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人を見下す心

私は人を心のどこかで見下しているようです。 それはいけないことだという自分もいます。 でも、人の不幸を喜んでいるのではないかと思うこともあります。 あまりにも、してはいけない思考が強いので、その反動なのでしょうか? どうしたら、人を見下したりしなくなるのでしょうか?

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noname#163132
noname#163132
回答No.4

一言で言うと芯の強い人になれば良いのだと思います。 上ばかり見たり下ばかり見なくとも、自分があれば良いのだと思います。 そして、プライドよりも自尊心を大切にすることです。 プライドとは、他人との競争心から生まれるものだから、時に非情に走ることがあります。そして、自分の地位を守るために、誰かを踏みつけたくなる感情に繋がることがあります。 揺るぎのない自尊心を持つために必要なのは、誰かと比較して自分や他人を蔑むのではなく、ありのままの自分を受け入れる強さとしなやかさを育てることだと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B0%8A%E5%BF%83 プライドと自尊心は混同されて使われがちですが、厳密には違います。 プライドとは、キリスト教における「七つの大罪」の一つで、和訳では「傲慢・高慢」と訳されており、《人間を罪に導く可能性があると(伝統的にキリスト教徒により)みなされてきた欲望や感情》のことです。 また、過ぎた自己愛と虚栄心を伴うものでもあります。 しかし、自尊心を持つということは、「ありのままの自分を肯定すること」 「ありのままの自分を尊重し受け入れること」なのです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%B2%E6%85%A2 その為には、オンリーワンの意味を取り違えないことだと思います。 それは別格という意味ではなく、誰にでも言えることであり、誰もが等しく尊厳を持っていて、形こそ違えど、一人一人が幸せを求める権利があるのだということを いつも忘れないことだと思います。 そして悩んでいるときこそ、自分ばかりが苦しんでいるように錯覚してはいけないと思います。 また、自分の存在そのものに懐疑的であると、例え何かで成功を収めても、いつも何かに追われている様な息苦しさを持ってしまい、自分を責めるよりは、常に誰かを見下したい感情が付きまとうものでありましょう。 ありのままの自分を受け入れることが出来ないでいると、自分の真実の姿から目を背けることになり、他人を貶めたくなってしまうものだと思います。 また、プライドが高すぎる状態にあると、本当の自分を信じていることにはならないと思います。 本当の自分を信じられずにいると虚栄心に取り憑かれてしまい、虚像の自分を作り上げるために、人には厳しくなり、自分を甘やかしてしまいます。 そのように自分に対して建設的な感情を持つことが出来なくなると、努力をするよりも、安易に他人の不幸を望むようになってしまうものでしょう。 それは、人の足を引っ張るような感情に繋がっているから、自分自身もいつその様な目に遭うか分からず、合わせ鏡のように他人に対しても不信感を持ってしまうのだと思います。 ありのままの自分を受け入れることが出来る人は、真実の自分から目を背けない強さも持っているから、他人を思いやったり、認めること出来るのだと思います。だからこそ、その人その人に対して欠点を感じても尚、愛すべき長所も見いだせるのです。 そして、優れた人に出会ったときには嫉妬心に取り憑かれることなく、素直に尊敬の念を抱けるのだと思います。 ありのままの自分を認める行為は、全体をそのまま見ることでもあるのだから、細部に拘りを持ちすぎたり、事実をねじ曲げたりする行為とは無縁のものだと思います。 それが出来る人は、自分の都合や激情に押し流されて、人を歪めてみたりはせずに、常に全体を見ようと心掛けることも出来るのだと思います。 そして、例え間違いを犯しても恥じ入るだけではなく、その事実を受け止めて、自分を正していくことが出来るのだと思います。

nono1220
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回答No.6

 どの人もあるんでしょうね。  そしてそんな事自分も知らずにやっている。  他人と自分があった、自分が他人ではない。  当たり前ですね。  他人ではない、自分を何とか大事にしたい、そして自分を確認し、誇りたい。  そんな感情がある人も多いかもしれませんね。  私はだから、他人と自分を比較しないように努めています。  他人が上でもいいや、自分が下でもいいや。と思うようにしています。  自分は自分であればいいやって。  心理学という学問の話ではなく、勝手な日常論になっていますが。  ごめんね。

nono1220
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noname#99175
noname#99175
回答No.5

おはようの、こんにちは† 他人を見下すは,自分の中に,相手より上に思う何かが有るなの。 <絶対的に,これ(素質)は自分の方が良いモノを持っている>の自負することなの。 例えそれが,小さなことでもなの。 他人の不幸を喜ぶは,<あんなこんなが,自分には無いな>の安心感なの。 気をつけることは, 相手を<尊重>すること⇒小さな発見をすることなの☆ 不幸は,直接に関係する人間なら,労ることなの。 係わりの無い人間なら,<自分は気をつけよう>という心掛けを持つことなの。 コレをうまく出来たなら,本当に凄い人間になるなの。 難しいけど,心が少しずつでも,そうなるなら良い思うなの♪

nono1220
質問者

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noname#194289
noname#194289
回答No.3

自分がその人だったらどのように封舞うだろうかと考えてみれば何かわかるのではないでしょうか。

nono1220
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noname#114483
noname#114483
回答No.2

 人の不幸を喜べるのは自らの正当性がどこかに存在すると思います、その正当性がなぜ沸くのかという問題点をご自身が気がつかない限り永久に不幸を喜ぶ心を直せないと思います。とっさの反動は僕自身もよくあることですしどんな人でも反射的な行為はするものです。しかしそれが反射的な行為でなく、直接無関係な人にまで及ぼすと病的ということになると思います。例えば直接本人には言わないが影で愚痴をこぼしているというのは病的とは言えません。あくまで直接無関係な人に一時的なフラストレーション発散等の反射的こういでなく誹謗中傷などを反射以外の理由で連続的継続的に発する場合が病的であると考えます。例えばAさんを見ると無性に貶したくなりAさんにこれと言って問題点があるわけでもないのになんとなくAさんを見るだけで貶しにかかり一時的に治まったかと思うと3日後にAさんを見ただけでまた貶してしまったとかそのような連続かつ継続的に直接本人を貶したり格下と判断しただけで舐めてちょっかいだしたりが続くなどという場合が見下しになります。心のどこかで見下しているというのは誰にでもあることです、そのような気持ちをコントロールして認識を変える能力を持っているのもまた人間です、もしそれが単発的にかつ永続的に現れているというのであればご自身の>どうしたら、人を見下したりしなくなるのでしょうか?>という気持ちは正しいということになると思いますがただ不意に現れて来たのを「そういえば以前一回そう感じたなこれってやばいのかな?」と思っているのであればおそらく問題は解決している筈です、なので逆にほじくり返さないほうが良いと思います。

nono1220
質問者

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noname#98952
noname#98952
回答No.1

サンコウニ タニンヲ ソンチョウ スル。 ソレガ デキナイノハ、ニンゲンセイガ ケツジョ シテイル。 ジヒノ ココロヲ モテバ ヨイ。

nono1220
質問者

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