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私は不可知論者です。
外国人に宗教を尋ねられた場合、タイトルのように答えるのが一番よいと聞いたことがあります。 この英語表記または、その理由について教えてください。
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- dora1
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ameno_oshioさんの > 日本人の場合、新年には神社にお参りをし... で思い出しました。私の知り合いで、「half-Buddhist, half-Shintoist」で通している人がいます。ほんとに仏教半分、神道半分ですから、実際の行動との間に矛盾がないのが、この説明のいいところだと思います。ただし、補足説明はいりそうですが。 親しくおつきあいする方にはこういう説明もよいのではないでしょうか。
ご質問のような会話がどのような文脈でなされたのか分かりませんが、以下のように考えます。 日本人の場合、新年には神社にお参りをし、結婚式を教会で挙げ、死を迎えるとお寺で葬式を挙げたりと、多種多様な宗教的儀式を行います。かといって、参拝や礼拝などといった行為を日常的に行うことは少なく、経文経典などを読むということも稀なため、外国人から見れば、このような日本人の柔軟性を確固とした宗教観を持たない無神論者(atheist)と誤解してしまうのかもしれません。 もちろん、無神論者とは、神の存在を否定する立場の人々のことを言いますが、外国ことに絶対神の存在を当然のこととするキリスト教社会の欧米では、多くの場合無神論を主張することは、社会的地位や対人関係などで不利益を被る場合も無きにしもあらずなのかもしれません。またアメリカなどでは無神論は唯物史観との関連で、共産主義を想起させ、受け入れがたいという可能性もあるのでしょう。 これに対して、宗教的な意味での不可知論者(agnostic)とは、たとえ神が存在したとしても、その存在や性質を認識することはできないと主張する人々のことです。前者は神の存在を全く否定しているのに対して、後者は神の存在を否定しているわけではないので、この点で大きな違いがあります。 そもそも不可知論の歴史は古くギリシア哲学まで遡ることも可能なのですが、分かりやすくたとえて言えば次のようなことだと思います。ある朝、喫茶店で私に一杯のホットコーヒーが出されたとします。わたしにはこのコーヒの色は、赤っぽく、豆の香りが香ばしく、熱さも丁度よく、味もコクのある、「おいしい」コーヒーであったとします。同じ朝、otafuk-tigerさんにもこのコーヒーが出されたとします。ところがotafuk-tigerさんにはこのコーヒーは黒っぽく、香ばしさに欠け、熱すぎで、味もコクもない、すなわち「まずい」コーヒーでした。同じときに入れた同じコーヒーなのに、二人の間でこうも感じ方が違うのはなぜでしょうか。もしかしたら、私がコーヒーにはシロウトなのに対して、otafuk-tigerさんはコーヒー通だったのかもしれません。あるいは、私の体調がよかったのに対し、otafuk-tigerさんがたまたま風邪気味だったのかもしれません。あるいは二人が座った席の関係で、私のコーヒーには日差しが当たっていたのに対し、otafuk-tigerさんのコーヒーは陰になっていたのかもしれません。ともかく私たちに出されたコーヒは同じ物であるにもかかわらず、二人にとっては、まったく違ったコーヒーになってしまったわけです。こうなると、そのコーヒーは本来はたして赤っぽいのか黒っぽいのか、香ばしいのかそうではないのか、熱いのかぬるいのか、コクがあるのかないのか分かりません。これは二人がコーヒーの存在を感覚によって認識しているためにおこるのであって、感性は人それぞれですから二人のコーヒーはまったく違うもののようになってしまったと考えられます。かといって、私たちはそのコーヒーそのものの存在自体を否定したとは言えません。このように、不可知論とは、咀嚼して言えば人間の理性は現象界の背後に予測される物自体を認識することはできないということをめぐる認識論なのですが、これを宗教的に考えてみると、神の存在認識に関わる前述したような宗教的議論が主張されるわけです。 不可知論は、このように哲学的な背景と歴史を持った立場なので、西欧の知識人やブルジョア階級にもひとまずは通用する立場だと言うことができる……ということだと思います。ちなみに英語表記ですが、 I'm an agnostic. 私は不可知論者です。 でいいと思いますが、いずれにせよ、不可知論者でないにも関わらず不可知論者ですというのはあるべき態度だろうかとも思いますが…。 お分かりいただけたでしょうか?
- totetu
- ベストアンサー率50% (8/16)
無神論というのは、かなり積極的な言葉で、今とっさにほかのを思いつきませんが、サドとかドストエフスキーあたりをよむと、 どういうイメージをもたれているのかおおよそわかると思います。 不可知論のほうは、微妙な言葉で、 いることは知ることができない「けれども信じることはできる」 あるいは、「だから信じない」のどちらでもありえるわけです。 一般にどちらで通用しているのか、わたしは知りませんが。 いずれにせよ、キリスト教世界の文脈の中で、神の存在をあれこれ考えた末にでてきた言葉ですから、日本人の 「無宗教」というような曖昧さには、どちらも対応しないように思います。 一言で済ませたいなら、「ブッティストです」あたりのほうが無難じゃないかと思いますが。 むしろ、「私は不可知論者」云々、といった方がどんな方なのか訊いてみたい気がします。
- Singollo
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agnostic 神がいるのかどうか知ることはできない、という立場ですので、相手が特定の宗教を信じている場合は、『自分は別の宗教の信者だ』、『自分は無神論者だ』と言うよりは角が立たないでしょうし、相手が無神論者の場合も、『自分は○○教の信者だ』と言うよりは角が立たないかもしれません
お礼
早速の返答ありがとうございました!
お礼
丁寧に返答ありがとうございます。 認識論のことは深く考えたことがありませんが、ameno_oshioさんのわかりやすい解説で少しはつかめたような気がします。 ですが、普通の日本人が「私は不可知論者です」と言ってもなんだか凄みがないし、実情に合わないように感じるのはわかるような気がします。 不可知論者というには「いるかもしれないけど、いないかもしれない」と言ったように、ある程度の試行錯誤の後に出た立場の表明であると理解します。 やはり、無難に仏教徒とでも言っておいたほうがいいんですかね。西洋の人にはイスラムなんかよりよっぽど未知だし、多分よくわからないでしょうしね。 また、多くの西洋人はチベット(チベット仏教だが)に対して憧れを持っているようなので、その辺が交じり合って尊敬されたりするかもしれませんね。
補足
神秘的なイメージと混ざり合って。