- ベストアンサー
竜樹と説一切有部の法実有論について
竜樹と説一切有部の法実有論について (1)説一切有部の法実有論とはどのようなものでしょうか。詳しく教えてください。 (2)竜樹は背理法によって法実有論を攻撃したと聞きましたが、 具体的にどのように攻撃したのでしょうか。 詳しく教えてください。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
こんばんは、Hidocchiと申します。既にmmky様により、ご説明がされておりますが、”補足”として、以下に述べさせていただきます。 > (1)説一切有部の法実有論 法有説では、例えば、諸行無常と言った際に、無常なるものを無常ならしめている、より高次の原理が有る(実在する)との見解をとります。つまり、「有」を主張して著しく形而上学的立場をとる訳です。例えば、”法”としての「受(五蘊の一つ)」も、より高次の次元において有るから、超時間的に妥当する。かくして法は「有る」と主張します。 また、法は自然的存在の「ありかた」であるから、他に依存せず、独立して有ると考えていました。 > (2)竜樹は背理法によって法実有論を攻撃したと聞きましたが、 具体的にどのように攻撃したのでしょうか。 一例:「三時門破の論法(運動の否定の論理)」 -----「八不」の一つ「不来不去」 [運動の否定の論理(定理)] 「まず、すでに去ったものは、去らない(α)。また未だ去らないものも去らない(β)。さらに“すでに去ったもの”と“未だ去らないもの”とを離れた“現在「去」りつつあるもの”も[去]らない(γ)」 [説明・証明] 一種の論理学的手法のようです。(α)と(β)は問題なく導けるかと思われます。一方、(γ)ですが、 もし「去りつつあるものが去る」と仮定すると、 まず前提として、主語の“去りつつあるもの”の中に含まれている「去」と、新たに述語として附加される[去]との二つの<去>のはたらきが付随しています。 しかし、“「去」る主体”を離れて、“[去]るはたらき”は実質的にはありえません(つまり、必ず、はたらきには、主体を伴う)。従って、2つの<去>のはたらきが付随するということは、2重の<去る主体>が付随することになります。 これは論理上矛盾するから、「去りつつあるものが去る」は否定されることになります。故に、上記[運動の否定の論理]を導かれます。 これらの論法を用いて、龍樹は、有部がどうしても主張せざるを得ない”去る主体”や”去るはたらき”という「ありかた」を 実有であるとみなし、またその立場の論理的帰結としてそれらが実有であると認めざるを得ないという(概念に形而上学的実在性を付与してしまう)哲学的傾向性を排除する方法を採っていった訳です。つまり、有部の概念に形而上学的実在性を付与することを否定(攻撃)していった訳です(法有部の主張自体にではなく、法有部自体の自己矛盾を 導こうとしたものです)。 お役にたてれば、幸いでございます。
その他の回答 (1)
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
(1)説一切有部の法実有論とはどのようなものでしょうか。詳しく教えてください。 説一切有部 以下記述参照のこと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8 (2)竜樹は背理法によって法実有論を攻撃したと聞きましたが、 具体的にどのように攻撃したのでしょうか。 以下中論記述参照のこと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9