りや理不尽な事件の処理は、素朴に、各自で判断・実行に及んでいたのでしょうね。 しかし、だからといって、「目には目を」というわけには、これが実際のところ、いかなかったことも多々だったのではないかと思われます。 それを、公的なものに移行・定着させていくために、為政者側は、社会階層の構成具合なども吟味・利用しながら、あれこれ画策し、努力を重ねてきたのでしょう。 いまの時代、まさにインターネット世界が、公的法整備の充実を急がれるところではないでしょうか。 理不尽な出来事が起きて、それをどうすることもできないで、それどころか、解消のための努力すら、重なる理不尽を呼び込んでしまう、こういう状態でズッときた者が、 あるいはまた、比較競争のなかで、はみ出し、落ちこぼれした者の居場所がない、それが続いていって、しまいには、どんな人間になっていくか、想像に難くないですね。 となると、前回申し上げた「不信」というもの、ここを考え、手をつけていかなくてはならないと思われます。 但し、考え違いも見受けられることが多く思われるのですが、「信用がおける」ことと「依存できる」こととは混同すべきではないでしょうね。 「理不尽」に対しては、あらゆる角度から、それに応じた何らかの妥当な手立ては見込めるのだという、 他人の足を引っ張らずとも居場所の心配など無用なのだという、 希望と安心の支えがなければ、世は荒涼として、個々で復讐という名の「見せしめ」が横行し、その社会の健全さも共生システムも容易に壊れていくのではないでしょうか。 大雑把ですが、さしあたって、このように考えております。
補足
回答ありがとうございます。 暫く考えて見ます・・・。
こんにちは† <復讐の連鎖>なるなの。 〔復讐は、復讐を持って,復讐と為す〕 になるなのなの。 どちらかが,我を取り戻し,冷静に物事の判断が出来る状態になるまで続くなの。 日本の代表的なことなら, ●幕末の動乱期 ●忠臣蔵騒動 は,今だに,人々の中に深く刻まれていることなの。 復讐はしないにしても,どこかで,心のスイッチがONになり,感情的になる場合が有るなの。 殺人事件・戦争・テロのいずれにしても,そうなるなの。 <復讐することの意義は,何か> <復讐は,何を生むか> <復讐には,正当性が有るか> <復讐の念を持つことが,生きる意味なのか> なんて感じが,人それぞれにお題目として出来てしまうなの。 結局は,人それぞれが, <気持ちの切り替えをすること> と, <折り合いを持つこと> により, <前向きの未来志向になれるか> が問題だと思うなの。
お礼
> <復讐することの意義は,何か> > <復讐は,何を生むか> > <復讐には,正当性が有るか> > <復讐の念を持つことが,生きる意味なのか> そこです! 核心をついて頂きありがとうございます。 復讐の念は沸き起こるが、社会正義に反している。そのジレンマに悩んでおり、どう捉えれば良いのか分からないのです。 > 結局は,人それぞれが, > <気持ちの切り替えをすること> > と, > <折り合いを持つこと> > により, > <前向きの未来志向になれるか> すみません、今の心情ではそうした聖人君子が如き考えにも到りそうにもありません。 この感情を良い形で消化する為に、「復讐とは何か」という哲学的な疑問の解消で解決したかったのですね。 とりとめの無い御礼内容になってしまい恐縮です。 回答ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 世の中には――と言っても それはほんとうは縄文もしくは弥生時代までのことだとしたいのですが―― ★ 復讐に意味はあるのでしょうか。 ☆ などと考えることなく まったく《自分が何をしているのか分からない》まま 結果として復讐とよばれるおこないをしてしまったという場合があります。ありました。《かれらおのれの為すところを知らざればなり》。 つまり 復讐とは何かを――たとえその一時期だけとしても――知らなかった場合です。 (衝動的に振る舞うことと ほとんど同じ行為なのですが その衝動が一定の期間にわたる場合を言おうとしています。へたをすると そのきっかけになることが起こったときから 死ぬまで一生のあいだその衝動に駆られていたという場合を考えると 分かりやすいと思います)。 言いかえると ★ 復讐に意味はあるのでしょうか。 ☆ あるいは ○ 復讐とは何であるか。わたしは何をしようとしているのか ☆ について考えるひとは もうその本人にまかすよりほか無いと思われます。《復讐するは我れにあり。――と主は言われる》といった言葉に たとえ勘違いとしてであっても 触れたことがある場合ですが この場合は たとえ肉親であろうと親友であろうと 他人が口出す余地は 基本的にないと考えるべきだと思います。 ということは 復讐とはどういう行為で何たる意味があるのか無いのか――たとえ分かりきらなくても――考えたことのあるひとが 復讐という行為に出るのは 基本的に言って抽象的な言い方ですが そのひとが死んでいるからです。 赤穂浪士らは――とことん煮詰めて解釈していくと―― お家の断絶という《内の会社》の倒産に遭い 自分たちは死んだと受け取ったのだと考えます。仇をつくってこれを殺すまでのおまけがつきましたが かれらは死んでおり死にたかったのです。こころに反してであっても そうなるという意味です。なぜなら 心に反しているということは 当たり前であり 分かり切っているからです。 むろん そういう思想としての振る舞いだと言おうとしています。 思想と言いましたが そのもっとわるい事例を持ち出せば納得できるのではないでしょうか。すなわち 一昔あるいは二昔前には ほとんどのサラリーマンにとって《うちの会社》は わが命だったのです。 ま 大企業のことでしょうが 《会社は永遠であり ひとは限りある》という思想です。そのさらに昔は 《お国のためには この命などは屁とも思わぬ》でした。《ぬちどぅ たから》に変わりましたが 会社社会は わが家わが家族だった頃があります。 会社の不祥事が発覚し世に問われると 会社のためを思うその思想に殉じようと また《多くの人たちが犠牲になるより ひとりの人間が死んで詫びるほうが 善である》という考えによって たいていは 責任者ではなく担当の部下が しかもその部下のひとは みづからの固い信念によって 命を断ちました。 ですから すでに《死んでいる》ひとは それに応じた思想を持つと考えるのが分かりやすいと思われます。言いかえると ふつうには一体その人が何を考えているのか まったく分からないということだと思います。 ですが すくいはあります。ひとすじの光はあります。 考えてもみてください。われわれは 遅かれ早かれ 死にます。この肉体は朽ちます。とうとき思想であってもその精神も移ろい行くしろものです。もっと言えば やがて死ぬのではなく すでに じつはわたしたちも 死んでいます。そういう時空間の中にいます。 ところが――すくいと言うからには 雲のかなたのよしなし事になるのですが―― この《すでに死んでいるその死》が 死ぬと宣言されたという歴史物語もあるわけです。 いまの死が死ぬのです。それぢゃ 生きるしかありません。いちど どんでん返しのように生まれ変わるということを意味しています。それ以外に この物語の解釈に従う限り 採りようはありません。 この《死が死ぬ》というおとぎ話の現実性については みなさんの解釈におまかせしますが もうひとつ大事な話が これにはついています。 大事な話です。中には 《いまの死が死ななくなる》場合があるというものです。死が死なない つまり 死が確定する。いま死んでいる状態が 永遠の状態になる。と言います。これが 《第二の死》とよばれるもので われわれが最もおそれなければならない――不用意にその言葉を使ってしまえば――悪ではないでしょうか。究極の悪だと考えます。 さぁ わたしも現在は その考えがここまでです。 その昔 《まつり》は 収穫されたその年の初穂をささげ 村の人びとはみんなで感謝を等しくし いわば神と共食したと言います。そのはずです。どんちゃんさわぎは 措いておきますが ですから 生きることは ともに生きることです。 悪とも共生です。究極の悪とも われわれの良心は 共生を思っています。うそだと思うなら この胸を切り裂いて 赤き血潮を噴き出させて うそかどうかをためしてみればいい。 死が死ななくなった人間をどうあつかうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この問題は 《第二の死》をわれわれはどう見るか これにかかっていると考えますが いかがでしょうか? わたしはまだ分かりません。
補足
回答ありがとうございます。 >もっと言えば やがて死ぬのではなく すでに じつはわたしたちも 死んでいます。 すみません、この辺から分からなくなりました。 大局的に見れば、我々の生きている時間は一瞬であり、死んでいるも同然、という意味でしょうか? ==== かく言う私も社会的に死んだも同然です。 そしてそのうらみつらみを晴らさなければならない。 過去の私の記憶と私のつけた記録が復讐せよと訴えています。 そしてゲバラの言葉が浮かんできてしまいます。 「打撃は、絶え間なく与えなければならない。」
補足
(前補足の続き。補足欄を使用させて頂きます) 長らく反応せずに大変申し訳ありません。 皆様の回答のおかげで、自分自身の考えを見つめなおす事ができました。 切に御礼申し上げます。 いろいろと復讐の性質を追った際、自分はどうすべきかという事についてある程度の所まで結論が出ましたので、どうやら復讐はせずにすみそうです(まだ可能性は残りますが)。思考実験の結果、復讐の命題に関し私なりの哲学的な真の解答に近づけた事について私自身嬉しく思っています。 また私の中での中間結論、「復讐」なるものは一体どういうものなのか、そしてどう捉えるべきかという事について、文章力が無いながらも私なりにまとめてみましたので、参考までに記載しておきます。もし、今後、皆様が同じような問題に直面した場合にこの意見が少しでもこれを読んでいる方に対して考え方の御一助となれば幸いです。 時間的都合の為、完全に推敲をしておらず読みにくい部分もあるかと思いますが、無いよりはマシだと思いましたので、敢えて記載した乱文を投稿する、という愚挙に出ました。ご容赦下さい。 まず、第1点、復讐について心理学観点からの見解(なぜ起きるのか)、その原因は何か、その原因の定義は何か、そして出来る限り人間の心理状態を最小のものに分析してから再度構築する事で、復讐のメカニズムを追う、という事を書いていきたいと思います。 第2点として、復讐はなぜいけないのか、という事を書いていきたいと思います。 そして第3点、人間として生きる我々は(というより私個人の意見なので私は、というのが正しいのでしょうがここはあえて我々は、と記載させて下さい)、復讐をどのように捉えるべきなのか。復讐をすべきかすべきでないか、という問題について触れて生きたいと思います。 誤りやご意見などありましたらご指摘下さい。 (次の補足に続く)