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復讐に意味はあるのでしょうか。
復讐に意味はあるのでしょうか。 憎しみとは一体なんなのでしょうか。 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。 宜しくお願い致します。
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ちょっと一言言ってしまったけど No.24 Lakshmii様の回答以上に言うことなし。 これ以上でもこれ以下でもない。 と思います。
復讐するは我にあり 一切をどこかにしまいこんで 忘れないで忘れることできる バカになりきれる人が一番恐ろしいちゅうことでしょ。
- IdeaMaster
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まあ、もちろん自分の身の回りのモノの整理、環境の改善を図るのも同時にやり、自分の精神を高め、深めていく のが前提としてあります。言われるまでもないと思われるかもしれませんが。
- IdeaMaster
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誤:その時 持っている、自分の気持ちを反映されているだけなのだから。 正:その時 持っている、自分の気持ちが反映されているだけなのだから。
- IdeaMaster
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> 確かに。最大限の復讐をしようと思えば 無視、忘れ去る ほっとくこと。それをしたくないと思うなら、相手を訴えることです。 情 が勝ちすぎて、自分を粗末にしがちな人間は、最高の復讐をし、他者を 見捨てるのも良いかもしれませんね。 ◇しかし、見捨てることが出来ないなら、そして下策である第三者に訴えるという方法と取れない、取っても無意味 というのであれば、 その思いを普段から忘れずに忘れていて、似たような場面、似たような人間に会った時に 強い、厳しい態度で臨むようにすれば良いでしょう。これは、いわゆる「江戸の恨みを長崎で」ということではありません。その時 持っている、自分の気持ちを反映されているだけなのだから。
- IdeaMaster
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>阿修羅は 天界と 人間界を 繋ぐ者 そうでもないか、単にその中間にあるというだけのことかもしれない >心底から、まことに僅かも些かも許すわけにいかない者であるならば、御自身の命を無用に縮めさせることなく、忘れず忘れていてください。それが最大最高の復讐となるでしょう。 確かに。最大限の復讐をしようと思えば 無視、忘れ去る ほっとくこと。それをしたくないと思うなら、相手を訴えることです。 情 が勝ちすぎて、自分を粗末にしがちな人間は、最高の復讐をし、他者を 見捨てるのも良いかもしれませんね。 段階があるということでしょうか
- IdeaMaster
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誤:第三者に視点に立つなら ためらいもなく。 正:第三者の視点に立つなら ためらいもなく。
- IdeaMaster
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85 阿修羅が勝てなかったのは 邪推によって トドメを刺せなかったからでしょう。 あるいは 自分の気持ちでなく、相手の気持ちになってしまったからか 第三者に視点に立つなら ためらいもなく。 阿修羅は 天界と 人間界を 繋ぐ者
- 18barbican
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(^o^) こんにちは。映画やドラマの「復讐劇」は大好きです。み終わるとサッパリした気分になります。 私がいままでに印象に残っている「復讐劇」の名作は2つ。 「修羅雪姫」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E7%BE%85%E9%9B%AA%E5%A7%AB 私は梶芽衣子さんのしか観てないけど、話題になった釈由美子さん主演のも、そのうち見てみたいです。 「初 恋」 http://kankoku777.com/archives/479 あのヨン様が、主演の韓国ドラマで、タイトルに似合わない(?)内容はバリバリの復讐劇で、復讐を成し遂げはじめる段階のドラマは圧巻です。視聴率高かったらしいのも納得です。 この2つは「復讐を思いつめた果て」の結末が正反対です。前者は強大な力を持つ相手に命をかけて復讐を成し遂げる為に、この世で「もっとも愛した人、もっとも自分を愛してくれた人」の命が・・・まるで「ひきかえ」のように犠牲になります。そして主人公は、さらに修羅の旅に・・・イスラエルとパレスチナのような復讐の連鎖もラストに暗示されます。 後者は、日本の「復讐劇」には無いパターンのようなラストがビックリしました。兄貴が令嬢と身分違いの恋愛関係になったことから、父親である金持ちの権力者に目を付けられ、前半はヨン様の家族は、ともかく、どんどこにヒドイ目にあうのですが・・復讐を誓うヨン様は、相手を倒すために法律の勉強をしたり、敵に対抗できる別勢力の権力者に恩を売ったりして・・・表の世界にも裏の世界にも強い立身出世を果たして・・・とうとう復讐を遂げられるだけの力を身につけて戦いに挑みます。しかし敵を追い詰めて勝利を確信した瞬間に・・・復讐を「寸止め」で思いとどまるハメになるのです。どんなにか悔しくても、悔しくても・・・血の涙が出そうでも、それでも、「復讐」と引き換えるわけにいかなかったもの・・・「復讐」という行為で汚すわけにいかなかったモノ・・・それが、たかが「若き日の初恋の思い出」なんです。 どちらの「復讐」も納得がいき、スッキリとした気分になります。 (^^)「復讐」は、映画やドラマの中だけにしときましょう。映画やドラマの「復讐」がスッキリするのは、ソコで終われるからです。 現実の世界での「復讐」は、胸がスッするのは一瞬だけです。すぐ相手の思わぬ逆襲にあったりして、ソコで終われないのです。汚い現象がグズグズ続いてしまうのです。いつまでも嫌な現実の連鎖がドロドロ、ズルズルと、アトをついてくるものです。結局は後悔すると思いますよ。 身近な人間関係の「摩擦」から、うまれる日常の中にある「恨み・憎しみ」については、有名な「甘えの構造」という本が、私にとっては理解しやすかったです。「うらみ」や「憎しみ」は、自分の甘えの当てがはずれたことに起因して起きている「感情」なのだそうです。「甘えたい」が、前提にあるのです。相手に何を「期待したのか?」そのへんを冷静に分析してみると、何かの突破口が見えるかもしれませんよ。 ※ 映画やドラマのオチをバラすのは、通常ではマナー違反ですが、ココは「哲学カテ」なので、あえて承知の上でしました。 m(_ _)m ご容赦ください。
みておりましたが、どうも、個人的に恨まざるを得ない御事情を抱えていらっしゃるようですね。 復讐することの意義、正当性…。 「阿修羅」像、興福寺にある国宝は、またの名を「美しき怒り」と呼ぶそうな。 もとはゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーであるとか、大日如来であるとか、敵対し勝つ帝釈天こそは魔王であり悪であるとか、こうした神話の類にも、人間世界の生々しい利害関係によって、国家レベルで所変われば入れ替わるということが、あからさまに表わされておりますね。 御質問のような場合に「昇華」ということを目指すならば、個人のレベルから、様々の意味で公けのレベルへと移行・引き上げさせることです。そのときに、周囲からの、これもまた「理不尽」な激しい突き上げに遭うこともございますね。周囲の者らが、それが「昇華」であると認めない、あるいは分かっておらないときにです。 そこで負けてしまうと、あるいは「泣き寝入り」状態になってしまうと、当の本人にとって、筋が通らぬ、理不尽であるという思いが強いからこそ、よりいっそう怒りは募り、絶望感と共に深い恨みを抱え込むことになってしまいます。 そこから来る影響たるや、それが、いかにも恐ろしいことであるからこそ、負けまいと執着し、戦い続けようとします。 ですから、ある人が理不尽な情況にあることを分かっていて、それを認めない者、そういう情況に他者を陥れて喜ぶような者は、まことに忌むべき者です。 ですが、個人的なレベルで怒り、恨み、復讐に燃え続ける人、考えてみてください。 その復讐は、世のなかにとって、どうなのですか? 個人のレベルでしかない復讐は、個人のレベルの復讐でしかありません。 個人を超えた復讐は、個人を超えた復讐です。 これでしたら、当人以外の者らからみても、それが多少は理非を知る者らであれば、その多くは快哉を感じることでしょう。これは、世の人々に希望を与えるからです。 逆に、これが通らないと、世は混乱の坩堝と化していきます。これが、「悪しき連鎖」というものを生みます。誰も何も信じられなくなってしまいます。 このような情況を喜ぶ者は、魔の種族と呼ばれるに足る者です。 これに真に勝とうと思えば、それを産み出し、かつ包含している者に任せておくことが、いずれは最も厳しく残酷な、最高の復讐となる。それが「復讐するは、われにあり」という言葉であるのでしょう。それを信じておれる者だけが、「忘れずに忘れて」いられます。つまり、自分の命を縮めずにおれます。 哀しいかな、そこにたどり着くだけでも、凡人は大いに大いに苦労をするのです。 それを楽しんで見ている者の醜さといったらありません。 どちらも、それぞれに悲哀の感を覚えさせます。ですが、凡人は、どちらもで似たりよったりですね。源が同じようなことですから。 >復讐の念は沸き起こるが、社会正義に反している。そのジレンマ さて、御質問者さまは、すでに「社会正義に反している」と御判断されておられます、その怒り、恨み、復讐心は、世にとって、どのような位置にあるものと思われますか。 個人のレベルから、公けのレベルに引き上げるに堪えるものですか。ここは、厳しく御検討なさることです。 しかし、堪え得ることであるのなら、やはり、それも「復讐するは、われにあり」に任すということになりましょう。 もしも、貴方が怒りの対象としている者に、幾ばくかでも情けをかけようと思われますなら、思う存分、その復讐の実行をおやりください。 ただし、個人で何か実行した分だけ、そのときには、「減る」のだとお考えください。 つまり皮肉にも、それは、貴方が許すまじと思っている者に、最終的に、どこかで甘く見逃す情けを与えるに等しくなってしまうということです。 そうしますと、個人で何とかしようと思ううちは、むしろ、大した復讐心ではないとも言えましょう。底の浅い復讐です。社会的にも無力な個人ならば尚更です。肝心の自らの命を犠牲に道連れにするのですから。 しかし、 心底から、まことに僅かも些かも許すわけにいかない者であるならば、御自身の命を無用に縮めさせることなく、忘れず忘れていてください。それが最大最高の復讐となるでしょう。 そこには、世の全ての崩壊・壊滅という報いすらもあり得ますよ。 貴方の怒りは、「美しき怒り」ですか?
補足
(前補足の続き。補足欄を使用させて頂きます) まず心理学観点からの見解です。 復讐については、マズローの5段階欲求説をご覧下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ここで、自己の欲求が他者に阻害された場合に復讐が発生するケースが考えうるのですが、これをもうちょっと詳しく分析すると、 ・各欲求は、個人が得られるべき権利として自己が認めている。 あるいは社会的に認められている。 ある種の甘えがある、というご回答は、この権利におんぶにだっこという状態を想定していると思われます。 ・当然受けるべき権利を他者から阻害された場合、権利を侵害されたとしてそれを何らかの手段で取り戻そうとする。 ここでの場合、この行為は一般的には理知的な意思と情念によって達成を目指す事になると思うのですが、この情念による行為達成を復讐の心理として扱う事にします。 ・とすると、マズローの例に倣えば復讐には大別して5つの種類があるという事になります。 生存を脅かすものには然るべき行為を。 安全を脅かすものには然るべき行為を。 愛への裏切りには然るべき行為を。 誇りへの侮蔑は然るべき行為を。 目標達成の阻害には然るべき行為を。 ----- それでは上記の「然るべき報復措置」を人間は何故やろうと思うのか、という原因について私の考えを書いていきます。 人間はその個人個人や社会集団において「守られるべき道徳規範」や「人として基本的に受けられる当然の権利」というものが、意識せず言葉にしないながらも心の奥底で感じているものだと思います。これを私なりに更に言い換えさせて貰えれば「人としての正しい行動規範(正義)」と「その達成によって得られる個人権利」となります。 個人や社会の持つ正義(人としての正しい行動規範)を判断基準に権利が侵害された場合に復讐という感情が湧き上がるのではないか、というのが私の考えです。 現在の所は正義と権利を復讐心理の最小単位として考える事にし、その行動原理は上記のようになるかと思います。 代理母出産に関しての抗議は個人の正義を社会的な正義に適用拡大された方の意見と考える事ができます。 この件に関する私自身の考えは、正義的な倫理観は社会集団にはある傾向を認められるものの、個人によって差異が生ずるのは自然であり、かつそれを他人や社会集団に適用するのは不自然であり、その適用を求める者に対しては個人権利を侵害するものであれば拒否する権利が生ずる、という考えを持っていますので、「うらみに関するお門違い」だと思われます。 同じような個人の正義を社会に適用してしまった顕著な例が大阪小学校の事件であったり、秋葉原の事件だったりすると考えています。(現在の日本ではお陰参りや終身雇用などの低所得者層のガス抜きができていないという件もありますがこれは機会があれば別途考察したいと思います)。 まとめると、復讐は個人・あるいは社会集団のもつ正義の倫理観と権利によって行われる、という事になります。 ※ここで義務は加えません。なぜかというと、義務をしたから正義を基に権利を得るべきだ、という判断を下した場合、社会奉仕ができない重度の障碍者の方達は生きる権利が無くなってしまうからです。 (次の補足に続く)
補足
(前補足の続き。補足欄を使用させて頂きます) さて、そうすると正義を元に達成する行為が復讐だとするならば、なぜそれがいけないのか。これは以前の御礼に記載させて頂いたように「個人の正義と社会の正義にギャップがある」という事になるでしょう。 正義とは何かについては、繰り返しになりますが、私は「人間が生きる上での正しい行動規範」だと私は考えています。こちらも繰り返しになりますが重要な点なので引用しますと、正義的な倫理観とは、これが人間の中ではある種の傾向は持つものの、個人個人で微妙に異なる事は自然であり、現状の日本社会ではその差異を社会正義で埋めていて、個人個人が社会的に納得できる点に持って行っているという事になります。 私が観察するに、現在の日本社会ではその社会的正義と差分のある個人正義を達成する場合に「復讐はいけない」という感情が生まれる傾向があるようです。そしてその差分の乖離が大きければ大きい程、そうした傾向が強くなるようです。 但し、上記が「何故復讐をどう捉えるべきか」という根本的な説明になっていません。ただ単に社会的現象を観測しただけであって、それではどういう理由でどのようにすべきかという説明には至っていません。 難しい問題ですが、できるだけ核心に迫れるように一つずつ書いていこうと思います。 ----- 人は自己の持つ倫理観と情念の間で葛藤する生物とも言えます。相反した場合に悩みが生まれるのですが、復讐は最たる例でしょう。できれば人として正しい道を歩みたい、だが自分の中に湧き上がる情念も自分のものであるから、どちらを優先すべきか分からない。 こうした中、プラトン「国家」の中に私なりの答えを見出す事ができたのでこちらに記載しておきます。 下記はそのままの引用ではなく、私なりに噛み砕いた解釈ですので、大変お手数ではありますが、原文参照の場合には書籍をご覧下さい。 「人は皆、自分の心の中にさまざまな欲望を持つ巨大な怪獣と、ライオンと、そして人間自身を持つ。この内のどの魂が人間の肉体を支配すべきだろうか。まず怪物の魂が人間を支配する例を考えるが、欲望のままに動く怪物に支配させてはならない。一番適当なのは人間が人間自身を支配する事である。そして時には勇気のあるライオンを友にし、怪物を抑え、社会の中で戦っていくべきなのだ」。 「人間には情念が必要であるが、情念のみに身を任せる事は怠惰である」 「何も考えずにできるような怠惰な仕事は、卑賤の者に任せれば良い」 という事で、上記の例から、湧き上がる情念を抑えて理知的に動く事が人間としての行動規範なのではないか、という中間結論に至りました。暴力的措置なら動物にだってできる。人間として生まれたならば理知的な解決の方向に進むべきなのでないかと。 これを個人と社会の関係に私なりに適用しますと、個人の理によって社会正義の場で事象を裁くべき、という形になります。 ----- それでは更に一歩進めて、復讐は全くしない方が良いのか、というとそうでもありません。個人の理によって社会正義の場で事象を裁くべき、という事を考えれば、裁判や、あるいはマスメディアによる情報究明、出版などによる利権の訴求などが社会的公平性を保った状態での社会権利を取り戻す事ができると思うのです。 まだ核心には辿り着けていない文章ですが、取り急ぎここまで。