- 締切済み
復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
- みんなの回答 (39)
- 専門家の回答
みんなの回答
- IdeaMaster
- ベストアンサー率11% (3/26)
復讐 したいと思うということは、自分に何の責任、原因も無いのに被害をこうむったと思っているからですね... あるいは悪意のある行為振る舞いをされたと。 そう思ったとしても、たとえば殴りたいと思うほどの感情とエネルギーがあるなら、それを昇華させるというか、本気で相手に意見を言うか、真相を確かめるための行動をするとか...で良いんじゃないの。 怒りを溜めるとその感情のエネルギーが恨みや憎しみに変じるでしょう、おそらく とにかく、具体例がないと良く解んない
- rin00077
- ベストアンサー率21% (117/534)
コミックで「復讐クラブ」というのがあります。 確か、テレビの「世にも奇妙な物語」にもなったと思います。 内容は、自分の恨みを復讐クラブに依頼するというものです。 しかし最終的には、みんな誰かには恨みを持っていて、 ほとんどの人が復讐クラブに依頼しました。 要は恨まれていない人間などはいない。 誰かが誰かに恨まれている。ということでした。 みんなが復讐をするようになれば、秩序が乱れ平和が 保たれませんね。 したがって、復讐はしたくても辛抱するしかないのでは ないでしょうか。
お礼
運命として飲み込む派ですね。 回答ありがとうございます。
- mintarou1
- ベストアンサー率30% (22/73)
. ここは、哲学のカテゴリーだから、哲学的に答えるけど、 まず、質問がいけない。 復習に意味があるでしょうか?って聞いているでしょう。 生きることに意味があるでしょうか? 愛することに意味があるんでしょうか? 結婚することに意味があるんでしょうか? って、聞かれた場合、答えが困難なことは分かるでしょう。 意味って質問への答えは難しいんですよ。 だって、意味があって生まれたわけじゃないから。 意味があって、復讐心が芽生えたわけじゃないから。 意味を問うのは後付だからね。 前置きはさておいて、 復習は、倫理に反している・・・・そんなことは無い。 会社で、部下のミスで上司の評価が下がる。 部下を叱る事は、ある意味復讐であるけど、倫理に反していない。 自分の娘が殺されて、その犯人を自分で捕まえ、裁判で死刑になる。 これも、復讐だけど、倫理的に問題はない。 子供が悪さをする、何度言っても直らない。つい手を出してしまう。 これが、復讐の範疇に入るかどうかわからないけど、深い意味では、憎いという気持ちがあれば、復讐とみなせないことはない。でも、倫理に反しているとは、断定できない。 こんな、事を色々考えていると、復讐=倫理に反するとは言えない。 哲学は、こんな当たり前の事を疑って考えるから。 だから、一つの答えは、倫理に反しない方法で復讐を考え、実行するというのも答えとしてありうる。すっきりするから、これが一番いいと言える。 最後に、哲学的ではなくて、現実的なことを言うけど。 復讐する方法を考えることで、復讐心を開放してあげている部分がある。つまり、復讐心が小さくなる効果があるわけだ。 だから、倫理に反しないで、復讐する方法をじっくり考えるといい。 実行するか、どうかは、哲学的な面での答えは無いんじゃないか? 倫理学なら、別だけど .
お礼
>意味って質問への答えは難しいんですよ。 それが哲学の存在する「意味」だと思います。 >だって、意味があって生まれたわけじゃないから。 確かにその通りですね。失礼しました・・・。 私が書いた意味という言葉の使い方が誤っていたのかもしれません。 「なぜ会社に入ったか」は「給料を貰いたいから」という意味、 「なぜ成果を挙げたか」は「名誉を上げたいから」という意味、 という風にして人間が意図する所の意味を問うのは優しいのですが、 「宇宙は何故存在するのか」「正義とは何か、何故存在するのか、行使すべきか」「愛とは何か、何故存在するのか、行使すべきか」「善とは何か、何故存在するのか、行使すべきか」「真理とは何か」といった人間の意志が介在しない、あるいは介在しにくい問題については難しい問題だけれども、古典から論じられていると思います。 これと同様に「復讐は何か?」という命題も哲学の対象になりうるのでは無いかと思っているのです。そして、その当たり前の根源を探りたいのです。 >だから、一つの答えは、倫理に反しない方法で復讐を考え、実行するというのも答えとしてありうる。すっきりするから、これが一番いいと言える。 そうですね。私もこの辺探っています。事実を本にし、出版して復讐を遂げる方もいらっしゃるようです。ただ、私はそのような気概がありません。 >実行するか、どうかは、哲学的な面での答えは無いんじゃないか? そうですね。これは私の質問がいけなかったのかもしれません。 復讐の実行手段ともより、そもそも復讐に意味があるのか、と考えたのがきっかけです。
そこから何を読み取るかは 海の深さの度合いによる 人生は それぞれが それぞれの歩んできたものでこれを味わう じいさん ばあさんが 陽だまりの秋の縁側で ほろ苦いお茶を飲みながら 庭先で孫達の遊ぶ音を聴くように いつかそんな日が 来るように 当たり前の風景として そこにあるように
お礼
回答ありがとうございます。
「憎しみ」とは、憎いと思う、その気持ちのことですが、反感や敵意というものも含まれますね。なぜ、そういうものを感じるかというと、自分と、自分が持つ世界を維持できない、破壊される(された)という怒りから起きるのが大まかな原因でしょう。 それで、直接自分自身ではなく、自分の大事な存在の者を殺められて仇打ち、ということが起きてきたりするわけですけども、これを別の角度で見れば、人に復讐心を惹起せしめた者(この者自身、妬みなどの反感による「復讐心」から、他者のそれを起こさせた張本人であったりするわけです)が直接の打撃を受けず、むしろ、その周囲の者が、代わりにやられていく、というやり方も起きてくるわけです。 なぜなら、自分自身が直接やられるよりも、自分の大事な存在・重要な存在をやられるほうが、もっと辛く脅かされるという効果が望めるわけです。最も残酷な報復かもしれませんね。 余談ですが、昔は「解死人」という制度があったらしいですね。 > 復讐してすっきり 昔の仇打ちなんかは、果たしたあとは、間髪入れずに自分自身も自害に及ぶ覚悟でやったんじゃないでしょうか。自分の命も惜しまないで、つまり、命がけでやってるんですよね。「人を恨めば」なんとやらという言葉もありますが。 自分の命が続いていけるようにすることが、 > 別の形で昇華させる ということでしょう。ですから、俗に言う「命知らず」という者は、手がつけられないのですね。(笑)もはや、惜しむものがないのですから。 個人レベルで復讐するというのであれば、ひとえに「不信」からきているのではないでしょうか。 「復讐するは、われにあり」という言葉がありますが、自分以外のものに、それを信じていることができないのですね。 社会的倫理に反するとされるのは、社会というものが取り決めて設けている法律や捜査や審判等のシステムを無視して飛び越し、たった一人でカタをつけようとした、つまり、やはり、それらに信を置いていないわけです。 まあ、「第三者」というものが、本当に妥当な裁きを出来ているかというと、これも甚だ怪しいものがあるのかもしれません。冤罪だって現に何度も起きているらしいのですから。 こうした面で、「不信」が蔓延すると、いとも殺伐とした世の中になってしまいます。お互いが、お互い信用することができませんから、まともな社会システムの崩壊に繋がっていきかねない。したがって、社会倫理の崩壊ですね。 余談ですが、 映画やドラマなんかで悪役専門の人が、実生活でも悪役のイメージで遇されるという実例など、なんぼでもあるそうです。恋人どうしや夫婦役を演じた俳優同士、実際の個人としての生活でも交際や結婚する切っ掛けになったり多いですね。 最高の復讐は、「忘れ去る」ことだと言います。そのとおりでしょうね。アウト・オブ・眼中です。(笑) ですから、それをさせまいとて、常に相手を刺激し続ける者は、これも大きに罪ある者、本当の意味での「下手人」と言えるかもしれません。 「昇華」させるには、凡人の場合は時間が必須ですから、まず、それを与えてやることです。 こんなところで。。
お礼
回答ありがとうございます。大変参考になりました。 ただ、復讐には個人の感情の発露だけではなく、同問題の再発防止も兼ねているのではないかとも思うのです。 ですので、「忘れ去る」というのは感情の発露の問題は解決できえたとしても、再発防止はできないとも思えるのですね。
それなりの意味はあるだろう
お礼
回答ありがとうございます。 Ano.1さんへの回答への御礼にも書いたのですが、私自身の中では社会的に意味を為すと解釈しました。
>また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても 復讐に執着するタイプは、復讐を思うまでの状況の因果関係を何度も点検する作業を怠っている場合が多いです。 別の言い方をすれば、観察もしていないし多角的な分析ができていない場合が多い。 その結果、復讐の対象ではない人間を復讐の対象と思い込む可能性もあります。そういう独善を避けるには民事・刑事裁判などで第三者に判断してもらうのが一番でしょう。
お礼
そうなのですよね。 客観的な意見を頂けて嬉しいです。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>>復讐に意味はあるのでしょうか。 意味が無い。 舞台劇(時代劇)では主役と切られ役がいますが舞台裏ではみんな仲良しなんですね。舞台で切られたからといって切り返せば舞台にならないでしょう。舞台劇を見ているときに理解できることが、自身が人生という舞台劇の主人公になるとわからなくなってしまうのですね。それだけのことです。
お礼
>自身が人生という舞台劇の主人公 シェイクスピアでしょうか。 これは飽くまで観客視点だからだと思います。 いざその当人になってみると、湧き上がる憎悪の感情を殺す事はできません。さながら舞台の上にいる役者のように。 これが解消されるのは人生という舞台から降りた後(死んだ後)にどうでもよくなるのでしょうが、私はまだ私自身の人生という舞台に立っておりますので、感情の発露のまま、憎しみ貫き通せば良いのでしょうか。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
「意味がある」と思えば意味があるでしょう 「意味がない」と思えば意味はないでしょう 「別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。」 というのであれば、 1.別の形で昇華させる方法を身につける 2.別の形で昇華させずに復讐する 3.別の形で昇華させたり復讐したりしない などなど、様々でしょう。。。 たとえば、誰かが息子を拳銃で殺したとします。復讐するとして、どうします? a.息子の命を奪った弾を取り出して潰す b.息子の命を奪った弾を発射した拳銃を破壊する c.撃った人を殺す d.拳銃で人が死ぬような世界を破滅させる e.aからdの全てをやりたいが、死んでしまった息子は帰っては来ない・・・息子のような運命に合うようなことのない世の中にしたいものだと思って、行動する・・・ f.その他・・・ たとえば、壁にボールを投げて跳ね返ったボールが顔面を直撃したとします。どうします? a.ボールを潰す b.壁を破壊する c.投げた手を切断する d.ボールが跳ね返ってくるような世界を破滅させる e.投げた自分に腹を立てるが、ボールや壁を壊したら遊べなくなるし、自身に復讐するのもばからしいし、世界を破滅させるのも不可能なのでのでやめておく・・・それよりも、ボールをよけるだけの反射神経を得ようと努力する。 f.その他・・・ どの選択肢がいいとかわるいとかいった問題以前に、どのように感じ、どのように対処しようと思うのか・・・ 少なくとも、「他者との関連性」を完全には切断できない世界に生きているということを、前提に考えるべきでしょう・・・ 日本では中世において、「仇討ち」は制度化されていましたが、それ以前の時代(鎌倉時代)では、禁止されていたようです。 仇討ち http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E 仇討ち禁止令(復讐禁止令) http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/adauti.htm
お礼
回答ありがとうございます。 まとまりがなくなったのですが、下記記載させて下さい。 復讐の手段についてですね。 一般的には復讐という言葉は人間に対しての言葉だと思います。 例に挙げて頂いたボールに対して復讐する、というのは一般的ではないように思います。 失敗した意図や意思などの起点が自分ですから再発防止を図れば良いのです。 他者の意図が自己を侵害する際に発生する感情、うらみつらみ、ねたみ、そねみが復讐に転化されるものだと思っています。 では、息子が銃で殺されてしまった場合のケースで言えば、犯人に対して何らかのアクションをして自分を納得させねばならないのですね。 ・法整備を強化し、再発防止を図る。 ・裁判で決着し、国が復讐の代行をする。 (そもそもwikipediaの言うとおり、「報復行為を国が代行するかわりに国民から報復権を取り上げている」「刑罰が応報であることを認めつつも」という前提があった場合、法で定めなければ、報復権は個人に自然に付与される、という解釈になると思います) そして何をやっても息子は戻らない、というのは一般的な法整備の基準として「元の状態に戻りにくい」という事が他人の意図に発生した場合、その度合いに比例して刑罰が定められていると思います。放火の刑罰が重いのがその一例でしょう。 ・個人的に復讐を行う。 ・天命だと感情を押さえ込み、事態を飲み込む。 というのが具体案になるのだと思います。 現実的には裁判で、という事になるかと。これも一つの復讐のような形になります。 ここで「復讐とは何か」をまとめますと、 ・復讐は人間の自然な感情の発露である。 ・法で規定しなければ報復権は個人に付与される。 (元々復讐そのものに社会的に意味があるという解釈である) ・報復(復讐)は現代においては一般的ではなく、 私刑であればその量が公平でないので 公的機関を通して公平に与えられるべきである。 といった、社会的観点から復讐は本来の意味を為すけれども、私刑は公平でないのでいけないよ、という解釈に辿り着いたように思います。
補足
回答ありがとうございます。 まず質問が言葉足らずであった事をお詫び申し上げます。 下記の点を補足させて頂きます。 私が考えている復讐とは何か、をまとめますと、 ・他者から自分に対して何かが侵害された事が起点になる事。 ・人類共通で抱える普遍的な問題である事。 (なので法律で整備される事)。 普遍的でなければ忠臣蔵は毎年放映されない事。 どこかで何かしらの共感があるのでしょう。 ・wikipediaの「報復」を見ると、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E5%BE%A9 ハンムラビ法典では1:1の報復を認めていた事。 現在では >報復行為を国が代行するかわりに国民から報復権を取り上げている 事。 ・自分に対する他者からの侵害が起点になる、と書きましたが、 報復する、しないのいずれにせよ、再発防止をしたい、という感情は必ずあると予想しています。
お礼
回答ありがとうございます。 > そう思ったとしても、たとえば殴りたいと思うほどの感情とエネルギーがあるなら、それを昇華させるというか、本気で相手に意見を言うか、真相を確かめるための行動をするとか...で良いんじゃないの。 「本気で相手に意見を言うか」についてはもうしました。 ですが心の決着がまだつきません。 >具体例がないと良く解んない 申し訳ありません。こちらは申し上げる事ができません。